「麒麟で学ぶ」第39回目です。
今回の記事を読むと以下の事がわかるかもしれませんw
さて本シリーズの前提事項的なものを毎回0章に記載していますので、初めて本シリーズの記事を読む方はさらっと一読していただけると助かります。
既に読んだことのある方は読み飛ばして頂いてかまいません。
また前提の一番最初に記載していますが本シリーズは「麒麟がくる」のネタバレを含みます。
当日の放送や再放送も見逃してまだ視聴されていない方はU-NEXTまたはAmazonプライムビデオでNHKオンデマンドをチャンネル登録すると見逃し分を視聴できます。
こちらで視聴した上で本記事を読まれるといいかもしれません。
※2020年3月からNHKオンデマンドに元々あった最新作の「見逃し放題パック」と過去作の「特選見放題パック」が
統合されて「まるとご見放題パック」となったため最新作から過去作までいつでも見れるようになりました。
最新情報については各サイトにてご確認ください。
しかしネタバレ含んでいるけど、本記事を読んでから視聴すると少し前提知識が入った上での視聴になるのでそれはそれでいいのかもしれませんけどね。
そして「麒麟で学ぶ」の過去分についてはこちらからどうぞ。
では今回のお品書きはこちらになります。- 0.本記事を読むにあたっての前提など
- 1.「麒麟がくる」第39話「本願寺を叩け」からの学び
- 1.1.ほぼスキップされた天正3年からの学び
- 1.2.本願寺一向宗との戦いからの学び
- 1.3.煕子からの学び
- 1.4.没した登場人物たち
- 1.5.参考資料
- 2.あとがき
ちなみに2019年12月15日から更新中の
「麒麟がくる」公式サイトと公式Twitterもブックマーク、フォローしておくと
より一層「麒麟がくる」を楽しめると思いますので
まだの方は是非とも。
→2021年3月31日をもって公式サイト・Twitter・Instagramは天に召されました。
1年以上に渡って「麒麟がくる」を盛り上げて下さり、ありがとうございました!
0.本記事を読むにあたっての前提など
1.「麒麟がくる」第39話「本願寺を叩け」からの学び
第39話の感想はnoteの方に先出しで書いているのでそちらをご参照ください!
note.com
というわけで、さっさと本題の方へ。
ちなみに第39話の公式サイトのトリセツはこちらです。
築城中ではありますが安土城が既に地図の中に書かれていますね。
あと、何気に鞆の地名が見えるw
→2021年3月31日をもって公式サイト・Twitter・Instagramは天に召されました。
1年以上に渡って「麒麟がくる」を盛り上げて下さり、ありがとうございました!
登場人物の年齢のおさらい
まずは主な登場人物たちの年齢確認を。今回は天正3年(1575年)。
というわけで年齢は全員1年繰り上げ。
追加した人物は赤字にしています。
また前回の話の中で亡くなったと判明した人物に関しては、こちらの一覧からは削除して後述の亡くなった人を弔う章に引き続き掲載する形にしています。
ちなみに生年不明な人や年齢設定不明な人以外の生年については、Wikipediaをベースにしています。
あと基本的に全員数え年の年齢です。
1.1.ほぼスキップされた天正3年からの学び
『信長公記ベース』の天正3年の出来事
権大納言に任じられたものの京を疎かにしてると三条西実澄に小言を言われた信長さまですが、嫡男・信忠に家督を譲り京のことは信忠に任せると言います。
信長さまが権大納言に昇進したのは天正3年(1575年)11月4日。
そして信忠に家督を譲ったのが11月28日。
第39回スタート時の地図では加賀・越前は未だ一向一揆に支配されている状況でしたが、権大納言に任じられたのも家督を譲ったのも越前の一向一揆を鎮圧した後の話です。
というわけで、信長さまが家督を譲るまでの間に起こった天正3年の出来事を例によって「信長公記」ベースで以下に並べてみました。
- 03月下旬 武田勝頼が三河の足助(現在の愛知県豊田市辺り)へ侵攻。
- 04月01日 信長さま、公家領に徳政令を発令。
