雑談#1 中高年の引きこもりにまつわる事件をどう考えるか

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 ここ1週間ぐらいで中高年の引きもりが関係する大きな事件が2つもありました。

先月5月28日に発生した川崎での連続殺傷事件。加害者は当時51歳の引きこもり男性。

そして6月1日に発生した、父親が息子を殺害した事件。川崎殺傷事件とは逆に被害者が当時44歳の引きこもり男性でしたが、世間的に衝撃的だったのは刺殺したのが父親であり、元農林水産事務次官を務めたエリート官僚であったことでしょう。(個人的にはエリート官僚であったか否かということは特に問題視するつもりはありませんし、ここではそうであったという事実を語るのみにとどめます)

 

 この2つの事件から8050問題に着目した記事もたくさん見受けられます。8050問題とは、ウィキペディア先生で確認すると2010年代以降に発生している長期化した引きこもりに関する社会問題のことを指しているようで、若者の引きこもりが長期化した結果、収入がない上に本来であれば介護される側の立場になる80代の親が、本来働き盛りとしてピークを迎えた50代の子供を面倒見なければならないという歪な状況下での種々の問題点を警鐘するものなのだと思います。そして社会問題と言っている以上、50代近辺いわゆる中高年で引きこもっている人たちが世間の感覚的に多いということなのでしょう。

 

 5月の川崎殺傷事件については加害者自身が引きこもり男性だったので、引きこもっている人が世間を騒がせる事件を起こすような危険性があることに着目しがちだったのではないでしょうか。この加害者男性は同居していた伯父夫婦と顔を合わせないようなルールを作り、ネット環境もなく交友関係もまったくわからないという下界とは完全に孤立した世界の住人のような生活を送っていたようです。事件を起こした直後に自身の首を切って自殺してしまったという点でも大変衝撃的で、引きこもる人間に対する怖さを妄想させられてしまう人が多かったに違いありません。

 しかし6月の元事務次官長男殺害事件によって、逆に引きこもりの子供を持つ高齢者が抱える心情や懸念といったことにも目を向けられ、この社会問題の深刻さというのを痛感させられました。何しろ元事務次官の殺害の動機が、川崎殺傷事件の加害者のように息子がなるかもといった不安に駆られたことだと伝わってきており、著名な方々でもこの加害者の親に対して同情的な意見も多く見受けられます。もちろんどんな事情であれ、人が人を殺害するということはあってはならないことだと思いますし、親子間でそのような事態になってしまうことは本当に悲しいことではありますが、心情的には私も元事務次官の父親に同情してしまう部分があります。

 

 この中高年の引きこもりに対する現状の問題についてはいろいろな観点からの考えがあると思いますし種々のメディアで語られていると思いますが、私としては引きこもりという現時点での問題から発生することよりも、むしろどうして引きこもるような人間になってしまったのか、なぜそこから脱却をできなかったのか、引きこもっていた本人自身に問題があったのか、あるいは本人を取り巻く環境に問題はなかったのか、そういった引きこもりの根本原因について考えを巡らせてしまいます。もちろん結果として8050問題のような社会問題が起きている事実は認めなければならないし、それによる懸念を排除していくことが必要であるのは間違いないです。しかし、根本的には子供あるいは親族が引きこもってしまう環境をつくらないことが理想ですし、そういった社会に少しでも近づけていくことが現代から未来へいきていく人々が向き合わなければいけないことではないかと思うからです。

 私が常に念頭に置いていることは、とても当たり前なことなのですが、原因があるから結果が生まれるということです。私たちが生きているこの世界では常にこの原則の元に成り立っているのは皆さんよくわかっていることだと思います。後述の話にも少し関連しますが、生まれながらにして殺人者、あるいは猟奇的犯罪をおかすような遺伝子を持ってしまうもしも人がいるとしたら、もはやそこに原因があることになるので遺伝子を操作するようなことができない限り(遺伝子操作が倫理的にどうかということはひとまず置いておいて)防げないかもしれません。でも、多くの人がそうではなく成長していく過程での経験によって自分なりの喜怒哀楽であったり、倫理観や道徳観というものが育まれ、個々に独立したアイデンティティを持った存在になっているはずです。つまり経験が原因であり、そこから生まれたアイデンティティが結果です。

 例えば同じ血を分けた兄弟であっても同じ家族のもとで成長してきていたとしても、それぞれの考え方、生き方が全く違うことだってあります。それは兄弟とはいえそれぞれが経験してきたものが必ずしも同じではないからです。私にとってその一番身近な例が私自身と弟との違いです。私は3人の弟がいる4人兄弟ですが、私と3人の弟は趣味も生き方も全く違います。私は外出するよりも自宅で読書したりゲームをしたりといったインドアなことをする方が好きですが、3人の弟はサーフィンにいったりバイクで遠出したり、アウトドアに活発なタイプです。当然この傾向からいくと、他者とのコミュニケーションの取り方も全然違います。私はあまり友人をつくらないタイプ(つくれないタイプというのがおそらく正しいですが)であるのに対して、弟たちは積極的に友人を増やして他者とのコミュニケーションを重視するタイプです。

