歴史人物語り#84 六角六宿老の一人・目賀田綱清、その居城の場所に建てられたのが安土城、そして子孫は8代将軍・徳川吉宗の旗本にまで出世します

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今回は六角重臣の目賀田氏について。
六角六宿老に数えられる目賀田綱清(めがたつなきよ)から続いて
目賀田忠朝(めがたただとも)
目賀田貞政(めがたさだまさ)
目賀田堅綱(めがたかたつな)
目賀田堅政(めがたかたまさ)
さらにはその子孫の話まで。
織田信長明智光秀ともちょっとした関係もある氏族です。
麒麟がくる」はもしかするとワンチャンあるかもしれません。

www6.nhk.or.jpでは今回のお品書きはこちらです。

ちなみに紹介済みの麒麟がくる」にちなんだ武将たち
以下の一覧記事にまとめてあります。

tsukumogatari.hatenablog.com

tsukumogatari.hatenablog.com

その他今までに紹介済みの戦国武将たちはこちから確認できます。

tsukumogatari.hatenablog.com

まだ読んでいない武将の記事がありましたら是非チェックしてみてくださいね。

1.目賀田氏について

目賀田氏は近江守護六角氏の重臣として勢力を誇っていた一族。
鎌倉時代辺りから発祥したといわれる目賀田氏は
一時期動向が不明な時期があるものの南北朝時代辺りまでは
六角氏の被官あるいは足利氏直属の御家人としての活躍が見られます。
室町時代においては六角氏の重臣としての地位を確立していたようで
六角定頼の代においては、六家老の一人として
目賀田綱清(めがたつなきよ)が名を連ねており
近隣諸国に対してもその威を振るわせていたようです。
といっても目賀田綱清自身の具体的な事績は
記録として何か残っているわけではありません。
ただし、当時の様々な記録において
目賀田一族の名が至る所で見えるため
蒲生郡目賀田城を拠点として六角家中でも
一族として勢力を振っていたであろうことは想像できます。

この目賀田綱清の子と言われているのが
目賀田忠朝(めがたただとも)
通称次郎左衛門尉で生年没年ともに不明です。
六角定頼の代からの重臣であり
六角定頼の細川氏内乱に乗じた京都侵攻や
北近江で急成長していた浅井氏の討伐など
六角氏の一時期の隆盛を担う活躍をしていたと思われます。

六角氏は六角定頼の代においては
内政面では楽市楽座を始めとした先鋭的な手法で
商業を活性化し城下町を発展させる一方、
外交面では前述したように中央政界への介入や
他家の紛争における援軍派遣や仲介役など
積極的な外交政策でその存在感を示していました。
しかし六角義賢の代には三好長慶との争いに敗れたばかりか
臣従政策から一転、六角氏に牙を向いた浅井長政にも敗れてしまいます。
※当初浅井長政六角義賢の「賢」の字をもらって浅井賢政と名乗っていたんですが
六角氏からの独立を決めて「賢政」の名を捨てました。
浅井長政に敗れた野良田の戦いでは
兵力2万5千の六角軍に対して
浅井軍はその半分にも満たない1万1千ほどと言われており
戦力差では圧倒していたにも関わらずに負けてしまったことで
近江の国人衆たちが次々に六角氏から離れていくようになります。
六角氏が戦国大名として自立できなかったのは、
国人衆たちを家臣として服従させられなかったことにあるというのを
何かで読んだことがあります。
後述する「六角氏式目」が制定される辺りからもその辺の事情を伺い知れますが
この野良田の戦いでの敗北はさらに決定づけたかもしれないのではないかと
個人的には思ったりしています。
この野良田の戦いに、目賀田氏が従軍していたのかどうかは
わかっていないんですが、
この敗戦があっても目賀田忠朝は六角氏から離反することなく
忠誠を尽くしていたようですよ。
古くからの付き合いっていうのもあるでしょうね。

