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明智十兵衛光秀の同級生集めていろいろランキング ー1528年世代ー

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明智十兵衛光秀の同級生集めていろいろランキング ー1528年世代ー

戦国時代の人物で同級生ランキング3回目。
今回は2020年NHK大河ドラマ麒麟がくる」の
主人公、明智光秀の同級生を集めて
勝手にランキングです。
明智光秀は生年については諸説あるんですけど
麒麟がくる」での設定をベースにしています。

というわけで今回のお品書きはこちらです。

ちなみに使用してる武将の画像は全て
信長の野望・創造 戦国立志伝」*1のスクショです。

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1.明智光秀の同級生は何人?

明智光秀の生年については諸説あります。

ja.wikipedia.org

Wikipediaを眺めてみると
以下に示す5説あったりします。

  • 永正10年(1513年)
  • 永正13年(1516年)
  • 大永6年(1526年)
  • 享禄元年(1528年)
  • 天文9年(1540年)以降

享禄元年説でも生まれた月日で
諸説あったりもするんですよね。

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だったら全部の説でランキングやる?

ということも考えたんですが(笑)
とりあえず今回は「麒麟がくる」の設定
1528年説を採用して同級生*2を集めました。
※他の説の生年についてやるかどうかはちょっと悩んでいますw

そして1528年に生まれた同級生たちは
明智光秀含めて総勢32名です。

ja.wikipedia.org

 同級生ランキングシリーズの中では
もっとも少ない人数となりました。
十兵衛*3の同級生には
どんな人たちがいるのかな~?ていうのを
ランキングを見ながら楽しんでください。

一応の注意事項

過去の記事を読んだ方はおわかりだと思いますが
個々の情報が全て正確に網羅されてないので
とても不公平極まりないランキングです(笑)
ベースとしているWikipediaの情報も
必ずしも正しいわけではありません。
なので、異論は大いに認めます(笑)

この記事をきっかけに
当時の歴史やその時代に生きた人に
興味を持ってより深掘りする人たちが
増えるような記事になればいいなと
思いながら書いています。

2.明智光秀の同級生たちで勝手にランキング

2.1.石高ランキング

1位 明智光秀(あけち みつひで)34万石
2位 前野長康(まえの ながやす)11万石
3位 宮部継潤(みやべ けいじゅん)8.1万石

今回の石高ランキングはいつもより
少し怪しげですが多めに見てください(笑)

1位は十兵衛こと明智光秀でした。

信長の野望・創造 戦国立志伝の明智光秀

織田信長を本能寺で討つ前の所領です。
丹波一国29万石と近江の滋賀郡5万石
合わせて34万石ってことらしいです。
ちなみに十兵衛の寄騎の所領も合わせると
240万石ぐらいになるそうで
当時十兵衛の勢力が織田家中でも
相当なものだったことが伺えます。
240万石って言われても
あまりピンとこないかもですが
例えば有名な戦国大名の石高の話をすると
武田信玄は最大130万石
上杉謙信は最大145万石
て感じです。
こう比べると凄さがわかるでしょう?
十兵衛がもっとうまく根回しできてたら
『三日天下』とはならなかったかも?

続いで2位は前野長康*4

信長の野望・創造 戦国立志伝の前野長康

豊臣秀吉の古参家臣で
墨俣一夜城の築城に協力して以来
秀吉の片腕の一人として武功を重ねて
出世したんですね。
しかし秀吉の甥で関白となった豊臣秀次
家老となったことでその栄華も終焉に。
豊臣秀次が謀叛の疑いによって
自害に追い込まれると
秀次の肩を持った前野長康
連座して自害を命じられてしまうのです。

