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歴史人物語り#87 六角氏異聞シナリオを作って遊んでみたい、対外的にも影響力が強かった六角氏正統の嫡流・六角義実、義秀、義郷

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戦国時代の六角氏といえば
楽市楽座の先駆者でもある六角定頼の系譜、
六角義賢・義治が有名ですが、
実は嫡流ではありません。
本来は六角定頼の兄である六角氏綱の系譜が嫡流です。
今回はその氏綱の子孫である
六角義実(ろっかくよしざね
六角義秀(ろっかくよしひで)
六角義郷(ろっかくよしさと)
信憑性は低いとは言われているんですけどね。
麒麟がくる」には絶対出てこないでしょう(笑)

www6.nhk.or.jp

ちなみに紹介済みの「麒麟がくる」にちなんだ武将たち
以下の一覧記事にまとめてあります。

tsukumogatari.hatenablog.com

tsukumogatari.hatenablog.com

その他今までに紹介済みの戦国武将たちはこちから確認できます。

tsukumogatari.hatenablog.com

まだ読んでいない武将の記事がありましたら是非チェックしてみてくださいね。

1.六角氏異聞 六角氏の家督を継いでいたのは嫡流の義実・義秀説

六角氏というと全盛時代を築いた六角定頼が有名です。
その子の六角義賢や孫の義治の代で没落し
織田信長によって滅亡の途を辿ることになりますが
そもそも、六角定頼は六角氏の嫡流ではありません
六角定頼の父は六角高頼ですが、
定頼は高頼の次男であり
家督は兄の六角氏綱が継いでいました
※1506年に高頼は隠居して家督を譲っています。
ところが、細川氏との戦で受けた傷が原因で(元々病弱説も)
氏綱は27歳という若さで亡くなってしまったのです。
そのため、出家していた定頼が還俗して六角氏の家督を相続した、
というのが一般的通説です。

ところが、この通説を覆す話があるのです。
確かに氏綱は早くに亡くなってしまうのですが
家督自体はその子の六角義実(ろっかくよしざね)が継いでおり、
六角定頼は陣代として義実を支えたというのです。
六角義実の名は
佐々木源氏の氏社である沙沙貴神社が所蔵する「佐々木系図
佐々木氏郷が著者とされている
六角氏四代の歴史書『江源武鑑』(こうげんぶかん)には登場していて、
六角義実の系統が嫡流として六角氏を継いでいることになっているのです。
実際どういう系図になるかというと、こちら。

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氏綱の後を義実が継ぎ、
その後を義実の子・義秀(よしひで)が継いでいます。
さらにその後は義秀の子・義郷(よしさと)
途切れることなく継承しています。
そしてこれを見ると織田氏とも関係がありますね。

織田信広織田信秀の長男であり、織田信長の兄です。
ただし信広は家督相続権を持っていなかったようなので
おそらく側室等の子なんだと思われます。
※母が誰かは不明です。
その織田信広の娘・千代君を妻としているのが六角義実の子・義秀。
さらに義秀の子の義郷は
織田信長の嫡男・織田信忠の子、織田秀信(幼名の三法師のが有名かも)の娘
妻として迎えていることになっています。
また、義秀の三男・八幡山秀綱(はちまんやまひでつな)
男児がいなかった織田秀信の養子になっています。
※ただし織田秀信が亡くなった後なのかよくわかりませんが兄・義郷の養子にもなっています。
六角氏といえば、織田信長に対しては徹底的に抗っていて
織田家とは犬猿の仲といった印象のが強いですが、
六角氏嫡流はどうやら織田家との繋がりも深かったということのようです。
この系図の関係者たちをもうちょっとわかりやすくするために
時間軸であらわしてみたのがこちらです。

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六角義実は織田信長の父・信秀と同世代ということもあって
六角義秀と織田信長も年が近いです。
織田信広の生年が不明ですが六角義秀が信広の娘を妻にもらったというのも
あり得る話ではありそうです。
※年の差はそこそこありそうですが(笑)
ただ、織田秀信の娘を六角義郷が妻にもらったっていうのは
なんかちょっと苦しい気もするんですけどね。。。
だって織田秀信って25歳ぐらいで亡くなってますし。
※そもそも公文書では子供はいなかったことになっているんですが。

そもそもなんですが、
この六角義実以下は実在自体が怪しまれています
というのも前述した『江源武鑑』は
記載されている年号等が通説と異なっていたり、
誰だかよくわからない人物が多数登場してきたりして
古くから偽書と言われてきた書物なのです。
一説には、偽系図の作者として有名な沢田源内(さわだげんない)
仕官のために六角氏綱の系統の子孫・六角氏郷であると称して
六角氏嫡流と結びつけて伯が欲しかったために偽ったとも言われています。
その一方で、六角氏の子孫でこの佐々木六角氏の系譜を研究されて
著作もある佐々木哲氏は、
この『江源武鑑』を再評価し六角義実の実在説を唱えていたりもします。

実在や偽書かどうかといった学術的研究は専門家の方に任せるとして、
今回の記事では六角義実以降の六角氏嫡流の系統の人達を少し見ていきましょう。
真実だとしたら結構面白いなという話がいくつかあります。

