歴史人物語り#53 朝倉家当主3代に渡って補佐してきた名将・朝倉宗滴、死の直前に最も気になっていたのは朝倉家じゃなくて織田信長の行く末だった!?

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今回は朝倉家で3代の当主を支えた名将・朝倉宗滴(あさくらそうてき)です。
朝倉家の最盛期は宗滴によって築かれたと言っても過言ではありません。
もうちょっと長生きしてくれてたら「麒麟がくる」にも登場していたかも!?

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では今回のお品書きはこちらです。

また過去に紹介した「麒麟がくる」にちなんだ武将たち
以下の一覧記事にまとめてあります。

tsukumogatari.hatenablog.com

tsukumogatari.hatenablog.com


その他今までに紹介済みの戦国武将たちはこちから確認できます。

tsukumogatari.hatenablog.com

まだ読んでいない武将の記事がありましたら是非チェックしてみてくださいね。

1.朝倉宗滴とは

生年1477年(1474年説もあり)
通称太郎左衛門尉
諱の教景(のりかげ)でも知られていますが
今回の記事では宗滴で統一します。
父は朝倉孝景(あさくらたかかげ)なのですが
朝倉氏10代目当主で朝倉義景の父の孝景ではなく、
朝倉氏7代目当主の朝倉孝景です。
宗滴は孝景の8男なんですが、
嫡男として育てられたのではないかと言われています。
それは宗滴の諱である「教景」は
曾祖父である5代目当主教景と同じ名であり、
6代目当主家景や父の孝景も一時期名乗っていたからです。
しかし父・孝景は1481年に54歳で亡くなっています。
宗滴はまだ当時4歳です。1474年生年説を採用したとしても7歳。
さすがにこの年齢では家督を継がせるわけにはいかないので
長男の氏景が第8代目当主になったのではないかということです。
宗滴が元服してから後に家督を奪い取ろうとした動きがあったことを考えると
あながち否定はできない話です。

1.1.家督奪取計画を立てるが諦めて協力者を逆に密告

朝倉宗滴家督に対して興味があったらしいことは事実のようです。
前述のように嫡男として育てられていたとしたら
当主たるべきは自分であるという自負が芽生えていてもおかしくはないでしょう。

1503年に宗滴は、敦賀城主の朝倉景豊(あさくらかげとよ)
朝倉景総(あさくらかげふさ)らと共に
当時の当主である朝倉貞景(あさくらさだかげ)に対する下剋上を計画します。
朝倉景豊と宗滴は義兄弟の関係にありました。
宗滴の奥さんが景豊の姉妹なのです。
また、景豊は景総の娘を妻としていました。
朝倉景総は当時の管領細川政元(ほそかわまさもと)に仕えていて京にいました。
宗滴にとっては兄にあたりますが、正室の子ではなかったために
5男の弟よりも下座に置かれたことを恨んでその弟を殺したりしています。
(ちなみにこの5男の名前が教景で宗滴の諱と同じ。ややこしいw)

そして謀叛自体を持ち掛けたのは景総でした。
京にいる景総は兵を率いて越前へ向かい、越前国内では宗滴や景豊が
軍勢を蜂起する手筈となっていたのですが、
計画実行直前になって宗滴が下剋上を起こすことを諦めます
それは貞景の父の代も含めて20年ほどで朝倉当主の支配体制は盤石であり。
計画を実行してもうまくいかないと宗滴は悟ったのです。
宗滴は朝倉当主の座を諦めました。
そして当主・朝倉貞景に景豊が謀叛を起こそうとしていると密告するのです。
密告された景豊は居城である敦賀城を朝倉貞景勢に包囲されていまいます。
景総の軍勢が近江方面から越前に向かっていましあが間に合わず
景豊は一戦交えた後、自害しました。
景豊は父・景冬より敦賀郡司職を継いでいましたが景豊が亡くなったことにより
敦賀郡司は謀叛を密告した宗滴が任命されます。
以後、宗滴は家督にはこだわることなく
朝倉宗家のために代々の当主を支えていくことになります。
ここでもしも宗滴が謀叛を起こしていたら
後々名将として名を遺すことはなかったかもしれません。

