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前田利家の同級生集めていろいろランキング ー1539年世代ー

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前田利家の同級生集めていろいろランキング ー1539年世代ー

少し前に伊達政宗の同級生を集めて
勝手にランキングで遊ぶ記事を書いたんですが

tsukumogatari.hatenablog.com

 個人的にこれ結構楽しいなと思った結果
シリーズ化していくことにしました。

第2弾となる今回は前田利家の同級生
勝手にランキングです。

前田利家の生年が1539年と言われてるので
その年に生まれた日本人に
全員集合してもらいました。

というわけで今回のお品書きはこちらです。

そういえば今回は時間の関係もあって
使用してる武将の画像は全て
信長の野望・創造 戦国立志伝」*1のSSです。
信長の野望の設定と生年が違ったりしますけど
あくまでも本記事はWikipediaの情報を
参考にしているため、気にしないで下さい(笑)

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1.前田利家の同級生は何人?

前田利家の同級生は何人いるでしょうか?
そんな問題出されたところで
誰も正解はできないでしょう(笑)

前田利家の生年月日は
天文7年12月25日、西暦だと1539年1月15日。
傾奇者らしくお目出たいクリスマス生まれ(笑)

みんな大好きWikipedia先生によると
1539年生まれの日本人は39人いました。
39年で39人は偶然だけど覚えやすい(笑)

ja.wikipedia.org

伊達政宗の同級生46人よりは少ないとはいえ
なかなかの人数だし、知らない人も多くて
この同級生たちの情報を纏めてるだけで
楽しくなりました(笑)

というわけでこの39人で
数値根拠がありそうな部門から
まったく根拠なしの部門まで
幅広い分野で勝手に競わせます。

一応の注意事項

前回の記事を読んだ方はおわかりかもですが
個々の情報が全て正確に網羅されてないので
とても不公平極まりないランキングです(笑)
ベースとしているWikipediaの情報も
必ずしも正しいわけではありません。
なので、異論は大いに認めます(笑)

この記事をきっかけに
当時の歴史や
その時代に生きた人々に興味を持ち
より深掘りする人たちが
増えるようになればいいな
という思いで書いております。

2.前田利家の同級生たちで勝手にランキング

2.1.石高ランキング

1位 前田利家(まえだとしいえ)83万石
2位 長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)10万石
3位 安東愛季(あんどうちかすえ)7.8万石

1位は加賀百万石の祖前田利家でした。

信長の野望・創造 戦国立志伝における前田利家

前田利家の代では百万石じゃなかったので
「祖」が但し書きみたいについちゃいます。

ところでこの83万石という数字は
息子たちの分も含まれてるかもです。
その辺の細かいところが不明でした。

2位は土佐の出来人・長宗我部元親なんですが
四国を統一したとも言われている最盛期だと
もっと増えます。
でも最終的な石高を採用してるので
土佐一国の10万石に。

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3位の安東愛季出羽国*2戦国大名です。
東北でも屈指の智勇兼備の将として有名です。
後々も出てくるのでそこでまた触れますね。

2.2.長寿ランキング

1位 小泉次大夫(こいずみじだゆう)享年86歳
1位 松平信一(まつだいらのぶかず)享年86歳
3位 今出川晴季(いまでがわはるすえ)享年79歳

前田利家世代で最も長寿だったのは
享年86歳の二人。

一人目が小泉次太夫吉次です。
家康に江戸近郊の代官職を任されて
特に用水路敷設に尽力した人です。
多摩川を水源とした二ヶ領用水と六郷用水は
小泉次太夫の名を取って
「次太夫堀」と呼ばれるようになります。

 二人目の松平信一松平氏庶流の
藤井松平家3代目当主。
後に3万5千石の常陸土浦藩となる人です。
早くから家康に仕えて多くの戦で活躍。
織田信長からもその武を賞賛されています。
銃弾が当たって倒れた際に
これを見て誇言した敵兵に対して
退いてしまうほどの悪口(あっこう)*3
言い放ったそうですから
相当気骨ある人だったのでしょう。
銃弾当たって動けるだけでもすごい(笑)

3位の今出川晴季は別名、菊亭晴季
豊臣秀吉と関係を密にした右大臣で
秀吉に関白任官を勧めた人ですね。
ところが秀吉の甥・秀次に
娘の一の台を嫁がせていたために
秀次切腹事件*4連座して
一時は越後へ流罪となっていました。

