「麒麟で学ぶ」第40回目です。
今回の記事を読むと以下の事がわかるかもしれませんw
さて本シリーズの前提事項的なものを毎回0章に記載していますので、初めて本シリーズの記事を読む方はさらっと一読していただけると助かります。
既に読んだことのある方は読み飛ばして頂いてかまいません。
また前提の一番最初に記載していますが本シリーズは「麒麟がくる」のネタバレを含みます。
当日の放送や再放送も見逃してまだ視聴されていない方はU-NEXTまたはAmazonプライムビデオでNHKオンデマンドをチャンネル登録すると見逃し分を視聴できます。
こちらで視聴した上で本記事を読まれるといいかもしれません。
※2020年3月からNHKオンデマンドに元々あった最新作の「見逃し放題パック」と過去作の「特選見放題パック」が
統合されて「まるとご見放題パック」となったため最新作から過去作までいつでも見れるようになりました。
最新情報については各サイトにてご確認ください。
しかしネタバレ含んでいるけど、本記事を読んでから視聴すると少し前提知識が入った上での視聴になるのでそれはそれでいいのかもしれませんけどね。
そして「麒麟で学ぶ」の過去分についてはこちらからどうぞ。
では今回のお品書きはこちらになります。- 0.本記事を読むにあたっての前提など
- 1.「麒麟がくる」第40話「本願寺を叩け」からの学び
- 1.1.天正5年からの学び
- 1.2.松永久秀の謀叛からの学び
- 1.3.十兵衛が訪れた安土城からの学び
- 1.4.没した登場人物たち
- 1.5.参考資料
- 2.あとがき
ちなみに2019年12月15日から更新中の
「麒麟がくる」公式サイトと公式Twitterもブックマーク、フォローしておくと
より一層「麒麟がくる」を楽しめると思いますので
まだの方は是非とも。
→2021年3月31日をもって公式サイト・Twitter・Instagramは天に召されました。
1年以上に渡って「麒麟がくる」を盛り上げて下さり、ありがとうございました!
0.本記事を読むにあたっての前提など
1.「麒麟がくる」第40話「本願寺を叩け」からの学び
第40話の感想はnoteの方に先出しで書いているのでそちらをご参照ください!
note.com
というわけで、さっさと本題の方へ。
ちなみに第40話の公式サイトのトリセツはこちらです。
→2021年3月31日をもって公式サイト・Twitter・Instagramは天に召されました。
1年以上に渡って「麒麟がくる」を盛り上げて下さり、ありがとうございました!
登場人物の年齢のおさらい
まずは主な登場人物たちの年齢確認を。今回は天正5年(1577年)夏開始。
というわけで年齢は全員2年繰り上げ。
追加した人物は赤字にしています。
また前回の話の中で亡くなったと判明した人物に関しては、こちらの一覧からは削除して後述の亡くなった人を弔う章に引き続き掲載する形にしています。
ちなみに生年不明な人や年齢設定不明な人以外の生年については、Wikipediaをベースにしています。
あと基本的に全員数え年の年齢です。
1.1.天正5年からの学び
天正5年の出来事
第40話は松永久秀が主役だったわけですが、前半のストーリーを牽引してきた帰蝶さまもプロデューサーから幕引き。
主要なキャラたちが続々と信長さまや十兵衛の元から去っていき、本能寺の変への道筋が整い始めているといった感じでしょうか。
というわけで、十兵衛とも深く関わりのあった二人が去って行った天正5年の出来事を以下に一覧にしました。
もちろん例によって「信長公記」ベースです。
