歴史人物語り#80 南近江の六角氏を支えた蒲生定秀の3人の息子、蒲生賢秀、青地茂綱、小倉実隆は名将・蒲生氏郷の影に隠れがち

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歴史人物語り第80回目は

第79回で登場した蒲生定秀(がもうさだひで)の子供たち。

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嫡男の蒲生賢秀(がもうかたひで)

次男の青地茂綱(あおちしげつな

そして三男の小倉実隆(おぐらさねたか)です。

麒麟がくる」で登場機会があるとすれば蒲生賢秀と青地茂綱でしょう。

三男は残念ながら蒲生氏の大河ドラマが決まるまで待ってください(笑)

www6.nhk.or.jp

では今回のお品書きはこちらです。

ちなみに紹介済みの「麒麟がくる」にちなんだ武将たち

以下の一覧記事にまとめてあります。

tsukumogatari.hatenablog.com

tsukumogatari.hatenablog.com

その他今までに紹介済みの戦国武将たちはこちから確認できます。

tsukumogatari.hatenablog.com

まだ読んでいない武将の記事がありましたら是非チェックしてみてくださいね。

1.蒲生賢秀(がもうかたひで)とは

1534年生まれ蒲生定秀の長男

賢秀の「賢」は主君・六角義賢からの偏諱

父・蒲生定秀と共に主君・六角氏を支えます。
六角義治が功臣二人を誅殺した観音寺騒動によって
家臣たちからの信任を失い、
六角義賢と共に観音寺城から追放された際も2人を匿って、
父・定秀と共に騒動の収拾にも努めています。
1567年に六角氏の有力な家臣たちの起草により
制定された『六角氏式目』にも父・定秀と共に連署しています。

主君・六角氏が勢力を衰退していく中でも
賢秀は父・定秀と共に
最後まで主君を裏切るようなことはしませんでした。
1568年には観音寺城の戦い織田信長軍の
柴田勝家(しばたかついえ)蜂谷頼隆(はちやよりたか)らの
攻撃を防ぐ働きを見せるものの、
六角氏は信長の前に敗北し滅亡してしまいます。
しかし主家が滅亡してもなお
賢秀は織田軍に屈することなく
1000人ほどの兵力で日野城に立て籠もり、
徹底抗戦の構えを見せるのです。
この辺は武士としての意地なのか、独立意識の強さからなのか。

しかし織田家臣であり賢秀の妹の夫、神戸具盛(かんべのりもり)
日野城に乗り込んで説得すると、それに応じて降伏し
嫡男の氏郷(この時は幼名の鶴千代ですが便宜上氏郷でw)を
織田家に人質として差し出します。

※ちなみに神戸具盛は信長の三男・信孝を養子として迎えていましたが
信孝を冷遇したために信長から勘気を蒙り
後に幽閉されて家督を信孝に奪われてしまいます。
またその幽閉先は妻の兄である日野城の城主・蒲生賢秀の元でした。

降伏してからは信長の臣として柴田勝家の与力となります。
足利義昭織田信長の関係が悪化して
信長包囲網が敷かれた際には、
六角氏から包囲網に入るように誘われますが、
これを断っており
1573年には旧主・六角義治も籠城していた
鯰江城(なまずえじょう)攻めに加わっています。

また、賢秀は息子の氏郷と共に信長に大層気に入られます。
特に早くから氏郷の器量を見抜いていた信長は
1569年北畠氏と戦った大河内城の戦いの後には
信長の娘(後の相応院)を氏郷に与えて娘婿として迎えています。

それに信長は合戦となると賢秀と氏郷をお供させていて
安土城ができてからは、留守居として賢秀を任せていますから
その才覚を親子共々認めていたのでしょう。
どうしても氏郷への寵愛がクローズアップされてしまいますが
父の賢秀も信長にとってはお気に入りの武将だったんです。

また柴田勝家が北陸に移封しても一緒に随伴せず
近江に残って独立した軍団を作っているんです。
これもしも柴田勝家と共に北陸の地に赴いていたら
本能寺の変後の賢秀の活躍もなかったなぁと思ったりして感慨深いです。

そして1582年にその本能寺の変が発生します。
皆さん良くご存知、明智光秀が主君・織田信長を裏切って討ち取った一大事件
この時、賢秀は安土城で二の丸の守備についていました。
しかし信長の死の報告がもたらされると
日野城にいた氏郷(この時の名乗りは賦秀なんですが便宜上w)を呼び寄せて
安土城にいた信長の御台所たちを日野城に避難させて立て籠もります。