3位に食い込んだのは元僧侶の宮部継潤

信長の野望・創造 戦国立志伝の宮部継潤

最初は比叡山で修業して僧侶になったのに
やっぱり武将になりてえんだ!
と言ったのかどうかは知らないけど(笑)、
武将として近江の浅井長政の家臣になります。
でも秀吉の誘いを受けて織田方に。
以降は秀吉の家臣として
特に中国攻めで功を成します。
本能寺の変が起きてから
一刻も早く京を目指したい秀吉が
中国地方を任せたのがこの宮部継潤です。
なので山崎の戦いや賤ケ岳の戦いといった
主要な戦には参戦していないので
あまり目立たないんですけど
中国地方の押さえという地味な仕事で
秀吉の天下事業に貢献した人です。
晩年は秀吉の御伽衆にも列せられました。

2.2.長寿ランキング

1位 立入宗継(たてり むねつぐ)享年95歳
2位 伊奈忠家(いな ただいえ)享年80歳
3位 於大の方(おだいのかた)享年75歳

長寿ランキングで1位だったのは
立入宗継でした。
禁裏御蔵職を預かる商人・官人で
京都御所に毎月酒饌(しゅせん)を納めて
御物(ごもつ)の保管・金銭の出納、
そして年貢米等の管理をしていました。
それだけではなくて
織田信長との関りも深い人です。
織田信長の上洛を画策して
正親町天皇の勅使として
永禄7年(1564年)と永禄10年(1567年)に
尾張へ下向して信長に上洛を促しています。
信長が実際に上洛した際には
天皇の命を受けて
粟田口で出迎えています。
それ以降、朝廷と信長の間の斡旋役に。
また長年に渡って続いた石山合戦でも
織田信長石山本願寺の和睦に奔走しました。

 続いて2位は伊奈忠家
元は徳川家康に仕えていましたが
三河一向一揆一揆方について以来
追われる身となってしまいます。
最終的には徳川家臣に落ち着きますが
それまでにいろいろある人です。
例えば天正3年(1573年)の長篠の戦いでは
松平信康*5の部隊に所属して
武功を上げてそのまま家臣となるんですが
信康が自害させられたために
また徳川家を離れたりとか。
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦でも
井伊直政の部隊に所属して功を上げるんですが
そのまま家臣にならなかったみたいだし
その後は何故か織田信雄の家臣になってます。
戦は徳川勢に加勢するのになんで?
家康のことあんまり好きじゃなかった?(笑)

3位は於大の方
徳川家康の生母ですね。
麒麟がくる」でも少し描かれていたように
家康を生んでからは家康と一緒にいた時間が
少ないんですよね。
実家の水野家を継いだ兄・水野信元が
今川氏から織田氏に鞍替えしたことに
納得しなかった夫の松平広忠
於大の方と離縁して実家へ返してしまい
離れ離れになったことが大きいでしょうね。

 

2.3.短命ランキング

1位 諏訪頼高(すわ よりたか)享年15歳
2位 禰々(ねね)享年16歳
3位 生駒吉乃(いこま きつの)享年39歳

明智光秀の同級生で
もっとも早く亡くなってしまったのは
諏訪頼高でした。
諏訪大社大祝で兄は諏訪頼重
諏訪頼重は娘が武田信玄の側室*6
武田勝頼を生んでいますね。
武田信玄信濃進出によって降伏するんですが
命の保障の約束を反故にされて
兄と共に自害させられちゃいます。
享年15歳。若すぎる。

2位は禰々

信長の野望・創造 戦国立志伝の禰々
たまたまですけどまたしても武田信玄繋がり。
武田信玄の異母妹であり
諏訪頼高の兄・諏訪頼重正室です。
諏訪頼重の下に嫁いだのが天文9年(1540年)、
13歳の時です。
この頃は父・信虎の代で諏訪氏との関係は良好。
ところがその信虎を追放して家督を継いだ
武田晴信(信玄)の代から関係は悪化します。
禰々が嫡男の寅王丸を生んだ数か月後に
武田信玄の諏訪侵攻が始まり諏訪頼重は自害。
禰々はその翌年に16歳で亡くなっています。

