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「麒麟がくる」第37話は新時代の到来に戸惑いを見せる明智十兵衛光秀の回

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「麒麟がくる」第37話は新時代の到来に戸惑いを見せる明智十兵衛光秀の回
麒麟で学ぶ」第37回目です。
今回の記事を読むと以下の事がわかります。

  1. 信長さまと敵対した公方さまの足取り
  2. 三好一派の最期
  3. 織田方に寝返った浅井家重臣
  4. 朝倉滅亡に拍車をかけた戦い
  5. 蘭奢待切取りまでにカットされた出来事
  6. 蘭奢待切取りは不吉w
また今回は配役有りで亡くなった人物が5人いるので没した登場人物たちの節に追加しています。
5人全員わかりますか?
一人は今回触れられてもいないので難易度高いかもですがw

さて本シリーズの前提事項的なものを毎回0章に記載していますので、初めて本シリーズの記事を読む方はさらっと一読していただけると助かります。
既に読んだことのある方は読み飛ばして頂いてかまいません。

また前提の一番最初に記載していますが本シリーズは「麒麟がくる」のネタバレを含みます
当日の放送や再放送も見逃してまだ視聴されていない方はU-NEXTまたはAmazonプライムビデオNHKオンデマンドをチャンネル登録すると見逃し分を視聴できます。
こちらで視聴した上で本記事を読まれるといいかもしれません。
※2020年3月からNHKオンデマンドに元々あった最新作の「見逃し放題パック」と過去作の「特選見放題パック」が
統合されて「まるとご見放題パック」となったため最新作から過去作までいつでも見れるようになりました。

※本記事掲載のAmazonプライムビデオおよびU-NEXT配信情報は、2021年3月31日時点のものです。
最新情報については各サイトにてご確認ください。

しかしネタバレ含んでいるけど、本記事を読んでから視聴すると少し前提知識が入った上での視聴になるのでそれはそれでいいのかもしれませんけどね。

そして「麒麟で学ぶ」の過去分についてはこちらからどうぞ。

tsukumogatari.hatenablog.com

では今回のお品書きはこちらになります。

ちなみに2019年12月15日から更新中の
麒麟がくる」公式サイト公式Twitterもブックマーク、フォローしておくと
より一層「麒麟がくる」を楽しめると思いますので
まだの方は是非とも。
→2021年3月31日をもって公式サイト・TwitterInstagramは天に召されました。
1年以上に渡って「麒麟がくる」を盛り上げて下さり、ありがとうございました!

0.本記事を読むにあたっての前提など

1.「麒麟がくる」第37話「信長公と蘭奢待(らんじゃたい)」からの学び

第37話の感想はnoteの方に先出しで書いているのでそちらをご参照ください!
note.com

というわけで、さっさと本題の方へ。

ちなみに第37話の公式サイトのトリセツはこちらです。
今回は浅井・朝倉滅亡後の織田家勢力図。
何気に越前が一向一揆に支配されているの、ポイントですねw
あと六角氏もまだ健在なんですよ~。

→2021年3月31日をもって公式サイト・TwitterInstagramは天に召されました。
1年以上に渡って「麒麟がくる」を盛り上げて下さり、ありがとうございました!

登場人物の年齢のおさらい

三好長慶と松永久秀を守る明智光秀、三淵藤英、細川藤孝

まずは主な登場人物たちの年齢確認を。
今回は元亀4年(1573年)3月スタート
というわけで年齢は全員1年繰り上げ。
追加した人物は赤字にしています。
また前回の話の中で亡くなったと判明した人物に関しては、こちらの一覧からは削除して後述の亡くなった人を弔う章に引き続き掲載する形にしています。

ちなみに生年不明な人や年齢設定不明な人以外の生年については、Wikipediaをベースにしています。
あと基本的に全員数え年の年齢です。

1.1.崩れる信長包囲網からの学び

武田信玄最後の戦い・野田城の戦い
京を目指す武田信玄だったが途中で病に倒れる
信長さま最大の敵とも言われる武田信玄
三方ヶ原の戦いで織田・徳川連合軍に圧勝。
徳川方の菅沼定盈らが守る三河野田城も一か月ほどで落城。
野田城三河にとって重要な防衛線の一つだったので徳川方は慌てふためいたことでしょう。
武田軍の前に織田・徳川連合軍は為す術無しなのか?
誰も止められそうもない武田軍は一直線に京へ向かうと思いきや・・・
ここで急遽Uターンしてしまいます。

野田城はさほど堅固なお城でもなかったし徳川方500程度の兵力に対して、武田方は3万。
兵力差も圧倒しているにも関わらず力攻めはおこなわず、水手を切って降伏開城を狙うという消極的な策をとっていました。
これには既に武田信玄の病が悪化していたため強硬策をとれなかったと言われています。
また、野田城包囲中には武田信玄が敵方に狙撃されてその傷が原因で亡くなったなんていう話もあったりします。

