歴史人物語り#51 仕えた家は滅亡しまくったけれども、生き延びれたからこそ人生を逆転させることができた山崎長徳

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今回は越前朝倉義景の家臣だった山崎長徳(やまさきながのり)
明智光秀にも仕えていた武将ですけれども、あまり細かい事績は伝わっていない人。
麒麟がくる」での登場は一瞬か!?

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では今回のお品書きはこちらです。

また過去に紹介した「麒麟がくる」にちなんだ武将たち
以下の一覧記事にまとめてあります。

tsukumogatari.hatenablog.com

tsukumogatari.hatenablog.com

その他今までに紹介済みの戦国武将たちはこちから確認できます。

tsukumogatari.hatenablog.com

まだ読んでいない武将の記事がありましたら是非チェックしてみてくださいね。

1.山崎長徳とは

生年1552年。通称庄兵衛
槍術の達人だったとも。
父は朝倉義景の宿老として有名な山崎吉家(やまさきよしいいえ)の弟
山崎吉延(やまさきよしのぶ)と言われています。(定かではない)
あまり事績が詳しく残っている人物ではないので
微妙に遠回りしがちな話が多いかもしれない点については
ご容赦ください(笑)

1.1.激戦刀根坂の戦いに山崎長徳は参戦していた!?

山崎吉家と父・吉延は1573年の刀根坂の戦い(とねざかの戦い)の際に討死しています。
刀根坂の戦いは朝倉氏滅亡の原因ともなった戦いです。
当時、浅井家の援軍として近江に赴いていた朝倉軍でしたが
近江での戦局は次第に織田家優勢へと傾きかけており
朝倉方が守っていた大嶽砦(おおずくとりで)が落ちたことをきっかけに
朝倉義景は越前へ撤退することを決めます。
しかし、この撤退行動を織田信長はやすやすと見逃しはしませんでした。
織田信長は撤退することを読んでいて
自ら率いる本隊含めて総勢3万の軍勢で撤退していく朝倉軍を猛追するのです。
この戦いは大変な激戦となり3000人以上の死者が出たほどと言われていますが
この撤退戦の殿を務めたのが長徳の叔父・山崎吉家と父吉延でした。
殿は基本的に大将を逃がすために
軍の最後尾で敵の追撃を阻止し続ける役目ですから
務める武将は武勇に優れていることはもちろん義に厚く、
死を前にしても決して逃げないような信頼のおける人物でないと務まりません。
こういったことから考えても叔父・吉家・吉延を始めとして山崎氏は
朝倉家の中でもそれだけ主君から高い信頼を得ていた氏族だったことを容易に伺えます。
殿を務めた叔父・吉家、父・吉延は奮戦も虚しく
多くの山崎一族と共に散ってしまいますが
長徳は当時21歳ぐらい。
共に戦っていた可能性はありますが記録には残っていない?
もしも参戦していたとしたら、叔父や父のおかげで生き延びることが出来たのでしょう。
刀根坂の戦いで山崎吉家・吉延を始めとして河合吉統(かわいよしむね)や
一門衆の朝倉景行、朝倉道景など多くの朝倉家重臣が討死した結果、
一乗谷城の戦いで朝倉氏は滅亡してしまいます。
朝倉氏滅亡後は、長徳は織田家明智光秀の家臣となります

1.2.山崎長徳の仕える家は全部滅亡!?

明智光秀の下では700石を領していたと言われていますが
資料等で目立った活躍があったかどうかは認められてはおりません。
しかし、本能寺の変山崎の戦いに従軍していたことは確かなようです。
いずれの戦いでも生き延びているので
戦場で生き残るための術を心得ていた人物なのかもしれませんね。
また明智光秀の家臣とはいえ、古くから仕えていたわけではありませんし
戦況を見てうまく行動していた可能性もあります。
朝倉家宿老の山崎吉家の甥であることが事実であるならば
戦での立ち回り方などを山崎吉家から教わってたのかも。
山崎の戦い明智光秀が敗死すると、
故郷の越前を治めていた柴田勝家の下で働くようになります。
1583年の賤ケ岳の戦いでは、柴田勝家の娘婿である佐久間安政の下で参戦したそうです。
しかし、賤ケ岳の戦いで柴田勝家羽柴秀吉に敗れてしまいます。
考えてみたら、山崎長徳はここまで朝倉義景明智光秀柴田勝家、と
運悪くと言っていいのか仕えた3家全て滅亡してしまっています。
ここまでくると、次に仕える先も怪しい気がしますが
次に仕えたのは前田家です。
最初は前田利家、次いで利家の嫡男・前田利長に仕えます。
山崎長徳にもようやく人生に明るい兆しが見えてきた?