- 04月08日 信長さま、三好康長の立て籠もる高屋城を攻める。三好康長は後に降伏。
- 04月19日 信長さま、堺近くの新堀城を攻撃。十河因幡守、香西越後守らを討ち取る。
- 05月21日 織田・徳川連合軍が長篠の戦いで武田軍を破る。
- 07月03日 信長さま、春宮さま主催の蹴鞠の会に出席
- 07月12日 勢田に橋を架けるため、立柱の儀式をおこなう。
- 08月12日 信長さま、越前平定のため出陣
- 09月中旬? 越前を平定し、柴田勝家らに統治を任せる。
- 10月19日 奥羽の伊達輝宗より名馬などの献上の品が届く。
- 10月21日 信長さま、石山本願寺の顕如からの和睦の申し出に応じる。
- 10月23日 飛騨の三木自綱(よりつな)が上洛して栗毛の馬を信長さまに献上する。
- 11月10日夜? 武田勝頼が岩村城攻めを行っている織田軍に夜討ちをかけるも敗退。
- 11月14日 信長さまが権大納言および右大将に任じられる。
- 11月21日 織田信忠、岩村城を攻略。秋山信友・大島某・座光寺為清らは磔に処される。
- 11月28日 信長さま、家督を嫡男・織田信忠に譲る。
というわけで、第39回は冒頭で天正3年とありましたがほぼ1年間すっ飛ばされていますw
本願寺との戦いが全面に出てはいましたけど、長篠の戦いで甲斐の武田氏が敗れ、越前の一向衆も鎮圧され、畿内での形成も不利な状況下にあった本願寺は一度和睦もしてるんですよね。
以下ではこれらのスルーされた出来事に関して少し補足します。
長篠の戦い
長篠の戦いは「信長公記」に記されている戦いの中でも特に詳細に記されている戦の一つじゃないかと思います。
その記述は信長さまが嫡男・信忠と共に長篠へ向けて出陣した5月13日から戦に勝利して岐阜へ帰還する5月25日にかけてで、その戦いの様子は敵の武田方の一番手から五番手までの攻め手の将が誰で、どのようにして戦い打ち破ったかが記されています。
当時最強と謳われた武田の騎馬軍団に勝利したことは大きな出来事だったろうし、諸国への影響も大きかったことでしょう。
著者の太田牛一も強敵を打ち破ったことを褒めちぎっていて『日の輝きが朝露を消すようであった』と表現するほど。
興奮冷めやらぬ心持だったのではないかと妄想していますw
そしてこの長篠の戦いで甲斐の武田氏が大敗に傾いてしまったのは、その退却時の撤退戦。
越前の朝倉氏に大打撃を与えたのも越前へ撤退中のところを追撃して刀根坂の戦いで朝倉氏を支える主要な武将たちの多くを討ち取ったからこそ。
同じような状況がこの長篠の戦いの撤退戦でも起こったわけです。
撤退戦で討死した武田方の将は、殿を務めていた馬場信春を始めとして、有名な真田昌幸の兄・真田信綱・昌輝兄弟、赤備えで有名な山県昌景などなど名のある武将の多くが討死しています。
信長さま自身が金ヶ崎の退き口で浅井・朝倉連合軍に手痛い目に遭いつつも命辛々逃げ切った経験は、朝倉氏討伐やこの武田氏との戦いにも生かされているのかなと思ったりします。
ところでこの長篠の戦いの記述で少し気になってるのが、山県昌景の紹介の仕方ですw
山県昌景といえば武田の赤備えの代表格みたいな扱われたりしますけど、そういう紹介の仕方をしてないんですよね。
西上野の小幡の一党の赤備えや武田信豊の黒備えはちゃんと書いてるのに。
実は山県昌景の赤備えって史料としては残ってないそうなんです。
小説か何かで描かれたことが、さも史実かのように伝わってるっていう類の、わりとよくある話。
肯定できる材料はないと同時に、否定できる材料もないというのが実際のところなんでしょうけど、太田牛一がそう描写していないのはやっぱ赤備えじゃなかったからなのかなぁなんて思ったりしちゃいますw
春宮の蹴鞠の会と惟任光秀の誕生
前回、春宮さまのところで蹴鞠の会を開いたよって書いたんですが、それが7月3日に行われたものです。
この蹴鞠の会の開かれる前日、7月1日には敵対していた三好康長が信長さまの下を訪れて挨拶にきています。
以後、三好康長は信長さまの家臣として力を尽くすことに。