いずれにしても武田信玄が病に伏してしまったことで武田軍は西上作戦を中断せざるをえない状況に。
そして野田城から回へ戻る道中で武田信玄は亡くなってしまいます。
享年53歳でした。
『自分の死は3年秘匿せよ』という信玄の遺言は有名ですよね。

この武田軍の西上作戦中断は第二次信長包囲網を布いている面々には大きな痛手だったはずです。
特に押され気味だった浅井氏にとっては東から武田軍が攻めてくれれば形勢逆転のチャンスもあったでしょうしね。

信長公記」による将軍・足利義昭の戦い
織田信長に敗北し捕らえられた足利義昭
信長さまから突き付けられた17カ条の異見書を発端として信長さまと敵対することを決めた公方さまこと、足利義昭
武田信玄が京へ上るという話もあって、もはや信長さまの命運も尽きたばかりにいきまいていましたが・・・。
麒麟がくる」では武田軍の突如のUターンから公方さまの敗退までサラッと描かれてしまったので、「信長公記」ベースにもう少し公方さまの戦いの変遷を詳しくみていきましょう。

まず信長さまは敵対した公方さまに対して元亀4年(1573年)正月に和睦の申し入れをしています。
人質として自身の子を送ろうともしていましたが、足利義昭はこの和睦に応じませんでした。
それどころか、幕府の軍勢を今堅田と石山の城に送り込んで織田方との対決姿勢を一層露わにします。

この今堅田と石山に入った軍勢を叩くために、2月20日柴田勝家丹羽長秀、蜂屋頼隆、そして明智十兵衛光秀が出陣します。
十兵衛はこの堅田・石山の戦いで比類なき戦いぶりを見せているんですけれども、「麒麟がくる」ではこの戦いがあったことすら触れられませんでしたねw
この辺は「麒麟がくる」における十兵衛と公方さまの関係性から省かれたのか?なんて勘繰ったりしてしまいました。
麒麟がくる」だとなんとなく藤吉郎が対公方さまの先鋒的役割で描かれてますし。

さて、今堅田・石山の両城は数日で陥落してしまいます。
その翌月3月25日には、幕府方であった細川藤孝荒木村重が織田方へ鞍替えしています。
さらにその翌月4月3日には、信長さまは再度和睦の使者を公方さまへ送っています。
ここでも、公方さまは和睦を拒否します。
ちょうどこの頃は、武田信玄が病に伏して西上作戦を取りやめて甲府へ戻ってる際中ぐらい。
その辺の事情はまだ知らないでしょうから武田信玄が京へくるまでは、という気持ちが公方さまにはあったのかもですね。
しかし翌日の4月4日に織田方が二条城を包囲し上京の町を焼き払うと、公方さまも諦めて和議に応じる旨を書状を出します。
信長さまもこれを聞き入れて4月6日は異母兄・織田信広を代理として派遣して、和睦が成立しています。

ただ信長さまも、この和睦がいつまでも守られるとは思っていなかったようです。
また公方さまが敵対して挙兵した場合に備えて、琵琶湖に大きな船を建造しています。
信長さまは琵琶湖を防衛戦線として公方さまが挙兵することを予想していた、というわけです。
「大きな」だとどの程度かよくわからないと思いますが、「軍勢5千でも3千でも一度におし渡れるように」とあるので、その辺でイメージしてくださいw
船の完成が7月3日とあるので、4月ぐらいから作り始めたとしたら3か月ほどで工完したということでしょう。
船ってどれぐらいで建造できるのかがよくわかってませんがw

そして信長さまの予想は的中します。
船の完成から2日後の7月5日に公方さまが再び挙兵したのです。
二条城に日野輝資、高倉永相、伊勢貞景、三淵藤英を置きつつ、公方さま自身は槇島城で陣を構えます。

その報を聞いた信長さまは翌日の7月6日には例の大船に乗って大軍を率いて琵琶湖を渡り坂本に着陣。
7月7日には入京して二条の妙覚寺で陣を据えて、二条城を包囲します。
あまりにも早く大軍がやってきたことに肝をつぶしたのか、二条城を守る日野輝資らは人質を出して次々に降伏する者が続出します。
それでも最後まで二条城に立て籠もっていたのが三淵藤英。
しかしその三淵藤英も7月10日には柴田勝家の説得を受けて、ようやく二条城を開城します。

二条城開城から1週間ほど経った7月16日。
信長さまは公方さまの立て籠もる槇島城へ向けて進撃を開始。
槇島城は巨椋池おぐらいけ)という巨大な池沼がかつては存在していて、そこに浮かぶかのように建てられていたのが槇島城です。
所謂要害のお城であり、公方さまもこの城ほど優れた城郭は無いと思って槇島城での籠城を選択しました。
また、その付近には宇治川が流れていて当時は宇治川の水かさも増していて濁流が激しかったそうです。
それでも信長さまは自ら先陣を切って川を渡る決意を示し、川上と川下の二手に分かれて渡河する命を出します。
この二手に分かれて渡河したのは、平安時代末期の源頼朝軍と源(木曽)義仲軍の間で行われた宇治川の戦いに倣ったそうです。
源頼朝方の佐々木高綱梶原景季による宇治川の先陣争いで有名なやつです。