2.3.短命ランキング

1位 秋月晴種(あきづきはるたね)享年19歳
2位 蠣崎舜広(かきざきとしひろ)享年23歳
3位 板垣兼富(いたがきかねとみ)享年26歳

前田利家世代で最も短命だったのは
筑前国人領主、秋月文種の嫡男・秋月晴種。
月氏は元々大友宗麟に従っていましたが
離反して毛利元就につきます。
これがきっかけで大友軍2万の大軍に攻められ
奮戦しますが、最期は父と共に自刃します。
ここで一度は衰退する秋月氏ですが
晴種の弟・種実が再興を果たします。

信長の野望・創造 戦国立志伝における秋月種実


2位の蠣崎舜広は後述のランキングで触れます。

3位の板垣兼富は出羽国飽海郡の国人で
大宝寺氏に仕えていた武将です。
しかし大宝寺義増の村山郡侵攻に従軍した際に
討死してしまったそうです。

2.4.子沢山ランキング

1位 前田利家(まえだとしいえ)19人
2位 長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)10人
3位 鳥居元忠(とりいもとただ)8人
前回も書いた気がしますけど
家が大きいほどやっぱ子沢山なんですかね。
というわけで1位は前田利家
前田利家正室といえばまつですが
側室は以下の通りです。

  • 千代保(寿福院)
  • お岩 隆興院 (笠間氏女)
  • お在 金晴院(小塚氏女)
  • お幸和・阿古和 明運院(山本氏女)
  • 阿千代 逞正院
  • 不詳の側室一人

これだけいれば子沢山にもなりますね!
ちなみにまつとの間の子は8人で一番多いです。

2位は石高ランキングでも前田利家に敗れた
長宗我部元親です。

信長の野望・創造 戦国立志伝における長宗我部元親
嫡男の信親豊臣秀吉九州征伐の際に
討死してしまって、自害しそうになるほど
悲しんだ、という話は結構有名です。

そういえば伊達政宗と同い年の香川親和
前回のランキングで登場機会がなく
紹介せずで終わってしまいましたが
長宗我部元親の次男です。
秀吉はこの次男の親和に家督を継がせるよう
朱印状出したんですけど
元親はそれを拒否して
溺愛する四男の盛親に譲るんですよね。
それからしばらくして
親和が病で亡くなってしまいます。
家督相続で少し揉めてた時期だけに
死因については諸説あったりします。

3位の鳥居元忠といえば
徳川家康にとっての股肱之臣的な存在。

信長の野望・創造 戦国立志伝における鳥居元忠

後述のランキングでも登場しますが
関ケ原の戦いの前哨戦である
伏見城の籠城戦の戦いぶりは
元忠の忠節をよくあらわしていて
三河武士の鑑』と称される程でした。
元忠の子孫が改易の危機になった際にも
先祖の元忠の功績によって免れてます。
鳥居元忠はそれだけ徳川家にとっても
大きな存在だったんでしょうね。

2.5.兄弟沢山ランキング

1位 蠣崎舜広(かきざきとしひろ)25人
2位 一条信龍(いちじょうのぶたつ)12人
3位 山岡景宗(やまおかかげむね)6人

子供の多さで競った後は
兄弟の人数でも競ってもらうことに。
これは言うなれば『父の子沢山ランキング』
ということなんですけど(笑)

そして競わせてみた結果
なんと蠣崎舜広が25人の兄弟で1位に。
多すぎじゃない?(笑)

ちなみにこれ自分自身を含めてないので
正確には26人兄弟です。
内訳は男児13人、女児13人という
まさかのバランス(笑)

この蠣崎舜広は蝦夷地の戦国大名である
蠣崎季広(かきざきすえひろ)の嫡男。

信長の野望・創造 戦国立志伝における蠣崎季広

でも前述の短命ランキングで2位でしたよね?
23歳という若さで亡くなってるんです。
これなんでかっていうと
お姉さんに毒殺されてるんです・・・。

お姉さんは蠣崎氏の重臣南条広継
正室として嫁いだんですが
野心があって・・・
家督が欲しかった・・・
つまりそういうことなんです!