 同じ兄弟なのにどうしてこんなに真逆なのか、同じ両親から生まれているのになんでだろうと悩んでいたことがあるのですが、つきつめて考えていくと両親とのコミュニケーションの取り方に原因があったのではという考えに思い至りました。(両親と子供のコミュニケーションについてはまたの機会に別枠で語れればと思います)

 まず端的に言うと、私は両親とのコミュニケーションを避けてきたのに対し、弟たちは逆に、というかこれが普通なのかもしれませんが、両親とのコミュニケーションを避けることなく親子関係を、曖昧な表現ですが「普通」に築いてきたと思います。

 子供にとって一番最初に接する大人が自分たちの両親であることが一般的でしょう。すなわち、一番最初に信頼関係を築くのが両親、特に母親であるということです。家族内で父親よりも母親寄りになってしまうのは生まれてから一番長くコミュニケーションをとるのが母親であることが多いからですよね。

 その一番最初に築く信頼関係、私の場合は母親からの虐待に近い状況を受けたことからそこに信頼関係を築くことができず、よくある家庭のような母親とのコミュニケーションというのものをとることはありませんでした。それが原因で父親ともうまくできず最終的には弟たちとも少し線をひいた関係のようになってしまいました。逆に、弟たちは私とは違って特に下の弟になればなるほど愛情を注いで接しているのが目に見えてわかるぐらい明らかでしたので結果として大きな違いが生まれたのかなと考えたわけです。(この辺の話は深く話すと長くなるので端折っています)

 子供にとって一番最初に接する社会は家庭です。その家庭内できちんと信頼関係であったりコミュニケーションをとれない人間というのは、自分自身の経験からして他者との信頼関係を築くのが本当に下手です。上手い下手という表現が正しいのかはわかりませんが、他者を信頼するという行為がなかなかできないんです。そういう人間は他者とコミュニケーションをとっても上辺だけのものでしかとることができず、なかなか本心も他者に見せないので付き合ずらい人間ということになってしまうのです。そもそも他者と関わろうとしない関わりたくない、という人もいるのではないでしょうか。

 そういえばちょっと余談っぽい話ですが、私が今でもとても信頼している入社当時の上司に『お前の言葉には心がこもってないんだよな』というのを冗談めかしくよく言われていましたが、前述のようなこともあって本当に心がこもっていなかったんだろうなぁと思います(笑)

 余談はさておき。

 私のように自分自身を分析してみて自分がどういう人間か、どうしてこういう人間になったかというのを考えたりすれば、今の自分と正しく向き合い自分を認めて前に進む方法を見出すことができるかもしれません。それに私の場合は運がいいというか、これは両親からの授かりものなのかわかりませんが、こちらからアプローチせずとも相手から関係を築こうとしてくれることが多く、それを自分が受け入れられそうなら受け入れる、という受け身による人間関係の構築ができたので、完全に孤立無援な状況にはなりませんでした。

 しかし私とは違って受け身による人間関係の構築もままならないような人たちは、他者とのコミュニケーションの取り方がわからず、他者との信頼関係を構築できないことが原因で自己満足な世界に入り浸ってしまい、切れたかもしれない舵を切ることなくそのまま間違った方向に突き進んでしまっている結果が引きこもりであるような気がします。その舵は時がたてばたつほど重く、動かすのも困難になり、気づいた時にはもう手遅れだと感じてしまうような。

 

 川崎殺傷事件の犯人に関しては一緒に暮らしていた伯父夫婦とのことしかわかりませんがルールを設けて一線を画して生活をしていたようですし、元事務次官の長男は母親との関係が良好ではなかったこと、それが原因で両親に対して暴力を振っていたことなどが伝えられています。結果に伴う原因は一つだけではないでしょうし、いくつもの原因が絡み合ってのものだとは思いますが、少なくとも両者とも他者とのコミュニケーションや信頼関係の構築に問題を抱えていたのだろうと思います。

 川崎殺傷事件の犯人と元事務次官の長男、各々に対してこうすればよかったのではないかというのは過去は改変できないという点で意味がないのでそこを語るつもりはありません。起きた事実は受け入れ反省すべき点は反省し、今と未来に活かすしかないのです。

 

 芸能人の松本人志さんは番組内で川崎殺傷事件の加害者のようなを犯人を「不良品」と喩え、みんながどんなに努力をしても一定数のこういった人たちが存在することは仕方なく、やるなら不良品同士でやりあってほしいというような趣旨の発言をしてネットで大炎上しました。結果として多くの人間を殺傷した犯人をそう喩えることはあながち間違いではないと思うし、松本さんの言っていることも理解はできます。ネットで炎上してしまっているのは、「不良品」という言葉狩りから、本来おそらく伝えたかったこと以上の範囲にまで話が広がってしまったことが原因なのではないかと思いますし、そういった意味でも言葉選びはもう少し慎重にしてもよかったのではないかと思います。発言力のある人はそのあたりが難しく悩ましいところなのでしょうけれども。

 ただ私としては、松本さんのいっている「みんなの努力」に着目して、たしかにゼロにするのは難しいかもしれないけど、どうすれば今回のような悲しい事件を起こさない社会にできるのか、近づけるのかを広く活発に議論することの方が有意義なのではないかと考えています。その結果として妥協したり受け入れなければならない部分もあるかもしれませんが。