ちなみに先陣争いをした二人は川上側から渡ったんですが、織田方ではこの川上方面を担当したのが稲葉良通安藤守就、不破光治、丸毛長照など美濃の国人衆が主。
川下からは佐久間信盛柴田勝家木下藤吉郎*1といった信長さま古参の家臣に加えて、細川藤孝や十兵衛が加わっています。
また、細川藤孝の息子・忠興や蒲生賢秀の子で信長の娘を娶ることになる蒲生氏郷も従軍していたようで川下側から渡河したメンバーとして記載があります。

7月18日巳の刻*2に二手に分かれた軍勢は一気に渡河を開始。
まさに両者先陣を争うがの如くだったのでしょう。
水が大いにうねる大河でありつつも信長さまの威光もあって難なくおし押し渡ったそうですw

難所を越えた勢いで槇島城へ向かった織田の軍勢。
城から出た足軽兵を佐久間信盛、蜂屋頼隆らが撃退した上で、織田軍が槇島城を包囲します。
四方から城の外構えを乗り破り、火を放って攻め立てます。

もはや絶体絶命の公方さま。
麒麟がくる」では藤吉郎に捕らえられる形で敗北を喫した公方さまでしたが、「信長公記」によると公方さまの嫡子を人質として出した上で降伏しています。
嫡子は義尋(ぎじん)、生年は元亀3年(1572年)。
つまりこの槇島城の戦い当時はまだ数えで2歳です。
信長さまに預けられてすぐに出家させられたらしいです。
麒麟がくる」だと生まれていない感じですねw

そして捕らえられた公方さまは三好義継の居城である若江の城に、藤吉郎の警固によって送られた、というのが「信長公記」の記述。
麒麟がくる」だと枇杷庄(びわのしょう)、現在の京都府城陽市にいましたよね。

公方さまは京から追い出された後、一端は枇杷庄に退いたそうです。
その後、本願寺顕如の仲介があって若江城に移動。
若江城主の三好義継は、足利義昭の妹を正室としているので、公方さまからすると妹婿で縁戚関係にもあるわけです。
まだ諦めていない公方さまに同調した三好義継は信長さまに討伐されてしまい、その後、公方さまは若江から紀伊、備後の鞆へと移ります。
第37話では、若江城に移った辺りのことが描写されず蘭奢待の話まで飛んでしまいました。
もしかしたら次回以降、この辺のことが描かれるのかもしれませんね。

いずれにしても忘れてはならないのは、公方さまは未だに公方さまであるということです。
信長さまは京から追い出すことはしても、将軍職の座を奪うことはしなかったんですよね。
信長さまに敗れた時点で室町幕府自体は瓦解したも同然ですが、公方さま自身が辞する天正16年(1588年)まで将軍として在任しています。

三好三人衆の終焉

多少なりとも「麒麟がくる」で脚光を浴びたと思いたい三好一派。
三好一派の中でも三好長慶亡き後に三好家を引っ張ってきた三好長逸三好宗渭岩成友通三好三人衆は今回をもって退場ということになります。
といっても今回岩成友通の名が出てきたぐらいで、実際どうなったの?という感じかもしれません。

今回の話の中で岩成友通の守る淀城を細川藤孝と三淵藤英で攻め落とせという命が信長さまから出されていましたよね。
公方さまに付いた兄・三淵藤英と信長さまに付いた細川藤孝
岩成友通はこの淀城の戦いで討死しています。

信長公記」によると淀城は公方さまの命によって、岩成友通、番頭大炊頭(ばんがしらおおいのかみ)、諏訪飛騨守の三人が立て籠もっていたそうです。
そのうち番頭大炊頭と諏訪飛騨守は藤吉郎の調略によって織田方に内通。
細川藤孝に命じて淀城攻めを行わせたのがこの二人の内通後です。
岩成友通は織田方に内通した二人に騙されて城を出撃してしまい、そこへ細川藤孝の家臣・下津権内(しもづごんない)が岩成友通に組み付いて首を取ったと記されています。
信長さまは岩成友通の首級を挙げたことを大層喜んで、信長さま着用の羽織を褒美にあげたそうです。

三好三人衆岩成友通はこれにて退場ということなわけですが、三人衆の他の二人はどうしちゃったんですかね?
実は三好三人衆で行方がこの時点でわかっているのは、岩成友通だけなんですよね。
三好家の長老でもある三好長逸は本人が発給した書状が残っている元亀元年(1570年)以降の詳細がわかっていません。
討死した説もあるそうですが、それを証明する史料も残っていないそうです。
また三好宗渭は永禄12年(1569年)5月に阿波で亡くなった説と消息不明でいつ没したのかわからない説があるそうです。
いずれにしても、主だった記録が残っていないことから考えると岩成友通の討死によって三好三人衆は終焉を迎えたのだろうということです。

