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歴史人物語り#1 信長の乳兄弟であり義兄弟でもある池田恒興は織田家中でも地味で出世が遅いイメージだけど、子々孫々幕末まで続いた名家の祖

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歴史の中でも特に戦国時代と幕末時代が好きなので、
このあたりの時代の人物について
定期的に記事を書けたらと思っています。
有名どころな人たちよりも、ちょっとマイナーな人たちを
ピックアップすることの方が多いかもしれません。

そして第1回目となる今回は戦国時代の武将、
織田信長の乳母兄弟でもあり義兄弟でもある
池田恒興(いけだつねおき)
です。
2020年NHK大河ドラマ麒麟がくる」でも登場するんじゃないでしょうか。

www6.nhk.or.jp

では今回のお品書きはこちらです。

ちなみに紹介済みの「麒麟がくる」にちなんだ武将たち
以下の一覧記事にまとめてあります。

tsukumogatari.hatenablog.com

tsukumogatari.hatenablog.com

その他今までに紹介済みの戦国武将たちはこちから確認できます。

tsukumogatari.hatenablog.com

まだ読んでいない武将の記事がありましたら是非チェックしてみてくださいね。

1.池田恒興(いけだつねおき)とは

通称勝三郎
1536年生まれ。父は池田恒利(いけだつねとし)
母は養徳院(ようとくいん)、池田政秀の娘です。
父の池田恒利は滝川貞勝の三男
元は室町幕府第12代将軍・足利義晴に仕えていました
享禄年間(1528~1531年)に辞して尾張に閑居したそうです。
この頃から織田家に仕えたのでしょう。
また池田政秀に嫡子がいなかったことから池田家に養嗣子として迎え入れられて
池田政秀の娘・養徳院が正室として嫁ぎます。
そして池田恒利は1538年、恒興がまだ3歳の頃に病気で亡くなっています。(
1548年説も有り)


母の養徳院の方はというと、滝川一益(たきがわかずます)
恒興の育ての親であった森寺秀勝(もりでらひでかつ)の推挙で
織田信秀の嫡男・織田信長の乳母となります。
信長はどんな乳母でも乳首を噛み切ってしまって
なかなか乳母のなり手がいなかったそうですが
養徳院が乳母となると噛み切ることなく大人しく乳を吸うようになったそうです。
養徳院は乳母となってからは大御ち(おおおち)様とも呼ばれたそうですが
後には織田信秀の側室にもなっていて信長の妹・小田井殿(栄輪院)を産んでいます
織田信長池田恒興は乳兄弟であり義兄弟でもあるわけで
幼少の頃より一緒にいることが多かったんじゃないでしょうか。
ちなみに母の養徳院は長寿で1608年、94歳まで生きたそうです。

1.1.信長の小姓として多くの主戦場で活躍

前述のとおり、池田恒興織田信長とは乳兄弟であったため
10歳の頃から信長の小姓として織田家に仕えています。
信長が1552年に父・信秀の死によって家督を継承してからは
同年、清洲織田家坂井大膳(さかいだいぜん)と戦った萱津の戦い(かやづのたたかい)
1556年の織田信長の弟・織田信勝(または信行)と争った稲生の戦い(いのうのたたかい)
池田恒興も参戦し武名を上げています。
また1560年の今川義元を打ち破った桶狭間の戦いでの活躍で
侍大将に抜擢されたそうです。
美濃攻略戦でも活躍し、1566年頃には尾張木田城主に。
そして1570年の姉川の戦いでも第2番隊として武功を上げて
尾張犬山城主となり1万貫を与えらえれています。
それ以降も、比叡山の焼き討ち、長島一向一揆の鎮圧、槙島城の戦い(足利義昭との戦い)にも参戦。
この頃から信長の嫡男・織田信忠の指揮下にはいっていたようです。
1574年には武田勝頼に奪われた明智城の押さえとして東農の小里城(おりじょう)に入って
改修工事をおこないつつ、城の守備に当たっています。
そして1580年に荒木村重(あらきむらしげ)織田信長に謀反を起こした際には
荒木村重の居城である有岡城の支城・花隈城を攻略します。
花隈城攻めにおいては、嫡男・池田元助、次男の池田輝政も参戦していました。
この功によって荒木村重の摂津の旧領を与えられて
摂津の兵庫津に新たに兵庫城を築城します。

1582年3月の甲州征伐においては、元助と輝政の息子を出陣させて
恒興自身は摂津の留守を守るように信長に命じられていました。
同年5月には中国攻めで毛利氏との戦いに苦戦している羽柴秀吉の援軍を
信長から命じられており、その出陣準備をしています。
そして本能寺の変が起きるのです。