短命ランキングの3位は
生駒吉乃でした。
織田信長最愛の人なんて言われたりもします。
織田信長の側室であり
嫡男の信忠や、次男の信雄、
徳川家康の嫡男・信康に嫁いだ徳姫の母です。
”吉乃”という名は小説による創作名で
実際の名前は伝わっていません。
また、信長に嫁ぐ前に一度嫁いでいて
その最初の夫の名が「何某弥平次」
と家譜に記載されているそうですが
これは明智秀満*7のことなのではないか
という推測もあったりします。
吉乃の享年は39歳

短命ランキングで30代後半が3位に入るのは
今回が初めてです。
十兵衛の同級生たちは
何かしら爪痕を残せた人たちが
多かったのかもしれませんね。

2.4.子沢山ランキング

1位 北畠具教(きたばたけ とものり)10人
2位 内藤隆(ないとう たかはる)9人
3位 明智光秀(あけち みつひで)7人
3位 於大の方(おだいのかた)7人

子沢山ランキングでトップを飾ったのは
北畠具教でした。

信長の野望・創造 戦国立志伝の北畠具教

剣術が大好きな伊勢国北畠家の第8代当主
塚原卜伝から剣と兵法を学んで
奥義・一乃太刀を伝授されたとも。
剣術好きが高じて剣聖・上泉信綱
大和の柳生宗厳*8らとも
交流があったそうです。
勇ましい逸話もありますがそれは後程。

2位の内藤隆は周防の大内氏に仕えた重臣

信長の野望・創造 戦国立志伝の内藤隆春

姉が毛利元就の嫡男・毛利隆元正室
毛利氏とも関係が深かった人です。
そのため弘治元年(1555年)の厳島の戦い後に
毛利氏に内通して、内藤氏当主であった
内藤隆世が自害すると内藤氏の当主となり
長門守護代にも就任しています。

3位は十兵衛がランクイン。
でも十兵衛の子供も諸説あって
もっと多いケースもあったりなかったり。
麒麟がくる」だと7人出てくるのかなぁ。
まだ一人目の長女が生まれたばかりですが。

十兵衛と同じく同数の7人だったのが
於大の方でした。
松平広忠との間にできた子は家康のみでしたが
その後嫁いだ久松俊勝との間には
3男3女の6人の子に恵まれました。

2.5.兄弟沢山ランキング

1位 禰々(ねね)21人
2位 於大の方(おだいのかた)14人
3位 内藤隆(ないとう たかはる)11人
3位 伊奈忠家(いな ただいえ)11人

十兵衛の同級生でもっとも兄弟が多かったのは
21人で禰々でした。
武田信玄やその弟の武田信繁、信廉、一条信龍
それから今川義元に嫁いだ定恵院などなど
パッと思いつくだけでも沢山います。

2位は於大の方で14人でした。
父は水野忠政
岡崎城主の松平広忠には
於大の方を嫁がせ
原城主の松平家広には
於丈の方を嫁がせています。
一見すると名前が一緒に見える姉妹(笑)

そして同数で3位が内藤隆春と伊奈忠家で11人。
前述のとおり内藤隆春の姉・尾崎局は
毛利元就の嫡男・毛利隆元正室
毛利輝元を生んでいます。
伊奈忠家の兄弟についてはWikipedia上だと
兄の貞吉が三河一向一揆の後
和泉国堺に移り住んだという話ぐらいしか
わかりませんw

2.6.猛者ランキング

1位 内藤正成(ないとう まさなり)弓の名手
2位 北畠具教(きたばたけ とものり)剣豪大名
3位 明智光秀(あけち みつひで)麒麟がくる』だと剣豪っぽいw

十兵衛の同級生の中でもっとも猛者である
と私が見定めたのは(笑)、内藤正成でした。
徳川家康の家臣で徳川十六神将の一人です。
武勇に優れる弓のスペシャリスト
三河一向一揆の際には敵兵の両膝を射抜いたり
三方ヶ原の戦いでは敵の武田方が
その強弓に恐れおののいたそうです。