山城の一乗山城
菊丸から信玄が亡くなった報せを受ける明智十兵衛光秀
信長さまが新たな元号で悩んでいるところへやってきた十兵衛。
山城の方はどうか?と聞かれていました。

公方さまが捕らえられた後も、公方さまに味方をしていた諸将はまだ交戦の構えを見せていたわけで、前述の岩成友通も然り。
十兵衛が話していた一乗山城には、渡辺昌と磯貝久次の二人が立て籠もっていた、と「信長公記」にはあります。
二人とも降参して城を退去するんですが、磯貝久については紀伊の国の山中で隠れていたところを発見されて殺害されたそうです。
また「麒麟がくる」では触れられてなかったと思いますが、現在の京都市北区にあたる静原山に砦を構えて抵抗し続けていたのが山本対馬守。
この討伐も十兵衛は信長さまに命じられています。
山本対馬守は10月頃に十兵衛の調略によって切腹しています。

この頃になると「信長公記」でも十兵衛の名が頻繁に出てくる印象です。
続く7月26日の近江、高島方面への出陣で木戸・田中の両城が織田方に陥落するんですが、この両城も十兵衛は信長さまに与えられています。
着々と畿内の反織田勢力制圧が進む中で、十兵衛も順調に出世しているのであろうことが窺えます。

1.2.朝倉義景の敗北からの学び

織田方に寝返った浅井家重臣とは?

天正元年になってから浅井家重臣が織田方に寝返り。
名前は出てきませんでしたが、これはおそらく天正元年(1573年)8月8日に織田方へ寝返った阿閉貞征のことでしょう。
tsukumogatari.hatenablog.com
信長公記」に見出しで使われるほどなので織田方にとってはかなり大きな出来事だったと思われます。
阿閉貞征の居城・山本山城で小谷城から西の琵琶湖畔に位置していました。
その東を通るのは北国街道。
西側は琵琶湖に守られた要害の地であり、北国街道も見渡せるため敵の侵略の監視もできる。
すなわち、浅井長政の居城・小谷城の防衛最前線基地としての役割を果たしていたはずです。

阿閉貞征も当初は織田軍の攻撃を防いでいましたが防ぎきれないと思ったのか、藤吉郎の誘いに応じて織田方に内通します。
信長さまはこれを好機とみて8月10日には全軍を山本山城に配置。
浅井・朝倉を一気に討伐する勢いの織田信長
これにより小谷から越前への道を遮断してしまうのです。
越前から援軍にきていた朝倉軍からしたら一つ退路が断たれたようなものですよね。
そこへさらに焼尾の砦を守備していた浅井方の浅見対馬守道西も織田方に内通していしまいます。
この結果、浅井方の援軍として太尾山・大嶽・丁野山のの砦を守っていた朝倉軍が続々と降伏していき、朝倉軍は撤退せざるをえない状況に。
それが刀根坂の戦いへと繋がっていくことになります。

朝倉氏の家老・山崎吉家が討死した刀根坂の戦い

前述のとおり、近江から撤退をし始めた朝倉軍。
その撤退を読んでいた信長さまは、自らが陣頭に立って朝倉軍の追撃戦を開始します。
撤退中の部隊は戦意を失っているため脆く崩れやすいことを信長さまもよくわかっていたのでしょう。
金ヶ崎の戦いの後に浅井長政が寝返ったことで窮地に陥り京へ撤退するしかなかった信長さまが、今度は朝倉義景を逆の立場に追い込むことになります。
この撤退戦の殿を任さ滋賀のれたのが朝倉義景の家老・山崎吉家でした。
tsukumogatari.hatenablog.com
逃げる朝倉軍本隊が信長さまの追撃部隊と対峙することになったのが刀根坂
刀根坂は現在の滋賀県余呉町から福井県敦賀市刀根へ抜ける峠道です。
朝倉義景敦賀の疋壇城(ひきだじょう)を目指してこの刀根坂の道を選んだのですが、信長さまは朝倉軍本隊がそこを目指すことを予測していました。
執拗に迫る織田軍の追撃を引き返しては戦いを繰り返す防戦一方の朝倉軍。
山崎吉家の姿もそこにはあったことでしょう。
刀根坂の戦いで討死した山崎吉家
しかし防戦止む無く、朝倉家の多くの重臣たちがここで討死してしまいます。
信長公記では討ち取った首が3千を超えた、と記載されています。
討死した者が山崎吉家の他に
その嫡子・山崎吉延や山崎氏の一族、朝倉氏の一門衆の朝倉景行や朝倉道景、更に一乗谷奉行人と称され行政全般を任されていた河合安芸守吉統。
tsukumogatari.hatenablog.com
其の他にも山内一豊に重傷を負わせたことで有名な三段崎六郎為之や信長さまに見事な働きぶりを称され家臣になる誘いを受けてもそれを断って切腹した印牧弥六左衛門能信。
tsukumogatari.hatenablog.com
tsukumogatari.hatenablog.com
そして斎藤義龍の息子・斎藤龍興も織田方が討ち取った武将の一人として「信長公記」に名を連ねています。