02月~ 雑賀の陣 03月12日 内裏の築地修理を開始 03月23日 名物召上げ 07月03日 奥羽の伊達輝宗、信長さまに鷹を献上 07月12日 近衛前久の嫡男・近衛信基元服 08月08日 柴田勝家の加賀出陣と秀吉の戦線離脱 08月17日 松永久秀の謀叛 10月01日 片岡城の攻略 10月10日 織田信忠指揮により松永久秀敗北 10月12日 織田信忠、従三位左近衛権中将に任命される 10月23日 羽柴秀吉、播磨へ出陣 11月18日 信長さま、鷹狩り装束で参内 11月下旬 羽柴秀吉、但馬・播磨を平定 12月28日 信長さま、名物茶道具を信忠に譲る
詳細に日付入りで事細かに書かれている「信長公記」なんですが、なぜか4月~6月の情報がすっぽり抜けているのは気になります。
その辺はよくわからないので置いておくとして、「麒麟がくる」のセリフの中でもいくつか確認できていることもあるので、以下に補足をしていきます。
ちょっと加賀攻めが長いかもしれませんことご容赦くださいw
雑賀の陣
いわゆる信長さまの紀州攻めです。
紀州といえば根来衆や雑賀衆といった僧兵集団や鉄砲傭兵集団の勢力が強いことで有名。
父・斎藤道三(当時の名乗りは利政)に侮られぬようにと信長さまの下に嫁いだ帰蝶さまが、伊呂波大夫を通じて雇った鉄砲部隊が根来衆でしたよね。
その根来衆や雑賀衆も反信長勢力として石山本願寺勢と共に戦っていたのですが、2月に入ってから雑賀五組のうち三組と根来寺の杉の坊が信長さまに味方することを誓約しました。
これを機に紀州・雑賀への出陣を信長さまは決めたのです。
この紀州攻めには十兵衛も参陣していて、細川藤孝や筒井順慶らと共に海岸沿いからの進撃を命じられています。
この戦の際には以前淀城の戦いにおいて三好三人衆の一人・岩成友通を討ち取った細川藤孝の家臣・下津権内が一番槍として比類なき活躍をしたことが記されています。
tsukumogatari.hatenablog.com
2月中旬から始まった雑賀の陣は3月中旬までの約1か月に渡って繰り広げられるわけですが、最終的には雑賀衆の土橋守重・鈴木孫一・岡崎三太夫・松田源三太夫・宮本兵太夫・島本左衛門太夫・栗村二郎太夫の7人が連名で誓紙を提出して降伏。
石山本願寺にも協力せず信長さまの下で働くことを誓ったため、信長さまも赦したそうです。
でもこの年の7月には雑賀衆は兵を起こして信長さまに味方をした雑賀衆三組への報復を開始したので、信長さまは8月頃に再度佐久間信盛父子を大将として7、8万の大軍勢を送り込んでいます。
それでもまだ制圧はできなかったそうなんですよね。
信長の野望で雑賀衆(鈴木家)が強い設定なのがよくわかります(笑)
柴田勝家の加賀出陣と秀吉の戦線離脱
北陸方面の司令官の立場にあった柴田勝家は8月8日に加賀へ出陣しています。
これは越後の上杉謙信が加賀方面へ進出してきたためです。
加賀は一向宗徒が盛んで一揆の絶えない土地。
加賀一向一揆は長享2年(1488年)頃から天正8年(1580年)およそ100年間、鎮圧されることなく続いています。
簗田広正(簗田政綱本人もしくはその子?)が信長さまに加賀一国支配を任されるものの、発生した一揆を鎮圧できず信長さまに見限られてしまって終わりに戻されたりもしてるんですよね。
その加賀方面へ進出してきた上杉謙信の狙いは、能登の七尾城。
上杉謙信もまた一向一揆との戦いに悩まされていた一人ですが、天正4年(1576年)5月頃に石山本願寺の顕如と和睦を結んでいます。
これによって上杉謙信上洛への道が拓け、畠山氏が守護を務める越中を平定します。
続くは畠山氏の居城である能登の七尾城をめがけて進行していたわけです。