そして2位は剣術大好きな大名・北畠具教
剣術家との交流も盛んだった北畠具教ですが
織田方の刺客に襲われた際には
19人の敵兵を斬り殺し100人に手傷を負わせた
という話もあったりします。
ちょっと話盛られてそうだけど(笑)

そして3位は十兵衛です。
今回の明智光秀は「麒麟がくる」の光秀を
イメージしてるので、劇中での戦いぶりから
3位に選んだっていう明らかな贔屓目です(笑)
1位にしなかっただけマシですね(笑)

2.7.知勇兼備の名将ランキング

1位 明智光秀(あけち みつひで)織田家中一の出世頭
2位 宮部継潤(みやべ けいじゅん)秀吉不在の中国地方を任される
3位 佐久間信盛(さくま のぶもり)織田家筆頭家老

知も勇も兼ね備えた名将といえば
1位は明智光秀にするしかなかったですw
フロイス日本史」には光秀のことを
「その才知、深慮、狡猾さにより
信長の寵愛を受けた」
と書かれていますしね。
『狡猾さ』とか『裏切りを好む』とか
いまいち褒めてるのか批判してるのか
わからないところではあるけれど(笑)

2位は宮部継潤です。
鳥取城攻めでの毛利方援軍・吉川元春と渡り合い
豊臣秀吉の九州平定における島津氏との戦いでも
勇将と名高い島津家久軍を撃退しています。*9
九州平定時の戦いぶりには秀吉も
「法印(継潤)事は今にはじめぬ巧者ものなり」
と賞賛したほどなのです。

3位は佐久間信盛がランクイン。

信長の野望・創造 戦国立志伝の佐久間信盛

平手政秀が自害して以降の織田家中を
仕切っていたのが佐久間信盛
織田家筆頭家老として
主要な戦で武功を上げていたんですが・・・。
続きは後続のランキングでw
そういえば「麒麟がくる」でも放送中断前に
ちょうど登場しましたね。

2.8.国を追われた人たちランキング

1位 岡本正親(おかもと まさちか)国人家臣から独立
2位 石川晴光(いしかわ はるみつ)蘆名・田村・佐竹氏の板挟み
3位 渥美友勝(あつみ ともかつ)刃傷沙汰起こして出奔
4位 伊奈忠家(いな ただいえ)三河一向一揆一揆方に

国を追われた人ランキングっていうのは
何かしらの理由で追放されたり
所領から離れざるをえない状況にあっても
奮起した人たちのランキングです。
結果ダメだったとしても
過程を評価するランキングですw

そして1位に輝いたのは岡本正親
岡本正親は祖父の代以来
下野の国人・塩谷氏の重臣
姉は主君・塩谷義孝の側室でした。
この側室の姉が長男・義通を生んだことが
きっかけで岡本正親は追放されちゃいます。
塩谷義孝の正室の子で義通の弟にあたる義綱に
疎まれてしまったんです。
追放されてからは皆川広照に仕えるんですが
沼尻の戦い*10で二人の息子を亡くしてしまい
二人を弔うため出家してそのまま高野山へ。
以後は、京で隠遁生活をしていた正親ですが
かつて奥州遊覧中に助太刀した謡曲師道慶
再会して、その伝手で豊臣秀吉と面会します。
その結果、正親は塩谷氏の家臣として
復帰することができたのだそうです。
その後小田原征伐では塩谷氏の名代として参陣
この参陣の功によって岡本正親は
塩谷氏から独立した領主として泉15郷3800石
所領として秀吉から認められます。
一度は所領を追われる身であったのに
主君の頭を跳び越す出世をしちゃったんです。
ただ後々孫の義保が起こした泉騒動が発端で
岡本家は改易となっちゃうんですけどね。

