歴史人物語り#28 ただ勇猛なだけじゃない!自作した鎧兜も一級品!織田家に抗いながらも戦国時代を生き残った日根野弘就

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今回は兜と切腹の逸話で有名な
日根野弘就(ひねのひろなり)です。
明智光秀との関りはそんなに深いわけではありませんが
麒麟がくる」でも描かれ方によっては登場するかもしれません。

www6.nhk.or.jpでは今回のお品書きはこちらです・

ちなみに紹介済みの「麒麟がくる」にちなんだ武将たち
以下の一覧記事にまとめてあります。

tsukumogatari.hatenablog.com

tsukumogatari.hatenablog.com

その他今までに紹介済みの戦国武将たちはこちから確認できます。

tsukumogatari.hatenablog.com

まだ読んでいない武将の記事がありましたら是非チェックしてみてくださいね。

 

1.日根野弘就(ひねのひろなり)とは

通称五郎左衛門備中守
1518年生まれ説がありますが確証はありません。
父は日根野九郎左衛門尉
日根野弘就は斎藤道三の家臣として武勇に優れた武将でしたが、
特に道三の嫡男・義龍には重用されます。

tsukumogatari.hatenablog.comそして1555年10月22日
義龍の異母弟・孫四郎と喜平治稲葉山城に騙して呼び込み、
最終的に切り殺したのがこの日根野弘就です。(謀殺を進言したのは長井道利

tsukumogatari.hatenablog.com

義龍が長良川の戦いで父・道三を破り、
美濃における実権を完全に握るようになると
弘就も重臣として取り立てられるようになります。
義龍は病で1561年に35歳の若さで亡くなってしまいますが、
その後家督を継いだ斎藤龍興にも重用されました。
弘就は西美濃三人衆
安藤守就(あんどうもりなり)
稲葉一鉄(いなばいってつ)
氏家卜全(うじいえぼくぜん)らが織田家に寝返っても
一貫して裏切ることなく龍興に従って織田家と戦い続けます。

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tsukumogatari.hatenablog.com弟の日根野盛就(ひねのもりなり)をはじめとした一族と共に
織田家を撃退するなど奮戦を続けていたのです。

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しかし1567年稲葉山城織田家の手に落ち斎藤家が滅んでからは
しばらく浪人生活を挟みながら他家を転々とすることになります。

まず最初は遠江今川氏真(いまがわうじざね)の家臣になります。
徳川家康の軍勢と戦って敗走させるなどの活躍も見せますが
今川家もまた徳川家康によって滅ぼされてしまい、また浪人になります。
次には近江浅井長政(あざいながまさ)に仕えるんですが、
浅井家の家臣と刃傷沙汰を起こして出奔してしまいます。
そして次に向かったのは伊勢です。
伊勢長嶋の一向一揆に加わり、
元主君であった斎藤龍興と合流します。
しかし伊勢長島一向一揆も織田勢を数年にわたって苦しめるものの
最終的には壊滅させられてしまいます。
ここでもう織田家に対抗するのは心が折れたのか(笑)、
以後は織田家の家臣として仕えています。
織田家の家臣となってからは、
1575年8月越前一向一揆討伐に参陣し、
1578年荒木村重との戦いや有岡城の戦いにも参戦しています。
1580年には日根野一族揃って安土に屋敷地を与えられていたそうで、
弘就含めて日根野一族は馬廻として取り立てられていたようです。
ちなみに織田家馬廻とはこんなかんじです。

織田信長馬廻衆は、小姓と並んで土豪の次男・三男などから編成され、信長の側近として活躍した。信長の馬廻・小姓の精鋭は赤・黒二色の母衣衆に抜擢され、そこから部隊の指揮官に昇進した例も多い。

引用:Wikipedia

要するに日根野一族は揃って信長に武勇の高さを買われていたのでしょう。

しかし1582年6月本能寺の変が発生し織田信長明智光秀によって討たれます。
この時、弘就は在京して宿をとっていたそうですが
静観を決め込み動きませんでした。
信長のいる本能寺にも
信長の嫡男・信忠の守っていた二条城にも向かわなかったのです。
わりと脳筋っぽい行動とってきていたはずなのに(笑)、
この辺は意外と冷静に情勢を見ているのが面白いです。
山崎の戦いの後には遠藤慶隆に京都の情勢を伝えたりもしていたそうです。

