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歴史人物語り#79 蒲生宗家を力で奪い取る強引さはあっても滅亡までは六角氏に忠義を尽くした蒲生定秀、孫の蒲生氏郷は隔世遺伝!?

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歴史人物語り第79回目は
南近江の戦国大名六角氏の重鎮、
蒲生定秀(がもうさだひで)です。
麒麟がくる」には登場するかは微妙なところ。
嫡男の蒲生賢秀は登場しそうなんですけどね。

www6.nhk.or.jp

では今回のお品書きはこちらです。

ちなみに紹介済みの「麒麟がくる」にちなんだ武将たち
以下の一覧記事にまとめてあります。

tsukumogatari.hatenablog.com

tsukumogatari.hatenablog.com

その他今までに紹介済みの戦国武将たちはこちから確認できます。

tsukumogatari.hatenablog.com

まだ読んでいない武将の記事がありましたら是非チェックしてみてくださいね。


1.蒲生定秀(がもうさだひで)とは

通称藤十郎
1508年生まれ蒲生高郷(がもうたかさと)の嫡男です。
孫の蒲生氏郷(がもううじさと)が信長や秀吉といった天下人に
その才を愛された(秀吉は怖れた?w)武将として有名です。
氏郷の祖父・定秀は、六角氏の重臣として
特に六角定頼の代に功を上げた六角家中でも重鎮中の重鎮です。
そして実は、元は蒲生氏の宗家ではありませんでした。
力ずくで家督を奪い取っているのです。
これがおそらく原因で信長の野望シリーズでは
蒲生定秀の忠誠が低めなんだと思います(笑)

1.1.主君と仲良くして宗家を追い出し奪い取る

蒲生氏宗家は、定秀の代だと従兄弟の蒲生秀紀(がもうひでのり)
宗家を継いでいました。
※ちなみに蒲生秀紀の父は蒲生秀行といって蒲生氏郷の嫡男と同名だったりします。
しかし、父の高郷自身が兄・秀行が亡くなった後に
宗家の家督を継ぎたかったものの
祖父の意向で後継者に指名されなかったり
その後の所領の配分などで不満を持っていたり、
宗家との間には溝が出来ていたのです。
また宗家・秀紀は幕府寄りのポジションをとっていましたが、
定秀は父と共に六角定頼との関係を密にして
六角家中での地位を固める努力をしていきます。
その甲斐あって、定秀の「定」は定頼からの一字であり、
六角家中でも有力な重臣である馬淵氏から正室を迎えたりしているのです。
そして1522年、遂には定頼の支援を受けて高郷・定秀親子は挙兵し
宗家である蒲生秀紀の居城・音羽城を攻め立てます
秀紀も簡単には屈せず、
8カ月に渡って籠城して蒲生高郷・定秀勢の攻勢を凌ぎます。
しかし後詰の当てもなかったため遂には力尽きて降伏し、
六角定頼の仲裁で高郷・定秀親子と宗家の秀紀の間に和議が結ばれます。
ただしこの和議は、そもそも六角定頼が高郷・定秀の味方だったこともあり
明らかに宗家・秀紀にとって条件の悪いものでした。
何しろ宗家の家督は定秀に譲られることになりましたし
音羽城からも退去させられていますからね。
※しかもこの時音羽城は廃城させられています。
秀紀はこの後、鎌掛城へ移動するのですが
1525年に刺客を送り毒を盛って秀紀を暗殺したと言います。
これによって秀紀の持っていた所領は全て定秀のものとなるのです。
蒲生氏が後々嫡男が相次いで早世してしまうのって
高郷・定秀のやったことによる因果応報だったりしないかな
なんて素人目には思っちゃったりも。

1.2.日野城を拠点として六角氏重鎮として活躍

秀紀から宗家の家督も所領も奪った定秀は
その後日野城を築いて、そこを拠点とし、
六角氏の関わる戦で数多くの戦功を上げていきます。
1531年の蓑浦の戦いでは北近江で勢力を増してきた
浅井亮政と戦いますが、29もの首級を挙げる活躍を見せます。
1539年には六角定頼に従って上洛し、
1549年には日本の副王を呼ばれた三好長慶(みよしながよし)とも
摂津で一戦を交えています。
1552年には六角定頼が亡くなってしまうのですが
後を継いだ六角義賢にもよく仕え、
伊勢攻略を任されるなど変わらず信任を得ていたようです。