しかも嫡男の舜広次男を毒殺した後は
弟の明石元広*5も毒殺。
流石に二人目でバレちゃったんですかね
お姉さんは父・季広に
その罪で自害を命じられます。
兄弟姉妹多すぎると、みんな仲良く
というのも難しいんでしょうか。

2位の一条信龍は甲斐の武田信玄弟。

信長の野望・創造 戦国立志伝における一条信龍

武田二十四将の一人にも数えられ
信玄公からも同じく弟の武田信繁と共に
もっとも信頼していたとも言われています。
武田勝頼の後見役に選ばれてることからしても
信玄公の信頼度が伝わってきますよね。

戦国大名武田氏の家臣団―信玄・勝頼を支えた家臣たち
 

 

3位の山岡景宗は父が信長に仕えた山岡景隆
山岡景隆本能寺の変後に明智光秀の勧誘を断り
瀬田の橋を壊して明智軍の進路を妨害したり
ゲリラ戦を展開して徹底抗戦しました。
父の景隆は後に秀吉とも対立して改易されますが
景宗は秀吉に許されて馬廻衆に。
その恩もあってなのか、秀吉死後も秀頼に仕えて
大坂の陣でも豊臣方として戦っています。
ただし戦後はその罪を許されて徳川氏の臣として
本領を安堵されたというのが、また不思議。

さて、次からは
完全に個人的主観色に染まった
根拠の薄いランキングの始まりです(笑)
異論はいくらでも受け付けます(笑)

2.6.猛者ランキング

1位 福間元明(ふくまもとあき)
2位 松平信一(まつだいらのぶかず)
3位 芋川親正(いもかわちかまさ)

猛者ランキングの個人的イメージは
戦で手傷を負いながらも
多くの首級を挙げた人で
ゲームでいうならPvP強い人?
てなことを意識しながらの結果が
このランキングです。

1位の福間元明
安芸の戦国大名毛利元就の家臣
石見中村城攻めでは2か所傷を負いながらも
敵一人を討ち取ったり
出雲白鹿城攻めでは狭い銀山の坑道内の戦いで
尼子方の武将・身白大蔵を討ち取るなど
多くの戦場で首級を挙げています。

上月城の戦いで捕らえた山中鹿之介*6
連行途中で討ち取ったのも福間元明です。

信長の野望・創造 戦国立志伝における山中鹿之介

腕に覚えがあったためその手の命も
こなしていたのかもしれません。
しかし、その猛者の福間元明豊臣秀吉による
九州征伐において戦死しているのが残念。

2位の松平信一は前述の長寿ランキングでも
2位だった人ですね。
そこで紹介した逸話が2位の決め手です(笑)

3位の芋川親正は信濃国飯綱の国人領主
武田氏の家臣でしたが織田氏が武田氏を滅ぼすと
信濃に入った森長可と対立します。

信長の野望・創造 戦国立志伝における森長可

森長可鬼武蔵と恐れられた戦上手な人ですが
芋川親正は領内の一向宗門徒
反織田勢力を扇動して8千の兵を集めて
一揆を蜂起。
芋川一揆と呼ばれるものです。
しかし先手先手を打つ森長可に為す術なく
1日で2450人の首が討ち取らるという
壊滅的な打撃を受け、一揆勢は瓦解*7
なんとか越後へ逃げ延びた芋川親正は
以後、上杉景勝の家臣となります。

負けてはいるんですけど
あえて戦強者で勢いある織田軍に
喧嘩を仕掛けた辺りが猛者だなと(笑)
ちなみに芋川親正に関する本が
昨年2019年に出版されてたりします。

2.7.主君に一生捧げたランキング

1位 鳥居元忠(とりいもとただ)主君:徳川家康
2位 田中義綱(たなかよしつな)主君:徳川家康
3位 溝口貞泰(みぞぐちさだやす)主君:小笠原貞慶、秀政

主君に一生を捧げるほどの忠義を
最も見せつけたのは鳥居元忠です。
もちろん、これは当社比ですが(笑)

鳥居元忠は子沢山ランキングで
3位だったので、そこで少し触れましたね。
家康に伏見城を任された時点で
死を覚悟していただろうし
家康も大事の時は助からないであろうことを
想定しながらも元忠に任せた。
そう考えるとなんだかエモいし
二人の信頼関係の厚さが伺えます。

そして元忠の最期は
伏見城内に一番乗りした鈴木重朝*8
一騎打ちをおこなって敗れた後、自刃。
最期が一騎討ちていうのが武人っぽくていい。

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2位の田中義綱も徳川家臣です。
家康の父、松平広忠の代から仕えた忠臣で
三河一向一揆でも家康に背く家臣もいる中で
家康に従って敵を退けています。
そして徳川家康が武田軍に圧倒的に敗北した
三方ヶ原の戦いでは、家康を守りながら
勇猛果敢に武田軍と戦います。
しかしここで討死してしまうんです、哀しい。