そしてその後は豊臣秀吉に仕えます。
小牧・長久手の戦いに従軍して殿を務めるなど
持ち前の武勇をいかんなく発揮したりするのですが、
また刃傷事件起こしたり、秀吉の勘気に触れて追放されたり
3回ぐらい出奔と復帰を繰り返しているみたいです。
基本血の気の多い人だったのでしょうか(笑)
それでも秀吉に許されて朝鮮出兵の際には
秀吉の使として渡海してるみたいですし
なんだかんだと信用も厚いんですよね。
豊臣秀次切腹事件後の所領整理後には
弘就の所領は伊勢・尾張三河内で合わせて1万6千石あったとか。
そして秀吉臨終の際には、秀頼への忠誠を誓って遺品の刀を受領して
家督を子・高吉に譲り高野山にて出家しています。
ちなみに高吉は、小田原征伐山中城を攻略した功により
信濃高島2万7千石を与えられていますが、
弘就より先に1600年、関ヶ原の戦い直前に亡くなっています
弘就は関ケ原の戦いでは、東軍西軍のとちらに与するかは
明らかにしなかったために戦後減封処分を受けています。
その後、1602年に亡くなっています。享年85歳
亡くなった時の逸話、
切腹したけどなかなか死ねなかった話については後述。

1.1.鎧兜自作マニアだった日根野弘就

日根野弘就といえば戦国時代の甲冑マニア!
鎧や兜を自分で作っていて、
特に日根野頭形兜(ひねのずなりかぶと)
対鉄砲向きの実践装備として重宝されたことで有名です。
後々、徳川家康真田信繁(幸村)井伊直正などなど
多くの人が日根野頭形をベースに独自の装飾を施して用いたほどです。
日根野一族といえば、武勇に優れた武将揃いですが
その強さの秘密は弘就の作る鎧兜にあったのかもしれませんね!

1.2.死に関しての逸話

日根野弘就の死に関しては有名な逸話がありますね。
弘就自身は前述のとおり
関ヶ原の戦いでどちらに与するかを明言しておらず
減封処分を受けているのですが、
一説には石田三成と通じていて
それが徳川家康にバレそうになって日根野家を守るために切腹したというお話。
しかしこの切腹の話が想像を絶する話です。

まず、腹を切ったあと
腸を引きずり出して庭の木に引っ掛けます。
気が狂って死んだことにでもしようと思ったのでしょう。
ところが、何故かなかなか死ねません。
そしてふと思い出します。
死ぬ前に整理しておこうと思っていた秘密文書(三成とのやりとりでしょう)を
焼くの忘れてたんです。
死ねなかったことが功を奏しました(笑)
怪しい文書をかき集めて破いて厳重に縄でしばった後、
火で燃やし始めます。
しかし焼き終えてもまだ死ねません。
書類整理中には日が暮れていましたが
そのまま日が昇ってしまっても全然死ぬ気配がない
全然死ねないから流石に困って近侍の者に
「まだ死ねそうもない」
と呟いていたりしたとか(笑)
※戦国時代にTwitterはやってたら日根野弘就のつぶやきがトレンドにはいってたかもしれません(笑)
でもさすがにその日の晩になってようやく苦しくなってきて

「そろそろ死ねそうだ」
と死期を悟り
自ら首を刎ねて死んだそうです。
なんとも壮絶な自害。
ていうか、これだれか介錯してあげればよかっただけなんじゃ・・・(笑)

この話は俗説の域を出ないそうなんですが
おそらくこんな逸話が残るほど、
豪快豪傑な人物だったってことなんだろうと理解しています。

2.「麒麟がくる」で日根野弘就は?

斎藤義龍が異母弟2人を謀殺するシーンが描かれれば
出てくるかもしれませんが、それ以外だとなかなか難しそう。
日根野弘就は小説の題材にもなっていますから
主人公としてドラマ化されてもいいぐらい
波乱万丈かつ面白い人生を送っている人物です。
ちょっと気になった方はこちらの小説を読んでみてくださいね!

逆ろうて候 (講談社文庫)

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3.まとめ

今回は頑張って織田家に抗ったけど仕えた主家は悉く滅んでしまって
結局織田信長に仕えることになった日根野弘就でした。
その生き様は嫌いじゃないです。
運が悪いっていう一言で片付けるのもちょっと可哀そう(笑)
そして信長の野望シリーズにも登場しておりまして
戦国立志伝ではこのような評価値となっています。

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正直、物足りないんですよね。
武勇と戦法はもっと高評価でもいいんじゃないかと思います。
織田軍も徳川軍も撃退したことあるわけですし、
長いこと織田家に抗って生き残ってきたわけですし、
武勇80超えで、戦法も何か固有のものを作ってほしいぐらいです。
鎧兜を自作するスキルとかあっても面白そう(笑)

では今回はこの辺で。
ここまで読んでいただきありがとうございました!