そして蹴鞠の会ではあの三条西実澄も華麗な足捌きを見せてくれたことでしょうw
この蹴鞠の会の日に信長さまは官位昇進について帝からの勅諚が伝えられたんですが、それを断ってるそうなんですよね。
で、断る代わりに信長さまは家臣たちの任官を推挙しています。
その結果、松井友閑が宮内卿法印、武井夕庵がに二位の法印に任じられたばかりでなく、十兵衛も日向守に任官された上に惟任の姓を与えられています。
また十兵衛同様に、丹羽長秀には惟住の姓、原田直政も備中守と原田姓を与えられています。
原田直政は元は塙直政という名であって、原田姓はこの時からの名乗りなんです。
十兵衛が織田家重臣の丹羽長秀や原田直政同様に姓を下賜された事実は、十兵衛の織田家中における立ち位置がなんとなくイメージできますよね。
「麒麟がくる」はずっと明智十兵衛光秀、というか十兵衛で通すっぽいですがw
越前平定
守護代・桂田長俊の素行の悪さ?を発端にして越前は一転して一向宗の領地となってしまっていたわけですが、信長さまも黙ってはいません。
越前平定に向けて8月12日に出陣し、8月15日には佐久間信盛、柴田勝家、羽柴秀吉ら織田家重臣勢揃いで一向衆への攻撃を開始しています。
信長さまの軍勢はおよそ3万という大軍。
そこには十兵衛もいましたし、細川藤孝の姿もありました。
ついでに言うと、第39話で討死のみで登場した原田直政も。
この越前平定戦も1か月ほどかかったこともあってか、「信長公記」では長篠の戦い同様に詳細に書かれています。
たいがい重要な戦については事細かく書かれていることが多いような印象ですかね。
そして越前一向一揆との戦いに勝利し越前を平定した信長さまは、柴田勝家に越前のうち8郡を与えて、大野郡の2/3を金森長近、残り1/3を原田政茂に与えています。
また府中には砦を築いて、不破直光・佐々成政・前田利家の3人に2郡を与えて、不破直光の父・不破光治と佐々成政、前田利家の3人には、柴田勝家の監察者としの役割も与えています。
この三人はいわゆる府中三人衆と呼ばれていますね。
佐々成政も前田利家も、斎藤道三さまが生きていた頃以外出ててきませんが(笑)
ちなみに、十兵衛はこの頃丹後への出陣も命じられていたようです。
前回も書いたと思うんですけど、戦乱の世とはいえ、北へ南へ戦に忙しい毎日の織田軍。
今回十兵衛が倒れたのは過労ではないかと言われていますが、休む暇もなく戦いに明け暮れたたらそりゃ倒れることがあっても仕方ないw
1.2.本願寺一向宗との戦いからの学び
大和の守護・原田直政
原田直政は「麒麟がくる」では一体誰が演じていたのか・・・討ち取られた後の死体のみの登場?だったような・・・。
前述のとおり原田直政の原田姓は下賜されたものであって、元々の名前は塙直政。
尾張の出身で信長さまの馬廻、赤母衣衆に抜擢されるなど信長さまを古くから支えてきた武将の一人です。
奥さんは後妻ですが、柴田勝家の娘です。
信長さまが上洛してからは主に畿内の政務を担当していて、蘭奢待切取りの際には監査役を務めていたようです。
「信長公記」でも蘭奢待切取りの際に東大寺へ派遣された人物の一人として、その名が挙がっています。
そして天正2年(1574年)5月に山城守護、天正3年(1575年)3月には兼任で大和守護に任じられています。
「信長公記」でも伊勢の北畠氏との戦いや越前一向一揆の戦い、長篠の戦いなどで度々名が挙げられている人物の一人なんですよね。
長篠の戦いでは佐々成政や前田利家らと共にに鉄砲隊を指揮していました。
前述のとおり原田姓を下賜されたのも、それだけの多くの戦功を挙げる働きをしていたからでしょう。
そして天正4年(1576)年4月14日には石山本願寺が再挙兵をしたため、その討伐部隊の将の一人として大阪へ出陣。
5月3日早朝に、部隊を率いて第二陣で木津へ攻め寄せるものの、本願寺姓1万ほどの軍勢に包囲されてしまい、数千挺の鉄砲で散々に打ち込まれた結果討死してしまいます。
原田直政を討ち取ったのは雑賀衆の鈴木重秀の率いる部隊だったと言われています。
鈴木重秀は雑賀孫一の名で知られる鉄砲の名手として有名な人ですね。
