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歴史人物語り#78 京極高吉の代で勢力を失ったけど息子の京極高次・京極高知の頑張りで国持大名に再び返り咲いた京極氏

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今回は一時は6か国を収めるほどの勢力を持っていた京極氏の末裔、
京極高吉(きょうごくたかよし)とその二人の子、
京極高次(きょうごくたかつぐ)
京極高知(きょうごくたかとも)です。
京極高吉と高次は「麒麟がくる」に登場するかもしれません。

www6.nhk.or.jp

では今回のお品書きはこちらです。

ちなみに紹介済みの「麒麟がくる」にちなんだ武将たち
以下の一覧記事にまとめてあります。

tsukumogatari.hatenablog.com

tsukumogatari.hatenablog.com

その他今までに紹介済みの戦国武将たちはこちから確認できます。

tsukumogatari.hatenablog.com

まだ読んでいない武将の記事がありましたら是非チェックしてみてくださいね。

1.京極高吉(きょうごくたかよし)とは

1504年生まれ。父は京極高清(きょうごくたかきよ)
奥さんは浅井久政の娘でキリシタンでも有名な京極マリアです。
京極マリア浅井長政のお姉さんでもあります。

京極氏はかつては近江・飛騨・出雲・若狭・上総・摂津の
6か国の守護を務めるほどの勢力を持っていた名門。
高吉の祖父・持清の代においても飛騨・出雲・隠岐・北近江、4か国の守護でしたが
高吉の父・乙童子丸(後の高清)と
その兄である孫童子丸(まごどうじまる)との間で
家中を2分する家督相続争い(京極騒乱)が起こり
内輪揉めをしている際中に出雲と隠岐尼子経久(あまごつねひさ)に奪われ
飛騨は国司であった姉小路済継(あねがこうじなりつぐ)と
飛騨の国人・三木直頼(みつきなおより)に支配されてしまい、
北近江1国のみにまで衰退してしまいます。
高吉の父・高清が結果的には家督相続争いを収めるんですが
京極氏の勢力を削ぐことになった内乱を
再び起こすことになります。

1.1.兄との家督相続争い

高吉は次男で、兄の高延が嫡男です。
この二人の兄弟は仲が良くなかったそうです。
さらに、父・高清は次男の高吉の方を可愛がり
高吉に家督を継がせようとします。
その結果、京極家中は再び家督争いで揉めることになります。
何故懲りないんでしょう(笑)
内乱で家中が衰退していく様を直に感じているはずなのに。

この家督争いは、弟・高吉に継がせようとした父・高清に対して反発した
近江の国人衆の浅見貞則(あさみさだのり)浅井亮政(あざいすけまさ)
そして堀元積(ほりもとつむ)らが嫡男・高延を擁立した結果、
高延側の勝利となり、高吉は父・高清と共に尾張に追放されてしまいます。

追放されてからも高吉は北近江での復権を目指して
南近江の六角氏に支援してもらって高延および浅井亮政と争います。
しかし兄の高延が浅井亮政と対立して追放されると、
その代わりに父・高清と共に
浅井亮政の居城・小谷城に招かれて饗応を受け和解します。
これによって領主としての地位を取り戻すのですが・・・

実態は浅井亮政の傀儡であり、
北近江の実権は既に浅井氏に奪われていました。
兄・高延が浅井亮政と対立した時点で京極氏の権威失墜は
確定的なものになっていたのでしょう。

1.2.北近江での復権を目指すが・・・

高吉は傀儡化領主であることを嫌ったのでしょうね。
その後北近江を離れて、
一時は第13代室町幕府将軍・足利義輝(あしかがよしてる)の近臣として仕えます。

tsukumogatari.hatenablog.com

しかし再び近江奪還を夢見て
1560年に六角氏と手を結んで浅井賢政(後の浅井長政)に対して挙兵をするんですが
逆に浅井長政野良田の戦いで六角氏を破ったことで
多くの近江国人衆が浅井氏に鞍替えしてくこととなり、
高吉の近江復権の夢は露と消えてしまいます。
さらに残されていた一部の近江の支配権も完全に失うことになるのです。

1.3.足利義昭の将軍擁立と織田信長への接近

1565年足利義輝が永禄の変で暗殺されると
その後は足利義昭に付き従って、義昭の将軍擁立に尽力します。
この頃は細川藤孝明智光秀とも親交があったかもしれませんね。

tsukumogatari.hatenablog.com

足利義昭はその後、織田信長の援助によって
見事第15代将軍の座に就くことができましたが
その後、織田信長と対立するようになります。
高吉は義昭よりも信長の方に将来を見出していたようで
義昭と信長の対立を契機に近江に隠居しつつ、
子の小法師(後の高次)を信長に人質として差し出します。
※高次はそのまま信長の家臣となります。

1581年に、安土城イタリア人宣教師のグネッキ・ソルディ・オルガンティノから
妻と共にキリスト教徒としての洗礼を受けるんですが、
その数日後に亡くなってしまったそうです。
享年78歳