しかし、六角義治の代になり1563年に起きた観音寺騒動
目賀田氏にも少なからずその後の動向に影響を与えていると思われます。
観音寺騒動の詳細についてはこちらを。

tsukumogatari.hatenablog.com

六角定頼の代からの功臣であり、
「六角氏の両藤」とも「六宿老」とも称され
家中での人望も厚かった後藤賢豊(ごとうかたとよ)
主君の六角義治が誅殺してしまったことで
六角家中では六角氏を信用できなくなり、
一時は六角氏を観音寺城から追放します。
蒲生氏の仲介によって六角氏と家臣の間に和議は結ばれるものの

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六角氏の主導権を縛る「六角氏式目」
六角義賢・義治父子に認めさせるなど
六角氏の権力はもはや地に落ちたも同然となります。

そのような最中1568年、美濃・尾張を治め足利義昭にも協力を求められて
上洛を目指していた織田信長
六角氏の居城である観音寺城にも手を伸ばしてきます。
六角義賢・義治父子が三好三人衆三好宗渭三好長逸岩成友通と結託して
織田信長への協力を拒んだことが原因です。
観音寺城の戦いは、織田信長威作戦の裏をかかれた六角義賢・義治が
観音寺城を捨てて甲賀へ逃げたことによって
観音寺城を始めとした支城もほぼすべて織田信長に降ることになります。
甲賀へ逃げるのは六角氏の十八番みたいなもので
戦に負けると一時甲賀へ撤退し、そこでまた体制を立て直して攻め立てる
といったゲリラ戦を主戦法としていました。
ちなみに1487年の鈎の陣(まがりのじん)で室町幕府に追われた六角氏は同様の戦法をとりましたが
この時に六角氏に味方をした甲賀地侍五十三家のことを「甲賀五十三家」と言います。
甲賀五十三家」といえば甲賀流忍術の元となった家ですね。

おそらくこの時に目賀田忠朝の子・目賀田貞政(めがたさだまさ)
六角氏に見切りをつけて離反する形をとったのだと思われます。
離反して六角氏の宿敵である浅井長政に属するようになるのです。

しかし、その浅井長政
1570年に織田信長が相談なく朝倉氏の所領を攻めたことで織田信長との同盟を破棄
浅井・朝倉連合軍として織田信長に立ち向かうことになります。
姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍が敗れてからは
浅井氏からも朝倉氏からも織田方に寝返るものが続々と出てきます。
織田信長の勢力は増す一方。
そして目賀田貞政も嫡男の目賀田堅綱(めがたかたつな)と共に
1573年に織田信長に属することを決め、所領を安堵されます。
目賀田賢綱は残念ながら1582年に旧主君であった六角義治との
戦いの最中で討死
してしまうのですが
目賀田氏は織田信長に仕えてからも
2万石とも言われる領地を有していましたから
近江周辺での勢力を維持していたのでしょう。
堅綱の嫡男・目賀田堅政(めがたかたまさ)
信長の命によって安土城に来訪した
徳川家康一向を宿で饗応したり家康の入京から堺見物にも同行したそうです。
信長配下となってからも目賀田氏は近江国人の一勢力として
一定の評価はされていたんでしょうね。

1.1.織田信長の家臣になったら居城から追い出された!?

目賀田氏といえば忘れてはならないのが安土城との関係です。
安土城は皆さんご存知でしょう。
織田信長が現在の安土山に建てさせた巨城であり、
地下1階地上6階建て、そして高さは32メートルを誇る天守閣。
総奉行は丹羽長秀が担当し、普請奉行には木村高重
大工棟梁には熱田神宮の宮大工の棟梁だった岡部又右衛門
縄張奉行には羽柴秀吉、瓦奉行には小川祐忠も名を連ねています。

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ちなみにイメージだけは安土城を想像しながらちっとも似ていない
私がイクラで建築した九十九城はこちらでご覧ください(笑)

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ちょっと前置きが長くなってしまいましたが、
その安土城実は元々目賀田氏の居城であった目賀田城の場所に作られたんです。
1576年に安土城を建造したくなった信長が立地に選んだ場所には
目賀田氏の居城・目賀田城があったために目賀田城の引き渡しを命じます。
見出しの追い出されたっていう言い方は
ちょっと意地悪な言い方ですけど(笑)、
主君がどけっていうならどくしかありません。
それに信長ですから、逆らったりしたら何されるか・・・(笑)
というわけで、目賀田城はあっさりと引き渡します。
そして光明寺野の地に、新しく目賀田城を築城してそこを新本拠地としました。
そのため光明寺野の地も目賀田と呼ばれるようになったそうです。
安土城の築城は、目賀田氏の素直な引き渡しにより実現したわけですが(笑)、
ということは、旧目賀田城ってとてもいい立地に建てられていたんでしょうね。
当時は琵琶湖も接近していたそうですし、
山城だから攻めにくく侵入経路も限られて
防御が堅いお城だったんじゃないでしょうか。