上杉謙信に七尾城を取り囲まれた畠山氏ですが、幼き当主・畠山春王丸がそのさなかに病死してしまいます。
当主が亡くなり士気も低下している中で、畠山七人衆の一人・長続連は信長さまへ援軍を要請。
それを受けた信長さまが、柴田勝家に命じて七尾城救援のために加賀方面へ出陣したというわけです。
総大将を柴田勝家とした織田軍には羽柴秀吉、丹羽長秀、滝川一益、前田利家、佐々成政ら歴々の織田家臣含めた3万人を超える大軍勢。
だったんですが・・・途中で秀吉が柴田勝家と口論を起こして勝手に陣を去ってしまうという、軍記違反を犯してしまいます。
この話は秀吉がメインキャストの大河ドラマだと必ず扱われる話なので有名かとは思います。
十兵衛が謀叛を起こした松永久秀に言ってた話ですね。
軍記違反を犯した秀吉は、信長さまから激しい怒りを買って処刑される寸前のところまでいきますが、織田家重臣たちの取りなしによってなんとか首を繋ぎます。
その秀吉が去った後の織田の大軍勢はそのまま能登の七尾城へ向けて進軍するわけですが、その道中で既に七尾城が陥落していることを知ります。
七尾城も難攻不落の堅固な城で、流石の上杉謙信も攻めあぐねていたはず。
それでも援軍到着前に陥落してしまったのは、畠山氏の内紛が原因でした。
当主を傀儡的に操る形で実権を握ってきた畠山七人衆の一人・遊佐続光ですが織田信長の侵攻が北陸に進出してくると親織田信長派の長続連が台頭してくるようになります。
遊佐続光は一時的に主導権を失ってしまうんですが、上杉謙信が能登へ攻め込んできた事で再び息を吹き返します。
元々、親上杉謙信派だった遊佐続光は攻城を諦めて調略に切り替えた上杉謙信の誘い乗って温井景隆や三宅長盛らと共に寝返り、長続連ら一族を殺害してしまうのです。
城内を乗っ取った遊佐続光は開門して上杉の軍勢を招き入れて、七尾城は落城してしまったのです。
ちなみに、遊佐続光らに一族ほぼ皆殺しにされてしまった長続連の三男・長連龍は信長さまの下に援軍依頼で赴いていたため生き残るんですが、後々には一族の仇である遊佐続光らを見事討ち取っています。
そして能登が前田利家の領国となってからは前田氏の家老として仕えるほどの重臣となり幕末までその家名は存続しています。
さて、援軍派遣先の七尾城が陥落してしまった柴田勝家率いる大軍勢は退却を開始します。
しかし織田の進軍を聞き知っていた上杉謙信は9月23日の夜、退却中の織田軍勢を追撃。
織田軍は1000人以上の死者を出すほどの大敗を喫します。
上杉に逢うては織田も手取川
はねる謙信逃げるとぶ長(信長)
という落首が残されていることでも有名な手取川の戦いですね。
まぁ信長さまは参戦してないんだけど(笑)
ただこの手取川の戦いについては「信長公記」くん、一切触れてません。
手取川の戦いについてはその記録が少なく実像があまりわかってはいないので上杉謙信が大勝したかどうかも議論があるそうです。
ただし、上杉謙信方についた石山本願寺の坊官・下間頼廉が夜襲での感状を給付している記録はあるみたいなので、戦い自体はあったってことなんですかね。
近衛前久の嫡男元服
近衛前久の嫡男の元服式。
これがなぜ「信長公記」に書かれているかといえば、元服の儀を信長さまの邸でおこなったからです。
本来は宮中で執り行うのが通例なのに近衛前久は信長さまの所で是非!と何度もお願いして何度も断られたそうです(笑)
信長さまも、通例に従ってやる方がいいよって、なんか常識人っぽく断ってたのが面白い。
それでも折れない近衛前久に負けたのか、信長さまも承諾して加冠の役も務めたそうです。
信長さまはこの元服のご祝儀として、太刀代・一万疋(現在の1千万円~1千5百万円ぐらいw)、備前長船長光作の脇刀、金子50枚を贈ったそうですよ。
