歴史人物語り#41 兄弟骨肉の争いに勝利を得たものの家臣・斎藤道三に裏切られて放浪生活を余儀なくされた鷹好き守護大名・土岐頼芸

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今回は土岐頼芸(ときよりのり)
斎藤道三に美濃を追い出された守護大名です。
麒麟がくる」では尾美としのりさんが演じます。

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では今回のお品書きはこちらです。

また過去に紹介した麒麟がくる」にちなんだ武将たち
以下の一覧記事にまとめてあります。

tsukumogatari.hatenablog.com

tsukumogatari.hatenablog.com

その他今までに紹介済みの戦国武将たちはこちから確認できます。

tsukumogatari.hatenablog.com

まだ読んでいない武将の記事がありましたら是非チェックしてみてくださいね。

1.土岐頼芸とは

1502年生まれ、美濃守護・土岐政房(ときまさふさ)の次男。
奥さんは、正室が近江守護・六角定頼(ろっかく さだより)の娘、
側室が深芳野(みよしの)、後に斎藤道三の側室となって斎藤義龍を生んだ女性。
稲葉一鉄のお姉さんとも言われています。

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1.1 兄弟骨肉の争い

頼芸(よりのり)が生まれた頃の美濃の情勢は混乱気味でした。
守護代斎藤利国(さいとうとしくに)土一揆で戦死したことによって
守護代・齋藤家中は混乱し、これに乗じて庶流の長井家が台頭してきます。
土岐家自体も、父・政房が長男の頼武(よりたけ)よりも
次男の頼芸をかわいがっていたため、頼武を廃嫡して頼芸に後を継がせようとします。
その結果、頼芸は守護代長井長弘(ながいながひろ)
長井新左衛門尉斎藤道三の父と云われている)に、
兄の頼武は守護代斎藤利良(さいとうとしなが)に支持されたことによって
家督争いが表面化、1517年には戦になるのです。
ちなみに、長井長弘は以前記事にした長井道利の父と云われている人です。

tsukumogatari.hatenablog.com

頼芸はこの戦では負けてしまうんですが、
1518年に前守護代斎藤彦四郎(さいとうひこしろう、斎藤利国三男)の助力を得て
再度兄・頼武勢と一戦交えます。
この戦では、頼芸が勝利を収めて兄・頼武は越前に追放、頼武に味方した勢力は一掃されます。
ところが、1519年朝倉孝景(あさくらたかかげ)の支援を受けて
兄・頼武が美濃へ攻め込み、頼芸は敗走して頼武が美濃守護に就任します。
骨肉の争いとはまさにこのことですね。
一度血で血を争う戦いをしてしまったら、
兄弟であっても二度と仲良くなれなさそう、悲しいけど。
うちは兄弟仲良しで良かったと思います(笑)

これでひと段落と思いきや、頼芸は全く諦めていませんでした。
6年後の1525年再度挙兵して、美濃守護所の福光館を占拠します。
そして1530年には兄・頼武を再び越前に追放し、「濃州太守」と呼ばれて
実質的に守護としての権力を取り返します。
その後重臣だった長井長弘や長井新左衛門尉が亡くなると、
長井新左衛門尉の子である長井規秀(ながいのりひで)
重用することによって勢力を維持しますが、
この長井規秀こそ、後の斎藤道三です。

しかし1535年には新たな火種が生まれます。
6月に父・政房の十七回忌で自らを正当な守護として国内に宣言した結果、
兄の後を継いだ甥・頼純(よりずみ)と対立し、
さらにこの頼純に越前朝倉氏と近江六角氏が味方をしたことによって
美濃全土へと戦火が拡がってしまうのです。
しかし1536年に頼芸は勅許により美濃守に遷任して正式に守護の座に就きます。
またこの頃、頼芸は六角定頼の娘を正室として迎えたことによって
六角氏とは和睦となり、国内の争乱もほぼおさまります。
1539年には甥・頼純との間にも和議が成立します。

1.2 斎藤道三との対立

ようやく美濃守護として落ち着いてきたかと思いきや、
身内の次は今度は家臣との関係が悪化します。
その家臣が長井規秀、この頃は斎藤利政と名乗っていた後の斎藤道三です。
※便宜上、以後は斎藤道三で呼び名を統一します。
その対立のきっかけとなったのが斎藤道三による弟・頼満毒殺事件です。
これによって対立抗争が表面化し、
道三は1542年に頼芸の居城である大桑城を攻め込みます。
大桑城は落城し、頼芸とその子・頼次を尾張へ追放され、
斎藤道三が事実上の美濃国となります。
しかしこのまま黙っていないのが頼芸です。兄に負けたときもそうでしたね。
頼芸は尾張織田信秀(信長の父)から支援を受け、
さらには朝倉孝景の庇護下にあった頼純とも連携して
美濃復辟を大義名分として美濃へ侵攻します。
その結果、頼芸は揖斐北方城に入城、頼純は革手城に復帰
美濃守護として返り咲きます。
しかし、1546年に斎藤道三朝倉孝景が頼芸の守護退任を条件に
和睦してしまったことにより、止む無く頼芸は守護の座を頼純に明け渡します
結局朝倉孝景は直系の頼純派として協力しただけだったのかもしれません。
さらに道三は織田信秀とも和睦を結んだことによって
完全に後ろ盾を失った頼芸は1552年にふたたび追放されます。
以後、頼芸が再び美濃守護の座に就くことはありませんでした。