この石山本願寺との戦いで原田直政の伯父・塙安広、弟の塙小七郎も同様に討死しています。
大阪の陣で豊臣方について活躍した武将の塙団右衛門はこの原田直政と同じ一族とも。
塙団右衛門は「真田丸」で名刺を配ってた人ですw
そういえば、信長さまが甲冑も着けずに戦場に出て行って足に銃弾を受けていましたが「信長公記」にもその辺のことが書かれています。
原田直政が戦死したこともあって戦況が傾き気味のところへ信長さまが急遽救援に駆け付けて、先陣の足軽勢に混ざって戦場を駆け回った結果受けた勲章傷のような扱いですw
傷自体も軽傷だったようなんですが『天は正しい者の味方で』苦しむほどの傷ではなかったそうです。
さすが信長さまを褒めちぎる「信長公記」らしい表現(笑)。
お岸、荒木村重の嫡男に嫁ぐ
十兵衛の長女・お岸、いつの間にか輿入れしていましたね。
お岸は荒木村重の嫡男・荒木村次の下に嫁いでいます。
荒木村重の名はこの「麒麟で学ぶ」シリーズでも何度か名前を出した気がしますが、元は摂津国池田城主の池田勝正の家臣。
しかし三好三人衆の計略に乗って池田知正と共に池田勝正を追い出してしまいます。
その後は池田知正に仕えていましたが池田知正が織田家に降ってからは信長さまに気に入られて織田家臣となり数々の武功を挙げて天正2年(1574年)頃には摂津一国を任されるほどに。
お岸が村重の嫡男・村次の下へ嫁いだのはこの頃なんでしょうね。
しかし、この荒木村重は後々信長さまに反旗を翻し、その際にお岸は離縁されてしまいます。
この辺は2014年の大河ドラマ「軍師官兵衛」で詳しく描かれていたと思います。
お岸はその後、左馬助の妻になるんですが「麒麟がくる」では既にそのフラグを立てまくっていますよね。
残り話数少ないから、いつの間にか離縁されていつの間にか左馬助と再婚しているかもしれませんw
九鬼水軍を率いるは九鬼嘉隆が・・・
信長さまが思いついた対本願寺戦での秘策、それは海上輸送を断つこと。
本願寺はこの頃は中国地方を治める毛利氏と手を組んでいて武器・弾薬や兵糧を海上輸送で毛利軍から補給を受けていたんですよね。
そのため銃弾は一向に尽きないし、兵糧も無くならないから戦意が落ちることもない。
海上輸送さえ断てば本願寺勢は弾薬も尽きて食料もなくなり、降伏するしかなくなるというわけです。
そしてその海上戦で役立ってもらおうというのが九鬼水軍。
九鬼水軍は志摩国を本拠として九鬼氏に率いられた水軍で、その九鬼氏の棟梁が当時は九鬼嘉隆。
九鬼嘉隆は後の軍記物で海賊大将なんて呼ばれています。
この九鬼水軍に信長さまは鉄甲船を建造させてそこに大砲をのっけて毛利水軍を蹴散らした第二次木津川口の戦いが有名なんですが、これもうちょっと先の戦いなんですよね。
信長さまが十兵衛の館にやってきた頃って、多分まだ第一次木津川口の戦いの前で、この時は織田水軍が毛利水軍にコテンパンにやられます。
第一次木津川口の戦いは7月15日の出来事。
大坂の海上におよそ800艘の船団を率いて毛利水軍が突如現れます。
その目的は大坂勢、すなわち本願寺勢への補給。
織田軍は当然それを阻止すべく、織田水軍の真鍋七五三兵衛・沼野伝内らが300艘を超える船団で迎え撃ちます。
しかし、そもそも敵は倍以上の戦力。
その上毛利水軍は炮烙火矢という素焼き土器に火薬を詰めこんだ、いわゆる爆弾のような武器を船に幾つも投げ込んでくるわ、水中に潜って船の底に穴をあけて織田水軍の船を次々に沈めてしまいます。
結局なすすべなく織田水軍は瓦解してしまい、毛利水軍は悠々と本願寺勢に補給をして自国へ戻っていってしまったのです。
前述の真鍋さんや沼野さんら多くの水軍兵士たちも討死してしまったようです。
この負け戦があったがために鉄甲船の建造、九鬼水軍の活躍へと繋がっていくんですよね。
なので信長さまは意気揚々と十兵衛に妙案として話してましたがおそらく負けてしまったのではないかとw
たまを気に入った信長さま、安土城を築城中
十兵衛の次女・たまを見てすぐ気に入った信長さまは嫁入り先の面倒をみてくれるらしい。
もちろんその嫁ぎ先は細川藤孝の嫡男・細川忠興になるわけですけどね!