そして近衛前久の嫡男は信長さまじゃら一字を賜って信基と名乗ります。
近衛信基は、後には信尹(のぶただ)と名乗り、慶長10年(1605年)には関白に就任しています。
そして「寛永の三筆*4」と称されるほど書で才を魅せた人でもありました。
「麒麟がくる」では登場しないことでしょうw
片岡城の攻略
細川藤孝の嫡男・細川忠興が登場しました。
片岡城の攻略ではその細川忠興が名を挙げたことを十兵衛が教えてくれましたよね。
そもそも片岡城はなぜ攻めることになったのかといえば、松永久秀に与する森秀光・海老名勝正が片岡城に立て籠もったからなんです。
この片岡城攻めをおこなったのが、細川藤孝、十兵衛、そして筒井順慶や山城衆でした。
この細川藤孝と筒井順慶は十兵衛とセットでよく動いているイメージがあります。
それだけに十兵衛はこの二人に対する信頼度は大きかったのかなと思います。
「麒麟がくる」だと細川藤孝ほどの接点をかんじられない筒井順慶ですけど、茶の湯や和歌なども含めて十兵衛と誼を通じた一人であり、本能寺の変後に細川藤孝よりも筒井順慶が十兵衛に味方をしてたら状況は違っていたかもしれません。
さて、片岡城攻めに話を戻すとして、活躍したのは細川藤孝の嫡男・細川忠興だけじゃなくてその弟の細川昌興(別名:興元)も同じく活躍したそうです。
この時忠興は15歳、昌興は13歳。
この二人の活躍ぶりに信長さまは感状を授与したそうで、十兵衛の娘・たまの嫁ぎ先を細川忠興と決めたのはこの時なのかもしれませんね。
信長さまから織田信忠への指揮権シフト
信長さまは既に家督を嫡男・信忠に譲りましたが戦での総指揮も次第に信忠へとシフトしています。
松永久秀討伐もそうですし、数年後の甲州征伐も織田信忠を中心とした軍勢でおこなうことになります。
今回松永久秀が所持する茶器を手に入れられず(?)大泣きをしていた信長さまでしたが、12月28日は信忠に名物茶道具を始めとした以下の8品を譲っています。
- 「初花」の茶入れ
- 「松花」の茶壷
- 絵画「平沙落雁図」
- 「竹の子」の茶入れ
- 釜を吊る鎖
- 藤波某旧蔵の釜
- 曲直瀬道三旧蔵の茶碗
- 内赤の盆
人間50年とも言われる時代において、信長さまも既に44歳。
織田家の行く末を信忠に任せるための準備を着々と進めていたのでしょう。
ちなみに信貴山城攻めの際に織田信忠の兜は鹿の角の前立てでした。
この信忠の兜については「信長公記」にも書かれているんですが、こういう細かいところも何気に再現しているのが「麒麟がくる」なんですよね。
1.2.松永久秀の謀叛からの学び
天王寺砦から突如退去した松永久秀
石山本願寺と対抗するために築いた天王寺砦の城番として入っていた松永久秀とその子・久通。
二人は8月27日になって突如砦から退去して大和の信貴山城に立て籠もってしまいます。
いわゆる、信長さまに対して謀叛を起こしたわけです。
当時の石山本願寺の坊官・下間頼廉の書状によると、石山本願寺や上杉謙信の動きに呼応して松永久秀は反旗を翻したようです。
信長さまはなぜ逆心を抱いたのか、思うところがあれば望みを叶えてやる旨を松井友閑を通じて尋ねさせたそうですが、松永久秀は会おうともしませんでした。
そのため元々松永久秀が信長さまに提出していた人質を京都で成敗することは、信長さまは矢部家定と福富秀勝に命じます。
まだ12歳と13歳の子どもだったようですが「信長公記」では処刑されるまでの過程が仔細に書かれています。
これって松永久秀が非道であることを強調するための記述のような気がしなくもないんですが(笑)