3位の溝口貞泰は、信濃小笠原氏の家臣です。

信長の野望・創造 戦国立志伝における溝口貞泰

小笠原氏は武田晴信(信玄)の信濃侵攻によって
没落してしまうのですが、天正10年(1582年)の
天正壬午の乱を機に、同じく小笠原氏家臣であった
二木重吉と共に主家再興を実現しました。
その後も小笠原氏の侍大将として活躍したそうです。

2.8.カッコイイ二つ名ランキング

1位 安東愛季(あんどうちかすえ)北天の斗星
2位 島井宗室(しまいそうしつ)博多の三傑
3位 前田利家(まえだとしいえ)槍の又左

二つ名とか渾名のある人は限られてますが
その中でも個人的にカッコイイ二つ名持ちを
選んで競わせてみました。

1位の安東愛季は圧勝です。

信長の野望・創造 戦国立志伝における安東愛季

「北天の斗星」って格好良すぎでは?

「斗星」は北斗七星のこと。
文武に秀で安東氏最盛期を築いた愛季を
『まるで北天に輝く北斗七星のようだ』
褒め称えた言葉なんですね。
信長や秀吉ととも誼を通じながら
極北での地位を固めていましたが
角館城主・戸沢盛安との戦いの際に
陣中で病没したと言われています。

斗星、北天にあり (文芸書)

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ちなみに、この戸沢盛安は
「夜叉九郎」と恐れられた知勇兼備の戦国大名
東北は伊達政宗だけじゃないんです(笑)

信長の野望・創造 戦国立志伝における戸沢盛安


2位の島井宗室は九州博多の商人です。
博多の三傑とは博多の豪商である
神屋宗湛、大賀宗九、島井宗室のこと。

その島井宗室は豊後の大友宗麟に近づき
様々な特権を得ることで
豪商としての地位を確立していきます。
大友氏没落後は織田信長に近づこうとして
天正10年(1582年)5月には
神屋宗湛と共に近江安土城で信長に謁見。
信長は諸外国との貿易を前提に
宗室と宗湛を保護することを約束したそうです。

その後宗室と宗湛は上洛して再び本能寺で
信長に謁見し、本能寺に宿泊します。
そうなんです
二人は本能寺の変に巻き込まれるんです。
麒麟がくる」にも登場するかな?

気骨稜々なり 島井宗室 (小学館文庫)

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3位の前田利家6mを超える派手な槍
持ち歩いていて、初陣以降槍働きで
多くの功を挙げたことから
「槍の又左」または「槍の又左衛門」と
呼ばれて賞賛されました。
又左衛門は利家の通称ですね。

2.9.文化人ランキング

1位 長谷川等伯(はせがわとうはく)絵師
2位 土佐光吉(とさみつよし)絵師
3位 長谷川宗仁(はせがわそうにん)茶人・絵師

前田利家の同級生はなかなか幅広くて
武将以外に文化人だったりお坊さんだったりも
そこそこいるんですよね。
そんなわけで、このフワッとした
ランキングになりました(笑)

1位の長谷川等伯は、この時代を代表する絵師。
洛中洛外図屏風で有名な狩野永徳とは
ライバル関係にあったようです。

その代表作である『松林図屏風』
日本水墨画の最高傑作と言われる程。

そんな長谷川等伯能登の国の生まれで
当時能登を治めていた畠山氏に仕える
下級武士の子と言われています。
畠山氏の治世では小京都と呼ばれるほど
能登の七尾は繁栄していたこともあって
等伯の作品には都でもあまり見られないような
良質の顔料が使われているそうですよ。

 

2位の土佐光吉は堺を拠点に活動した
大和絵土佐派の絵師です。
狩野永徳らに上洛を促されたといいますから
その画力は当時の画壇の間でも
注目されていたんじゃないでしょうか。*9
現存する作品だと
源氏物語を題材とした絵が多いそうです。
ちなみに「麒麟がくる」で向井理さんが演じる
足利義輝肖像画も描いていたりします。

日本の美術 no.543 土佐光吉と近世やまと絵の系譜

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3位の長谷川宗仁は元は町衆ながら
織田信長に仕えて武将となった人です。
戦働きよりも奉行活動が主だったようですが
朝倉義景の首級や武田勝頼らの首級*10
京で獄門にかけてさらし首にする
という役も信長の命でやっていたようです。