1.2.本能寺の変後の動向

安土城築城のために居城を追い出されたからといって
別にそこに不満は持っていなかったとは思うんですが(笑)、
1582年に本能寺の変が起きて織田信長が斃れると
目賀田氏はなんと明智光秀に属してしまいます
本能寺の変が起きた当時はというと、
前述した目賀田堅政が徳川家康の堺見物に同行していたときなのです。
徳川家康本能寺の変が起きて、いわゆる神君伊賀越えを決行。
服部半蔵先導の元、近江を抜けて三河に逃げ帰るんですが
この時に目賀田堅政を三河に共にいくことを勧めたそうなんです。
ところが、堅政は近江に留まることを選んでしまって
明智光秀に与して山崎の戦いに出陣してしまいます。
山崎の戦い明智軍総崩れとなって羽柴秀吉の前に敗北。
結果2万石あった目賀田氏の所領は没収され、
堅政は剃髪して備中に流浪中に亡くなってしまったとか。
伊賀越えで家康についていってたら
目賀田氏も一躍有名な大名に成り上がれていたかもしれませんよね。
惜しいことをしたなぁ(笑)

ちなみに、堅政の子・目賀田守成
水野忠重の孫娘を正室として迎えていたために
備後福山藩水野氏の庇護を受けており、
さらにその子の守成は紀州の徳川家に仕えたそうです。
紀州といえば、江戸幕府8代将軍の徳川吉宗ですよね。
その吉宗が8代将軍に就いたときに、
守政の子・守咸が吉宗に随行して江戸に移っており
目賀田長門守と称して側近となったそうですよ。
以後、目賀田氏は徳川将軍家の旗本として
明治維新まで続くことになったとか。

家康の誘いに乗って三河まで逃げていたら
また別の歩みがあったのかもしれないけど、
そうしなくても徳川家に縁のある歴史を歩んでいる辺りが
面白いなぁと思います。

参考資料:武家家伝_目賀田氏

2.「麒麟がくる」と信長の野望シリーズでの目賀田一族

というわけでまたしても「麒麟がくる」では
登場するかどうか微妙な目賀田一族ですが
目賀田堅政あたりが本能寺の変前後に登場する可能性は
ワンチャンあるかもしれません。
目賀田氏が登場するかどうかは別にしても
本能寺の変後の明智家を中心としたストーリーが
どんな感じになるのか興味深いところです。
たいがい戦国時代の大河ドラマでは明智光秀
本能寺の変起こした後にさくっとやられちゃいますからね。
光秀が畿内の勢力を抱き込むために
どんな行動をしたのか、
誰と接触しようとしていたのか
あるいはどんな国を目指していたのか
辺りのことをどのように描かれるのか興味津々です。

そして信長の野望シリーズにおいては
目賀田氏は誰一人として登場したことはありません(笑)
今後も登場する可能性は低い気がしますけど
※ゲームシステムが大幅に変わったりするとあるかもですが
麒麟がくる」で間違って登場しちゃうと
信長の野望シリーズでも登場したりするかもしれません(笑)

3.まとめ

今回は六角氏の重臣である目賀田綱清を始めとした
目賀田一族を紹介しました。
そんなに知られていないと思うけど
安土城明智光秀に味方した話と徳川吉宗の話、
どれもそれなりにインパクトのある面白いお話だと思います。
私が知っていることはたかがしれてますけど
多分歴史の研究をされている方なんかは
私の読んだことないような文献資料をたくさん読んでいるでしょうから
もっと深いとこまで考察とかできるんだろうなぁと思います。
歴史研究に没頭できるような生活にするには
どうすればいいんだろうっていうのが
最近の課題の一つです(笑)

では今回はこの辺で。
ここまで読んでいただきありがとうございました!