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歴史人物語り#25 斎藤義龍の弟謀殺を計画し、明智家も滅亡に追い込んだ長井道利は最期まで織田家に屈しなかった

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今回は長良川の戦いでは斎藤義龍側につき、明智城を攻めて
明智一族を滅ぼした長井道利(ながいみちとし)です。
麒麟がくる」では序盤、美濃編における主要人物でしょう。

www6.nhk.or.jp

お品書きはこちらです。

ちなみに紹介済みの「麒麟がくる」にちなんだ武将たち
以下の一覧記事にまとめてあります。

tsukumogatari.hatenablog.com

tsukumogatari.hatenablog.com

その他今までに紹介済みの戦国武将たちはこちから確認できます。

tsukumogatari.hatenablog.com

まだ読んでいない武将の記事がありましたら是非チェックしてみてくださいね。

1.長井道利(ながいみちとし)とは

通称隼人佐(はやとのすけ)
美濃斎藤氏の家臣ですが、出自については以下の説があります。

  1. 斎藤道三の子
  2. 斎藤道三の弟
  3. 長井利隆の孫
  4. 長井長弘の子

長井長弘斎藤道三(または道三の父)に殺されているので
長井長弘の子であるとすると後々の行動はしっくりくる気はしますが
真相はいかに。

1.1 義龍の重臣として道三と争う

長井道利は道三に仕えていましたが、
道三と嫡男義龍の関係が悪くなると義龍側につき、
義龍の重臣として大きな役割を果たしていきます。
1555年11月には、道三の寵愛を受けていた義龍の
異母弟・孫四郎と喜平次の謀殺を進言
します。
そのやり口は、
義龍が病を装って二人の弟を居城・稲葉山城の奥の間に呼び出し、
酒に酔ったところを切り殺す
というものでした。
ちなみに二人の弟を斬ったのは
日根野頭形兜で有名な日根野弘就(ひねのひろなり)です。
日根野弘就も斎藤義龍に目をかけられていた寵臣だったのです。

tsukumogatari.hatenablog.com

1556年の長良川の戦いでも、
道利の子・道勝と共に義龍側の軍勢に加わって斎藤道三を討ち果たし、
さらには可児郡を治めていた明智家の守る明智城を攻めて
城主・明智光安は自害、明智一族は離散してしまいます。

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その後、道利は明智庄の代官に任じられています。

1.2 義龍の子・龍興の代には中濃・東濃を支配

斎藤義龍は病によって1561年に亡くなってしまいます
道利と龍興とはあまり仲が良くなかったようです。
良くなかったというより、
良くなかった時期があったというのが正しいのかも?
織田信長が美濃に侵入してきた際に、
龍興と道利が和睦した書状が残っており、
一時は龍興とも対峙していたようです。
少なくとも1565年時点において長井道利は
可児・加茂地方を龍興の代官
として
支配していただけでなく、
美濃金山城(別名:鳥峰城、兼山城)も支配化においており、
東濃を支配する斎藤家の東部方面の中核的存在として
重要な地位を占めていたのではないかと思われます。

また1561年には郡上郡八幡城主遠藤盛数が死亡すると
まだ13歳の嫡男・遠藤慶隆が家督を継ぎますが、
まだ若年であることを危惧した遠藤慶隆の老臣たちの決定により
長井道利は慶隆の母と結婚して、遠藤慶隆の後見人となっています。
しかしこの遠藤慶隆の居城・八幡城は
1564年に上郡木越城主・遠藤胤俊(えんどうたねとし)に奪われてしまいます。
この年、竹中半兵衛稲葉山城を謀略によって
主君・斎藤龍興から奪うのですが、遠藤胤俊はその混乱に乗じたのです。
しかし長井道利は主君・斎藤龍興稲葉山城を取り返した後の1565年に
安城に逃げていた慶隆へ援軍を送って
遠藤胤俊に八幡城を返却させています。

このように斎藤龍興の代には、
東濃だけでなく中濃も支配化におく
斎藤家の中でも一大勢力として成長しています。
そのためか当時信濃国を支配化に治めていた武田信玄とは関係が良好でした。
織田信長が美濃侵攻で10日以上の長陣であれば
信濃から出陣させる準備が出来ているよ』
といった書状を信玄から受け取ってたりしますしね。
他にも武田信玄が美濃の崇福寺住職・快川紹喜(かいせんじょうき)
甲府に迎え入れる際、その道中の安全を長井道利に頼んでいます。
このような親交関係は織田家と武田家が婚姻関係を結ぶまで続いてたようです。