そして信長が本能寺の変で斃れた際には
即座に秀吉にその知らせを送ったそうですよ。
そのため秀吉にも側近として重用されます。
しかしそういった武将としての働き以上に
茶人としても名高く名器も所持してましたし
画家としても高い評価を得ていたのです。

2.10.お坊さんランキング

1位 安国寺恵瓊(あんこくじえけい)毛利氏の外交僧
2位 前田玄以(まえだげんい)豊臣政権の五奉行
3位 虎角(こかく)浄土宗の僧侶

文化人ランキングに引き続き
フワッとしたランキングです(笑)

1位の安国寺恵瓊
毛利氏の外交僧ですが
豊臣政権下では
僧侶なのに6万石の大名になった
という説があるので1位にしました。

信長の野望・創造 戦国立志伝における安国寺恵瓊

織田信長の死を予見していて
その後は秀吉が台頭することも予想していた
みたいな話もあったりして
怪僧なんて呼ばれ方をすることもあります。
しかし関ケ原の戦いの行く末は
予想できなかったんですかね。

戦国の交渉人 (歴史新書y)
 


2位の前田玄以
織田信長に招聘された元僧侶。
元僧侶なんですけど
信長の野望とかやってると
お坊さんっぽい雰囲気あるから
お坊さんのくくりでいいんです(笑)

信長の野望・創造 戦国立志伝における前田玄以

織田信忠の家臣として動いていため
本能寺の変に当然巻き込まれています。
しかし信忠に信忠の嫡男・三法師を逃がす
という大役を命じられたために
生き延びることができました。

その後は豊臣政権下でも秀吉に重用されて
五奉行の一人になっています。
家康ともなんだかんだとうまいことやって
関ケ原の戦い後は所領を安堵されてます。
なかなか世渡り上手な人なんですよね。

3位の虎角は正真正銘のお坊さんです(笑)
浄土宗の僧侶で生まれは甲斐の国。
下総国大巌寺(だいがんじ)の住職です。
徳川家康との関係は親密で信任も厚く
書簡も多く交わしているそうです。
ちょっと情報量が少なかったのが敗因(笑)

2.11.名前読めないランキング

1位 淡河定範 おうご さだのり
2位 安東愛季 あんどう ちかすえ/よしすえ
3位 柳川調信 やながわ しげのぶ

ランキング最後の締めくくりはこれです。
昔の人の名前って
そもそも読むの難しい・・・。

今回の前田利家世代の中では
私の中では1位と2位が圧勝なんです。
2位の安東愛季はだいぶ読み慣れたけど
1位の淡河定範は、見る度に
なんて読むのが正しいんだっけ?
となりがちなので1位に(笑)

淡河定範の「淡河」は
”あわが””おごう”
と読む説もあるらしくって
わからなくなるんですよね(笑)

その見事1位に輝いた淡河定範は
播磨国淡河城主で知略に優れた武将

信長の野望・創造 戦国立志伝における淡河定範

三木合戦では秀吉の弟・羽柴秀長の軍中に
牝馬を放って混乱させるという
奇襲作戦で撃退したそうです。

ちなみに2位の安東愛季
既に何度もランクインしていますが
晩年に姓を安東から秋田に改めています。

3位の柳川調信は
対馬国戦国大名宗氏の家老です。
足利義昭との面会や
豊臣秀吉への帰順の使者など
外交面での活躍が顕著で
豊臣・徳川政権だけでなく
朝鮮朝廷からも重んじられたそうです。

対馬宗氏の中世史

対馬宗氏の中世史

 

3.ランキング漏れちゃった同級生たち

ランキングに登場できなかった同級生たちも
ここでサラッと紹介しておきます。
前述の通り、不公平極まりないランキングですし(笑)
バランスをとっておかないといけませんからね!