2位は陸奥戦国大名石川晴光
蘆名氏、田村氏、佐竹氏の三つ巴の争いに
巻き込まれる形で所領を削り取られ
再三にわたって居城・三芦城を
奪い取られては奪還し
というのを繰り返しています。
ちょっとどこかの不死鳥(小田氏治)を
想起させますw
ちなみに晴光の後を継いだ昭光は
養子で伊達晴宗の四男です。
伊達晴宗は伊達政宗の祖父なので
昭光は政宗の叔父にあたりますね。
この奥州の血縁関係は一度
しっかり整理してみたい・・・w

3位は徳川家康家臣の渥美友勝
家康の父・松平広忠の代からの家臣ですが
広忠の代の時に刃傷沙汰を起こして
自害しようとするんですが
広忠から慰留されたために
尾張へ出奔するんです。
尾張では織田信長に仕えていましたが
桶狭間の戦いでは家康に今川義元の戦死を
伝えて岡崎城への撤退を促したそうです。
その後は再び徳川氏の家臣に復帰し
三河一向一揆鎮圧を始めとした
家康の主要な戦に従軍して功をあげています。
また鷹狩りを嗜んでいたために
家康から放鷹を許されたばかりでなく
ハイタカハヤブサを1羽ずつ
与えられたそうです。

4位の伊奈忠家は既に触れてる通り
三河一向一揆一揆方に加勢したために
追われる身となった人ですが
紆余曲折経て最終的には
徳川氏の家臣に復帰しています。

2.9.権力者の怒りを買ったランキング

1位 佐久間信盛(さくま のぶもり)織田信長
2位 前野長康(まえの ながやす)豊臣秀吉
3位 平賀広相(ひらが ひろすけ)大内義隆
番外 池田景雄(いけだ かげかつ)豊臣秀吉
番外 神保氏張(じんぼう うじはる)神保長職

今回のこのランキング、
光秀入ってないのはおかしくない?
と思う方もいるかもしれません。
昔から有名な逸話がいくつかありますけど
いずれも後世の創作と言われてたりするので
あえて外しています。

光秀を外した中で1位に輝いてしまったのは
信長から19カ条の折檻状をつきつけられた
佐久間信盛です。
織田信長の若かりし頃から
織田家を支える重臣だったのに
突然追放されてしまいます。
信長自身に積年の不満があったのが爆発した
というのが真相なんですかね。
信長さまのお怒り具合については
下記折檻状を読むとよくわかります。

ja.wikipedia.org

ただ信盛側の弁明が全くないので
書かれている通り全て信盛が悪いのか
ていうのは謎なところです。

2位は前野長康です。
前野長康は最初に触れたとおり
謀叛の嫌疑にかけられた豊臣秀次
弁護したとことによって
連座して罪に問われてしまいました。

3位は安芸の国人、平賀広相

信長の野望・創造 戦国立志伝の平賀広相

平賀氏は大内氏に属していたんですが
尼子氏が安芸に侵攻すると父・興貞が
尼子氏に通じてしまいます。
そのことが大内義隆の勘気に触れます。
家督を継いだ兄・隆宗が戦死しても
大内義隆は次男の広相に家督を継がせず
小早川氏出身の平賀隆保を養子として
継がせてしまうのです。
しかし大寧寺の変により義隆が自刃すると
広相は祖父と共に挙兵します。
毛利元就の支援も受けて平賀隆保を滅ぼして
家督を奪還、以降は毛利氏に仕えます。
天文24年(1555年)の厳島の戦いの前哨戦では
陶晴賢側の使者を捕らえて
毛利元就陶晴賢討伐を決断させたそうです。

