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歴史人物語り#88 六角氏を早々に見限って織田信長についた池田景雄と池田秀氏、明智光秀軍として山崎の戦いに参戦したけど後には豊臣秀吉の元で出世することに

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今回は六角氏を観音寺騒動で見切りをつけた
池田景雄(いけだかげかつ)
その子・池田秀氏(いけだひでうじ)です。
本能寺の変後は明智光秀に降っているため
麒麟がくる」でも登場はあるか!?

www6.nhk.or.jp

ちなみに紹介済みの「麒麟がくる」にちなんだ武将たち
以下の一覧記事にまとめてあります。

tsukumogatari.hatenablog.com

tsukumogatari.hatenablog.com

その他今までに紹介済みの戦国武将たちはこちから確認できます。

tsukumogatari.hatenablog.com

まだ読んでいない武将の記事がありましたら是非チェックしてみてくださいね。

1.池田景雄(いけだかげかつ)とは

通称孫次郎または伊予守
生年1528年。父は不明。
近江池田氏宇多源氏佐々木氏の支流ですから
近江守護の六角氏とは同族。
元は近江甲賀群池田を本貫地として六角氏に仕えてきましたが
池田景雄の代には蒲生郡浅小井(あさごい)に既に移っていたようです。

池田景雄は世代的には六角定頼の代から仕えていたと思われますが
具体的な動向は不明です。
池田景雄が歴史の表舞台に登場するのは
六角氏衰退を決定的にしたといっても過言ではない、観音寺騒動からです。

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1563年に発生したこの騒動では、
六角義賢(承禎)から家督を受け継いだ六角義治
定頼の代から仕えた宿老であり
六角家中でも人望の厚かった
後藤賢豊(ごとうかたとよ)とその子・壱岐を誅殺。
六角義治の独断によっておこなわれたこの事件によって
六角家臣団の義治に対する信頼感は急速に薄れていきます。
そして、後藤賢豊と共に「六角の両藤」と称された進藤賢盛(しんどうかたもり)
六角氏重臣の目賀田氏、馬淵し、平井氏らが続々と反旗を翻すことを決意。

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tsukumogatari.hatenablog.com後藤賢豊と縁戚関係にあった
永田景弘(ながたかげひろ)三上恒安(みかみつねやす)
観音寺城本丸周辺にあった自分たちの館に火を放って本領へ戻っています。
池田景雄もこの観音寺騒動が起きてから
観音寺城を退去する形で六角氏に抗議をしています。
六角氏に対して反旗を翻した家臣団たちは
浅井氏にも援軍を求めて観音寺城を包囲します。
手勢の少ない六角義治は止む無く観音寺城を放棄。
家臣団の叛乱に参加していなかった蒲生氏の元へ逃げ落ちます。
父・義賢は義治に家督を譲ってからは
隠居して箕作城(みつくりじょう)に居ましたが
危機を感じて甲賀と逃げています。

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義治が逃げ落ちた蒲生氏と三雲氏の尽力もあって
六角氏と家臣団との間に和睦が結ばれ六角氏は観音寺城に復帰します。

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しかし池田景雄は
この頃から既に六角氏とは袂を分かち
浅井氏に属していた時期もあったようです。
※ちなみに六角氏の権限を制限する「六角氏式目」に池田景雄は連署しています。

そして1568年織田信長足利義昭を将軍とするために上洛戦を開始し
近江へもその足が踏み寄せると、
池田景雄は信長に服属
柴田勝家の与力となり各地を転戦。
1575年柴田勝家が北陸方面軍の軍団長となり越前へ転封すると
佐久間信盛の与力となり、
1576年本願寺一向宗雑賀孫一と戦った天王寺の戦いに従軍しています。
また1578年、1579年の2回に渡って
堺の豪商であり茶人としても有名な津田宗及(つだそうぎゅう)
佐久間信盛、そしてその子・佐久間信栄(さくまのぶひで)を招いて
茶会を開いています。
当時武将の間で流行っていたといえば茶器の収集と茶会。
池田景雄も武士のたしなみの一つとして茶道にも力をいれていたのかもしれません。
※ちなみに佐久間信盛といえば、織田家譜代の重臣であるにも関わらず
信長に追放された人ですが、その子・信栄も一緒に追放されています。
その追放された理由が、
茶器集めと茶会ばかりに勤しむ茶会三昧の日々を送っていたからかもしれません。

罪状にそう明言されてるわけではないんですが、
そのような生活を送っていたのは事実のようで

後に豊臣秀吉には茶人と召し抱えられています。
今の時代なら好きなことを好きなように出来る時代だけど、
当時の武士には武士としての本分を全うすることを優先されただけに
可哀そうな人生を歩むことになった人。