そして1558年には出家して快幹軒宗智と号しますが
その後も1559年には浅井久政の支配する佐和山城
1562年には種村三河守が守る八仏手城を攻めるなど
積極的に戦線にも参加する一方で、
次男の茂綱(しげつな)を青地氏、三男の実隆(さねたか)を小倉氏の養子に入れ、
娘二人を伊勢の関盛信や神戸具盛に嫁がせるなど
婚姻政策によって独自の勢力を築きあげていきます。

また軍事面や外交面のみならず内政面でも優れた手腕を発揮しており、
定頼の頃には城下町の形勢や商業対策などを任されていました。
六角定頼といえば先進的手法で内政でとりわけ手腕を発揮した人で
織田信長が施策したことで有名な楽市楽座創始者って言われています。
日野碗の製造も定秀が日野城下町の町割りをした際に
木地師塗師を住まわせたことによって始まったと言われています。
また鉄砲にも早くから目を付けていたそうで鉄砲職人も城下に招いているんです。
六角定頼が任せるだけあって旧態依然とした政策に固執するようなタイプではなく
先鋭的なものにもしっかりと目を向けていくタイプだったんでしょうね。

1.3.観音寺騒動では主君と家臣の調停役で尽力する

1563年、六角氏の重臣後藤賢豊(ごとうかたとよ)子の壱岐
六角氏の居城である観音寺城内で暗殺される事件(観音寺騒動)が起きます。
これは六角義賢の後を継いだ六角義治が種村三河守と建部日向守に命じて
おこなわせたものなのです。
後藤賢豊は進藤貞治と並び「六角氏の両藤」と呼ばれるほどの宿老であり
六角氏の代理人として政務を遂行する権限を有するほどの力も持っていました。
この後藤賢豊の権力を奪い取るために、六角義治がおこなったのでは
とも言われています。

この観音寺騒動は六角氏家臣に大きな衝撃を与えます。
後藤賢豊は六角定頼の頃からの功臣であり人望も厚い人でした。
既に隠居していた義賢からの信任も厚かったのです。
そんな重臣が主君によって殺されてしまったのですから
他の家臣たちに動揺が見えるのも当たり前な話ですよね。
しかも、近年の六角氏といえば三好長慶との権力争いに敗れた上、
1560年には野良田の戦い浅井長政にも敗れてしまい、
味方についてた国人衆たちからも見放され始めていた時期です。
この事件のこともあり、勢力も失いかけている六角氏に対して
不信感を募らせた家臣たちは、
六角義賢・義治親子を観音寺城から追い出してしまうのです。
※主君が居城から追い出されるといえば
竹中半兵衛稲葉山城を乗っ取られて追い出された斎藤龍興が思い浮かびますねw

追い出された六角親子を匿ったのは蒲生定秀でした。
ただ匿っただけではなく、事態の収拾にも努めていて
最終的には義賢・義治親子を観音寺城へ復帰させています。

こうして見てみると
蒲生定秀は軍事も内政も、他者との調整役もなんでもこなして優秀だし
なんだかんだと六角氏から離反するようなこともせず
六角氏に忠義を尽くす真の武将といった感じです。
後に90万石の大大名にまで出世する孫の氏郷は
隔世遺伝なのかもしれませんね!

1.4.観音寺騒動以後から晩年まで

1564年に小倉宗家に養子として入って後を継いでいた
三男の小倉実隆(おぐらさねたか)
小倉氏の庶流である小倉西家との抗争の家中で討死します。
小倉宗家は、蒲生定秀が伊勢攻略の陣代を務める以前に
陣代を務めていた六角家中でも有力な国人でしたが、
庶流の小倉西家とは内紛状態が続いていたのです。
息子がやられて黙っている定秀ではありません。
きっちり小倉西家に報告をおこないます。
小倉西家の拠点である山上城および八尾城を攻撃して
小倉西家を滅ぼし、その所領も奪ってしまいました。
結果、蒲生氏の勢力を拡大することになったとはいえ
大事な息子を失った心中を察します。