松永久秀が信長さまを裏切った理由ははっきりわかってるわけじゃないんですが、「麒麟がくる」では信長さまに対する不満を十兵衛に漏らしていました。
信長さまは身分・格式に関わらず才有る者を良く取り立てるという噂がある割には実際はそうではない、と。
これって秀吉の出世話に絡んでよく言われていることですよね。
秀吉自身が身分の低い足軽だとか百姓だとかだったにも関わらず、信長さまの下で出世していったこととの辻褄合わせのように使われている感があります。
でも、実際は松永久秀の言っていたように信長さまは重要な地に関しては自身の一族や尾張時代からの重臣たちに任せていることがほとんどです。
柴田勝家が北陸方面の司令官になれたのも、もう亡くなってしまったけど大和・山城の守護を原田直政が任されていたのも然りなわけです。
そういう意味では近江の志賀を十兵衛に任せたのは異例なんですよね。
そのほか近江の地を任されていたのは佐久間信盛、柴田勝家、丹羽長秀、中川重政、そして秀吉といったように尾張から仕える、言うなれば信長さまが信頼する部下たち。
重用するのは結局古い付き合いの部下たちのみだったわけで、「麒麟がくる」では大和守護を宿敵・筒井順慶に任せたことに松永久秀は特にご立腹でしたね。
十兵衛からも筒井順慶を大和守護にしたら松永久秀が怒ることは忠告されてましたけど、大和の統治に最もふさわしいと信長さまが考えたのは、旧来から土地勘のある筒井順慶。
そんなに間違ってないし現実的な判断をしてると私なんかは思うんですが(笑)
さらに松永久秀は柴田勝家のことも、あまりその才を買ってはいないようでした。
柴田勝家とは越前討伐の頃から戦の進め方で意見が食い違っていたので、おそらくその頃既に”あの無能な柴田勝家”と評していたのでしょう(笑)
そういった待遇の悪さに加えて最近の信長さまの横暴さ加減にもほとほと呆れ果てていたのか。
まぁ謀叛を起こすのも仕方なし(笑)
松永久秀の最期
松永久秀といえばその最期は名物・平蜘蛛と共に爆死した話が有名です。
ま、これは小説の創作であって実際にそうしたわけではないことも多くの人に知れ渡っていることかと思います。
「信長公記」ではその最期がどのように描かれているのかというと、爆死とは書いていません(笑)
10月10日夕刻に織田信忠が、佐久間信盛、羽柴秀吉、丹羽長秀、そして十兵衛に命じて夜討ちが開始されます。
松永勢は防戦するものの弓は折れ、矢も尽きてしまい、松永久秀も観念して天守に火を放ち焼死した、とあります。
また、この松永久秀が焼死した時刻が永禄10年(1567年)の東大寺大仏殿の戦いにおいて、東大寺の大仏が炎上した時刻と同じだったとも。
この対仏殿の炎上を「信長公記」では松永久秀の仕業にしています、酷い話です(笑)。
東大寺大仏殿の炎上は、今日では松永久秀の仕業ではなく戦の最中の不慮の失火とか松永久秀が戦っていた三好方の失火と言われています。
謀叛を起こした人物に対する扱い方がよくわかりますね、勝者側の立場からの意見のみを鵜呑みにしてはいけないのです。
信長さまに謀叛を起こした十兵衛に関しても、きっと後世勝手に作られた悪いイメージがあるに違い無い・・・。
ちなみに松永久秀が割腹して首を落とされるまえに最後に叫んだ言葉
「南無三宝」
これの意味良くわからずかっこいい!とか思ってましたけど調べてみたら
①仏と法と僧の三宝に呼びかけて、仏の救いを求めること。また、そのときに心で唱えることば。②転じて、驚いたときや失敗したときに発することば。「大変だ」「しまった」などの意。
引用元:goo辞書
う~ん、松永久秀も最後は仏に救いを求めて死んでいったということ?
