歴史人物語り#94 三好三人衆の一人、岩成友通は三好一族出身ではなかったけれど三好長慶に重用されて頭角を現す

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今回は三好三人衆の一人、
岩成友通(いわなりともみち)
出自がよくわかっていない人ですが
三好一族ではないと言われています。
それでも三人衆に名を連ねているあたりからし
三好家中でも一定の勢力を有する武将だったことは
間違いないでしょう。
麒麟がくる」では三人衆一括りにされてしまう可能性も
無きにしも非ず。

www6.nhk.or.jp

ちなみに紹介済みの「麒麟がくる」にちなんだ武将たち
以下の一覧記事にまとめてあります。

tsukumogatari.hatenablog.com

tsukumogatari.hatenablog.com

その他今までに紹介済みの戦国武将たちはこちから確認できます。

tsukumogatari.hatenablog.com

まだ読んでいない武将の記事がありましたら是非チェックしてみてくださいね。

1.岩成友通(いわなりともみち)とは

通称主税助
生年不詳、父もわかりません。
出自についてはよくわかっておらず
三好一族が本拠とする阿波出身ではないだろう
と言われています。
名前の表記については「石成友通」
と書かれていることもありますが
この記事では「岩成」で統一します。

出身地については
大和と備後の2説があります。
大和説は、大和の石上神社の摂社に「石成神社」があるため
その周辺を細川氏の下で治めていたのではないかというもの。
備後説については備後に品治郡石成郷という地があり
この石成郷の土豪ではないかというもの。

いずれにしても三好長慶畿内での勢力を有するようになってから
家臣として仕えるようになったことは間違いなさそうです。

三好長慶の下では奉行人の一人として活躍しています。
元々阿波出身ではない岩成友通
三好家中でも新参者だったはずです。
それでも後に同じく阿波の出自ではない松永久秀と共に
三好長慶の後継である三好義継の後見人に選ばれたということは
三好長慶の下で多くの功績を挙げて家臣団中枢にまでのし上がった
出世頭なのかもしれません。

三好長慶の代においては
1551年に堺で開かれた豪商・天王寺屋の津田宗達主催の茶会に
出席していたことが確認されている他、
1558年の北白川の戦い三好長慶vs足利義輝細川晴元室町幕府軍)での参戦、
1562年六角義賢が京へ侵入した際に
室町幕府第13代将軍・足利義輝の警護を任された、
といった事以外はあまり詳しく何をしたかはわかっていないようです。
この辺の情報の薄さのために
後の織田信長との抗争で敗れた面ばかり注目されて
信長の野望シリーズでは評価が微妙な感じになっているのかな
と個人的には思っていますがどうなんでしょうね(笑)

1.1.三好三人衆としての台頭

1564年三好長慶が病で亡くなると
その後を継いだのは長慶の甥である三好義継(みよしよしつぐ)

三好長慶にも将来有望だった
嫡男の三好義興(みよしよしおき)が居たんですが
1563年父・長慶より先に病で亡くなってしまってたんです。

当時長慶の弟が相次いで亡くなる不幸が続いており
三好義興含め、これら長慶の身内の死には
松永久秀が絡んでるのでは
なんていう風聞が飛び交っていたようです。

三好義興松永久秀が毒殺した説があるっちゃあるんですが
確実な証拠はなく、
一次資料ばかりか二次資料でも
松永久秀の陰謀説には懐疑的なものが多いようです。

信長の野望シリーズでは
松永久秀が大悪党としてイベントで活躍しまくってますけどね(笑)

ちょっと全然話が逸れますが
三好一族暗殺疑惑や
将軍足利義輝の暗殺加担、
東大寺の大仏殿を焼きうち説などから
松永久秀は大悪人的なイメージが植え付けられがち
信長の野望シリーズの顔グラの変遷をちょっとみてください。

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下のは2019年12月時点で最新作の「大志」での顔グラです。
基本的に明らかに何かを企んでそうな人相です!
印象操作がひどい!(笑)

当時の名器と言われた茶器・平蜘蛛釜を抱えて
爆死した話も有名だけど
実際にはそんなことはしていません。

確かに死ぬ前に
『自分の首と平蜘蛛釜は信長にはやらない』
って言ったっぽいけど
この話と、
「川角太閤記にある平蜘蛛釜が鉄砲の火薬で砕けた話が
一緒に混ざって尾ひれがつきまくってできた逸話にすぎません。

それに松永久秀が領していた大和では
善政を敷いていたために
地元の民からも尊敬の念を抱かれていたそうです。

当時久秀と仲の悪かった寺社勢力が流したデマが
松永久秀の梟雄説を作り上げているんじゃないかとか
思ったりもします。

今の時代なんでも情報が手に入るといっても
過去の時代の話は、
何かしらの記録が残っていない限り
手に入れることはできませんよね。

だからこそ、
昔の人物の評価については
残されている様々な資料を見比べつつ
急ぎ過ぎないようにしないと
本人たちにも失礼かなって思うのです。

だいぶ話が逸れちゃったので岩成友通に話を戻します(笑)
松永久秀は大好きな武将の一人なのでいつか特集でも組んでみたいところです。

三好長慶の死後に跡を継いだ三好義継はまだ若年だったこともあり
当時三好家臣団の中枢を担っていた、
三好長逸(みよしながやす)三好宗渭(みよしそうい)松永久秀
そしてこの岩成友通が若年当主の後見役となります。