1.1.六角義実(ろっかくよしざね)とは

通称四郎
生年不明。父は六角氏綱
母は足利政知(あしかがまさとも)の娘なんですが
この足利政知室町幕府11代将軍足利義澄の父だったりします。

前述した沙沙貴神社所蔵の「佐々木系図」によると
室町幕府第10代将軍・足利義稙(あしかがよしたね)の猶子となって
従三位参議・大膳大夫・近江守護・権中納言に任ぜられたことになっています。
※ただし、各年の朝廷の官職を記している「公卿補任」や公家の日記には
六角氏が参議以上に任官した記録はないそうです。
また、実際に名乗っていたと思われる名前にもいくつかあって
「義久」「高頼」「隆頼」を名乗っていた形跡があります。
家臣の進藤久治(六角氏の両藤の?)山中久俊深尾久吉
さらには臣従していた浅井久政に対して「久」の字を偏諱していたようなので
「義久」が実名なのではないかという説もあります。

基本的に足利家との関係が深いことから、
六角義実は足利将軍家を庇護する立場を一貫してとっており
足利義晴京を追われた際には領内で保護したそうです。
また、最初に述べた通り10代将軍の足利義稙の猶子であり位も高かったため
室町幕府内では将軍に次ぐ地位を得ていて、
1539年には養父・足利義稙の17回忌法要の主催もしています。
※この法要の主催は同じく足利義稙の養子であった
足利義維(あしかが よしつな)の将軍就任を阻止するためでもあったようです。
ちなみに没年は1546年、1549年、1557年など諸説あってわかりません。

1.2.六角義秀(ろっかくよしひで)とは

生年1532年。父は六角義実
1545年室町幕府に出仕していています。
父同様に参議であり室町幕府に尽くす立場だったのだろうと思われます。
鉄砲の産地として有名になった近江国友村
六角義秀が足利義輝の命によって組織的製造を始めさせたからとも。

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それからこの六角義秀が「秀」の字を与えている人物で
有名な武将が3人いるんですが、誰だかわかりますか?
その3人とは
斎藤道三明智光秀木下秀吉の3人です。
道三は号であって諱は秀龍なんですがこの「秀」が
義秀からの偏諱ということらしいです。
明智光秀の「秀」もそうらしいです。
明智光秀が放浪中に与えられたんでしょうかね。
それと木下秀吉。
秀吉が織田信長に仕える前、
六角義秀が秀吉を召し抱えたことがあるそうで
当時は藤吉郎元吉と名乗っていたのを
「秀」の字を与えて「藤吉郎秀吉」と名乗らせたのだとか。

それと織田信長との関係の話もいろいろあって
桶狭間の戦いでは六角義秀が援軍を送っていただとか
浅井長政お市の方の婚礼成立にも絡んでいたなんて話も。
将軍足利義輝三好三人衆松永久秀によって暗殺されると
弟の足利義昭を庇護し、
その後は織田、浅井、朝倉をまとめあげて
三好三人衆松永久秀に対抗し、
足利義昭の将軍擁立にも一役買ったということらしいです。
※この辺の話を聞いてると六角義秀ってかなりの実力者に感じますよね。
だったらもっと本当は何か記録とか残ってるんじゃないのかって
思っちゃうのはダメですか?(笑)

外交面では六角義秀が表立って動いていたようですが
戦の方は、1553年に三好長慶との戦いで負傷した傷が元で病身となったために
六角義賢が陣代を務めていたようです。
ただし、六角義賢が次第に陣代として好き勝手に振舞うようになり家中は分裂気味に。
さらには観音寺騒動が発生したことによって
六角家臣団の結束は弱まっていきます。

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そして1568年織田信長足利義昭を奉じて上洛を目指していた際には
六角義秀は信長に呼応して指揮下に入ったそうです。
※降伏はしなかったみたい。六角義賢観音寺城から逃げた後も織田軍とゲリラ戦を展開しているので
六角義賢・義治とは完全に縁を切ったんでしょうかね。

