歴史人物語り#59 裏切りを重ねて最後に仕えた先は織田家だったが褒美の不満漏らしたら信長に誅殺された堀江景忠

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今回は朝倉家に謀反を起こした堀江景忠(ほりえかげただ)
お父さんは蛇の子です(笑)
明智光秀と絡みのある逸話は全くありませんが
麒麟がくる」では登場する方向で妄想しています(笑)

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では今回のお品書きはこちらです。

また過去に紹介した「麒麟がくる」にちなんだ武将たち
以下の一覧記事にまとめてあります。

tsukumogatari.hatenablog.com

tsukumogatari.hatenablog.com

その他今までに紹介済みの戦国武将たちはこちから確認できます。

tsukumogatari.hatenablog.com

まだ読んでいない武将の記事がありましたら是非チェックしてみてくださいね。

1.堀江景忠(ほりえかげただ)とは

通称左衛門三郎
生年は不明。父は堀江景用(ほりえかげもち)です。
父の景用は大蛇の子の伝承がある人です。

景用の父、つまり景忠の祖父・堀江景経(ほりえかげつね)は笛の名人でした。
ある夜、景経が笛を吹いていると
その笛の音に誘われるように女性が現れます。
景経はこの女性と結婚するのですが、
実はこの女性は大蛇で、出産の際に絶対覗いちゃダメって頼んでいたのに
景経が覗いたために産み落とした子供を残して姿を消してしまった。
その子が景用だと言うのです。
こんな由来もあって、堀江家の家紋は「蛇の目」になったのだとか。

つまり、景忠は蛇のクォーターってことに(笑)
ちなみに蛇っていうとどんなイメージがあるでしょうか。
最近だとペットで飼ってる人も多い印象がありますが
蛇は元々世界的に信仰の対象となっていることが多い生物です。
日本だと八岐大蛇(やまたのおろちが有名ですよね。
八岐大蛇の場合は山の神であり水の神
それから七福神の弁天様も蛇の化身とされてることもあります。
その他にも蛇を豊穣の神や地母神として祀られたり、
蛇は日本人にとっても古くから崇める対象だったわけで
自分の祖先が実は蛇神だったんだ、なんていうと
ちょっと周りから畏敬の眼差しを送られたりしたのかもしれません。
それから、蛇ってまぶたがないから目を閉じられなくて
寝ている時もずーっと眼を開いています。
そこから太陽信仰における原始的な信仰対象ともなってたりするそうですが
常に目を見開いていて相手の隙を見逃さない、隙を与えさせない
そういう含みも持たせて、堀江家の家紋を「蛇の目」にしたのかな
なんていう邪推もしちゃったり。

だいぶ話が逸れましたが(笑)
堀江景用の子として生まれた景忠は朝倉義景の家臣として仕えていました。
堀江氏は蛇の力もあってか(笑)、坂井郡河口荘堀江郷の有力国人
一乗谷にも屋敷を持っていたり、坂井郡三国湊の舟奉行も任されるなど
重用されていたそうです。
景忠も朝倉家臣として1555年の加賀一向一揆攻めに従軍して戦功を挙げています。
1555年の加賀一向一揆攻めといえば、朝倉軍総大将の朝倉宗滴にとって
最後の出征となった戦いだったことは以前の記事で紹介しました。

tsukumogatari.hatenablog.com

景忠が宗滴とどれぐらい絡みがあったかはわかりませんが
朝倉随一の名臣である宗滴の指揮下で戦う経験は
後々の戦いにも活かせるものだったかもしれませんね。

1555年に宗滴が陣を離れた後に亡くなってしまうと
加賀の一向一揆勢に越前侵攻を許してしまうなど
あまり一向一揆攻めでの成果を出せずにいました。
1564年には加賀の一向一揆鎮圧に向けて朝倉義景自身が総大将となって
一時的な成功は収めるんですが、
それでも完全に一揆勢を鎮圧することはできず
翌年もさらにその翌年も、一向一揆勢との戦いは続きます。
ちなみに1564年に義景が朝倉当主としては珍しく総大将となった理由
一門内の不和から生じた朝倉景垙自害事件の混乱を収めるためだったのですが、
その辺の詳しい話は朝倉景鏡や朝倉景垙の記事を読んでみてくださいね。

