歴史人物語り#34 攻めては鬼の如く斬りかかり、城を守らせたら負けなしの鬼兵庫・各務元正

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今回は斎藤家滅亡後、森家の重臣として活躍した
各務元正(かかみもとまさ)です。
残念ながら「麒麟がくる」には出てこないと思いますが
多くの人に知ってもらいたい武将の一人です。

www6.nhk.or.jp

では今回のお品書きはこちらです。

ちなみに紹介済みの「麒麟がくる」にちなんだ武将たち
以下の一覧記事にまとめてあります。

tsukumogatari.hatenablog.com

tsukumogatari.hatenablog.com

その他今までに紹介済みの戦国武将たちはこちから確認できます。

tsukumogatari.hatenablog.com

まだ読んでいない武将の記事がありましたら是非チェックしてみてくださいね。

1.各務元正(かかみもとまさ)とは

通称兵庫助。父は各務盛正生年は1542年と伝わっています。
母は美濃守護・土岐政房の娘なので
元々は土岐家に仕えていたようですが斎藤道三が台頭してくると
斎藤家の家臣として取り込まれるようになったようです。
しかし1560年に自らおこした騒動によって
元正は蟄居処分となってしまいます。
何があったかというと
領地問題のいざこざで恨みのあった各務右京亮の屋敷に一人で乗り込んで
右京亮を斬殺したばかりでなく、
取り押さえようとしたその家来たちも数人斬殺し
さらには逃げてしまったのです。
そのせいか斎藤家で仕えていた時期の逸話がこれぐらいしかなく、
その後に仕えた森家での活躍の方が有名です。

斎藤家が滅んだ後、
織田家重臣森可成(もりよしなり)に仕えていた
近松新五左衛門の仲介で森家に仕官します。
以後の元正の戦働きでの活躍ぶりから鬼兵庫と呼ばれるようになります。
その鬼兵庫・元正の活躍で代表的なもの一つが
浅井・朝倉連合軍との戦いである宇佐山城の戦いです。

1.1 激戦・宇佐山城の籠城戦

1570年浅井・朝倉連合軍はおよそ3万の兵で
摂津にて三好三人衆三好長逸三好宗渭岩成友通と交戦中の
織田軍を背後から攻撃するために出陣します。
この浅井・朝倉連合軍の動きを阻止するために、
元正の主君である森可成は近江の坂本へ出陣し、
元正自身は、坂本からほど近い宇佐山に築城された山城、
宇佐山城の守りを任されます。
ちなみにこの宇佐山城は、
信長が安土城以前に近江で最初に石垣による築城をおこなった
貴重なお城
としても有名です。

森可成率いる軍勢は兵1000ぐらい
浅井・朝倉連合軍3万の兵に対して緒戦は勝利を治めるなど
奮闘するものの衆寡敵せず敗れてしまいます
さらに、この戦いでは織田方の森可成
織田信長の弟・織田信治、青地茂綱らが討死しています。

tsukumogatari.hatenablog.com

森可成率いる軍勢に勝利した浅井・朝倉連合軍は
そのまま宇佐山城へ襲いかかります。
宇佐山城の守備兵は1000あまり。
山城の籠城戦とはいえ、30倍近い兵力差ですから
浅井・朝倉連合軍としたらさっさと落として
その勢いで摂津で苦戦中の織田軍を壊滅させようと息巻いていたはず!
しかし、各務元正は城兵を鼓舞し大軍相手に一歩も引きません。
それどころか浅井・朝倉連合軍が
宇佐山城攻城戦に手こずっている間に、
摂津で戦っていた織田信長の軍勢が
引き返してきてしまいました
背後からつくという浅井・朝倉連合軍の目論見は
各務元正を始めとした宇佐山城守備兵によって崩されてしまったのです。
この戦いでの功を元正は織田信長から直接賞賛されたそうですよ。

1.2 鬼兵庫の渾名は伊達じゃない、高遠城攻略戦

森可成が宇佐山城の戦いでなくなった後は
次男の森長可(もりながよし)家督を継ぎます。
(嫡男・可隆は初陣の際に既に戦死していた)
長可の代になっても森家の重臣として、
越前一向一揆討伐、長島一向一揆討伐、長篠の戦い、三木合戦などに従軍
その武勇を轟かせます。