8月14日には刀根坂を抜けて敦賀に到着した信長さまは兵を休めるためにそのまま3日間駐屯しています。
つまり浅井方の阿閉貞征が寝返ってからおよそ一週間ほどで大きく戦局が傾いてしまったのです。

朝倉景鏡の裏切りにより朝倉氏滅亡
従来のイメージをくつがえした朝倉義景、退場
8月15日に一乗谷へなんとか帰還した朝倉義景
しかし刀根坂の戦いでは多くの武将が討死した上、一乗谷への帰還途中の道中でも多くの兵が逃亡、更には一乗谷の守備兵も朝倉軍の大敗を聞いて大半がどこぞへ逃げてしまったそうです。
もはやこれまでと自害しようとするのを側近の鳥居景近と高橋景業が制止したと言われています。
そして体制を立て直すために一端一乗谷を離れて越前大野の洞雲寺へ逃れることを朝倉景鏡に提案されます。
これが8月16日のこと。
朝倉義景はこの時、朝倉氏と比肩するほどの勢力を持ち、朝倉氏とは近しい関係にあった平泉寺の僧兵に援助を求めまています。
ところが、平泉寺の僧兵は既に織田方に付いていて、朝倉義景の要請には応じず逆に朝倉義景が立て籠もっていた洞雲寺を襲撃します。
そのため、8月19日の夕刻にはこれまた朝倉景鏡の勧めで賢松寺へ逃亡。
麒麟がくる」で朝倉義景が再起を図ろうと地図を眺めていたのは、はおそらくこの賢松寺でのこと。
しかし8月20日の早朝に、朝倉景鏡が織田方に寝返り200騎の兵で襲撃
朝倉義景は側近の鳥居景近・高橋景業の介錯の下、切腹して果ててしまうのです。
tsukumogatari.hatenablog.com

織田方に寝返った朝倉景鏡は朝倉義景の首を信長さまのいる陣まで届けたそうです。
朝倉景鏡は主家を滅亡に導いた張本人として軍記物では酷評されていますが、「麒麟がくる」でも登場当初からその流れを汲んであまりいけ好かない人物として描かれていた印象です。
ただし朝倉景鏡も翌年に発生した越前一向一揆で討死しています。
その辺の詳しいことなどについてはこちらの記事をご覧ください。
tsukumogatari.hatenablog.com
麒麟がくる」では次回その辺に触れるのかどうか。

信長さまは越前を平定すると基本法令を定めた後、前波吉継を守護代としたことが「信長公記」に書かれています。
そして8月26日には北近江の虎御前山城へ帰還。
次はいよいよ浅井氏の討伐というわけですね。

数秒カットで滅亡した浅井氏

麒麟がくる」では浅井長政が燃え盛る城内で倒れているシーンのみで浅井氏滅亡が描かれていました。
ナレ死とか伝令死かなと思っていたので、予想の範疇内ではありました。
なので「信長公記」ベースで浅井氏滅亡までの過程を補足してみます。
ついでに小谷城跡絵図をトレースした図も用意してみましたので、こちらも参考に。
小谷城跡絵図雑トレース版
この図を見てもらえるとなんとなくわかると思いますが、小谷城はかなり広大な山城です。
日本五大山城にも数えられるのも納得です。
正攻法で攻めてもなかなか落とせない堅固な城でしょう。
信長さまが小谷を攻めるにあたって慎重に周辺の城を取り込んでいった理由は、この堅牢さ故なんだろうと思います。

頼みの盟友・朝倉義景を失った浅井長政はまさに丸裸な状態。
浅井討伐に準備万端整えた信長さまは8月27日の夜に藤吉郎に京極丸を攻めさせます。

京極丸は本丸と小丸の間に位置する曲輪で、ここを攻めさせたのは浅井親子(長政と久政)を分断することが目的でした。
京極丸の占領に成功すると、次に藤吉郎が攻めたのは小丸。
浅井長政の父・久政の首を討ち取ります。
この時、福寿庵の号で知られる浅井惟安(あざいこれやす)や久政が目をかけていた舞の達者な鶴丸太夫も共に切腹して果てています。

そして翌日の8月28日には信長さまも京極丸に入って、本丸にいる浅井長政重臣の赤尾清綱を切腹に追い込んだことが「信長公記」に書かれています。
浅井親子の首は京へ送って獄門に掛けさせたそうです。
また浅井長政の嫡男・万福丸も見つけ出して捕縛し、関ケ原で磔の刑に処したのだとか。
金ヶ崎の戦いでの裏切りの報服ということでしょうか。