なんかちょっとイメージが違うなぁと思ったんですけど、ほかの視聴者の方はどう思ったのか気になるところです。
十兵衛の手に渡った名物・平蜘蛛
松永久秀の勝手な賭けによって十兵衛の下に渡った名物・平蜘蛛。
その見た目が蜘蛛がはいつくばっている姿に似ていることから、平蜘蛛という名がついたそうです。
この松永久秀所有の平蜘蛛は、信長さまが何度も頼んでも断って渡さなかった松永久秀にとって命の次に大事なもの。
それを十兵衛が受け取った史実はないんですが、松永久秀の十兵衛に対する信頼感がよく伝わるエピソードとなったと同時に、あれ?この平蜘蛛って実は爆弾なんじゃね?って思わせるエピソードでもありました(笑)
前述のとおり、平蜘蛛と爆死した松永久秀の話が有名ですけど、「麒麟がくる」ではこの平蜘蛛には爆弾のようなもの。
信長さまが欲してやまない天下一の名物・平蜘蛛を十兵衛が隠し持っていると知れば、信長さまと十兵衛の間に堅く結ばれていたはずの信頼感の糸は綻びを生じることでしょう。
既に十兵衛は平蜘蛛のことで信長さまに嘘をついてしまったし、その嘘を信長さまも気づいています。
十兵衛が信長さまに嘘をついた時点で、平蜘蛛に仕掛けられた爆弾の火縄に火がつけられ、本能寺の変へのカウントダウンが始まったことを示しているのかもしれません(笑)
もしかしたら本能寺の変で十兵衛は平蜘蛛を破壊したりするのかも?なんて妄想もしたり(笑)
伝わってる話では平蜘蛛は松永久秀によって破壊されたとか、その後壊れた破片を拾い集めて復元したとか、そもそも破壊されてなくて信貴山の麓に埋められてたのを見つけたとか、いろいろ話はありますが、十兵衛はどうするんでしょうね。
1.3.十兵衛が訪れた安土城からの学び
信長さまの正室・帰蝶さまの謎
信長さまの名プロデューサー役を演じてきた帰蝶さまが退陣することに。
ここで一度帰蝶さまを退かせる辺りが「麒麟がくる」らしいなと思ったりします。
本能寺の変で戦う帰蝶プロデューサーはちょっとイメージに無かったし、そもそも本能寺の変で信長さまと戦う姿は後世の創作です。
帰蝶さまが当時、本能寺にいたなんて話はどこにもありません。
それどころか、帰蝶さまはいつ頃まで生きていたのかもよくわかってないんですよね。
信長さまの正室という立場にありながら、情報は全然残っていないという不思議。
本能寺の変以降も生存していて「安土殿」と呼ばれていた人物が帰蝶さまなのでは、という話もあります。
そんな謎多き帰蝶さまは鷺山の館に移り住むと言っていました。
鷺山といえば、亡き斎藤道三さまが隠居してから住んでいたのが鷺山城。
その頃に帰蝶さまが信長さまの下へ嫁いだことから、帰蝶さまのことを「鷺山殿」と呼ばれていたなんて話もあります。
鷺山の地へ移り住むのは亡き道三さまを弔いながら昔を懐かしみながら余生を過ごしたいということなんでしょうか。
おそらく帰蝶さまはここで「麒麟がくる」の舞台から幕を引くわけではないのだと思います。
信長さまの身に起こる”祟り”を見届けつつ、十兵衛の最期の生き様も見届けるような気がしています。
「戦が終わって穏やかな世になったら遊びにおいでなされ。
渋くておいしいお茶を一緒に飲もう。」
という帰蝶さまの願いは叶わず約束は果たされないわけですが、天に召された十兵衛、そして父・斎藤道三と共に伊右衛門茶を飲むお姿は見れたりしないんでしょうか(笑)
信長さまは佐久間信盛にご立腹か?