そして今回は番外で2人入れちゃいました。
番外としているのは明確に怒りを買ったかどうか
不明だったり元々敵対しているし・・・
ていうので番外編に。

一人目が池田景雄です。
池田景雄は近江の国人で六角氏の家臣でした。
しかし観音寺騒動*11を境に六角氏とは袂をわかち
後々、織田信長に属しています。
本能寺の変後は、明智光秀に属していて
山崎の戦い明智方として参戦しています。
しかしいつの間にやら羽柴秀吉に属して
賤ケ岳の戦いや小牧・長久手の戦い等で
功を上げています。
問題の怒りを買ったかもしれない話というのは
またしても豊臣秀次に関することです。
秀次は謀叛の嫌疑をかけられて
高野山に追放されるんですが
その秀次の下に検使として福島正則、福原長尭
そして池田景雄の3人が派遣されます。
この時に一番年長の景雄が
自害を促したため秀次は切腹したのではないか
という話があります。
というのも秀次切腹前は
7万石だった池田景雄の知行が
秀次切腹後に伊予の今治2万石転封
かなり減封されているんです。
実際そうなのか明確な根拠になる史料は
ないみたいですけどね。

そして番外編二人目の神保氏張

信長の野望・創造 戦国立志伝の神保氏張

神保氏張は越中守山城主、古国府城主。
越中守護代神保長職と敵対関係にあって
畠山家臣や越中一向一揆と連携して
越後の上杉氏に敵対したことから
神保長職から知行を没収されてしまうんです。
その後は上杉謙信織田信長と渡り歩いて
信長に越中を宛がわれた佐々成政に仕えます。
ちなみに妻は織田信長の姉*12だったんですが
後に離縁しています

2.10.お坊さんランキング

1位 岡本禅哲(おかもと ぜんてつ)佐竹氏三代に仕える
2位 宮部継潤(みやべ けいじゅん)比叡山で修業
十兵衛の同級生にお坊さんはあまりいなくて
宮部継潤も”元”がついちゃうけど
そこはお許しくださいw

1位は岡本禅哲

信長の野望・創造 戦国立志伝の岡本禅哲

常陸戦国大名佐竹氏の家臣。
佐竹義篤・佐竹義昭佐竹義重
三代に渡って仕えた重臣の一人です。
娘を佐竹氏一族に嫁がせていたので
一門衆同様の扱いをうけていたそうです。
主に外交で活躍し、主君に代わって
公的文書の発給もしてたそうです。

2位の宮部継潤は度々登場してるので
今回は割愛します。

2.11.文化人ランキング

1位 岡本禅哲(おかもと ぜんてつ)和歌の達人
2位 明智光秀(あけち みつひで)和歌・茶の湯を嗜む文化人
3位 北畠具教(きたばたけ とものり)剣と和歌を嗜む

文化をよく嗜んでいて極めてそうな人たち
という意味合いでのランキング。

1位は岡本禅哲和歌の達人だったそうです。
教養にも長けていて足利義昭細川幽斎*13とも
交流があったそうです。

2位は十兵衛こと明智光秀
和歌、茶の湯を好み連歌会も茶会も
何度も主催しています。
有名なのは愛宕百韻ですよね。
信長を討って天下に号令するという意味が
込められていたとかなんとかのアレです。
でもこの時の連歌は奉納されているため
信長親子も知っていたんじゃないか
と言われています。
信長が目にするものに
わざわざ深い意味を込めちゃうかなぁって
素人的には思っちゃいます。

3位は北畠具教
剣術を嗜みつつ和歌も嗜んでいたそうです。
北畠氏は元は公家で公家大名って言われるし
和歌ぐらいは教養として当たり前だったかも。

2.12.カッコイイ渾名ランキング

1位 朝比奈信置(あさひな のぶおき)戦国の三駿河
2位 内藤正成(ないとう まさなり)徳川十六神将
3位 佐久間信盛(さくま のぶもり)退き佐久間
4位 鈴木重時(すずき しげとき)井伊谷三人衆

渾名がカッコいいかどうかは
人ぞれぞれかもしれません(笑)