というわけで「信長公記」では浅井長政が前述のとおり8月28日に亡くなったことになっているんですが、実は、8月29日に浅井長政家臣の片桐直貞に送った感状が見つかっています。
そのため「信長公記」の日付は誤りで、実際には9月1日に亡くなったことが判明しています。
この片桐直貞は、後に藤吉郎の家臣となる片桐且元・貞隆兄弟の父親だったりします。
藤吉郎はこの小谷城の戦いの後に北近江の所領を任せられるわけですが、その際に多くの人材を募集します。
足利義昭を捕らえた木下藤吉郎
その時に家臣として加わったのが片桐且元・貞隆兄弟や石田正澄・三成兄弟などなど。
大谷吉継も近江出身だし、藤吉郎の家臣で近江の人材が多い理由はこの辺なのでしょう。
そういえばお市の方はもう出てこないのかな?
麒麟がくる」だと出るタイミングはもうないかもしれないしなぁ。

1.3.蘭奢待切り取りからの学び

蘭奢待切取りまでにおこった出来事

信長さまが切り取った蘭奢待、の話の前に。
浅井・朝倉滅亡から蘭奢待の切取りにまで話が飛んでしまったので、スルーされてしまった出来事をサラッと見ていきます。
例によって「信長公記」ベースですが、箇条書きにすると以下の通りです。

  1. 杉谷善住坊の捕縛と処刑
  2. 北伊勢へ侵攻
  3. 三好義継切腹
  4. 松永久秀の降伏
  5. 越前で一向一揆
  6. 美濃の明知城が落城
一つ目の杉谷善住坊は、信長さまが金ヶ崎の退き口で京へ戻り更にそこから岐阜へ戻る途中の千草峠で鉄砲で信長さまの命を狙った人物です。
その辺はこちらの記事でも詳しく書いているので読んでない方は是非。
tsukumogatari.hatenablog.com
杉谷善住坊は信長さまの追手から逃れるために高島で隠れ住んでいたようなんですが、浅井方から織田方に寝返り高島郡に退いていた磯野員昌が発見します。
磯野員昌に捕らえられた杉谷善住坊は菅谷長頼と祝重正(ほふりしげまさ)の厳しい尋問を受けます。
ここで杉谷善住坊がどこまで口を割ったのかはよくわかりませんが、結果的に信長さまは鋸挽きの刑という辛酸な方法で処刑するのでした。

二つ目の北伊勢侵攻は、長島の一向一揆勢との戦いです。
出陣したのが9月24日。
参戦したのは佐久間信盛柴田勝家、藤吉郎、丹羽長秀、蜂屋頼隆、滝川一益など織田軍の主力が勢揃い。
ちなみに十兵衛はこの時何をしていたかと言えば、前述の山城方面制圧を任されていた時期。
そして丁度、静原山の砦に立て籠もっていた山本対馬守を攻略して、その首を信長さまに届けるため北伊勢の陣まで足を運んでいます。
今回の侵攻により北伊勢は平定され、長島の一揆勢の勢力もだいぶ衰えたはず。
しかし10月25日には北伊勢から信長さまたちが撤収するところを見計らって、一向衆が織田軍の追撃を開始。
この時に織田軍の殿を務めた林新次郎やその子・一族郎党は見事殿の役目を果たすんですが、皆討死してしまったそうです。
翌日には信長さまも岐阜へ帰還できましたが、長島一向一揆との戦いは翌年まで続くことになります。

三つ目の三好義継の切腹
これは前の方で少し触れていますが、信長さまが放逐した将軍・足利義昭を三好義継が若江の城で保護したことがきっかけです。
信長公記」だと謀叛を企てた、という書き方しかされていないんですが、公方さまと結託して信長さまに反旗を翻そうとしたのかもしれません。
そのため、信長さまは三好義継討伐に乗り出します。
ただし、三好義継の家老で、若江三家老と言われる多羅尾右近・池田教正・野間康久は三好義継には同調しませんでした。
結果、この三家老が三好義継を裏切り、佐久間信盛の軍勢を城内に引き入れてしまったことで勝敗は決します。
もはやこれまでと痛感した三好義継は腹を十文字に斬って果てたそうです。
享年29歳。
十文字に斬って果てたのは、祖父・元長の死に様を知っていたからなのかどうか。

4つ目は松永久秀の降伏。
これは信長さまと十兵衛の会話の中でありましたね。
降伏を願い出てきた松永久秀をどうすべきか十兵衛に信長さまが問うていました。
信長公記」では天正元年(1573年)12月26日に松永久秀の子・松永久通が多聞山城を明け渡して降伏したことが書かれています。
そして翌年の1月8日には松永久秀自身が岐阜城まで足を運んで赦免された例を述べつつ、名刀・不動国行を献上したとあります。

そして5つ目。
今回確か全く触れられてなかったけど、公式サイトのトリセツの地図ではちゃっかり越前が一向一揆衆に支配されていましたw
その原因がこの5つ目の越前一向一揆です。
越前は朝倉氏を滅亡に追い込み平定した後は守護代を前波義継に任せていました。
tsukumogatari.hatenablog.com
前波吉継は名を桂田長俊と変えて守護代の任を全うしていたんですが、あまり評判がよくなかった。
信長公記」の記載に頼ると。栄耀栄華にホコリ勝手気ままに振舞って在地の侍たち居たいしても無礼至極に指図をしていたそうです。
つまり、守護代という任について越前を任されたことでおごり高ぶってしまった、ということでしょうか。
その桂田長俊に不満を持っていた富田長繁らが反乱を起こし、そこに土一揆も重なって越前はあっという間に一向一揆の支配する国になってしまったのです。
tsukumogatari.hatenablog.com
この一揆勢の討伐に当たって、藤吉郎、武藤舜秀(むとうきよひで)、丹羽長秀、不破光治・直光父子、丸毛長照・兼利父子、そして若狭衆を敦賀へ派遣していますが鎮圧には翌年の8月までかかっています。
十兵衛も翌年の鎮圧に加わりますが、「麒麟がくる」だと描かれるのかは微妙かもしれませんね。