この岩成友通三好長逸三好宗渭の3人が
三好三人衆と呼ばれるようになります。
三好一族ではないにのに三好三人衆岩成友通が入ったのは
三者それぞれの役割を考えると納得するかもしれません。

当時の三好一族においておそらく一番声が大きかったのは
三好長逸です。

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三好長逸は、三好長慶が若年の頃より
三好一族の中でも中核をなしていた武将です。
三好長慶政権下においては、
松永久秀と並び三好長慶の副官的役割も果たしていました。
長慶亡き後に一族を取りまとめる役としては
この三好長逸が適任だったでしょう。

三好宗渭も三好一族ではありますが
細川晴元三好長慶が対立するようになった際には
細川氏の臣下として三好長慶と争っていました。

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その後三好長慶に従うことになりますが
三好宗渭は旧細川氏の家臣団とのパイプが太かったために
旧細川家臣団を束ねる役割があったのでしょう。

そして岩成友通は、
おそらく三好一族ではなく、
畿内進出後から松永久秀同様に三好氏に仕えた新参衆
一族以外の武将の中でも三好長慶に才覚を見出されて
頭角を現した人物の一人であり、
三好一族出身者以外の畿内出自の武将たちを抑える
役目を担っていたんじゃないかと思います。

一族中心の家臣団構成にしてしまうと
後から臣下となった者たちが不満を持つかもしれませんしね。

一括りで「三好三人衆」って片付けられちゃいがちではありますが
三人衆が組まれた真意は家臣団を纏めるために
必要な組織体制の一つだったのでしょう。

1.2.剣豪将軍・足利義輝の暗殺から松永久秀との対立

岩成友通三好三人衆松永久秀
三好長慶の死後、将軍親政を積極的に勧めようとする
将軍・足利義輝の暗殺を実行します。

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1565年に発生した永禄の変がそれです。
幕府復権を目指そうと躍起になる足利義輝の存在が
三好三人衆たちからすると目障りな存在になったのかもしれません。
※ただし永禄の変の発生背景については諸説あります。

足利義輝暗殺には松永久秀が積極的に介入した事実はないんですが
少なくとも三好三人衆の行動をとがめるようなこともなく
息子の久通は、将軍襲撃に加わっていますから
三好三人衆とは協調していたのだろうと思われます。

しかし、次第に三好三人衆松永久秀
畿内での覇権をめぐって対立するようになります。

そして1565年の11月岩成友通は他の三好三人衆
三好康長(三好長慶の叔父)と共に三好義継を説き伏せて
松永久秀討伐の大義名分を得るのです。

以後は松永久秀および
久秀が調略して味方につけた畠山高政らと交戦状態になります。

また、1566年には土豪中沢満房革嶋一宣らの立て籠もった
山城国勝竜寺城を攻略。
敵対した土豪たちを追い出して、
勝竜寺城を自らの居城にします。

勝竜寺城に入場した岩成友通
それまでは城としての機能をあまり備えていなかった勝竜寺城を整備します。
そして勝竜寺城を基点として
山城国西部・西岡の支配力を高めることに尽力します。

1567年には1万の軍勢を率いて摂津の池田勝正と共に
大和の東大寺松永久秀と対峙。東大寺大仏殿の戦い)

しかしこの戦いは松永久秀がしかけた奇襲が元で敗北。
大和における松永久秀の支配力に
傷をつけることはできませんでした。

また当主であった三好義継が三好三人衆に対する不満から
出奔して松永久秀方に就いてしまったこともあり
次第に三好家中の行く末には暗雲が立ち込めるようになります。

1.3.足利義昭を奉じて上洛してきた織田信がとの対立

三好三人衆側の勢力であった美濃の斎藤氏は
織田信長の勢いを長らく止めていましたが
それも斎藤義龍の代まで。

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斎藤義龍の嫡男・斎藤龍興
義龍が1561年に亡くなってしまったために
14歳という若年で家督を継ぎますが
酒色におぼれ自分の言いなりになる家臣のみを重用するなど
暗愚な為政者の代表格ともいえるような人物。

その行いを戒めるために竹中半兵衛がわずか数名の家臣で
稲葉山城を奪取するクーデーターを起こしたことも。

そして美濃の領内の大半を有していた西美濃三人衆
織田方に寝返ったこともあって
斎藤氏は滅亡してしまいます。

美濃を支配下に治めた織田信長
兼ねてより催促されていた足利義昭の将軍宣下を手助けするため
1568年、京へ向けて上洛を開始します。
また三好三人衆と敵対するようになっていた
松永久秀と三好義継はこの織田信長に臣従しています。