いやでも趣味と本業はきっちり分けないといけないのは今の時代も変わらないか
と考えると、信長の勘気を蒙っても同情できないかな(笑)
武士やめて茶人の道を早くから選んでいたら良かったのかもしれませんね。
だいぶ脱線しましたね、すみません(笑)

1580年には、信長が琵琶湖の奥の島で3日間鷹狩をした際に世話役を務めていて
その功として青毛の馬を拝領しています。
※この時、観音寺騒動で反旗を翻した一人、永田景弘も共に世話役を務めています。
永田景弘も正確な時期は不明なものの、
観音寺騒動後に六角氏から離反して信長の元についたようです。

永田景弘は強力かつ巨躯の人物で
1578年に開催された相撲大会では、

同様の体格でこれまた強力として有名だった阿閉貞大(あつじさだひろ)を破り、
その強力さを家中でさらに広めたとか。
阿閉貞大は本能寺の変後に明智光秀に加担した阿閉貞征(あつじさだゆき)の子です。

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佐久間信盛高野山へ追放となった後は、
旗本衆に組み入れられて信長直属の近江衆として名を連ねています。

しかし1582年明智光秀本能寺の変を起こして織田信長を斃すと
池田景雄は明智光秀方に降ります。
山崎の戦いでも明智軍として参戦しているのです。
ただその後どういった経緯かは不明なんですが山崎の戦いの後、
1582年の10月には羽柴秀吉に属しています。

秀吉に仕えてからは1583年賤ケ岳の戦いの前哨戦
滝川一益(たきがわかずます)の甥・滝川益重(たきがわますしげ)によって
落とされた伊勢峯城(いせみねじょう)を取り返す軍勢に加わっていますし
1584年の小牧・長久手の戦いにも参陣して功をあげており、
この功によって浅小井城を与えられています。
1590年には小田原の陣にも出陣しており、
この時に秀吉から「秀」の字を拝領して
池田秀雄(いけだひでかつ)と改名しています。
※便宜上、この記事では池田景雄の名で統一しています。
1594年の伏見城普請にも参加しており、
秀吉麾下となってから秀吉側近として重用されていたようです。
1595年に起きた豊臣秀次切腹事件の際には、
高野山に追放された秀次の元に派遣された検使の3人のうちの一人であり、
秀次が切腹するに至ったのは池田景雄が示唆したからとも言われています。
※ちなみに他の検使は福島正則(ふくしままさのり)と福原長堯(ふくはらながたか)の2人。
池田景雄の当時の知行は7万石とも言われていますが、
秀次切腹事件後に伊予の越智郡今治2万石に転封されています。

1597年朝鮮出兵慶長の役
70歳という高齢にも関わらず朝鮮へ渡海しています。
六番隊2800余の兵を率いて加藤清正共々奮戦
感状を受ける戦功を挙げていたのですが
やはり高齢がたたったのか、
朝鮮で在陣中に亡くなってしまいました。
享年70歳

2.池田秀氏(いけだひでうじ)とは

通称孫二郎。父は池田景雄
生没年、共に不詳です。

生年不詳で元服したのがいつ頃かもわかりませんが
池田景雄の年齢を考えると、
もしかすると六角氏に仕えていた時代もあったかもしれません。
信長の代に仕えていたのは確実な気もしますが
秀氏の具体的な動向が見えてくるのは
父・景雄が秀吉の家臣として重用されるようになってからです。
1595年に高野山に追放された豊臣秀次の元へ遣わされた検使は
父・景雄ではなく秀氏とも言われています。
※これは父同様に伊予守を名乗っていたため、記録にある「池田伊予守」が
どちらを指しているのか判別できるだけの確証がないためです。
ただ現時点では、父・秀雄のことだろうと言われています。

池田秀氏は、父とは別に伊予大洲城を拠点として喜多郡1万2,000石を領しています。
この領地は、1594年に羽柴四天王の一人とも言われる戸田勝隆(とだかつたか)
朝鮮出兵中に発病して病死してしまい無嗣断絶したことから
その遺領の一部をもらい受けたことによります。
※戸田勝隆の所領は7万石あり、秀氏が与えられた以外の遺領地は
父・景雄や当時宇和島を領していた藤堂高虎に分け与えられています。