ちなみに娘の竜子(たつこ)は若狭守護・武田元明に嫁ぎましたが
本能寺の変の後、
武田元明が若狭全域支配をもくろんで明智光秀に味方したことから
羽柴秀吉丹羽長秀連合軍に討たれてしまいます。
その時、竜子は捕らえられてしまうのですが
後に秀吉の側室となって松の丸殿と呼ばれるようになります。

2.京極高次(きょうごくたかつぐ)とは

1563年生まれ。父は京極高吉
奥さんが浅井長政の娘の初で有名です。
妹(または姉とも)の竜子は後に秀吉の側室となった人です。

高次は父・高吉の章で述べたように
美濃に織田信長の人質として差し出されて
そのまま幼少期を過ごします。
1573年7月には槙島城攻め(足利義昭との戦い)では
信長に従って参戦していたようで
後に近江の奥島5千石を与えられています。
室町幕府下では勢力を張っていた京極氏の末裔ということで
大事に扱われていたのかもしれません。

2.1.本能寺の変後、明智光秀に加担するも身内の威光が高次を救う

1582年の6月本能寺の変で信長が明智光秀に討たれてしまうと
妹の竜子の嫁いでいた若狭の武田元明と共に光秀に味方をします。
秀吉の居城である長浜城を攻め立てますが
山崎の戦いで光秀が敗れたことによって武田元明はそのご自害。
高次自身は、美濃、若狭と逃れたのち越前の柴田勝家に匿われてたようです。
光秀に加担したことから追われる側の立場になってしまたのでしょう。

ただし前述のとおり、妹の竜子が秀吉の側室となります。
これが高次にとっては大きな転機になります。
側室となった竜子の嘆願によって高次は秀吉に許されて
秀吉に仕えることになるのです。
1584年近江高島郡2500石を宛がわれると、1586年には5千石へと加増、
さらに九州平定で功を成したことで1万石に加増。
大溝城を与えられて晴れて大名となるのです。
祖父・高清の代から急速に失墜していった京極氏ですが
孫の高次によって再び大名へと返り咲くことができました。
前述した妻・初を嫁として迎え入れたのは大名となった後の1587年です。
ちなみに、高次の母は浅井久政の娘でその弟・長政の娘が初なので
二人はいとこ同士です。

2.2.不名誉な称号・蛍大名高次

1590年には小田原征伐の功によって近江八幡山城2万8千石の知行を与えられて
1591年豊臣秀次が関白に就くと従五位下侍従に任ぜられます。
1595年には近江大津城6万石へ加増され、従四位近衛少将に。
その上、羽柴の苗字公称も許されたばかりか、豊臣姓も下賜されています。
そして1596年には従三位参議に任ぜられています。
この頃高次はたいした功をあげてないけど
妹や妻の威光で出世したと蛍大名と揶揄されていたとか。
妹も妻の姉も秀吉の側室で、
しかも二人とも秀吉に可愛がられていた側室ですからね。
事実じゃなかったとしても、そう思われても仕方ないところ。
ただ秀吉としては、近江の支配を円滑にするめるためにも
元々近江を長く支配していた京極氏を血を利用したかったようです。

2.3.関ケ原の戦いの前哨戦・大津城の戦いで西軍の行軍を阻む

豊臣秀吉が亡くなった後、石田三成の対立が深まる中
徳川家康上杉景勝討伐軍が大坂から会津へ向けて出発します。
その道中には京極高次が治める大津城があります。
家康は大津城へ立ち寄って、上杉征伐の間のことを頼み、
高次は弟の京極高知と家臣の山田大炊を家康に伴わせます。

しかし石田三成徳川家康討伐のために諸大名を誘っていて
高次自身も氏家行広や朽木元網から
西軍に属するよう求められていました。

tsukumogatari.hatenablog.com

 実は、氏家行広は高次の妹を正室としており
朽木元網の子・宣綱の正室も高次の妹なんですよね。
親戚関係にもあることから
誘いがこの二人からあったのでしょう。

家康からも東軍への参加を求められるんですが
高次は大津城の守りが弱いことから
いったん西軍に属することにします。
大坂には嫡男の熊麿(後の京極忠高)を人質として送り
大津城を訪れた三成とも面会しています。

しかし、高次は表向き西軍についているだけで心は東軍
西軍の動向を東軍に伝えていたのです。
そして高次は西軍と共に大津城を発つんですが
その後再び大津城へ戻ってしまいます。
戻ると城に兵を集め兵糧も運び込み籠城戦の構えを見せます。

つまり、大津城で籠城して西軍部隊の進軍を阻もうとしたのです。
この作戦を徳川四天王の一人である井伊直政に伝えます。

高次の行動を知った西軍の毛利元康の軍が大津攻めを開始し
そこへ秀吉にその武勇を鎮西一と褒め称えられた立花宗成の部隊も
大津城攻めへ参加し、大津城は4万とも言われる兵に囲まれます。
山田大炊や赤尾伊豆守らが夜襲をかけて戦果を得たことも有りましたが
押し寄せる大軍にはかなわず三の丸、二の丸と次々に落ちてしまいます。
高次は和平の使者が送られても一度は拒否したそうですが
家臣の黒田伊代の説得などもあって最終的には折れて降伏します。
これが関ケ原の戦いのまさに当日のことであり、
この大津城攻めで手間取っていたことによって
毛利元康と立花宗成らの軍勢は関ケ原本戦に間に合わなかったのです。
大津城を攻め立てていた4万の兵が関ケ原の戦いに間に合っていたら
西軍が1日で壊滅するような事態にはならなかったかもです。