1位は朝比奈信置で「戦国の三駿河

信長の野望・創造 戦国立志伝の朝比奈信置

朝比奈信置は元は今川家臣で後に武田家臣に。
朝比奈親徳が父と言われています。
麒麟がくる」でも登場している重臣ですね。
用兵に長けた軍略家として『甲陽軍鑑』にも
名を挙げられているほどです。
織田信長甲州征伐で武田勝頼が自刃後
信長によって自害を命じられてしまいます。

2位は内藤正成です。
徳川十六神将の『神将』自体が
パワーワードな気がしますw

3位は折檻状の佐久間信盛
殿を得意としていたので「退き佐久間」
評されました。

4位は鈴木重時井伊谷三人衆
「おんな城主直虎」を見ていた方は
ご存知なのかなと思いますが
この三人衆って別に強いとかいうのじゃなくて
家康の遠州攻めの際に徳川方へ寝返った
近藤康用菅沼忠久、そして鈴木重時
三人を指しているだけの言葉ですw
でも、遠州の武将は今川氏に対する忠誠が
厚い人たちが多いと思われていたそうので
3人の寝返りに今川氏真は衝撃を受けたのかも。

ちなみに肝心の今回の主役の十兵衛に
カッコよさげなあだ名が無いのが可哀そうです。
「キンカ頭」とか「三日天下様」とか・・・。
主君・信長を裏切ったっていうこともあって
悪いイメージが先行しがちなんでしょうけど
もっとカッコいい渾名をつけてあげたい!

2.13.裏切りランキング

1位 明智光秀(あけち みつひで)主君・織田信長
2位 魚住景固(うおずみ かげかた)主君・朝倉義景
3位 伊地知重興(いぢち しげおき)主君・島津貴久
4位 関成重(せき なりしげ)主君・斎藤氏、織田信雄

不穏なランキングがやってきました(笑)
「裏切り」っていう言葉自体がよくないけど
そうせざるを得なかった事情もあるわけで
一概に否定するのはよくありませんよね。

1位は文句無しでしょう。
十兵衛を超える人はいるだろうか?w
当時もっとも天下人に近かった人を
裏切って討っちゃいましたからね。
Twitterとかあったら間違いなく
本能寺、明智光秀織田信長の3つが
トレンドTOP3になったでしょう(笑)

2位は朝倉義景を裏切った魚住景固

信長の野望・創造 戦国立志伝の魚住景固

魚住景固は一乗谷の奉行人として
朝倉氏を支える活躍をしていましたが
姉川の戦いでは命令に背いて
部隊を動かさなかったんですよね。
そして朝倉氏が滅亡寸前の頃には
織田信長に寝返ってしまい
越前への道案内役も務めています。
しかし朝倉氏が滅亡した後に
一揆を起こした富田長繁によって
謀殺されてしまいます。
魚住景固は領民には慕われていたそうで
何の理由もなく景固を殺害した
富田長繁はこの謀殺をきっかけに
求心力を失います。

3位は大隅国の国人、伊地知重興です。

信長の野望・創造 戦国立志伝の伊地知重興

伊地知氏の9代当主で父の重武は
島津宗家の家老職を務めていました。
ところが伊作島津家の島津貴久
宗家を継いでから永禄年間には
肝付兼続、禰寝重長と同盟を結んで
反旗を翻しています。
しかし最終的には全領地を差し出して
剃髪の上、島津氏に降伏し
その後は島津氏家臣として
日向国の伊東氏や豊後の大友氏との
戦で活躍しています。

4位は関成重
なんで4位という中途半端な状態で
載せてるのかはいろいろ察してくださいw
関成重は元は斎藤道三の家臣でした。
しかし時期理由共に不明ですが
織田信長に鞍替えしています。
元亀元年(1570年)の浅井長政との戦いで
功を上げて尾張一宮に知行を得ました。
本能寺の変後は織田信雄に属してました
小牧・長久手の戦いで子の成政が
秀吉方に離反したのに合わせて
成重も秀吉方についたようです。*14

