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歴史人物語り#49 豊臣秀吉に仕えた甲斐24万石の大名は加藤清正の命の恩人、加藤光泰

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今回は豊臣秀吉の家臣として有名な加藤光泰(かとうみつやす)
甲斐24万石の大名に取り立てられるほど功を挙げた人ですが
元は美濃、斎藤龍興の家臣です。
麒麟がくる」ではワンチャン登場機会はあるかもです。

www6.nhk.or.jp

では今回のお品書きはこちらです。

また過去に紹介した「麒麟がくる」にちなんだ武将たち
以下の一覧記事にまとめてあります。

tsukumogatari.hatenablog.com

tsukumogatari.hatenablog.com


その他今までに紹介済みの戦国武将たちはこちから確認できます。

tsukumogatari.hatenablog.com

まだ読んでいない武将の記事がありましたら是非チェックしてみてくださいね。

1.加藤光泰とは

1537年生まれ、父は加藤影泰
通称作内、権兵衛、遠州など。
元は斎藤龍興の家臣で、勇将として知られていました。
しかし、1567年織田信長稲葉山城が落とされて斎藤家が滅亡すると
浪人となり近江に逃れます。
美濃攻略戦での光泰の勇ましい戦いぶりには織田信長も一目置いていたので
木下秀吉(後の豊臣秀吉を介して
光泰は信長に拝謁して召し抱えられて秀吉の家臣となります。
ちょっとここで覚えておいてほしい。
信長も一目置いた加藤光泰は戦に長けた人物であることを。
コーエーテクモさんに特に訴えたい(笑)

1.1.秀吉の家臣として大活躍

1571年近江横山城における浅井長政との戦いにおいては
左足に重傷を負いながらも武功を立てて
秀吉から近江国坂田郡磯野村700貫の知行と与力10名を与えられます
1578年播磨三木城攻めでも戦功を挙げた光泰は
播磨に5000石の知行を与えられます。
そして1582年本能寺の変後の山崎の戦いにおいては
池田恒興らと共に円明寺川を渡河して津田信春を奇襲します。
この奇襲で明智勢を混乱状態に陥れることに成功し、
さらにその隙をついて明智光秀本隊へ襲撃することが出来たのです。
これによって明智勢は総崩れとなり、羽柴秀吉勢の勝利が確定的となります。
明智勢総崩れのきっかけを作った功により
光泰は明智光秀の旧領の一つであった周山城1万5千石に増封
以後も近江貝津城へ転封した後、さらに2万石に加増されて高島城(別名大溝城)へ移封。
さらに尾張犬山城へと移封されます。
秀吉の家臣となってからは順風満帆な出世街道を歩んでいます。

1.2.出世続けて甲斐24万石の大名へ

1583年柴田勝家との戦いである賤ケ岳の戦いでは光泰は軍奉行を務めたそうです。
1584年小牧・長久手の戦いでは居城である犬山城を守った後、
佐々成正の追討戦でも功を挙げます。
その結果1585年美濃大垣城主4万石に加増されます。
この時、蔵入地(秀吉直轄地)の2万石の管理も任されるんですが
順調に出世街道を歩んできた光泰が失態を犯します。
この管理を任された蔵入地を独断で割いて召し抱えをおこなってしまったことから
秀吉の勘気を蒙り、1585年9月に領地を召上げられて
秀吉の弟・秀長預かりとなり、大和郡山城に蟄居の身となってしまいます。
ただし秀長の元でも1万石を与えられ、
1587年には大和宇陀松山城で1万6千石を与えられていたようです。
しかし蟄居から解放されてからは光泰の出席街道が再びスタートです。
1587年に蟄居が赦されると佐和山城2万石に移封、従五位下遠江守にも叙任されます。
1590年小田原征伐では駿府在番をしつつ諸将と共同で山中城を攻略します。
この山中城攻城戦で大垣城主・一柳直末(ひとつやなぎなおすえ)が討死するのですが
これを機会に羽柴秀勝(秀吉の甥)が甲斐信濃から美濃国岐阜へ国替えとなります。
光泰も山中城の戦いで功を挙げていたこともあって、
羽柴秀勝の旧領地であった甲斐24万石を与えられるのです。
甲斐は家康が封じられた関東のすぐ傍。
家康と秀吉は一時的には友好関係を結んでいるものの
隙あらば家康は天下取りを狙っていたはず。
その家康の傍で睨みを利かせる存在として光泰に甲斐を任せたであろうと考えると
秀吉の光泰に対する信頼度は相当厚かったのではないかと思います。
元々身内の人間を拝していた地ですしね。