1.3 信長の美濃攻略戦以後は織田家との戦いに明け暮れる

1565年織田信長が美濃攻略を本格的に始めると
長井道利は織田軍勢との戦いに明け暮れるようになります。
鵜沼城(うぬまじょう)木下秀吉が攻めてくると戦局を有利に進めるものの
秀吉の弟・木下秀長の側面攻撃によって形勢が崩れてしまい
秀吉を逃がしてしまいます。
また、堂洞城主・岸信周(きしのぶちか)と共に
織田方に寝返った佐藤忠能(さとうただよし)の居城・加治田城を攻めるため出陣。
しかし岸信周は織田軍に堂洞城を包囲されてしまいます。
いわゆる堂洞合戦と呼ばれる激しい戦いとなります。

tsukumogatari.hatenablog.com岸信周は一族や家臣一同と奮戦するものの大軍には抗いきれず自害。
堂洞城の落城後、長井道利は肥田忠政と共に加治田城へ進軍。
関・加治田合戦の幕開けです。
しかし佐藤忠能勢に織田軍の斎藤利治(道三の末子)の援軍も加わったことで
加治田城を落とすことは叶いませんでした。

tsukumogatari.hatenablog.com

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その後、長井道利は居城の関城で籠城策をとりますが
織田方の斎藤利治によって攻め落とされてしまいます。

関城の落城後は継子の遠藤慶隆と共に織田信長に抵抗します。
しかし1567年稲葉山城が落城したため
龍興と共に長良川を下って伊勢に逃げました。
斎藤家に忠義を尽くすことを決めていたんでしょう、
斎藤家が事実上滅亡となっても長井道利は織田家と戦い続けます。
1570年の長嶋一向一揆に加勢していますし、
その後は織田信長によって室町幕府将軍となったものの
信長と敵対するようになった足利義昭の家臣となっています。
長井道利の死亡時期については諸説あって
1571年8月28日に摂津白井河原の戦い荒木村重の摂津勢力拡大戦)で討死したとも、
1573年の刀根坂の戦い(朝倉軍が撤退するところを織田軍がボコボコにした戦い)
主君・龍興と共に討死したとも言われています。

1.4.長井道利の子供たち

嫡男・長井道勝に関しては、
信長公記斎藤道三を討ち取った際の話が記されています。
長井道勝は、斎藤道三斎藤義龍に引き据えるために生け捕りにしようとしました。
ところが小牧源太の横槍が入って道三の首を切られてしまいます。
道勝はそのことに激怒するんですが、
最初に道三を押さえた証拠として道三の鼻を削いで懐に収める
気が収まったのかその場を後にしたそうです。
なかなか気性が激しそうな人物です。
また道利健在の頃は織田家に対抗していたようなんですが、
正確な時期はわからないものの斎藤家の滅亡後、
姓を井上に改め、
弟の頼次時利らと共に織田信長に仕えています。

その後羽柴秀吉に仕えていますが、
道勝・頼次は共に黄母衣衆(きぼろしゅう)
に加わったという話があります。
その後出家して道益と号し、
池田輝政に召し出されて度々軍物語をしていたそうです。
98歳で病死したということですから、
当時としてどころか今考えても長生きですね!

頼次は兄の道勝同様に信長・秀吉に仕えた後、
弟の時利と共に豊臣方に加わります。
しかし大坂冬の陣における鴫野の戦い(しぎののたたかい)において
徳川軍の猛攻に遭い討死してしまいました。

時利は信長・秀吉に仕えた後、関ヶ原の戦いで西軍に参加したため
美濃と河内の760石を得ていましたが、改易されて浪人。
その後は秀頼に仕えて大坂夏の陣における道明寺の戦いで討死しています。
時利の子・利中はのちに罪を許されて江戸幕府2代将軍・徳川秀忠に仕えたそうです。

2.「麒麟がくる」での長井道利

序盤の美濃編において斎藤家の中心的武将の一人として登場しそう。
義龍と道三の争いがどこまで細かく描かれるかは疑問ですが、
なんといっても明智一族を滅亡に追い込んだ人物の一人です。
明智家を窮地に陥れた悪役のような感じで
描かれるかもしれませんね!

史実的に、明智光秀が信長に仕えてから長井道利と
直接相まみえるような戦いがあったかどうかはわかりませんが、
物語的にはそういう場面が作り出されても面白いかなと思っています。
いずれにしても序盤注目の人物の一人であることは間違いありません!

3.まとめ

今回は明智家を滅亡に追いやった
斎藤家の東農司令官・長井道利でした。
斎藤家の中でも有力で勢力も持っていた武将なのに
ゲーム信長の野望シリーズでは多分一度も出てきてないという不思議。
道利が後見人になった遠藤慶隆は出てくるんですが、あまり能力は高くないです。
ゲーム上だとお城の問題(数や位置のバランス?)があるのかもしれませんけど
わりと有名なはずの武将も削られてることがあるのはちょっと不満です、
なんとかしてほしい(笑)>コーエーテクモさん

では今回はこの辺で。
ここまで読んでいただきありがとうございました!