歴史人物語り#47 織田家随一の行政官僚、信長からの信頼も厚く天下所司代を任された村井貞勝

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今回は織田信長の家臣で京都の行政を任されていた
村井貞勝(むらいさだかつ)
本能寺の変では織田信忠と運命を共にすることになります。
麒麟がくる」では今までの大河ドラマよりも出てくるシーンが多いかも。

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では今回のお品書きはこちらです。

また過去に紹介した「麒麟がくる」にちなんだ武将たち
以下の一覧記事にまとめてあります。

tsukumogatari.hatenablog.com

tsukumogatari.hatenablog.com

その他今までに紹介済みの戦国武将たちはこちから確認できます。

tsukumogatari.hatenablog.com

まだ読んでいない武将の記事がありましたら是非チェックしてみてくださいね。

1.村井貞勝とは

生年はわかっていませんが、1520年頃かそれ以前と言われています。
通称吉兵衛。父が誰かは伝わっていません。
1581年に家督を息子の貞成に譲っています
この時に出家して春長軒(しゅんちょうけん)と号しています。
出身は近江らしいのですが、1556年頃には既に織田信長に仕えていたようです。
それ以前や織田信秀の代にもいたのかどうかはわかりませんが、
信長の弟・信勝(のぶかつ)が叛旗を翻した際
信勝と柴田勝家との交渉役島田秀満(しまだひでみつ)と共に任されています。
交渉役を依頼したのは信長の母あである土田御前(どたごぜん)です。
信長の母に既に覚えが高かったとすれば、
父・信秀の代にも仕えていたのかもしれません。
村井貞勝は信長が足利義昭を将軍に据えるための上洛した際にも同行しています。
そして佐久間信盛木下秀吉丹羽長秀らと共に京に残って政務を任されます。
前述の交渉役を始めとして、西美濃三人衆寝返り時の人質受取や、
足利義昭の庇護、上洛後の二条城の造営京都御所修築
そしてその他寺社との折衝など、基本的に政務を主担当として活躍しています。
織田家臣の中でもトップクラスの行政官といっても過言ではないでしょう。

1.1.信長の天下所司代村井貞勝

足利義昭は将軍となった後、織田信長との折り合いが悪くなります。
結果、義昭は諸大名と結託して織田信長包囲網を敷き
信長と抗争するようになりますが、
1573年の槙島城の戦いによって義昭は京を追放されます。
これによって信長か京を完全支配化に置くと
村井貞勝京都所司代(天下所司代)として任命します。
この頃の信長の主な行政官僚といえば村井貞勝以外だと
松井友閑(まついゆうかん)
武井夕庵(たけいせきあん)
塙直政(ばんなおまさ)
そして明智光秀です。
これらの中でも松井友閑と武井夕庵は
村井貞勝と共に行政面で活躍しましたが
貞勝は彼らを差し置いて所司代に任命されました。
京都所司代は京の治安維持が主目的ではありますが、
村井貞勝の担当範囲は広く、

  • 朝廷・公家・寺社との交渉
  • 御所の修復
  • 使者の接待
  • 京都御馬揃えの準備
  • 二条城造営

といった感じで、
京を中心とした中央政務の柱として
相当忙しい日々を毎日送っていたのではないかと思います。
また朝廷等との交渉事も多く勤めていたため
人脈も広かったことでしょう。
公家の勧修寺晴豊(かじゅうじはるとよ)が貞勝の元と訪れて
信長の三職(太政大臣、関白、征夷大将軍)いずれかへの就任について
話し合ったのも貞勝の京での名声があってこそでしょう。
ちなみにこの三職推進の議論については晴豊自身の日記『晴豊公記』に記録されています。

1.2.御所築地堀の修復作業

村井貞勝の京での行政官としての働きぶりを示す逸話があります。
1578年3月、御所自体の修復作業を終えましたが
御所を巡らす築地塀(ついじべい)の修復はまだ残っていました。
そこで貞勝はは京の町人たちにこの修復に協力することを命じるんですが
この時に、いくつかの班に分けて作業を競わせたそうです。
これがきっかけで築地塀修復作業はお祭り騒ぎになって
修復作業をしている一方で
築地塀の上で町人たちの歌や踊りが披露されて
それを見に来る見物客で大賑わい。
その賑わいぶりは正親町天皇(おおぎまちてんのう)
公家も見物するぐらいだった
とか。
お祭り騒ぎの中競争で進められた修復作業は
あっという間に完了したそうです。
競わせた先のお祭り騒ぎまで貞勝が計算していたかどうかはわかりませんが、
このようにうまく人を使う術を持っていたために、
京都所司代という大役も織田信長から任されたのでしょうね。