この脱出をする際には、信長の女房衆から安土城を焼き払って場内の宝物を
持ち出すように言われたそうですが、

「神仏の加護から見放されてしまう」
「宝物をとるとは欲にふけっていると批判される」

と言ってそのまま退城しています。
こういった考え方や判断の仕方が
信長お気に入りの理由の一つなのかもと思ったりも。
ちなみにこの安土城からの脱出については
後に徳川家康も労をねぎらったそうです。

さて、日野城に戻って立て籠った賢秀の元には
明智光秀から味方になるように要請が届きます。
この時光秀からは味方についたら近江半国をやるとまで
言われてたらしいんですけど、
信長の恩義を忘れられないといって
賢秀は首を縦に振ることはなかったそうです。

この光秀の破格の条件をも蹴った律義さから
賢秀は「日野の頑愚殿」と言われたそうです。

その一方で安土城を焼き払わずに宝物も残したまま退去したことを
臆病者とか小心者とか評されることもあったとか。
評価は良し悪しいずれもあるものでしょうけど
この時賢秀が一番最優先したのは、
信長の御台所たちの命だったっていうだけなんだと思います。
今最も重要な成すべきことは何か、その上での最善策は何か
っていう冷静な判断の元の脱出劇であり
決して臆病だったわけではないと思うんですよね。
個人的には一緒に仕事をしてみたいなぁと思える人物です。

明智光秀蒲生賢秀を始めとして
おもったほど畿内での勢力を固められずに
羽柴秀吉に敗れてしまいますが、
光秀の誘いを断った賢秀は1582年、
本能寺の変から数か月後にに家督を氏郷に譲っています。
そしてその2年後の1584年5月26日に享年51歳で亡くなりました

2.青地茂綱(あおちしげつな)とは

生年は不明。蒲生定秀の次男
蒲生定秀は息子や娘を他家へ養子に出したり
嫁がせることによって勢力の安定を図っていましたが、
その一環として茂綱も青地長綱の元へ養子に出されています。
青地氏は、母の家である馬淵氏の一族でした。

茂綱は父や兄同様に六角氏に属して1500騎を超える兵を指揮していたそうです。
また『六角氏式目』にも連署した20名の中に含まれているので
父・定秀、兄・賢秀同様に六角家中でも
有力な武将の一人としての地位を得ていたことは間違いありません。
織田信長の上洛戦によって六角氏が敗れると、
そのまま織田信長に降伏して家臣となります。 

以後は、兄・賢秀と共に織田軍の武将として
伊勢北畠氏の攻略戦などに参加しています。

そして1570年金ヶ崎の戦いから織田信長を裏切った浅井長政
朝倉氏とともに連合軍を組んで、
近江坂本に攻め込んできた際には
森可成織田信治らと共に宇佐山城の守備に就いていました。
この時の浅井・朝倉連合軍は約3万
浅井・朝倉連合軍の兵が迫っていることを知ると
森可成らと共に1000の兵を率いて3万の兵に立ち向かいます。
緒戦は多くの首もとり、一時的には撃退するのですが
圧倒的兵力差には敵わず敗れてしまい、
森可成織田信治が討死。
そして茂綱もこの宇佐山城の戦いで討死してしまいました。
※宇佐山城の戦いといえば守将の一人であった各務元正の奮戦も忘れてはいけませんw 

tsukumogatari.hatenablog.com浅井・朝倉勢が茂綱の首を切り落とすと、
喉から手拭いが落ちてきたそうです。
これは茂綱が口の渇きを癒すために
常時濡れた手ぬぐいを口にくわえたまま戦っていたためであり、
休む間もなく激闘を繰り広げていた様を想像できます。
この話があるために、信長の野望シリーズでは
口に手拭いっぽいものをくわえた顔グラになってたりしますね。

ちなみに家督当時10歳の元珍(もとたか)が継いでおり
所領や家臣もそのまま安堵されています。 

3.小倉実隆(おぐらさねたか)とは

生年は不明。蒲生定秀の三男です。
実隆は、南近江の国人・小倉氏の当主・小倉実光
子が無いまま亡くなったために父・定秀の意向で
養子として送り出され、家督を継ぎ佐久良城主となります。 

ただし、この小倉家はちょうど庶流家との内輪揉めが続いている際中でした。
特に庶流の小倉西家は独立意識も高く、
お互いの所領の用水の権利などを巡って
たびたび小競り合いを繰り返すなど
両家は緊張状態が続いていました。