その後の動向は不明ですが織田信長の代で亡くなったのは確かなようです。
一説では1569年に没したとも。

1.3.六角義郷(ろっかくよしさと)とは

生年不明。父は六角義秀
母は織田信長の兄・織田信広の娘、千代君と言われています。
六角義郷は幼少時に足利義昭の猶子とされていて
信長はこの義郷か足利義昭の息子を
足利将軍にすることも検討していたとか。
信長の時代の頃は幼少期だったのでしょう、
動向は伝わっていません。
本能寺の変が起きて織田信長が斃れたのち、
豊臣秀吉が1584年に箕浦城から呼び出して仕えさせたそうです。
※秀吉の甥、秀次が召し出したとも。
父が参議だったことから秀吉の計らいで侍従・少将に任じられ
豊臣姓も授かっているそうです。
以後は豊臣の準一門として九州平定や小田原征伐に従軍。
小田原征伐の陣中では茶会にも招かれたそうです。
文禄の役でも弟の八幡山秀綱と共に肥前名護屋城
「御留守在陣衆」として在番しています。
秀吉は前述のとおり秀郷の父・義秀に仕えていたこともあり
偏諱も受けている古くから縁者、
また織田家の血脈も義郷には流れていることもあってか
豊臣政権下では非常に優遇されたようです。
近江八幡12万石の大名にまで昇進したとそうですからね。
織田信長の孫・織田秀信と同時に侍従に任官されるなど
織田家と同格の扱いを受けていたようです。
しかし1595年の豊臣秀次切腹事件では
家臣・鯰江権佐の娘を秀次の側室に献上していたことから
連座して改易されてしまいます。
義郷はまだ若年であったため(いくつなのかは不明)
身柄は拘束されず秀吉から諸国居住勝手も許されたのだとか。
※若年っていくつぐらの年齢帯のことなんでしょうね。
1590年の小田原征伐にも参陣していて12万石の大名にまで出世したってことは
それなりに活躍したのかと思いきやそうではなく、やっぱり贔屓されていたのかどうか。

豊臣秀吉が亡くなると遺物として大兼光の太刀を拝領するんですが
この太刀は父・義秀が秀吉に諱字を与えた際に贈ったものだったとか。

そして1600年の関ヶ原の戦いでは石田三成からは
「北国表の大将として参陣すれば
六角家の再興を叶えて本領を安堵する」
と西軍に誘われます。
近江一国の軍勢もすべてつける条件も後から追加されますが
六角義秀はこれを断ったそうです。
戦後は徳川家康からも召し出されるも、
西軍に加担しなかったことが東軍に内通していたと思われることを嫌って、
この召し出しも拒絶したそうです。
このことを家康は「今の世の良将である」と語ったのだとか。

これ以降は武家としてではなく公家とし豊臣秀頼に仕えたようです。
没年は1623年。享年は47歳と伝わっていますが
47歳だと青年が1577年生まれとなってしまって
1569年亡くなっている説のある父・義秀の子ではなくなってしまいます(笑)
義秀も実際に亡くなっている没年は不確かなのでなんともいえませんが。
ちなみに家督は子の氏郷が相続したそうです。

1.4.六角氏の正統な嫡流の存在をちょっと信じたくなる話

正直ここまでの話も眉唾的感覚が拭えない気もしてしまうのですが(笑)、
個人的にはちょっとこれは信じたくなるなぁ
という話があります。

それは織田信長が築城させた安土城に関連しています。
安土城は目賀田一族の記事でも書きましたが、
元は目賀田氏の居城・目賀田城があった場所に建てたのです。

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この安土城の場所から、六角氏の本拠地である観音寺城は目と鼻の先。
当然すぐに廃城にして石垣や資材も
安土城建築に転用されたのだろうと思われていました。
しかし近年、田中政三氏の発掘調査によって
石垣造りの観音寺城が発見されます。

つまり、観音寺城は廃城にはならず資材や石垣も
安土城には転用されていなかったということなのです。
そして六角氏が観音寺城を放棄した後も、
織田方に味方をした六角氏、
すなわち六角氏綱の流れをくむ六角義実あるいは六角義秀が
観音寺城を守っていたのではないか
と、話が繋がるわけです。
個人的にはそうだったら面白いなぁと
ワクワクしてくる話です、
ただやっぱり眉唾感は拭えませんが(笑)

2.「麒麟がくる」と信長の野望シリーズでの正統派六角氏

麒麟がくる」では流石に出てこないでしょう。
実在説を唱える人もいるものの
通説としては六角義実は存在せず、
六角定頼の系統の六角義賢・義治が
嫡流として後を継いでいったことになっていますからね。
六角義秀が明智光秀偏諱した話があるから
それをうまくストーリーに
乗っけることはできるかもしれないけど・・・。

あと信長の野望シリーズでも
六角氏は六角定頼の系統しか出てきません。
今後も登場はさせてくれないんじゃないでしょうか。
でもよく考えたら架空の武将も特典武将で
登場したりするので(里見八犬伝真田十勇士
チャンスは無いことは無いのかな(笑)
まぁでも武将登録機能で登録して遊ぶのでも十分かなと。
六角氏異聞シナリオみたいなの作ってくれてもいいんですけどね、
それはそれであったら面白そう。

3.まとめ

今回は六角氏の正統な嫡流・六角氏綱の流れをくむ、
六角義実六角義秀六角義郷でした。
六角義秀の話とかが本当だったら面白いんだけど
結構歴史観が変わっちゃう気もしますね。
信長への影響力も大きいし。
六角義賢の専横で落ちていってしまうっていのが
正直あんまり納得できないんですけどね。。。
対外的な動きと内部での動きに差がありすぎて
なんでそこはうまく立ち回れないの?っていう。
その辺の信憑性とかについては
詳しく研究してくださっている方々に
お任せするしかないですけどね。
信憑性全然無いって言われているものの
疑わしさを排除するのって大変だろうなぁと
思いつつ・・・

今回はこの辺で。
ここまで読んでいただきありがとうございました!