以後光泰は、河内支配を嫡男である加藤貞泰と弟の光政
郡内地方は養子の光吉に任せて
1592年までには寺社領の安堵や寄進、諸役免除などを集中的におこない
検知もおこないました。
さらに甲府城の築城もこの頃から始めています。
そして1592年朝鮮出兵文禄の役には自ら志願して出陣します。
陣中においても留守居役の養子・光吉らと綿密に連絡を取り合って
領国経営の助言をしていたそうです。
1593年9月には帰国を予定していましたが、
西生浦の陣中で発病してそのまま亡くなってしまいました
享年57歳

一説には加藤光泰の死は石田三成による毒殺ではという話もあります。
病気だったことは事実で遺言状も残しているため
この説は俗説と言われていますけどね。
また、光泰の死後、息子・貞泰がまだ若年であることを理由に甲斐を召上げられて
美濃黒野4万石に国替え、甲斐は後に浅野長政・幸長父子に与えられます。
これも三成の仕業ではないかと疑われたとか。
まぁこの頃の三成に対する風当たりは強かったですからね。
こういう経緯があってかなのか、貞泰は関ケ原の戦いでは東軍に属します。
結果、貞泰は本領安堵となった後に伊予国大洲藩6万石の初代藩主となり
明治維新まで加藤家は脈々と続いていくのです。
光泰が秀吉の功を重ねて出世してきた加藤家としては豊臣家に大恩があるはず。
普通なら西軍につきそうなところを東軍についたというのは
潮目を読む力があったのか、石田三成の人柄のせいなのか(笑)

1.3.朝鮮出兵中の逸話

加藤光泰の人柄を示す逸話として朝鮮出兵時の話があります。
朝鮮の役において渡海した豊臣軍は都城に駐屯していました。
その中で加藤清正都城を離れ、先行して進軍しており、
敵軍と対峙しようとしていた時のこと。
都城では軍議が開かれますが、食料が無くなりかけていたことを理由に
早急に撤退すべきという案が多くを占めました
これに対して異議を申し立てたのが加藤光泰

今撤退するということは、先行して敵と対峙している加藤清正を置き去りにすることになる。
置き去りにされた加藤清正はおそらく討死してしまうであろう。
それをわかっていながら撤退するのは臆病者の所業、
そんなこと言うやつらとは絶好だよ!

みたいな感じの主張をして撤退に反対したそうです。
それでも食料がもうないからどうにもならないと言う諸将に対して
『だったら砂でも食え!』とか
『砂の食べ方知らないなら教えてやるよ』みたいなことも言ながら
撤退賛成派を罵倒しまくったそうです(笑)
加藤清正の親友・福島正則も、朝鮮出兵軍団の長であった宇喜多秀家
散々に言われたそうです。
この光泰の大騒ぎによって撤退は延びに延びて
最終的に加藤清正都城まで引き返して軍団と合流することができました
加藤清正は、加藤光泰の軍議での暴れっぷりを聞いて大変感謝したそうです。
加藤光泰の気骨さや義に厚い人柄を感じるエピソードですよね。
こういう一見意固地な親父気質の人も組織には必要な時もある?(笑)

2.「麒麟がくる」と信長の野望シリーズでの加藤光泰

麒麟がくる」で登場するとしたら、最後の山崎の戦いがまず浮かびます。
明智勢総崩れとなるきっかけを作った一人ですからね。
池田恒興の陰に隠れてしまう可能性もありますが、
チャンスはあるでしょう。
山崎の戦いで登場する機会を得らていたとしたら
それより前の話で先に登場してる可能性も高そうなんですが
明智光秀と接点がないだけに脚本次第ってことにはなりますね。

信長の野望シリーズでは、昔の覇王伝天翔記に登場してから
しばらく登場がなく、創造から再び登場しています。
覇王伝天翔記では能力わりと高めで
内政も軍事も任せられる感じの評価なのに
再登場した創造からは何故か扱いがひどく。。。
信長の野望・創造 戦国立志伝での評価値を見てもらうと一目瞭然。

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50を超える能力値が一つもない!
武勇に優れた武将として織田信長にも目をかけられ
羽柴秀吉も評価して24万石の大名にまでなった人なのに!
これは子孫の人が文句を言ってもいいレベルな気がします(笑)
どういう理由でこんな評価値なのかを教えてほしいです。。。
せめて全部50超えで武勇・統率は60超えぐらいでいいんじゃ。
納得のいかない評価値シリーズの一つです(笑)

3.まとめ

今回は豊臣秀吉の元で出世街道を歩み続けた加藤光泰
目立った活躍してないわけでもないし、
24万石を領する大名にまで出世したのに
信長の野望シリーズでも最近はディスられ気味の評価値(笑)
ただの設定ミスなんでしょうかね、謎すぎますが
この記事を多くの人が読んで知名度が上がったりすれば
評価値も上昇したりして?
そこまで影響のあるブログになっているかどうかが問題ですが(笑)

では今回はこの辺で。
ここまで読んでいただきありがとうございました!