そして更にたまの嫁ぎ先を決める約束をしただけではなく、築城中の安土城にも招待してやろうという大盤振る舞い?
まぁ信長さまは安土城完成してからは家臣のみならず大衆にも安土城を公開して入館料で儲けてましたからね(笑)
というわけでその安土城は「信長公記」によると丹羽長秀に築城を命じたのが天正4年(1576年)1月中旬ごろ。
信長さまは2月23日には安土に移り住んでいて、馬廻修にも安土の山の麓に屋敷地を与えてそこに各自の住居を建築するように命じています。
そして4月1日から安土山の大石で城の敷地内に石垣を築き始めてその中に天守閣を建築するよう命令しています。
また天守閣は中国風に仕上げるようにも命じています。
安土城の築城に当たっては尾張、美濃を始め信長さまの息のかかった地域から大工や職人たちを招集して安土に詰めさせたそうで、瓦焼き職人には中国人の一観という職人を召しだしたことが「信長公記」に書かれています。
この頃の築城作業の描写は天守閣まわりに使う大石の運び込みしか書いてないんですけど、当時石を運ぶのは大変だったことでしょう。
この安土城の石垣を築くにあたって蛇石という大石を運び上げたそうですが、1万人を動員して昼夜3日かかったそうです。
秀吉や丹羽長秀らがその陣頭指揮をとったのだとか。
1万人も働き手を集められるっていうこと自体が当時の信長さまの権勢を物語っていますよね。
しかし十兵衛は安土城に関しても何かもの言いたげだったように見えたのは気のせい?
たまの婿探しも嫌そうだったし、十兵衛、だいぶ暖まってきてる感じ?本能寺の変に向けてw
徳川家康が十兵衛に接近の理由
信長さまの娘・徳姫を嫡男・信康の嫁にもらっていた徳川家康。
なかなか後継ぎを産めないからなのか、嫁に対して厭味たっぷりな徳川家康の正室・築山殿。
ちなみに今回信康と徳姫の間に生まれた子は登久姫で、後に信濃松本藩主の小笠原秀政の正室となる人です。
また、翌年には熊姫を産まれていて徳川四天王で有名な本多忠勝の嫡男・本多忠政の正室となります。
築山殿といえば、最近だと「女城主 直虎」の瀬名姫の印象が強いからちょっと違和感があったりもw
そんな厭味たらしい築山殿とのやり取りを後に、徳川家康は菊丸と密談を始めます。
菊丸を京へ送り込んでいた理由は、織田家の動静と信長さまが今どこを向いているかを確認するためだったようで。
さて、この家康の動きは果たして本能寺の変に影響してくるのかどうかが気になるところです。
いやその前に、築山殿と嫡男・信康の内通疑惑による処分がありますよね。
その事件もきっかけで十兵衛の中で信長さまに対する疑念がまた少し刻まれるのかもしれない。
「麒麟がくる」の十兵衛って竹千代くん時代からなんとなく徳川家康に肩入れしている感が否めません。
武田信玄が西上作戦を始めた際にも十兵衛は徳川にもっと援軍を送るように信長さまに進言したりもしていました。
十兵衛が徳川家康に対してどのように感じているのか、信長さまに感じたような大きな国造りをできる人物として捉えているのか、その辺の詳細が今のところはわかりません。
でも今後の展開次第では、大きな国造りを託す人物を信長さまから徳川家康に変えていくのかな、なんてことを考えたりしています。
そういえば本能寺の変に参加していた明智方の兵士・本城惣右衛門の残した覚書によると、この戦は徳川家康を討伐する戦だと思っていた、みたいな記述があるんですよね。
この覚書の内容が作品を作る上でのヒントの一つになってたりすると、十兵衛と徳川家康が接近していくこともあるのかなぁなんて。
そして十兵衛が竹千代君にあげた干柿の回収、一度ありましたけどが、実はまだ完全回収していない可能性もあるのではとか(笑)
1.3.煕子からの学び
成長した十五郎、後の明智光慶
十兵衛の嫡男・明智十五郎。
まだ5歳ぐらいということもあってまだあまり活躍の場がありませんが、母・煕子を鬼から守ろうという姿は健気でしたw
後々には明智光慶と名乗るのかどうかも気になるところですが、若いこともあって史料が乏しく本能寺辺前後の逸話ぐらいしか聞いたことがありません。