とりわけその武勇、鬼兵庫の名を轟かせたのは
1582年甲州征伐における高遠城の戦いです。
高遠城は、武田信玄の五男で仁科家の名跡を継いだ
仁科盛信(にしなもりのぶ)が立て籠もっていました。
仁科盛信は兵3000ほどで(もっと少なかったとも)、
織田信忠の率いるおよそ3万の大軍に囲まれながらも奮戦し、
降伏勧告にも使者の耳を削ぎ落して追い払うほどの血気盛んな武将
そんな仁科盛信率いる高遠城城兵との戦いは激しいものでしたが、
その最中、矢狭間から真っ先に城内へと侵入したのが
鬼兵庫・各務元正でした。
城内へはいると高遠城城兵がこぞって元正へ襲い掛かってきましたが
元正はそれに臆することなく、襲い掛かる敵を一人でなぎ倒したのです。
こんな戦い方をすればそりゃ鬼って呼ばれるのもわかりますね!
※ちなみに主君の森長可の渾名も鬼武蔵。
元正の鬼のような活躍もあって高遠城は落城。
ちなみに戦後捕虜となった武田信玄の弟・信廉(のぶかど、逍遙軒の号で有名)は
森長可の命令で元正が処刑しています。

この戦いの功で森長可信濃へ加増転封となります。
それまで長可の居城であった美濃金山城森蘭丸の居城となり、
まだ自前の家臣を持っていない蘭丸のために、元正はその家老となります。
ただ、蘭丸自身は金山城主であっても信長付きの小姓として
主に京都で政務をおこなっており、
しかもほどなくして本能寺の変で亡くなってしまいます。
そのため実質、金山城の政務を取り仕切っていたのは元正でした。
内政の実務面でどこまでの業績を残したのかはわからないんですが、
後年でも領国の政務を任されることが多かったそうなので
武勇だけではなく内政面でも優秀だったんじゃないでしょうか

1.3 本能寺変後の東美濃制圧戦、そして岩村城での籠城戦

本能寺の変が起きると、森長可が治める信濃では
信長・信忠が亡くなったことで織田軍の力が弱まり
国人衆が蜂起し始めます。
森可成もそれらを抑えきることはできず、
信濃の所領を捨てて、元の居城である美濃金山城へ帰還します。
しかし美濃に帰還しても、重臣の離反などで勢力を失っており
長可に対抗する勢力が団結して森家に襲い掛かろうとしていました。
そこで森長可東美濃の制圧のために反抗勢力の各個撃破に努めます
各務元正もこの制圧戦に従軍し、東美濃統一に貢献するのです。
また、長可が岩村城を接収すると岩村城城代に元正が任命されます。
そして1584年の小牧・長久手の戦い羽柴秀吉織田信雄徳川家康連合軍)で
羽柴方として長可は参戦しますが、
元正を始めとした多くの森家家臣たちを美濃へ残して出撃。
長可の不在を好機と見たのか、東美濃制圧戦で森長可に敗れた
遠山友政遠山利景らが明知城を攻め立て奪還します。
さらに徳川家康の支援も受けて岩村城に攻撃を仕掛けてきました。
しかし城を守る元正は、遠山軍を撃退
逆に遠山半左衛門などを遠山主力の家臣を討ち取って撤退させるのです。
宇佐山城での籠城戦といい、攻めるだけでなく守りも強い。
各務元正は籠城戦の達人なのかもしれませんね。

1.4 長可死後も森家重臣として力を尽くす

小牧・長久手の戦いに参陣した森長可は戦死してしまいます。
この時点で森家の跡継ぎ候補が森長可の弟で当時14歳の森忠政のみ。
※この時点では森長重と名乗っていましたが便宜上忠政で。
しかし森長可は忠政に家督を譲りたくなかったようで
遺言状の中に、
「忠政に後を継いでほしくない。
あと金山城は誰か信頼できる家臣に任せてほしい。
忠政は秀吉殿の元で奉公するように。」
と残していたそうなんです。
元正、および林通安・為忠父子は
3人で羽柴秀吉の元にこの遺言状を届けつつ、
弟の森忠政家督相続と遺領引継ぎを願いでます。
この遺言状を見て秀吉も困ったことでしょう。
秀吉としても自分に味方をしてくれた家を
潰すのは気が引けるでしょうし
遺言とはいえ周りに与える影響も大きそう。
結局、秀吉は森長可の遺言は一切無視し、
森忠政家督相続と遺領引継ぎを承認し、
さらには各務元正と林為忠の2人に森忠政後見役を命じます。

忠政の後見役となった元正は
その後岩村付近の支配を任されて
岩村城の改修をしたり城下の整備など
岩村の領国経営に尽力します。
忠政不在時の留守居役や来客の饗応役
といった内務的な仕事が多くなり
戦が起きても元正は国元の抑えとして残って領国での執務をとっていたそうです。

1600年忠政が金山から信濃川中島13万6500石への転封が命じられると
元正は信濃長沼城代として8000石を与えられます。
しかし病によって1600年10月15日に
長沼城内で亡くなってしまいました享年59歳

