「麒麟で学ぶ」第42回目です。
今回の記事を読むと以下の事がわかるかもしれませんw
さて本シリーズの前提事項的なものを毎回0章に記載していますので、初めて本シリーズの記事を読む方はさらっと一読していただけると助かります。
既に読んだことのある方は読み飛ばして頂いてかまいません。
また前提の一番最初に記載していますが本シリーズは「麒麟がくる」のネタバレを含みます。
当日の放送や再放送も見逃してまだ視聴されていない方はU-NEXTまたはAmazonプライムビデオでNHKオンデマンドをチャンネル登録すると見逃し分を視聴できます。
こちらで視聴した上で本記事を読まれるといいかもしれません。
※2020年3月からNHKオンデマンドに元々あった最新作の「見逃し放題パック」と過去作の「特選見放題パック」が
統合されて「まるとご見放題パック」となったため最新作から過去作までいつでも見れるようになりました。
最新情報については各サイトにてご確認ください。
しかしネタバレ含んでいるけど、本記事を読んでから視聴すると少し前提知識が入った上での視聴になるのでそれはそれでいいのかもしれませんけどね。
そして「麒麟で学ぶ」の過去分についてはこちらからどうぞ。
では今回のお品書きはこちらになります。- 0.本記事を読むにあたっての前提など
- 1.「麒麟がくる」第42話「離れゆく心」からの学び
- 1.1.飛ばされたから越中の陣の学び
- 1.2.荒木村重謀反からの学び
- 1.3.離れゆく心からの学び
- 1.4.没した登場人物たち
- 1.5.参考資料
- 2.あとがき
ちなみに2019年12月15日から更新中の
「麒麟がくる」公式サイトと公式Twitterもブックマーク、フォローしておくと
より一層「麒麟がくる」を楽しめると思いますので
まだの方は是非とも。
→2021年3月31日をもって公式サイト・Twitter・Instagramは天に召されました。
1年以上に渡って「麒麟がくる」を盛り上げて下さり、ありがとうございました!
0.本記事を読むにあたっての前提など
1.「麒麟がくる」第42話「離れゆく心」からの学び
第42話の感想はnoteの方に先出しで書いているのでそちらをご参照ください!
note.com
というわけで、さっさと本題の方へ。
ちなみに第42話の公式サイトのトリセツはこちらです。
今回も前回に引き続き畿内の織田・反織田勢力の情勢が図示されています。
徳川家康が船で摂津の海へ移動した航路が示されています、へ~w
→2021年3月31日をもって公式サイト・Twitter・Instagramは天に召されました。
1年以上に渡って「麒麟がくる」を盛り上げて下さり、ありがとうございました!
登場人物の年齢のおさらい
まずは主な登場人物たちの年齢確認を。今回は天正6年(1578年)秋開始。
というわけで全員の年齢を1加算。
追加した人物は赤字にしています。
また前回の話の中で亡くなったと判明した人物に関しては、こちらの一覧からは削除して後述の亡くなった人を弔う章に引き続き掲載する形にしています。
ちなみに生年不明な人や年齢設定不明な人以外の生年については、Wikipediaをベースにしています。
あと基本的に全員数え年の年齢です。
1.1.飛ばされたから越中の陣の学び
越中の陣
「麒麟がくる」では一切触れられていないし、触れられることもないだろうと思っていた越中の陣。
「信長公記」でももさほど記述が多いわけでもないんですが、個人的にはどうしても触れて起きたい出来事なので勝手に補足をしますw
天正6年(1578年)9月24日、斎藤新五が信長さまの命によって越中へ出陣します。
越中の中央部太田保にある城には上杉方の将・椎名道之と河田長親が軍勢を配備して守っていました。