本能寺の変前後の動向でも十兵衛謀叛の報せを聞いて悶死した説と、坂本城で左馬助たちと共に自害したっていう説がありますし、そもそもその後も生きていて妙心寺の僧になったとか関東の方へ逃げて生き延びたとかいう説もあります。
「麒麟がくる」では十五郎にどこまで焦点があてられるかはわかりませんけど、ひょっとして麒麟がくる世を見届ける人物として生き残ったりして(笑)
闘病平癒の鬼やらい
十兵衛が倒れて打つ手がなくあとは神のみぞ・・みたいなことを口走った望月東庵先生が煕子の病が重くなったと私は思っている(笑)
それはさておき、煕子の病回復祈願にと駒が伊呂波大夫に鬼やらいを頼んだらしいですが、そもそも鬼やらいってなんですか?
というわけで調べてみると、発祥は中国で大晦日に宮中でおこなわれていた魔よけの行事らしいですね。
内裏の門から疫鬼や魑魅魍魎を追い払う儀式で、それが日本にも伝わってきて年中行事になったのだとか。
鬼を払うことから節分の豆まきの原形とも言われているそうです。
日本では平安時代(11世紀)頃から宮中以外でも公家、陰陽師、宗教者などを中心に鬼やらいの行事が増えていったそうです。
私の地元の方では聞いたことがないです。
知らないだけかなw
諸説ある煕子の死亡時期
煕子が亡くなってしまうことは予告の段階ではわかっていたことだけど、予告でネタバレ多過ぎなのもいいのかどうか、議論がわかれるところ?w
その煕子の死亡時期については諸説あるんですが「麒麟がくる」では天正4年(1574年)秋に亡くなったとナレが教えてくれたので11月7日に亡くなった説をとっているのだろうと思います。
ワンチャン、本能寺の変以降も生きてた説採用したりしないかな~なんてうっすらと期待もしてたりはしたんですが(笑)
二人の仲睦まじいやり取りは微笑ましくもあり、面白くもあり、だったので出来るだけ長くそのシーンが見れたらいいのになぁなんて思ってたわけです。
さて信憑性の薄い軍記物として有名な(笑)「明智軍記」だと、煕子は本能寺の変以降も生存していて、山崎の戦いで十兵衛が秀吉に敗れた後、左馬助と共に坂本城落城時に亡くなったことになっています。
ところが去年、令和2年(2020年)8月にちょっとした発見がありました。
滋賀県大津市の聖衆来迎寺(しょうじゅらいこうじ)所蔵の仏涅槃図の裏に書かれた寄進銘に煕子の戒名が見つかったんです。
これによると少なくとも天正9年(1581年)よりも前に亡くなっていることは確かで、天正4年(1574年)に亡くなった可能性が高くなったんですよね。
とすれば「明智軍記」に書かれている煕子は誰?(笑)
十兵衛と煕子の仲睦まじいやり取りが見れなくなっちゃうのはとっても残念だけど、幸せそうに逝った煕子の表情を見ていると本能寺の変の前に亡くなって良かったのかもしれないなんてことも思ったり。
そして十兵衛を最も信頼して推してくていた煕子が亡くなったことで、十兵衛の今後の決断に影響があるのかどうかが気になるところですね。
1.4.没した登場人物たち
こちらは「麒麟がくる」で亡くなった人たちを
弔うための章です。
亡くなった日については
Wikipediaの情報と「麒麟がくる」での情報を
照らし合わせてのものですが
人物によって諸説ありますので
あくまでも参考情報ということでお願いします。
1.5.参考資料
今回記事を書くにあたって主に参考とした書籍や
サイトをこちらでまとめて紹介しておきます。
興味持たれた方はご購入または閲覧してみてくださいね。
第一次木津川口の戦い - Wikipedia
築山殿 - Wikipedia
徳姫 - Wikipedia
登久姫 - Wikipedia
妙高院 - Wikipedia
本城惣右衛門覚書 - Wikipedia
追儺 - Wikipedia
光秀の妻、亡くなった年判明? 本能寺の変の前か、寄進の涅槃図に戒名
2.あとがき
「麒麟で学ぶ」第39回目はいかがでしたか?