1.3.本能寺の変では織田信忠と共に

1582年6月2日。
もうこの日付は何度も歴史人物語りで出てきているから
読んでくれている方は何が起きた日かは覚えていそう(笑)
そうです、本能寺の変が起きた日です。
当時、村井貞勝は本能寺のすぐ近くにあったといわれる自邸にいましたが
信長の嫡男で既に織田家の当主となっていた織田信忠の宿所である妙覚寺と向かいます。
妙覚寺へ向かった理由としては、
本能寺の周囲に堀を作って防御力を高めたことが仇となって
取り囲む敵の隙をついて中に入めなかったからとも言われています。
確かこの作業も村井貞勝が中心になっておこなったんじゃなかったかなぁ。
※違ったらごめんなさいw
信忠は本能寺へ駆けつけて信長を救おうとしていましたが、
貞勝はもはや間に合わないことを告げた上で
防御に優れた二条新御所で立て籠もって戦うことを提言します。
二条新御所も貞勝中心となって普請しているので自信もあったのかもしれません。
そして信忠は二条新御所での籠城を決めて迫りくる明智軍と戦いますが
衆寡敵せず敗れてしまい、信忠討死。
同じく村井貞勝も、弟の宗信、息子の貞成、清次らと共に討死してしまいました。

貞勝は宣教師ルイス・フロイス「都の総督」と呼ばれ
尊敬できる異教徒の老人とも称されていたようです。
京都所司代として中央政務を仕切っていた貞勝の権勢は
織田家随一だったのでしょう。
しかし貞勝は行政担当。
軍事面でも長けていたら本能寺の変はもう少し違った結果になったかどうか。

ちなみに貞勝の娘は佐々成政前田玄以、福島高晴(福島正則の弟)といった
当時の織田家としては有力な武将たちの元へ嫁いでいます。
ただし、その後の人生は不憫な家が多いのがちょっと可哀そう。
それから信憑性が不確かですが、織田信長の庶長子
貞勝の養子となった村井重勝(むらいしげかつ)という人物がいます。
元は織田信正と名乗っていて、信長と貞勝を弔うために
京都に見性寺を建立したといわれています。
母親が信長の家臣・塙直正の妹だったことから後に原田姓に改めて
子孫は地下家(じげけ、昇殿はできない身分の低い公家)として存続したとか。

2.「麒麟がくる」と信長の野望シリーズでの村井貞勝

京都における政務の中心人物ですから、
何かと京都ともかかわりの深い明智光秀とは絡みやすい人物
過去の大河ドラマだと直近で登場したのは利家とまつぐらいですが
今回は信長の上洛後から本能寺の変における二条城の戦いまでで
登場のチャンスは多い気がしています。チャンスは(笑)
貞勝が京都所司代になってからは明智光秀も京で何かしらの奉行を務めていて
二人で連名で文書を出したりもしているので
少なくともその辺りぐらいから絡みがあって登場するかもです。

信長の野望シリーズでも村井貞勝は皆勤賞と思いきや
武将風雲録だけは任天堂DS版のみらしいです。
登場当初は政治力抜群っていうよりも政治ちょっと高めの内政担当的評価でしたが
次第に政治力超特化型の内政・外交担当の武将になっています。
特に政治力は90超えが多いです。
信長の野望・創造 戦国立志伝での評価値でも

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このように政治91、これは織田家の中では平手政秀よりも上です。
織田家臣は有能揃いなので90超えの武将も多いとはいえ、
知略も75を超えていて諸国や朝廷との交渉も任せられる
史実通りに行政に特化した有能な武将として評価されています。
息子の貞成や弟の宗信は登場したことがないです。
織田家はそもそも家臣たくさにるので
間引かれる対象になっているのでしょう(笑)

3.まとめ

今回は織田家トップの行政官僚、村井貞勝でした。
京都の治安維持を任されていた貞勝としては
明智光秀の裏切りを検知できなかったことを
悔んだりしていたのかなぁと思ったり思わなかったり。
戦経験がどれぐらいあったのかわかりませんが
行政メインで動いていた人ですから、
知識はあっても経験は乏しかったでしょうね。
二条城立て籠もりよりも一旦安土へ逃げて立て直すことはできなかったのかなぁ。

では今回はこの辺で。
ここまで読んでいただきありがとうございました!