さて、そして最後の出来事。
明知城の落城。
明知城といってもかつて十兵衛が美濃で守っていた明智庄にあった明智城ではありません。
岩村遠山氏の守る明知城で、現在の岐阜県恵那市辺りにあったお城です。
信長公記」だと『智』表記なんですが、恵那市のサイトでも『知』表記なので、『明知』でこの記事は統一することにしました。
この明知城を攻めたのは甲斐の武田信玄の後を継いだ武田四郎勝頼。
天正2年(1574年)1月27日に武田勝頼の軍勢に明知城が包囲された報せが、信長さまの下に届きます。
信長さまは2月1日には尾張と美濃から軍勢を出して、明知城の救援に向かわせます。
そして2月5日には信長さまと嫡男の信忠(この時は既に元服済み)も出陣しています。
しかし難所続きで行軍に戸惑っているところへ、明知城の城内で飯羽間右衛門尉(いいばさまうえもんのじょう)が武田方に内通したことから明知城は落城。
信長さまの援軍は間に合いませんでした。
信長さまは備えとして高野と小里に城を築き、それぞれ河尻秀隆と池田恒興を守備に付かせると2月24日には信忠と共に岐阜へ帰還しています。

というわけで、反織田勢力を滅亡させてもなお、信長さまの戦いは予断を許さない状況なんですよね。
十兵衛がまだ道のりは中ほどと言っていたのは、そうなんだよなぁと思ったりした次第ですw

蘭奢待を切り取った人たち
信長さまが所望した東大寺正倉院の蘭奢待
信長さまが帝の奏上して切り取る許可を得た蘭奢待
奈良の東大寺正倉院に収蔵されている天下一の名香と謳われる香木。
この蘭奢待は正式名称ではありません。
正式名称は「黄熟香(おうじゅくこう)」
蘭奢待というのは東大寺』の文字をその中に隠した雅名
確かに『蘭奢待』の中に『東』『大』『寺』の文字が入っていますよね。
この漢字を当てたのもセンス感じるけど、『らんじゃたい』っていう言葉の響きにもセンスを感じます。
日本語っていいなぁって思う瞬間でもあったりしますね。

さて「信長公記」だと蘭奢待を切り取るまでの日取りも細かく書いてあるんですよね。
太田牛一のマメさにびっくりするとともに、後世になっても当時の様子をなんとなく窺い知れるというのが本当にありがたいです。

信長さまが蘭奢待切取りの許可を得たのが3月26日のようです。
勅使として日野輝資と飛鳥井雅教が帝の勅命を伝えています。
そして蘭奢待が収蔵されている正倉院が開かれたのが3月28日の辰の刻、つまり午前8時前後。
蘭奢待は長さが6尺(約1.8メートル)の長持に収められていたそうです。
正倉院から出された蘭奢待は信長さまが訪れていた多聞山城へ運び込まれて、そこで信長さまは蘭奢待1尺8寸(約5.5センチメートル)切り取らせたそうです。
信長さまはこの時の情景を『後々の話の種に見て置け』と馬廻衆の皆にも見させたそうですよ。
確か、信長さまが切り取ったのは中央だったと思うんですが「信長公記」にはそこまで書いてありませんね。

ところでこの蘭奢待を切り取った人たち、なぜか死に方が不穏だったりしますw
信長さまが切り取るまでに切り取った人たちが
3代将軍の足利義満、6代将軍の足利義教、そして8代将軍の足利義政
天皇にになりたかった足利義満は毒殺で亡くなった説があるし、足利義教は暗殺されています。
足利義政は暗殺とかで亡くなったわけではありませんが、応仁の乱を引き起こした張本人であり、世を戦国の道へと切り拓いてしまった将軍といっても過言はないわけで。
そういうこともあってなのか、徳川家康蘭奢待を拝見はしても切取りはしなかったと言われています。

そういえば帝が信長さまから分けてもらった蘭奢待の一部。
あれを毛利輝元にあげちゃったのってもしかして、そういうこと?w
ていうのはともかく、信長さまが献上した蘭奢待を帝が毛利輝元に贈ったらしいことを示す書状が残っているそうですね。