1.3.前田家に仕えてからは好転した山崎長徳の人生

今までは仕えている主家がことごとく滅亡してしまう、
という運の悪さを見せつけていた山崎長徳ですが、
彼自身が生き残っていたため人生はまだまだやり直せる。
命さえあれば未来は如何様にも切り開いていける、
そう信じて生きていきたいものです(笑)

前田家に仕えてからの山崎長徳はようやく活躍した形跡が出てきます。
数々の戦で戦功を挙げて7千石に取り立てられた後、
1600年関ヶ原の戦いでは、加賀大聖寺城(だいしょうじじょう)を治めていた
山口宗永(やまぐちむねなが)山口修弘(やまぐちながひろ)父子を
討ち取る功を挙げます。
これによって戦後に主君・前田利長より1万4千石の所領を与えられます
前田家でも重臣各の扱いへと出世したわけです。
元々前田家自体が100万石という所領を抱えているというのもありますが
この論功行賞は、山崎長徳の功の大きさを表してるでしょう。
光秀家臣の時は700石でしたから、それと比べたら雲泥の差です。
そして1614年から始まる大坂の陣でも冬・夏ともに参戦したそうです。
ちなみに次男・長郷の奥さんは
前田利家の娘・豪姫(宇喜多秀家正室)の娘だったそうです。
こういう点から見ても前田家中でも信頼を置ける人物としての地位を
築けていたことが伺えます。
その他記録に残っている事績はありませんが、
大坂の陣から6年後の1620年に亡くなったそうです。
享年69歳。

前田家に仕えるまではなかなか上向かない人生に
ちょっと俯くこともあったりしなかったのかな
とか余計なことを考えてしまいます(笑)
一転して前田家で人生が好転したのは
それまでの負け組気味の人生の経験から得たものを
うまく活かすことができたのかな?
山崎長徳の家系は前田家の重臣として明治維新も乗り越えて
現在にもその子孫は続いているそうです。

2.「麒麟がくる」と信長の野望シリーズでの山崎長徳

明智光秀の家臣時代もあるし、
本能寺の変山崎の戦いでも参戦しているので
ちょこっとでも登場する機会はありそう。
あんまり紹介されずに終わっちゃうかもしれませんけど
越前朝倉氏滅亡後からは山崎長徳を気にしながら見てみましょう(笑)
もしかして明智光秀が朝倉家にいた時代の話で
まだ幼少の長徳が出てくることもあるかも!?

信長の野望シリーズではほぼほぼ常連武将として登場しています。
しかし毎回毎回評価はまったくされていません!
まぁでも前田利家に仕えるまでの人生で
山崎長徳に関して目立った活躍の記述がされている資料や逸話が
残っていませんから仕方ない。
前田家に仕えてからの山崎長徳だったら評価値あがる可能性はあるんですが。
そして信長の野望・創造 戦国立志伝での評価値はこんな感じ。

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見事な低能っぷりです(笑)
でも逆にここまで低いと育て甲斐はあります。
やってやろうじゃないかっていう気になります(笑)
有能な部下を早いうちに手に入れることができさえすれば
山崎長徳の後半人生のように息を吹き返すことができるでしょう。
でも信長の野望シリーズだと越前って
評価値高めの武将があまりいなかったような。。。(笑)

3.まとめ

今回は明智光秀の家臣であったこともある山崎長徳でした。
人生前半は混迷の時代が続いていましたが
前田家に仕えてからは人生逆転しちゃいました。
経験している戦全てが負けたら御終い、一族滅亡的なものばかりなのに
それでも生き延びていられたことが何よりも大きな事。
命さえあればいつだってチャンスは訪れるし
チャンスをものにすることだってできる
そんな教訓を教えてくれるのが山崎長徳というのは過言?(笑)

今回の山崎長徳を書いているうちに
もう過ぎてはしまったけど9月1日は子供の自殺者が年間最多の日って
言われてるのをなんとなく思い出しました。

山崎長徳からの教訓でというわけでもなく
決して当事者の人たちをディスるつもりもないし
気持ちを軽く考えているわけでもないし
好い人ぶりたいわけでもないのだけど
どんなに辛いことがあっても
生きて問題をなんとか前向きに解決して
光を照らすチャンスを掴めるまで歯を食いしばって生きてほしい
命を絶ってしまっては本当にそこで終わってしまうので。

こんな上っ面な字面だけじゃなくて
言葉にもっと想いを込めた文章を書けたらいいんですけど
如何せん技術がおついてない・・・(笑)
言いたいことをすべて言い表せていないのはもどかしいです。

では今回はこの辺で。
ここまで読んでいただきありがとうございました!