信長さまがいよいよ佐久間信盛にご立腹のようです。
佐久間信盛を役立たず呼ばわり。
全て持ち帰れと命じたのに松永久秀所持の茶道具は全て焼け焦げてしまったことに加えて帰蝶さまの離脱、十兵衛の嘘、と信長さまのご機嫌斜めになる要因が重なりまくり。
頂点を極めているはずの信長さま、なんだか全然幸せそうじゃないし、どんどん孤独になっているような。
そしておそらく、その辺のとばっちりも含めてなのかはよくわからないけど(笑)、次回なのかそれ以降なのか、佐久間信盛が追放されてしまうのかもしれません。
佐久間信盛といえば信長さま自身で書き上げたという19カ条の折檻状によって追放処分を受けます。
佐久間信盛は、尾張時代から仕える重臣であり織田家筆頭家老、その所領も多く織田家の関わる数多の大戦には必ずその姿がありました。
石山本願寺をなかなか攻略できなかったからといって、そんな重臣を追放してしまうなんてこと、普通は有り得ません・・・きっと織田家中でもこれは大騒動になっていたんじゃないでしょうか。
筆頭家老がそんな扱いを受けるとなれば、どんな身分の者であろうとも罰を与えられてもおかしくない、より一層身を引き締めようと思う者もいれば、そこに恐ろしさを感じる者もいそう。
佐久間信盛とその子・信栄(のぶひで)に対する信長さまの不満が19カ条にびっしりと書かれているので、読んだことのない方は「信長公記」かWikipediaで読んで欲しいところなんですが、でも本当にそうか?って思う部分もあるんですよね。
たとえば佐久間信盛が30年仕えてきて比類なき働きを見せたことは一度も無いって言うのはちょっと言い過ぎな(笑)
「麒麟がくる」ではこの佐久間信盛の件がどの程度扱われるのかわかりませんが、少なくとも十兵衛に見せた佐久間信盛の笑顔の回収はある気がしています(笑)
ちょっと気になる十兵衛の丹波攻め
十兵衛、いよいよ丹波攻略に向けて本腰です。
丹波の赤鬼・赤井直正との対決が待っているわけですが、この丹波攻略に関してはずっと気掛かりなことがありますよね。
きっとみんな心配しているはず。
十兵衛の母・牧の扱いです。
十兵衛が丹波の波多野氏が守る八上城を包囲して攻めていた際のこと。
八上城の波多野秀治・秀尚兄弟も兵糧が尽きたために降伏。
その降伏する際に、波多野秀治・秀尚兄弟の命を助けることを約束し、その証として十兵衛の母・牧を波多野側に差し出します。
いわゆる人質ですね。
しかし、波多野秀治・秀尚が安土に到着すると信長さまはその約束を破って磔で処刑してしまいます。
その処分に怒った波多野側が十兵衛の母・牧を磔で処刑してしまうのです。
というのは信憑性の薄い逸話というのが、今では定説です。
でも丹波篠山には牧が磔にされたと伝わる「はりつけの松」があったり、篠山の市長はNHK神戸放送局に訪れてはりつけシーンの放送を要望したとかしないとか・・・。
こういう要望とか地元の盛り上がりがどの程度脚本に影響があるかはわからないけど、未だお牧さんは「麒麟がくる」から完全退場しているわけではないと思うので予断を許さない状況です(笑)
1.4.没した登場人物たち
こちらは「麒麟がくる」で亡くなった人たちを
弔うための章です。
亡くなった日については
Wikipediaの情報と「麒麟がくる」での情報を
照らし合わせてのものですが
人物によって諸説ありますので
あくまでも参考情報ということでお願いします。
1.5.参考資料
今回記事を書くにあたって主に参考とした書籍や
サイトをこちらでまとめて紹介しておきます。
興味持たれた方はご購入または閲覧してみてくださいね。
紀州征伐 - Wikipedia
松永久秀 - Wikipedia
「はりつけ松」大河ドラマで再現? 光秀母の悲話、丹波篠山がPR | おでかけトピック | 兵庫おでかけプラス | 神戸新聞NEXT
2.あとがき
「麒麟で学ぶ」第40回目はいかがでしたか?