さてその時の権力者のみが切り取ることを許されるといわれる蘭奢待ですが、信長さまと同時代というか信長さまの直前に切り取ってるのって土岐頼武らしいんですよね。
土岐頼武って誰?って思う方もいるかもしれません。
なにしろ「麒麟がくる」には登場していませんからね。
正確に言うと名前だけは確か出てきたことがあったような・・・トリセツとかだけだったかも?
その噂の土岐頼武は土岐頼芸の兄であり、道三さまにお茶で毒殺された土岐頼純の父です。
この土岐頼武は朝廷に献金して蘭奢待切取りの許可を得たそうです。
つまり別に権力者とか関係なくお金払えば許可おりるってことでしょうか??(笑)
そして土岐頼武が何故蘭奢待の切取りを所望したのかといえば、それは自らの権威付けのため。
当時弟の土岐頼芸守護職を巡って対立をしていたので、蘭奢待切取りを許される自分こそが守護職にふわさしかろうっていうのをアピールしたかったということなのでしょうね。

そういえばその弟、土岐頼芸は「麒麟がくる」第37話時点でもまだ生きていますよ。
甲斐の武田氏に保護されている頃か、もしくはまだ関東の方にいる頃かな?。

1.4.没した登場人物たち

斎藤道三の亡骸に膝をついて深く礼をする明智十兵衛光秀

こちらは麒麟がくる」で亡くなった人たちを
弔うための章
です。
亡くなった日については
Wikipediaの情報と「麒麟がくる」での情報を
照らし合わせてのものですが
人物によって諸説ありますので
あくまでも参考情報ということでお願いします。

1.5.参考資料

今回記事を書くにあたって主に参考とした書籍や
サイトをこちらでまとめて紹介しておきます。
興味持たれた方はご購入または閲覧してみてくださいね。

戦国 戦(いくさ)の作法

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  • 発売日: 2018/06/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
戦国の忍び (角川新書)

戦国の忍び (角川新書)

野田城の戦い - Wikipedia
浅見道西 - Wikipedia
朝倉義景 - Wikipedia
浅井惟安 - Wikipedia
白鷹城(明知城) | 【公式】明智光秀ゆかりの地 恵那市
蘭奢待 - Wikipedia
土岐頼武 - Wikipedia

2.あとがき

麒麟で学ぶ」第37回目はいかがでしたか?
感想、ご意見等あればコメントをお気軽に。

残り話数が少なくなってきたこともあってブログのアイキャッチやら画像やらの趣向を変えてみました。
元々は全部自分で描いたものを使いたいと思っていたんですが時間の関係やらスキル不足やらでやれてませんでした。
でも丁度そろそろいけるんじゃないかと思い始めたので今回から最終回まではこんな感じでいきます。

そして三淵藤英が次回でお亡くなりになりそう。
十兵衛に負けた三淵藤英
十兵衛に近しい人たちが今後は毎回のように亡くなっていくのかなぁと思ったりするとちょっと寂しい。
帰蝶さまはまったく出てこなくなっちゃったけど元気かなw

さて冒頭でも述べましたが
U-NEXTまたはAmazonプライムビデオであれば
NHKオンデマンドをチャンネル登録すると
当日の放送や再放送も見逃してしまったとしても、いつでも視聴可能です。
※2020年3月からNHKオンデマンドに元々あった最新作の「見逃し放題パック」と過去作の「特選見放題パック」が
統合されて「まるとご見放題パック」となったため最新作から過去作までいつでも見れるようになりました。

そして「麒麟がくる」をもっと楽しむために
こちらの書籍もおススメですので
ご興味のある方は是非とも。

NHK出版 2019年11月30日


by ヨメレバ

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では今回はこの辺で。
ここまで読んでいただきありがとうございました!


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このINDEXページを基点として頂くと
過去に投稿済みの記事へも
アクセスしやすいです。
こちらから過去記事も読んで頂けると
嬉しいです。

*1:信長公記』ではこの時の表記は羽柴秀吉

*2:午前十時前後。

*3:麒麟がくる」では今の所亡くなったことは語られていない。

*4:麒麟がくる」の場合は長良川の戦いから数日後な気がするけどWikipediaベースで載せてます。

*5:信長の野望ベースなら享年23歳。

*6:麒麟がくる」では亡くなっているかどうかの言及はなく、東庵先生も生死どちらとも取れる感じで話している。

*7:信長の野望ベースなら享年42歳。桶狭間の戦いの前哨戦、丸根砦の戦いで討死しているが「麒麟がくる」では語られていない。

*8:実際に亡くなったのは21話と22話の間の期間だが、19話で既にナレ死してます。。。

*9:信長の野望ベースなら享年30歳。桶狭間の戦いの後、今川家からの自立を目指した松平氏との戦いにて戦死。

*10:麒麟がくる」では桶狭間の戦いから4年間がカットされてしまったこともあって、その死を語られることもなかった。

*11:没した月日は9月13日、9月30日、10月1日、10月8日、10月20日、10月22日など諸説ある。

*12:1540年生年説もあるのでその場合だと享年29歳。

*13:信長の野望ベースなら享年45歳。

*14:麒麟がくる」第37話時点で亡くなった説明はないが、蘭奢待切り取りの前年に亡くなっているはず。