ちなみに息子の関成政の方が
織田信長に重用されてたっぽい。

2.14.名前読めないランキング

1位 北畠具教(きたばたけ とものり)
2位 於大の方(おだいのかた)
3位 生駒吉乃(いこま きつの)

今回の名前読めないよランキングですが
個人的にはコレっていう人はいなかったです。
ですが、初めて名前を見た時の感覚を
思い起こしてランキングしてみました。

1位は北畠具教
今じゃ普通に読んじゃいますけど
初めて見た時は”具教”って
どう読むのかさっぱりわかりませんでした。

2位の於大の方
逆に字が簡単すぎて
裏を読み過ぎて読めなかったパターンですw
たとえば穴山信君って
「あなやまのぶただ」ですからね、読み方。
こういう例がいくつもあるので
「大」は私の知らない読み方なのでは
と思うのも仕方ありません(笑)

3位の生駒吉乃は、創作名なので
なんかちょっと違うかなぁと思いつつも
他に3位に食い込んでくるような
名前が無かったんですw
「吉乃」を「きつの」とは最初は
読めなかったですね。
「よしの」って読んでた気がしますw

3.ランキング漏れちゃった同級生たち

今回惜しくもランクインできなかった
同級生たちも、ここで一挙に紹介します。

4.まとめ

明智光秀の同級生で勝手にランキング
いかがでしたか?

ちなみにちょっと気になって
享年の平均値を出してみたんですが
今回の十兵衛の同級生は59.3歳
今までやった年代の中で一番長寿でした。

逆に平均寿命が最も低かったのが
伊達政宗の世代1567年代
49.7歳だったんですよね。

これも当時生きてた人全員の平均じゃないので
これだけ見てこの世代長生きじゃん
ていうのは安直だしアホなんですけど(笑)、
その辺は抜きにして面白い結果です。

伊達政宗の生きた時代の方が戦は少ないし
長生きな人が多くても良さげなんですけどね。

さて次回は明智光秀の生年別説ではなく
麒麟がくる」に登場する主要人物の生年で
同級生ランキングをやると思います。
細川藤孝織田信長辺りが有力です。
とか書いてたら二人は同級生でしたw

では今回はこの辺で。
ここまで読んでいただきありがとうございました!


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こちらから過去記事も読んで頂けると
嬉しいです。

*1:2016年にコーエーテクモゲームスより発売された役しシミュレーションゲーム

*2:同級生は基本的に日本人のみを対象としています。

*3:十兵衛は明智光秀の通称。

*4:本名は坪内 光景。

*5:徳川家康の嫡男。妻は織田信長の娘・徳姫。武田方との密通の嫌疑によって織田信長の命により自害させられてしまう。

*6:諏訪御料人。小説だと湖衣姫、由布姫の名で呼ばれたりするが実名はわかっていない。

*7:明智秀満は当初、三宅弥平次と名乗っていた説がある。

*8:柳生新陰流の兵法家。子が柳生宗矩、孫が柳生十兵衛

*9:天正15年(1587年)の根白坂の戦。

*10:後北条氏と佐竹氏・宇都宮氏連合軍による戦い。皆川広照は連合軍方。ちなみにこの戦で使われた鉄砲は8000挺以上で長篠の戦いにおける3000挺を優に上回っていた。

*11:六角義治が長年に渡り六角氏に尽くしてきた後藤賢豊とその子・壱岐守を謀殺した事件。人望の厚かった後藤賢豊の暗殺は六角家中の結束を崩してしまい六角氏は衰退していく。

*12:神保氏張の後は稲葉良通(一鉄)の嫡男・貞通の妻となった。

*13:明智光秀大親友、細川藤孝のこと。

*14:秀吉方へ寝返ったという明確な史料があるわけではなくて、裏切らなかった次男の長尚は処刑されていることから考えての推測らしい。