1597年の慶長の役には父・景雄と共に朝鮮へ渡海。
朝鮮での戦いの最中に父・景雄は亡くなってしまいますが
その後も秀氏は朝鮮各地で転戦しています。
ちなみに亡くなった父の越智郡の遺領は与えられず
朝鮮の役で功を上げた小川祐忠(おがわすけただ)に与えられています。

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池田家は豊臣家からの恩恵が深かったこともあってか
1600年の関ヶ原の戦いでは西軍に属し、
池田秀氏は伏見城の戦いに参戦しています。
さらに美濃方面へ進軍し
西軍の高木盛兼(たかぎもりかね)の守る美濃駒野城に入場。
高木兼盛の一族と共に
美濃駒野城を包囲する東軍の徳永寿昌(とくながながまさ)と徹底抗戦
関ヶ原の戦い本戦で西軍が敗戦した翌日9月16日まで籠城していましたが
最終的には降伏して高野山に遁れます。

池田秀氏は西軍に属したため、
関ケ原の戦い戦後の論功行賞において
所領は没収されて改易処分となります。
しかし藤堂高虎が仲介してくれたことによって
徳川家康からの許し藤堂高虎に5千石で召し抱えられます
後々には公儀にも謝罪が受け入れられて赦免されています。
晩年は京都で過ごしたとか。

ちなみに嫡男の池田貞雄は、
徳川幕府第3代将軍・徳川家光の乳兄弟である
稲葉正勝(いなばまさかつ)の元に預けられており、
1641年には家光に召し出されて近侍し、
江戸幕府の旗本となっています。
父とは別々の道を歩むことになってしまいましたが、
家光に仕える旗本としての地位を得ていますから
優秀な人材として認められていたのでしょう。
あと稲葉正勝といえば、稲葉正成春日局の息子
春日局明智光秀の宿老として有名な斎藤利三の娘です。

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山崎の戦いでは父・景雄が明智光秀軍として従軍していますから
同じく明智家に仕えた一族の末裔としての繋がりが
引き合わせたものだったりするのかもしれませんね。

3.「麒麟がくる」と信長の野望シリーズでの池田景雄・秀氏親子

池田景雄は山崎の合戦前に明智光秀に降っているので
もしかするとその前後ぐらいから「麒麟がくる」に
登場する可能性はあるやもしれません。
息子の秀氏は完全に秀吉時代の人っていうイメージなので
無理でしょうけど、父の景雄はまだワンチャンありそうです。
あと「麒麟がくる」ではないんでしょうけど(笑)、
六角氏の正統嫡流と言われている六角義秀(ろっかくよしひで)と
明智光秀の出会いのストーリーを作って
そこに池田景雄も絡めたり、
観音寺騒動も無理やり絡めたりすれば
話は面白くなりそうな気はしますが
史実と言われていることからはだいぶかけ離れることになるので
大河ドラマファンからはきっと激怒されると思います(笑)
※事実かどうかは別として、明智光秀の「秀」の字は六角義秀からの偏諱という説があります。

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さて、信長の野望シリーズでは
近江の池田氏は登場したことがありません。
今後もなかなか登場は厳しいのかもしれません。
そもそも、今回ちょこっと出てきた羽柴四天王が
信長の野望シリーズにおそらく誰も登場したことがありません
四天王と言われているわりにはマイナーなんですよね。
今回名前を出した戸田勝隆の弟・戸田勝茂(とだかつしげ)
丹羽長秀重臣として有名だからなのか
信長の野望シリーズに登場しているんですけどね。
一応ご存知ない方のために羽柴四天王の名を全員挙げておくと
今回ちょこっとだけ登場した戸田勝隆
宮田光次(みやたみつつぐ)
尾藤知宣(びとうとものぶ)
神子田正治(かみこだまさはる)の4人です。
秀吉家中でも早い時期から仕えた古参の家臣です。
麒麟がくる」関連シリーズが一段落したあとで
また書くことになると思います。

4.まとめ

今回は観音寺騒動境に六角氏から離れて信長に仕え、
その後は秀吉の元で側近として重用された池田景雄
その子・池田秀氏でした。
池田氏といえば
織田信長の乳兄弟・池田恒興(いけだつねおき)の一族、

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信長に摂津を任され「摂津三守護」の一人と言われた池田勝正の一族、
出羽で太閤検地に反対して土一揆に参加した
「悪次郎」池田盛周(いけだもりちか)
などなど
出自は違えど有名で優秀な人たちが多い印象の姓です。
読者さんたちの周辺にいる池田さんも
いずれかの血を継いでいる子孫かも!?
いやもしくはこれを読んでる人の中にそのご子孫がいたりして!?

では今回はこの辺で。
ここまで読んでいただきありがとうございました!