感想、ご意見等あればコメントをお気軽に。
前回は三淵藤英、今回が煕子、そして次回は松永久秀。
十兵衛にとって思い入れの深い人物たちが次々と亡くなっていくと、「麒麟がくる」がもうすぐ終わることを一層実感してしまう。
娘の岸は荒木村次に嫁いでるし、そのうちたまも細川忠興の下へ嫁いでしまうし、家族一緒に暮らすことに幸せを感じていた十兵衛も寂しいのでは。
十五郎を立派な武士に育てるために教育パパになったりするのかな。
ていうか何にでも効く薬の芳仁丸、煕子には効かなかったんでしょうか。
ていうのはちょっと意地悪かな(笑)
というわけで次回は松永久秀、最後の大見世物が盛大に行われそうな気配です。
松永久秀が茶器を抱えて爆死した話が作り話なのは周知の事実だけど、みんなそれを期待しているのがちょっと面白かったりもします。
果たしてどのような最期を見せてくれるのか。
そしてそれは十兵衛にどのような影響を与えることになるのか。
さて冒頭でも述べましたが
U-NEXTまたはAmazonプライムビデオであれば
NHKオンデマンドをチャンネル登録すると
当日の放送や再放送も見逃してしまったとしても、いつでも視聴可能です。
※2020年3月からNHKオンデマンドに元々あった最新作の「見逃し放題パック」と過去作の「特選見放題パック」が
統合されて「まるとご見放題パック」となったため最新作から過去作までいつでも見れるようになりました。
そして「麒麟がくる」をもっと楽しむために
こちらの書籍もおススメですので
ご興味のある方は是非とも。
NHK出版 2019年11月30日
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では今回はこの辺で。
ここまで読んでいただきありがとうございました!
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*1:第38話より良通から一鉄に。
*2:第39話より奇妙丸から信忠に。
*4:「麒麟がくる」では今の所亡くなったことは語られていない。
*5:「麒麟がくる」の場合は長良川の戦いから数日後な気がするけどWikipediaベースで載せてます。
*7:「麒麟がくる」では亡くなっているかどうかの言及はなく、東庵先生も生死どちらとも取れる感じで話している。
*8:信長の野望ベースなら享年42歳。桶狭間の戦いの前哨戦、丸根砦の戦いで討死しているが「麒麟がくる」では語られていない。
*9:実際に亡くなったのは21話と22話の間の期間だが、19話で既にナレ死してます。。。
*10:信長の野望ベースなら享年30歳。桶狭間の戦いの後、今川家からの自立を目指した松平氏との戦いにて戦死。
*11:「麒麟がくる」では桶狭間の戦いから4年間がカットされてしまったこともあって、その死を語られることもなかった。
*12:没した月日は9月13日、9月30日、10月1日、10月8日、10月20日、10月22日など諸説ある。
*13:1540年生年説もあるのでその場合だと享年29歳。
*15:「麒麟がくる」第37話時点で亡くなった説明はないが、蘭奢待切り取りの前年に亡くなっているはず。
*16:「麒麟がくる」では、その死は語られていない。また永正12年(1515年)生年説の場合は享年60歳。
*17:「麒麟がくる」では触れられていないが越前で起こった一向一揆との戦いで亡くなっているはず。
*20:享年も46歳、42歳、36歳など諸説ある。