また、この頃には六角氏とは主従関係ではあっても
勢力が完全に逆転していたようです。
1567年に制定された六角氏式目(ろっかくししきもく)では
定秀ほか有力家臣たちが起草したものを六角義賢・義治親子が承認しているのですが
この内容、大名の権力を制限するものだったそうです。
六角氏の権威失墜を物語る式目といってもいいんでしょうね。

それと、観音寺騒動で居城を追われた六角義賢
貧困にあえいで定秀にお金の工面もしてもらったそうですが
その時に定秀は工面したお金はちゃんと返すように約束を取り交わしていたとか。
主君であってもタダではあげないのは
タダより高いものは無いから、ということでしょうか(笑)

ともあれ、勢力の衰退した六角氏は織田信長の上洛軍によって滅亡してしまいます。
蒲生定秀はの六角氏滅亡後、織田信長に仕えるんですが
実は蒲生氏は簡単に織田信長に降ったわけではないんですよね。
もしかするとそういう部分も織田信長に好感を持たれたのかもしれませんが
その辺の話は歴史人物語り#80の定秀の息子・蒲生賢秀の記事で。

信長に仕えて以降は、おそらく息子の賢秀に完全に任せていたのか
特に事績は伝えられていません。
そして1579年4月22日、享年72歳で亡くなっています。

2.「麒麟がくる」と信長の野望シリーズでの蒲生定秀

蒲生定秀が「麒麟がくる」で登場するとしたら
信長の上洛戦なのでしょう。
蒲生氏は六角氏が観音寺城の戦いで敗れた後も
日野城で籠城して徹底抗戦する構えを見せていましたからね。
ただこの頃家を仕切っていたのは嫡男の賢秀のようなので
定秀自身が出てくるかどうかは微妙なところ。
賢秀は本能寺の変の頃にもちょっとした活躍があったりするので
上洛戦以外でも登場機会はありそうなんですけどね。

そして信長の野望シリーズにおける蒲生定秀
武将風雲録以外すべて登場する常連武将です。
シリーズ通して、その能力は全てが平均以上で
ちょっと有能な家臣っていう位置づけなんですが
私個人としては、こういう武将が育て外があって好きです。
ダメすぎず良すぎずなので、成長過程を楽しめるんですよね。
信長の野望・創造 戦国立志伝での評価値はこちらです。

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顔グラもちょっと威厳を感じる好きな系統の顔です(笑)
能力は前述したとおり、良すぎず悪すぎず。
戦国立志伝では城主スタートしか選べない武将ではありますが
六角氏の傘下で力を蓄えながら謀叛を起こして
大名として自立するっていう遊びを
戦国立志伝購入した初期の頃にやってました(笑)
残念なのことに子供たちはあんまり優秀じゃないんですよね。
優秀じゃないっていうとなんか語弊がありますね(笑)
ゲーム内で設定されている能力値が高くありません、
と言い換えておきます(笑)
孫は超優秀なんですけどね。
まぁ定秀の子供立ちの紹介は次回に持ち越しということで。

3.まとめ

今回は六角定頼の片腕といっても過言ではない蒲生定秀でした。
六角氏が衰退していく中でも裏切ることなく
居城を追われた主君たちを匿うといった
忠義の士の面も感じられる人です。
でもお金には煩かったのか
タダでは貸してくれなかったようですが(笑)

とはいえ、タダより高いものはないって言いますし。
タダで貸すような人の中には後々、
『あの時お金にも困っていたあんたを助けてあげたのはだれだっけー?』
って恩着せがましいことを言いながら
脅すような人もいるかもしれませんしね(笑)
※ちなみにお金を借りたこともないのでこういうこと言う人に出会ったことはありませんw
※お金の貸し借りだけは身内であってもしたくありませんw

そう考えると、
主君に下手に恩義を感じさせないための配慮だったのかも
と、ちょっといい方に解釈してみたり。
それから、蒲生宗家を力で奪い取るみたいな言い方しましたけど
実際宗家を継承したがっていたのは定秀の父・高郷の方なので
元服したばかりの年頃の定秀が
そこまで宗家継承に執着していたかどうかは
ちょっと微妙なところです。
父の我儘に付き合っていただけかもしれません(笑)
それになんだかんだと滅亡するまでは
六角氏の家臣として尽くしていましたし
立派な人格者だったという結論で終わらすのがいい気がします。

では今回はこの辺で。
ここまで読んでいただきありがとうございました!