戦で数々の武功を立ててきた元正でが
その後年はどちらかという内政面で重きをなしていたようで
若い頃に刃傷沙汰を起こして蟄居の身となった面影はどこへやら(笑)

1.5.各務元正にまつわる逸話

各務元正にはその人物像が伝わる逸話がいくつか残っています。
以下、Wikipediaからの抜粋です。

  • 三木合戦の際に元正が負傷した際には織田信忠から直に医者が派遣され、長可が毎晩のように見舞いに訪れたという。
  • 高遠城攻めの際には長さ九尺(約2m70cm)に及ぶ鳥毛の長指物を指して現れ、信忠より賞賛された。
  • 森忠政が大井宿にて蒲生氏郷に馳走したことがあり、その饗応役を忠政から命ぜられた。その際、氏郷にねだられて往年の武功話を語って聴かせた。
  • 蒲生氏郷が各務元正を大層気に入り、蒲生家中に元正を引き抜こうとしたことがあった。氏郷が元正に一万五千石の待遇で勧誘の使者を送ったところ、元正がそれを断ったため、氏郷は二万石にして再度勧誘の使者を送った。元正はついに怒りを発し、使者に対し「二君に仕へず」の理を説き、氏郷の手紙も読まずに追い返したという。
  • 『兵庫覚書』という自伝的な書を残している。
  • 子孫の嫡流元正にあやかり代々「各務兵庫」を称した。また庶流ではあるが、赤穂浪士の横川宗利は元正の玄孫にあたる。

引用元:Wikipedia

 負傷した元正を主君の長可が毎晩見舞いに訪れるとか
なんと果報者なんでしょう(笑)
それだけ信頼感厚く、長可にとっても失うわけにはいかない家臣だったのでしょう。
織田信忠が医者を派遣するっていうのも、
なかなか破格の待遇な気がしますけどね。
元正が信忠の直臣ならまだしも、陪臣ですからね。
蒲生氏郷の引き抜き話を断ったという辺りも好感度アップです。
1万5千石から2万石に引き上げたら今度は怒り狂ったっていう辺りは
若い頃の元正がちょっとだけひょっこり顔を出したのかも(笑)

2.「麒麟がくる」と信長の野望シリーズでの各務元正

最初にいったとおり、「麒麟がくる」では登場しないでしょう。
明智光秀との関係性も薄いですし、
ちょっとストーリー上、絡む場面もなさそうなので。
宇佐山城の戦いで名前がちょっと出てきたらラッキーぐらいな感じです。
信長の野望シリーズにおいては登場経験がありません!
武将プレイがメインの戦国立志伝で登場させないのは
本当に勿体ないです。
調べてみたら太閤立志伝でも登場していないみたいです。
マイナーかもしれないけど魅力溢れる武将の一人だと思うんですけどね。
今後の登場に期待したいところです。

3.まとめ

今回は攻めてもよし守ってもよし、
森家最強のお留守番各務元正でした。

ところでこの「各務」という姓、初めて知った時は
まったく読めませんでした(笑)
なんて読んだらいいのか想像もつかず「かくむ」としか読めず(笑)

各務氏の系譜によると大元は

各務氏の家譜によれば、清和源氏義光流武田氏3代源清光の4男、加賀美遠光を始祖とする加賀美氏の後裔である。いつからか美濃国へと移り住み、遠光から8代下った加賀美正光の代に神託を受け名字を「各務」に改めたという。また、同じ美濃に山県氏流の各務氏も存在する。

引用元:Wikipedia

ということでらしいです。
岐阜県には各務原市がありますけど
この辺の土地周辺の出身者とかじゃないと
なかなか読めない気がしますが、どうなんでしょう。
昔は「蒲生」も読めませんでしたけどね(笑)

では今回はこの辺で。
ここまで読んでいただきありがとうございました!

追記:ブコメ返し

  • 2019年9月5日 ぱんこさん(id:pandafullife)へ
    いつも読んで頂きありがとうございます、はてブブコメ励みになっています!
    歴史というか、この戦国時代に限っていうと私の場合はゲームの「信長の野望」シリーズが出発点になります。そこで知った武将をWikipediaで調べて、どういう人物かを知りつつ、その人物関連でまた別の人物を知ってまた調べるっていう繰り返しです。
    もちろんそこから他のウェブサイトを検索して閲覧したり、書籍(歴史関係の考察本とか歴史小説とか)を読んだりしますが、スタートは必ずゲームですね(笑)
    たぶん「信長の野望」シリーズをやっていなかったら、こんなに戦国武将にはまることはなかったと思います。