岩成友通三好三人衆
この織田信長率いる上洛軍に対抗するため
それまで敵対していた六角義賢・義治父子と同盟して
織田軍の侵攻を食い止めようとします。

しかし観音寺城の戦い
六角義賢・義治父子はあっけなく敗れてしまい、
その勢いで畿内制圧に乗り出す織田信長軍に対して
三好三人衆方の諸城も次々に織田方へと降伏していきます。

味方の城がたいした抵抗することもなく降っていく中で
岩成友通勝竜寺城に籠って織田方と徹底抗戦を続けました。
※ちなみに摂津の池田城を守る池田勝正も同じく織田方に抵抗しています。

しかし、兵力で大きく優る織田信長の軍勢には敵わず
勝竜寺城は落城し、岩成友通は辛くも脱出。

その後の1569年12月1日には
足利義昭の仮御所とされていた京の本圀寺を襲撃します。(本圀寺の変)
本圀寺には足利義昭はもちろんですが
明智光秀足利義昭を守るために立て籠もっていました。

本圀寺は決して防御に優れているわけではなく
落ちるのも時間の問題と思われていましたが
若狭国人の山県源内宇野弥七らの奮戦も有って
三好三人衆は攻めあぐねている状況でした。

そこへ細川藤孝や三好義継らの織田方の援軍が駆けつけたことによって
桂川河畔で合戦となり、三好三人衆の軍勢は敗北。

そしてこの後どのような経緯があったかは不明ですが
岩成友通は織田方へ臣従しています。
松永久秀の仲介があったとも。

1.4.信長包囲網を敷かれたことによって織田方を裏切る

信長に臣従した岩成友通細川藤孝
「表裏なき仁」
と称されるほど信頼関係を築けていたようです。

しかし足利義昭織田信長との関係が悪くなり
織田信長包囲網を諸大名に発布して
信長とは完全に対立するようになると、
岩成友通もそれに乗じて信長包囲網へ参加します。

そして1573年
裏切った岩成友通を討つ命を信長に下された
三淵藤英(みうぶちふじひで)・細川藤孝兄弟が
岩成友通の籠る淀城に迫ります。

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岩成友通方も奮戦して三淵・細川の部隊の攻撃を凌いでいたんですが
番頭義元(ばんがしらよしもと)諏訪盛直(すわもりなお)らが
織田方に内通していたため敵中で孤立する状態となり、
細川藤孝の家臣・下津権内(おりつごんない)と組み合っていたところ
堀に落下してしまい、
水中で討ち取られてしまうのです。(第二次淀古城の戦い)

岩成友通の享年は不明です。(一説には43歳)
また、子や子孫がいたのかどうかもわかっておりません。
※ちなみに岩成友通を裏切った諏訪盛直は後に明智光秀の家臣となり山崎の戦いで討死しています。

2.「麒麟がくる」と信長の野望シリーズでの岩成友通

麒麟がくる」では三好三人衆の一人として
登場する可能性はあると思います。
三人衆のうちでは唯一織田方に降っている時期もありつつ
再度織田方を寝返って幕府方に就いていたりもするので
登場機会は多くの場面でありそうです。
足利義輝の暗殺も然り、
足利義昭の襲撃も然り。

今回「麒麟がくる」で事前にキャスティングが発表されている
三淵藤英が岩成友通の籠る淀城攻めで活躍するので
三淵藤英の引き立て役として登場するっていうのもあるかもです(笑)

三淵藤英を演じるのは、
軍師官兵衛」の竹中半兵衛
風林火山」の今川義元
ハマり役だった谷原章介さんですしね!
三淵藤英の名声を挙げる脇役として頑張ってくれるかも!?(笑)

そして信長の野望シリーズでは
岩成友通全作品で登場しています。
三好三人衆は3人とも常に登場していますね。
ただし、シリーズ通して能力値はいまいちです。
まぁ三好家臣団は基本的に能力値低めで設定されてます。
信長の野望・創造 戦国立志伝における岩成友通の評価値はこちらです。

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知略は若干高めですけど他がさっぱりです。
長慶死後の三好政権を守り切れなかったが故なのか。

3.まとめ

今回は三好三人衆、最後の一人である岩成友通でした。
岩成友通三好宗渭
キリスト教に対してあまり友好的ではなく
宣教師のルイス・フロイス
「神の掟の敵
と完全に敵視した表現で評しています。

一方で宣教師の護衛をしたこともある三好長逸
「教会の友人」
と好意的に称えられています。

同じ三人衆でも評価が真逆なのも面白いですが
「掟の敵」って言われるということは
よほどキリスト教に対する姿勢が厳しかったんでしょうね。

では今回はこの辺で。
ここまで読んでいただきありがとうございました!