感想、ご意見等あればコメントをお気軽に。
そろそろ麒麟がくるのエンディングを考えてみようってことでnoteに以下のような記事も投稿してみたので、よかったら読んでみてください。
例によってあまりきちんと纏まってはいない雑な記事であることはご容赦をw
note.com
信長さまが孤独な状態になっている一方で、十兵衛も実は孤独になってきている気がします。
もちろん藤田伝吾や左馬助っていう片腕的存在の部下はいるんだけど、十兵衛に道を示してくれるような存在の人たちがどんどん居なくなっている。
ふと思い出すのは松永久秀が十兵衛に言っていた
「道を教える者を持たぬ者は闇を生きることになるぞ・・・。」
という言葉。
だからこそと十兵衛にも易を勧めていた松永久秀でしたが、これは暗に本能寺の変からのことを指しているのかななんて考えたりもしたものです。
「麒麟がくる」の十兵衛が今後進む道は果たして光なのか闇なのか。
個人的には、十兵衛自身の身にどんなことが起ころうとも十兵衛が選んだ道は光り輝く世界への選択になるのではないかと思っています。
そこには斎藤道三さまや煕子、そして松永久秀たちの想いも共に運びながら。
なんか最終回みたいな感じになっちゃったけど「麒麟がくる」も「麒麟で学ぶ」もまだ終わりませんw
さて冒頭でも述べましたが
U-NEXTまたはAmazonプライムビデオであれば
NHKオンデマンドをチャンネル登録すると
当日の放送や再放送も見逃してしまったとしても、いつでも視聴可能です。
※2020年3月からNHKオンデマンドに元々あった最新作の「見逃し放題パック」と過去作の「特選見放題パック」が
統合されて「まるとご見放題パック」となったため最新作から過去作までいつでも見れるようになりました。
そして「麒麟がくる」をもっと楽しむために
こちらの書籍もおススメですので
ご興味のある方は是非とも。
NHK出版 2019年11月30日
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では今回はこの辺で。
ここまで読んでいただきありがとうございました!
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こちらから過去記事も読んで頂けると
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*1:第38話より良通から一鉄に。
*2:第39話より奇妙丸から信忠に。
*5:「麒麟がくる」では今の所亡くなったことは語られていない。
*6:「麒麟がくる」の場合は長良川の戦いから数日後な気がするけどWikipediaベースで載せてます。
*8:「麒麟がくる」では亡くなっているかどうかの言及はなく、東庵先生も生死どちらとも取れる感じで話している。
*9:信長の野望ベースなら享年42歳。桶狭間の戦いの前哨戦、丸根砦の戦いで討死しているが「麒麟がくる」では語られていない。
*10:実際に亡くなったのは21話と22話の間の期間だが、19話で既にナレ死してます。。。
*11:信長の野望ベースなら享年30歳。桶狭間の戦いの後、今川家からの自立を目指した松平氏との戦いにて戦死。
*12:「麒麟がくる」では桶狭間の戦いから4年間がカットされてしまったこともあって、その死を語られることもなかった。
*13:没した月日は9月13日、9月30日、10月1日、10月8日、10月20日、10月22日など諸説ある。
*14:1540年生年説もあるのでその場合だと享年29歳。
*16:「麒麟がくる」第37話時点で亡くなった説明はないが、蘭奢待切り取りの前年に亡くなっているはず。
*17:「麒麟がくる」では、その死は語られていない。また永正12年(1515年)生年説の場合は享年60歳。
*18:「麒麟がくる」では触れられていないが越前で起こった一向一揆との戦いで亡くなっているはず。
*21:享年も46歳、42歳、36歳など諸説ある。