1.3 追放後の頼芸は放浪生活の日々

最初は妻の嫁ぎ先である六角氏を頼り、
次いで実弟治頼(はるより)がいる常陸へ赴いて
系図や家宝を治頼に譲ったそうです。
さらには上総の土岐為頼(ときためより)を頼った後、
甲斐の武田氏に身を寄せます。この間に病によって失明したそうです。
武田氏に身を寄せていた頃には、織田信長が天下に一番近い覇者として
甲斐の武田氏をも脅かしていました。
そして信長の嫡男・信忠指揮のもと行われた甲州征伐により武田家は滅亡
武田氏に庇護されていた頼芸もこの時発見されたそうです。
発見された頼芸は、旧臣である稲葉一鉄の働きかけによって
美濃国へ戻ることができました。
その半年後の1582年12月28日に亡くなったと云われています。
享年81歳
この時代にしては長生きですが、
前半生は骨肉の争いに始まった権力争奪戦に明け暮れ、
敗れた後の後半生は、諸国を放浪するという権力からはかけ離れた人生。
発端は父の溺愛から始まっていますが、
それがきっかけに欲が生まれてしまった頼芸は
自分の一生をどう考えていたのか気になるところ。
放浪生活において、自分を見つめる機会もあったんじゃないでしょうか。
ちなみに、頼芸は文化人としても有名で和歌にも長じており、
書画も幾つか残しています。
特に鷹の絵が得意だったようで、頼芸の描いた鷹の絵は
『土岐の鷹』として有名なんです。
同じく鷹の絵を得意とし土岐た一族の画家・土岐冨景(ときとみかげ)
土岐洞文(ときとうぶん)同一人物ではないかとも言われています。

2.「麒麟がくる」での土岐頼芸は?

物語序盤から美濃国における権力者の一人として登場するでしょう。
光秀が生まれた頃、「麒麟がくる」の設定上では1528年生年説をとっているので
それぐらいから物語がスタートするとなると、
二度目の兄の追放ぐらいの話からでしょうか。
ちょうどこの頃ぐらいから斎藤道三も台頭してきます。
斎藤道三に国を追放されるぐらいまでは、主要人物の一人として
数々のシーンで登場してくるでしょう。
もしかすると、後半生の武田氏滅亡時に甲斐で発見された頃に
もう一度出てくるかもしれませんね。
そして土岐頼芸を演じるのは、尾身としのりさん。
大河ドラマでいは一番直近が、おんな城主 直虎での徳川四天王榊原康政
他にも平清盛では平維綱役、北条時宗では足利利氏役など
何度も大河ドラマに出演されています。
他にもドラマでは脇役として数多く出演されていますよね。
ちょっとなよなよしいけど、裏に一物持ってそうなイメージの(これは私の勝手なイメージw)
土岐頼芸をうまく演じてくれそうな気がします。
尾身としのりさんらしい土岐頼芸を好演してくれるんじゃないでしょうか。

3.信長の野望シリーズでの土岐頼芸

信長の野望シリーズでは今までの作品すべてではありませんが、
そこそこ登場しています。
登場した作品によって能力評価値はわりとバラバラで、
統率系だけ高かったり、政治系だけ高かったり、もしくは全部だめだったり(笑)
最近のシリーズだと政治・知略がそこそこ、って感じです。
信長の野望・創造 戦国立志伝だと、こんな感じ。

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政治・知略がまぁ使えるので、内政・調略重視で
戦闘は家臣に任せておけばそこそこ活躍できるタイプです。
家臣としてもわりと私は内政担当として重宝していますね。
土岐頼芸プレイはしたことないですが、
斎藤道三家臣の状態でやってみるのも面白いかもしれませんね。

4.まとめ

今回は兄も甥も追放したけど最後は斎藤道三に自身が追放された土岐頼芸でした。
時代の性とはいえ、やっぱり兄弟は仲良くしたい。
毛利兄弟、島津兄弟みたいに強力しあうのが一番。
まぁでも一番悪いのはやっぱり頼芸を溺愛したお父さん。
子どもたちには満遍なく愛情を注いでほしいものです!

そして「麒麟がくる」にちなんでるようなちなんでいないようなこのシリーズも
そろそろ美濃から離れて尾張か越前へ向かおうか悩み中です。

では今回はこの辺で。
ここまで読んでいただきありがとうございました!