tsukumogatari.hatenablog.com

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このなかなか終わらない一揆勢との戦いが原因で
当主・義景に対する不満が蓄積していったのか
あるいは1564年に起きた朝倉一門内の対立から
朝倉家の行く末に疑問を思ったのか
景忠は息子の利茂(とししげ、後に景実)と共に
一向一揆勢と通じた上で、謀反の計画を企てるのです。
1567年3月に堀江景忠・利実父子の謀叛が噂になると
同年3月12日に、一向一揆勢は加賀から越前へ押し寄せて激戦となります。
一方で、堀江景忠の館は3月18日に山崎吉家と魚住景個の軍勢による攻勢を受けます。
しかし景忠・利実父子はよく防戦し、なかなか勝敗がつきません。
朝倉宗滴の下での戦経験も役に立ったのかもしれませんが、
景忠はなかなか戦上手だったのでしょう。
最終的には、景忠・利実父子が能登へ亡命することによって
堀江氏謀叛を発端とした混乱は収められました。

能登へ亡命した景忠は後に「幸岩斎藤秀」と改名します。
そして朝倉家が織田信長によって滅亡させられると越前に戻るんですが
景忠が戻ってきた頃は、
富田長繁(とだながしげ)率いる一向一揆勢によって
越前は支配されていました。
そういう事情もあって、
景忠は一向一揆側について杉津砦の守将を任されます。
ところが景忠は一揆勢を裏切って織田家に寝返ったばかりか
そのまま一揆勢を壊滅させてしまいます。
織田信長はこの景忠の戦功を賞賛して、
子の利茂に加賀大聖寺の所領を与えるんですが
景忠はその恩賞に不満をもっていたようです。
その不満の噂が信長の耳に入ったことにより
1576年4月に誅殺されたと言われています。

2.「麒麟がくる」と信長の野望シリーズでの堀江景忠

明智光秀朝倉家に10年ほど仕官していたという話があります。
光秀が信長の家臣となるのが、
信長が足利義昭を保護して上洛する頃で
それが1568年です。
この頃がちょうど堀江景忠の謀叛企て事件があった頃なので
光秀が朝倉家臣として仕えていた時期は
ちょうど堀江景忠が朝倉家臣として重用され
一揆勢との戦いに明け暮れていた時期と重なります
なので光秀との絡みあるシーンなんかが描かれる可能性は高いかもです。
一緒に一揆勢との戦いに赴くシーンだったり
軍議をするようなシーンだったりがあるかもしれませんね。
意気投合した堀江景忠が明智光秀に謀反を一緒に起こそう
みたいな話を持ちかえてきたりもするかも!?

そして信長の野望シリーズでは堀江景忠は出たり出なかったりしているものの
創造、創造 戦国立志伝、大志では連続して登場しているので
今後は常連武将になりそうな気がします。
創造以降での能力値の評価は、武勇が50と平凡ですが
それ以外は60超えのそこそこ使える武将といった感じです。
朝倉義景の代の家臣としては有能な武将の一人です。
ただ、裏切りやすい(笑)
昔の嵐世紀あたりだと、どれも50下回る評価ですが
館を攻められても守り切ったことや、
一揆勢から寝返ってからの一揆勢壊滅っていう辺りが
高評価になったのかもしれません。
信長の野望・創造 戦国立志伝での評価値はこちらになります。

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わりとカッコいい顔グラです(笑)
個人的には、前述のとおり裏切ってくれやすいので
序盤家臣にするために調略をしかける対象の一人です。
内政でも使えるし、戦の面でも別動隊の部隊の大将として使えますしね。
あと、ちなみに息子の利茂の方は登場しません。
過去にもちゃんと調べてないけど(笑)、登場していないと思われます。

3.まとめ

今回は朝倉氏第11代当主・朝倉義景の代に
一番最初に内乱を引き起こしたとも言える堀江景忠でした。
第10代当主の朝倉孝景の時代には朝倉宗滴という名将もいたこともあって
越前国内も平和で京文化に華やぐような栄華を誇っていましたが
孝景が亡くなり、宗滴も亡くなると
一門同士の争いが目立つようになったり、
堀江景忠のように謀叛を起こそうとする者が出て来たり
少しずつ国内は乱れていきました。
宗滴が自身の後継者的存在になる人物を育てることが出来ていたなら
堀江景忠もひょっとしたら謀叛を企てたりしなかったかも。
どうしても宗滴の偉大さばかりが目立ってしまうのが
朝倉氏にとっては不幸なこと
だなぁって改めて思います。

では今回はこの辺で。
ここまで読んでいただきありがとうございました!