2.4.家康に高く評価され厚遇される

この大津城の籠城戦を家康は戦後当然高く評価します。
高次は大津城を開城した際に剃髪して高野山に入っていましたが
家康は使者を送らせて高野山を下りるように伝えます。
しかし高次、これを断ります。
一度は多分断らないと気が済まないタイプなんです、きっと(笑)
その後山岡道阿弥(元は足利義昭の寵臣)
弟の高知の説得によって、ようやく下山。

高次は大坂で家康と面会し、
若狭8万5千石への加増転封を言い渡され後瀬山城に入ります。
後には小浜に入り、1601年には近江高島郡のうち7100石も加増されています。
大坂の陣の頃になると家康から小浜城の築城を命じられており
その後小浜の城下町も整備します。
大津城の戦いの功が大層気に入ったのか
家康は高次を相当信頼していたようです。

そして1609年6月4日47歳で亡くなります。
家督は嫡男の忠高が後を継ぎました。


3.京極高知(きょうごくたかとも)とは

1563年生まれ。父は京極高吉
兄が京極高次。妹には秀吉の側室となった竜子がいます。
正室は、津田信澄の娘ですが、
後に死別なのか離別なのか
継室として毛利秀頼の娘をもらっています。
津田信澄といえば、明智光秀の娘を正室に迎えていて、
そのため本能寺の変が起きた後、
光秀に加勢する動きも見せていないのに
謀叛人の共犯であるというデマが流れて
信長の息子・信孝に討たれてしまった可哀そうな武将です。

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高知は早くから秀吉家臣として仕えており
その功から羽柴姓を許されて羽柴伊那侍従と称していました。
1593年に養父である毛利秀頼が亡くなると
その遺領を譲り受けて信濃飯田6万石の城主となり、
従四位下侍従に任ぜられています。
※なぜか毛利秀頼の実子・秀秋よりも多くの遺領を受け継いでいます。
京極家といえばキリシタンのイメージが強いわけですが
高知も、領内にキリスト教の布教を許可していて
その後に高知自身もキリシタンなっています。
1594年には10万石に加増されています。

秀吉が亡くなった後は、兄・高次同様に徳川家康に接近。
1600年の岐阜城攻め、関ヶ原の戦いにおいて戦功をあげた結果
戦後は丹後12万3千石を与えられます。
兄・高次が若狭1国を与えられたのと同様に
弟の高知も丹後の1国を与えられたんですね。
兄弟隣同士の国っていうのもちょっと面白い。

高知は国持大名となってからは京極丹後守と称しています。
没年は1622年享年51歳でした。

4.「麒麟がくる」と信長恩野望シリーズでの京極氏

メインキャストにはならずとも
明智光秀と絡む機会がありそうな京極高吉
足利義昭に仕えていた頃に光秀と出くわすかもしれません。
また、後に高吉の息子の高次も本能寺の変
明智光秀側についていますから
山崎の戦いに参戦しているわけではないにしても
登場機会はありそうです。
弟の方の高知は1582年でまだ10歳ぐらいですから
こちらはちょっと無理でしょうね。
明智光秀と長く関わりのあるような人物だと
幼少の頃も出て来たりとかってありそうですが、
そこまでの関係ではないですかね。

そして信長の野望シリーズでは3人とも
割と古くから登場しています。
登場していますが、能力値は平凡
父の高吉が一番能力的には劣っています。
高次は大津城の籠城戦で頑張ったのに
結局負けちゃったからなのか、あんまり評価されてません。
ちょっとだけ知略は高めなんですけどね。
信長の野望・創造 戦国立志伝での3人の評価値はこんな感じになってます。

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ん~特に言うことはなし(笑)
しいて言うなら高次と高知の統率は
60ぐらいでもいいんじゃないかなと思いますね。
父の高吉の方は今のままでもいい気がします、なんとなく。

5.まとめ

今回は一度は没落してしまったけど
その後の子孫の活躍によって大名に返り咲いた京極氏の
京極高吉京極高次京極高知の親子3人でした。

高次の大津城の戦いは負けたとはいえ
それまで蛍大名って揶揄されてたのを
覆すような働きぶりです。
自身も応戦して槍傷を負っていたそうですし
降伏には簡単には応じないし
戦う武将の気概を見せてくれています。
秀吉が厚遇したのも
かつての近江の太守・京極氏っていうだけじゃなくて
やっぱり才能も認めていたのかもしれませんよね。

では今回はこの辺で。
ちょっといつもより長編になってしまいましたが
ここまで読んでいただきありがとうございました!