  • 麻生野慶盛
    飛騨の豪族。吉城郡洞城主。
    武田信玄の家臣・飯富昌景に攻められて降伏。
  • 稲垣長茂
    元は今川義元に属し、桶狭間の戦い後は
    家康と対立していたが、後に徳川直参に。
    上野国伊勢崎藩初代藩主となる。
  • 植村泰忠
    幼い頃に父を亡くして僧となっていたが
    三方ヶ原の戦いで家康に加勢後、還俗して臣に。
    後に勝浦を居城とし勝浦の町の基礎を築く
  • 小倉元悦
    近江の小倉実隆四男。実隆は蒲生定秀三男。
    つまり蒲生氏郷は元悦の従兄弟にあたる。
    小倉氏衰退後は毛利元就に見いだされて側近に
  • 小島政章
    土佐国幡多郡小島の国人。
    主君・一条兼定が家臣によって追放された際は
    追放に加担した家臣らを討ち取った。
  • 里村昌叱
    当時活躍した連歌師の一人。
    父の門人であった里村紹巴*11に養育され
    後にその娘を娶っている。
  • 杉浦久勝
    古くから徳川家康に仕えて三河一向一揆以降
    著名な合戦に参戦し武功を挙げた。
    しかし第二次上田合戦の命令違反が元で自害に。
  • 坪内利定
    鉄砲の名手蜂須賀正勝らと同じ川並衆*12
    秀吉の墨俣一夜城では重要な役割を果たすが
    後に仲違いして徳川家康の家臣に。
  • 長屋就安
    安芸の毛利氏家臣。長屋氏は毛利氏の庶流
    毛利元就に付き従って数々の戦に参戦。
  • 蜂屋貞次
    徳川十六神将の一人
    三河一向一揆の際は家康に背いて一揆方に。
    一揆鎮圧後に許されて再び家臣となるが
    その後の戦の鉄砲傷が元で落命してしまう。
  • 原胤親
    下総千葉氏三代に仕えた家臣。
    上杉謙信*13が父の守るを臼井城を攻撃した際は
    先鋒を務めた記録が残っている
  • 日根野高吉
    切腹の逸話や自作の鎧兜で有名な
    日根野弘就*14の子。
    「諏訪の浮城」と呼ばれる高島城を築城。
    関ケ原の戦いは東軍に属すも直前で急死
  • 村上勝重
    武田信玄を苦しめた事で有名な村上義清の孫
    信長に仕えたが浪人し、後に徳川家康の家臣に。
    数々の軍功を挙げ上野国平塚に千石を領した。
  • 横山長隆
    美濃の国人で元は稲葉一鉄に仕えたが
    同僚と争って越前に逃亡。金森長近の臣を経て
    前田利家の嫡男・利長に仕えて旗奉行となる。
    しかしその後の賤ケ岳の戦いで殿を務めて討死

4.まとめ

前田利家の同級生たちランキングは
いかがでしたか?
楽しんでもらえたでしょうか。
私はかなり楽しめました(笑)

そういえば前回は
斎藤道三織田信長の同級生
とか言っておきながら
前田利家になったのは
直近の戦国大河ドラマ名場面スペシャルが
利家とまつ~加賀百万石物語~」だから(笑)

ともあれ、この記事が
歴史好きになる入口としての役割を
少しでも果たせていたら幸いです。

では今回はこの辺で。
ここまで読んでいただきありがとうございました!


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過去に投稿済みの記事へも
アクセスしやすいです。
こちらから過去記事も読んで頂けると
嬉しいです。

*1:2016年にコーエーテクモゲームスより発売された役しシミュレーションゲーム

*2:現在の秋田県山形県

*3:言葉によって他人の名誉などを傷つける行為。

*4:当時、秀吉から関白を譲られた豊臣秀次が謀叛の嫌疑をかけられ、高野山で自害を命じられた事件。

*5:明石季衡の養子となっていた。

*6:尼子氏の家臣であり、尼子十勇士の一人。尼子家再興のために、「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈ったという逸話で有名な人。

*7:芋川一揆における森長可の働きは「信長公記」に記載されている。

*8:雑賀党の当主。関ケ原の戦いの後浪人するが、伊達政宗の臣を経て徳川家康の直臣となっている。

*9:ただし、何度促されても上洛を断ったらしい。

*10:織田信長甲州征伐によって滅ぼされた武田氏の一族である武田勝頼武田信勝武田信豊仁科盛信の四名の首級。

*11:明智光秀の「愛宕百韻」に参加したことでも有名であり、一時は秀吉に本能寺の変のことを疑われた。

*12:そう呼ばれる国人衆がいたという歴史的事実は無いらしい。

*13:当時は上杉輝虎と名乗っていたが、便宜上「謙信」とした。また、臼井城の戦いは原氏から指揮権を委ねられた白井浄三の軍略によって謙信は大敗している。

*14:麒麟がくる」でも描かれていたが、斎藤道三の二人の子・孫四郎と喜平次を斬殺したことでも有名。