1.2.朝倉家の軍奉行として大活躍

朝倉宗滴家督を継げなかったとはいえ、
仕えた3代の当主以上に政務の面でも軍事の面でも大きな役割を果たしています。

1506年の一向宗との戦いである九頭竜川の戦いにおいては
総勢30万にものぼるといわれた一向宗勢に朝倉家総大将として宗滴は立ち向かいます。
朝倉軍は8千から1万6千とブレ幅大きいんですが(笑)、
30万の一向宗戦力と比べたら雲泥の差。
宗滴は流石に真っ向から戦っては勝てないと踏んで
敵の機先を制するために夜襲をかけます。
この夜襲が成功して一向宗は打ち負かされて加賀へと逃げるのです。
宗滴はこの勝利の勢いに任せて吉崎御坊(よしざきごぼう)を破壊します。

1517年には、幕命により若狭守護の武田元光(たけだもとみつ)の援軍として
若狭・逸見氏と丹後守護代・延永春信の反乱を鎮圧します。

1525年には、美濃の内乱に介入した北近江の浅井亮政(あさいすけまさ)を
牽制するために、近江守護・六角氏と協力して小谷城へ向かい
小谷城の一角に金吾嶽を増築して在陣しつつ、六角氏と浅井氏の調停役を務めます。
このときに宗滴が浅井亮政をよく助けたことがきっかけとなって
これ以後、浅井氏と朝倉氏は強固な絆で結ばれた盟友として
戦国の世を生き抜いていきます。

これよりもっとあとの時代に、
浅井長政が義兄の織田信長よりも朝倉義景を選んだのは、
この宗滴と亮政の時代から続く両家の固い絆があったため
なんですね。

1527年には近江に逃れていた12代将軍足利義春と管領細川高国の要請で
宗滴は兵1万を率いて上洛して川勝寺口の戦い(せんしょうじぐちのたたかい)で
三好元長の軍勢と戦って撃退しています。

この頃の朝倉家の当主は第10代当主の朝倉孝景で、
孝景自身も文武両道に優れ、朝倉家の栄華をもたらした当主として有名ですが
実際に朝倉軍の総大将として戦に赴いていたのは朝倉宗滴であり、
諸大名との交渉役も朝倉宗滴が一手に引き受けていたと言われています。
おそらく宗滴の活躍がなければ、朝倉家の中央での地位を固めることはできなかったでしょう。
1527年養子の朝倉景紀(あさくらかげのり)に敦賀郡司を譲っています
朝倉家の軍奉行は引き続き務めており、病に伏せるようになるまでは
常に朝倉軍の総大将として各地を転戦しました。
朝倉宗滴が存在している限りは他家も朝倉家に対して
なかなか手を出せなかったと言われていますし、
朝倉軍の結束力も宗滴の下でしっかりと保つことができていたのです。

1.3.11代目朝倉義景の代でも変わらず活躍するも病に倒れる

1548年朝倉孝景が56歳でなくなると、当時16歳の義景が家督を継ぎました。
義景がまだ若年ということもあって、
宗滴は義景の補佐役として朝倉家を変わらず引っ張っていきます
1555年7月21日には、越後の長尾景虎(後の上杉謙信に呼応して
加賀一向一揆勢を討伐するために加賀に出陣します。
7月23日には加賀入りして3つの城を1日で全て落城させたと言われています。
7月24日には江沼郡にて焼き働き(収穫時期の稲や麦を焼き払う)をおこなって
大聖寺付近の敷地山に本陣を布いて持久戦の構えを見せます。
8月に入ると一揆勢も反撃に撃って出るなどして
攻防は一進一退の様相を見せていましたが
この陣中において宗滴は病に倒れてしまいます。
総大将を朝倉景隆に任せて一乗谷に帰還します。
ちなみに、前回紹介した山崎吉家(やまさきよしいえ)はこの戦に参陣しています。