1.2.本能寺の変清須会議を経て池田家の地位を盤石なものに

1582年6月、織田信長が本能寺において明智光秀に討たれてしまいます。
恒興はこの後、光秀から味方になるように手紙が届いていたそうです。
しかし、恒興は光秀の側につく気はありませんでした。
共に行動していた中川清秀(なかがわきよひで)高山重友(たかやましげとも)と共に
明智光秀討伐軍を編成したいところでしたが
光秀討伐をするだけの兵力や組織を恒興は有していません。
そこへ羽柴秀吉が中国攻めから引き返してきます。
恒興は秀吉の軍と合流します。
合流にあたっては、娘を秀吉の甥である羽柴秀次に嫁がせることを約束し、
さらには次男の輝政を秀吉の養子にすることをも約束しています。
そして山崎の戦いにおいては、5千の兵を率いて右翼の先鋒を務めます。
羽柴軍と明智軍の一進一退の攻防が続き戦局が膠着した状態が続いていましたが
その戦局を大きく動かしたのは、恒興・元助父子の奇襲でした。
池田恒興とその子・元助、および加藤光泰(かとうみつやす)の部隊が
淀川を北上しつつ密かに円明寺川を渡河して津田信春の部隊を奇襲
tsukumogatari.hatenablog.com津田信春の部隊は三方向から攻め立てられて混乱し、
これが明智軍全体が総崩れとなるきっかけとなります。
結果、山崎の戦い明智軍は敗れ、
光秀は坂本城へ落ち延びる途中で亡くなります。
羽柴秀吉に合流して織田信長の弔い合戦に参加することができた
池田恒興は、後に開かれた清須会議においても
織田家の宿老として参加して、丹羽長秀と共に秀吉側につきます。
清須会議においては秀吉が推す三法師(後の織田秀信)が
正式な織田家跡目と決まり、

領地の再分配においても恒興は摂津の大坂・尼崎・兵庫の12万石を領有。
1583年の賤ケ岳の戦いには参加していませんが、
後に秀吉が大阪を中心として政務をとりたかったため
摂津から美濃13万石に移封となり、大垣城城主となります。
ちなみに嫡男の元助が岐阜城次男の輝政は池尻城主となっています。
織田家の力は衰退していきますが、
代わって天下人へと着実に歩を進めてゆく羽柴家の下で
池田恒興はその勢力を盤石なものにしていくのです。

1.3.運命の小牧・長久手の戦い

羽柴秀吉織田信雄徳川家康の間で行われた小牧・長久手の戦いにおいては
池田家はどちらかにつくのか去就を注目されていました。
幼い頃より仕えて大恩あるのは織田家
秀吉とは信長の弔い合戦を共にしてからの盟友であり、
今の恒興の地位があるのは秀吉のおかげといっても過言ではありません。
どちらにつくべきかは迷うところではあるかもしれませんが、
恒興は秀吉に与することを決めます。
この戦いで勝利した暁には、尾張1国を秀吉から約束されていたそうです。
今や池田家も飛ぶ鳥を落とす勢い、緒戦で犬山城を攻略します。
途中で上条城(じょうじょうじょう)に立ち寄って
勝った勢いで三好信吉(後の羽柴秀次)、森長可(恒興の娘婿)、堀秀政らと共に
家康の本拠地である三河を攻め立てようとします。
しかし合戦前半で鞍に銃弾を受けて落馬したことが命取りとなり
長久手において嫡男の池田元助、婿の森長可と共に討死してしまいます。
討ち取ったのは徳川家康の家臣・永井直勝(ながいなおかつ)でした。
享年49歳。

2.「麒麟がくる」と信長の野望シリーズでの池田恒興

織田家臣の中でもなかなか地味であまり目立たない印象の
池田恒興ですが、大河ドラマでもわりと登場していますし、
近年だと映画「清須会議」では佐藤浩市さんがいい存在感を出してくれましたし
ドラマ「信長協奏曲」で向井理さんが演じたこともあって
ちょっと知名度が上がったんじゃないかと思います。


麒麟がくる」においても信長側近としての登場があるかもしれないし
何よりも山崎の戦いでは確実に登場するでしょう。
ドラマ中盤に主要キャストとして登場する率は低いかもしれませんけどね。
今回はどなたが演じることになるのか。

そして信長の野望シリーズにおいては、
武将風雲録から休むことなく登場している常連武将です。
シリーズ通して軍事系そこそこ政治・知略は平凡といった評価。
なぜか不満に思ったことはありません(笑)
そして信長の野望・創造 戦国立志伝での評価値はこちら。

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少し政治力が見直され始めているかなといった印象はあります。
最新の大志だと知略も60超えてたりしますからね。
ちょっと目立ってきた効果か!?(笑)

3.まとめ

今回は織田信長と最も繋がりが深かった家臣、池田恒興でした。
恒興は残念ながら秀吉の天下統一を見ることなく
亡くなってしまいましたが、
家督を継いだ輝政は
豊臣政権下でも、徳川政権下でも
上手く立ち回って池田家を幕末まで続く名家の基礎を築きます。
恒興は信長に早くから仕えていた家臣たちと比べると
出世が遅いイメージですし
秀吉みたいに出世欲に溢れた人ではなかったのかもしれません。
しかし信長が本能寺で倒れた時に
摂津にいなければ秀吉と合流することは出来ず
山崎の戦いに参加することはできなかったでしょうし、
清須会議でも発言権をどこまで得られたかどうか。
息子共々甲斐へ出陣していたら、
北陸にいた柴田勝家や関東にいた滝川一益のように
大きく出遅れていたでしょう。
そういう意味では運も良かったし
光秀につくことなく秀吉につく決断をしたことも英断でした。
家督を継いだ輝政がその後うまく天下人の下を
渡り歩いてることから見ても
分を弁えつつも、処世術に長けた血筋なのかもしれません。

では今回はこの辺で。
ここまで読んでいただきありがとうございました!