1564年に小倉西家の山上城主である小倉右京大夫
延暦寺領山上郷の年貢を横領すると
これに激怒した六角義治
小倉宗家の実隆に小倉右京大夫の討伐を命じるのです。
実隆は、直ちに速水氏や寺倉氏など蒲生郡の諸氏を従えて討伐に出ます。
対して右京大夫の方も山田城を始めとした支城の小倉西家一門に応援を要請して対抗
小倉宗家と小倉西家の全面戦争が始まってしまいます。
宗家である実隆勢は速水勘六左衛門尉が和南城主の小倉源兵衛を討つなどの
戦果をあげるものの、後に実隆自身が討ち取られてしまうのです。

その結果、小倉宗家は小倉西家に敗北

勢いづいた小倉右京大夫は勢いに乗って勢力を拡大する中、
息子を討たれた蒲生定秀がこの戦に介入して小倉西家の領内へ侵攻します。
定秀は次々に小倉西家の支配領を抑えていき、遂には小倉西家を討伐して
小倉氏の所領は蒲生氏傘下となり
小倉氏が衰退する一方で、蒲生氏がさらに勢力を増すこととなりました。
勢力拡大につながったとはいえ、
息子が自分より先だってしまうっていうのは
親としては耐えられない悲しみがあるでしょうね。

そして、蒲生氏は定秀以降、戦死もあるとはいえ
あまり長生きをしていないのが気になります。
賢秀が51歳なのはまだマシかもしれませんが
氏郷の代からだと、氏郷が40歳、秀行が30歳、忠郷が26歳、忠知が31歳
そして忠知の代で無嗣断絶となってます。
何かに呪われてるのか取り憑かれてるのかとか思うのは考えすぎ?(笑)

4.「麒麟がくる」と信長の野望シリーズでは

麒麟がくる」では流石に三男の小倉実隆の出番はなさそうです。
蒲生氏郷が主人公の大河ドラマとかをやることにならない限り無理そうですよね(笑)
兄二人はチャンスがありそう。
賢秀は本能寺の変でも絡んできますから確実に登場しそうです。
もしかしたら本能寺の変後の伏線的に
信長の上洛戦辺りの早い段階で登場してくることもあるかもしれません。
次男の青地茂綱の方は少し厳しいかもしれませんが
志賀の陣あたりの描かれ方次第なのかなと思います。 

そして信長の野望シリーズにおいては

三男の小倉実隆は流石に登場経験ありませんが
蒲生賢秀と青地茂綱は登場しています。
特に蒲生賢秀一番初期の戦国群雄伝以外全て登場しています。
青地茂綱の方は「蒲生茂綱」として蒼天録に登場した後
創造から再び登場するようになりました。
信長の野望・創造 戦国立志伝での二人の能力評価値はこちらです。

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二人とも父・蒲生定秀や、賢秀の息子の氏郷と比べたら
凡人みたいな能力値なのです、氏郷が優秀すぎるんですが(笑)

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茂綱の方は戦死してしまったこともあって
あまり活躍した話が残っていないため仕方ないでしょう。
ちなみにシリーズ最新作の大志でも
この手拭いらしきものをくわえた顔グラです。

賢秀もちょっと物足りない数値な気がしなくもないけど
武威を誇るような話とか
特別大きな手柄をとったような政略とかの話が無いから
こんなものなのかなぁとも。

基本的に息子の氏郷に能力は吸われてしまったのでしょう(笑) 

5.まとめ

今回は蒲生定秀の3人の息子、
蒲生賢秀青地茂綱小倉実隆でした。

3人のうち2人が早くに亡くなってしまっているのが残念です。

氏郷ばかりが目立ってしまう蒲生氏ですけど
その祖父も父も叔父たちの存在もお忘れなく。
蒲生氏の礎を築いたの人達であることは
まごうことなき事実だと思うので。

そして歴史人物語りも今回で80回目を迎えて
年内には100回を超えそうです。
もちろん100回はただの通過点にしか過ぎなくて
数字的に区切りがいっていうだけの意味でしかないんですが
ここまで続けられている自分を褒めてあげつつ
変わらず訪問してモチベを与えてくれる読者の皆さんには
感謝しかありません、ありがとうございます。
今後ともご贔屓して頂けるよう頑張りたい
と改めて思った次第です。 

では今回はこの辺で。
ここまで読んでいただきありがとうございました!