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一乗谷に帰還した宗滴は看病を受けるものの病は治らず9月8日に亡くなりました
享年79歳。
宗滴の死が朝倉家に与えた影響はとても大きいんですが、
武田晴信(後の武田信玄と対峙して

ちょうど第二次にあたる川中島の戦いの際中であった
長尾景虎にも影響を与えます。
景虎からすると、朝倉宗滴は加賀の一向一揆衆に対する抑えを担っていたので
宗滴が加賀へ出陣していたからこそ長尾景虎信濃方面への戦に集中できていたのです。
しかし宗滴が亡くなってしまったことで、加賀一向一揆衆に対する懸念が出てきたため
駿河今川義元(いまがわよしもと)の仲介で
武田晴信と和睦して両者撤退するのです。
後の上杉謙信にも絶大な信頼を与えていた宗滴の死は
まさに朝倉家滅亡へのきっかけとなってしまったことはまた別の話。

1.4.朝倉宗滴にまつわる逸話

宗滴の逸話といえば、やはり死に際の話が有名でしょうか。
朝倉宗滴はうつけと呼ばれ、まだ尾張統一に四苦八苦中の
織田信長の才能を見抜いていたと言われています。
当時のうつけの信長を認めていたのは、父である織田信秀、義父の斎藤道三
そしてこの朝倉宗滴ぐらいだったのでは
宗滴が死に際に
『死んでも悔いはないけれど
あと3年は生きて織田上総介(信長のこと)の行く末を見たかった』
と言い残したと伝わっています。
直接会ったことがあるのかどうかわかりませんが、
名将は人を見る目も優れていたんでしょうか。

それから、宗滴は鷹の人工繁殖をおこなっていたと言われています。
庭で卵から育てていたそうですが、この養鷹法は戦国武将の中でも特異な例だとか。

2.「麒麟がくる」と信長の野望シリーズでの朝倉宗滴

1555年に宗滴は亡くなってしまいますから、
明智光秀の朝倉家臣時代とは被ることがなかったでしょう。
宗滴の死に際の言葉のとおり、あと3年長く生きていたら
明智光秀という後に天下を揺るがす大事件を起こす人物と出会っていたかもです。
その際に宗滴が明智光秀をどう評価したのかは気になるところ。
というわけで、宗滴は「麒麟がくる」には出てこないでしょう。
ちょうど明智光秀とは時代が入れ替わっている感じなので仕方ありません。
斎藤道三が美濃から追い出す土岐家と朝倉家はわりと関係性が深いんですけどね。
その辺は以前紹介した土岐頼芸の記事を読んでもらうと少しわかるかもです。

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そして信長の野望シリーズでの戦国群雄伝以外すべて登場しています。
常に政務から軍事まで有能な武将として評価されています。
特に最近のシリーズだと軍事面での評価が若干高めです。
信長の野望・創造 戦国立志伝での評価値がこちら。

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一介の武将にしておくのは惜しいぐらいの能力値です。
朝倉宗滴プレイで下剋上を起こし、天下統一を狙う遊び方がやはり楽しそう
ただし、織田信長たちが活躍した時代の一世代前の人物なので
1534年から始まるシナリオとかでやらないと
すぐに死んでしまうのでプレイする際には気を付けましょう(笑)

3.まとめ

今回は朝倉家の力は天下に知らしめたといっても過言ではない
朝倉家の名参謀・朝倉宗滴でした。
政務も軍務も宗滴が中心となっておこなっていたそうですが、
茶の湯にも通じてい茶器の中でも名器の九十九髪茄子(つくもかみなす)
所持していたことでも有名です。
後にこの名器は織田信長の下に渡ります。
本能寺の変で焼けて本来の輝きを失ってしまったらしいんですが
宗滴が所持していた茶器が将来を気にしていた信長の手に渡ったのは
ちょっと感慨深いものがあります。

では今回はこの辺で。
ここまで読んでいただきありがとうございました!