上杉といえば、前年に上杉謙信が手取川の戦いで柴田勝家率いる織田軍を打ち負かし
「上杉に逢うては織田も手取川 はねる謙信逃げるとぶ長(信長)」
という有名な落首が残された話を前回記事で紹介しました。
tsukumogatari.hatenablog.com
この手取川の戦いは、上杉軍が能登へ進出し、能登畠山氏の居城・七尾城を包囲したことが原因。
能登畠山氏の重臣・長続連が織田方に援軍要請をしたために、柴田勝家らがその援軍として向かったのです。
しかし柴田勝家率いる織田軍勢が到着する前に七尾城が陥落したため、柴田勝家らは情勢不利と見て撤退をし始めるんですが、それを追撃してきた上杉軍に加賀の手取川付近でコテンパンに(?)やられてしまったというわけです。
この織田方の敗戦が、越前朝倉氏が大敗した刀根坂の戦いや甲斐武田氏が大敗した長篠の戦い同様に、追撃側に戦局が傾きやすい撤退戦での敗戦なんですよね。
手取川の戦いは戦場の状況よりも上杉謙信の存在がクローズアップされがちなんですけど、軍神と謳われる人なので仕方ないところか(笑)
この手取川の戦いで前年上杉軍に煮え湯を飲まされた織田軍ですが、今度は飛騨を越えて越中へと攻め込みます。
織田方から攻め込みに行ってるところは撤退戦になってしまった手取川の戦いとは大きな違いです。
この越中での戦いにおいて総大将となったのは斎藤新五なんですが、10月4日に発生した月岡野の戦いにおいて見事上杉軍に勝利を収めます。
この越中の陣での織田方勝利によって、越後の上杉勢と加賀・能登が分断されることになり、北陸方面における反織田勢力は次第に劣勢となっていきます。
そのため信長さまは斎藤新五の越中の陣での勝利を大層喜び、上杉軍に勝利したことを周辺諸国に喧伝させたとも言われています。
ただこの上杉軍の敗戦は、上杉謙信が亡くなっていたことも大きく影響しているのかもしれません。
既に亡くなっていた上杉謙信
上杉謙信は天正6年(1578年)3月13日に居城の春日山城で急死しています。
越中の陣が発生する半年ほど前のことです。
上杉謙信は亡くなる日の2日後、3月15日には遠征する予定で準備を進めていたところだったので、前触れもなく突然の死だったことがわかります。
この上杉謙信の急死は、上杉家中を大混乱に陥れることになります。
なぜなら上杉謙信が明確に後継ぎを指定せぬまま亡くなってしまったからです。
上杉謙信には実の子がおらず、当時は相模の後北条氏から養子として迎えていた上杉景虎(北条三郎)と、上杉謙信の姉の子である上杉景勝が後継ぎ候補でした。
この両者の間で後継者争いが勃発したことは言うまでもありません。
そしてこの後継者争いが、俗にいう御館の乱に発展します。
この御館の乱には、後北条氏の北条氏政も積極的に介入しています。
そりゃそうです、自分の弟が上杉氏後継となれば越後を手に入れたも同然です。
北条氏政が味方に付いていることもあって奥州の伊達輝宗や蘆名盛氏に加えて甲斐の武田勝頼も当初は上杉景虎方に加担しています。
ただし、後に武田勝頼と同盟を組んだ上杉景勝方が次第に優勢となり、最終的には上杉景勝が勝利を収めることとなります。
この辺はNHK大河ドラマ「天地人」でも詳細に描かれていますね。
しかし御館の乱は完全に終息するまでに1年以上かかっているんです。
つまり、織田方が越中へ攻め込んでいた9月頃は、まだ越後継者争いの真っただ中でした。
もしも上杉謙信が存命か、亡くなっても後継者がすんなり決まっていたら越中に援軍を出す余裕もあったでしょうから、織田方が苦戦していた可能性はあります。
越中の陣、総大将は斎藤新五
越中の陣で上杉勢に勝利を収めた織田軍を率いていたのは斎藤新五(または新吾)。
諱はいろいろ伝わっていますが利治が正しいのではないかと言われています。
この斎藤利治は、斎藤道三さまの末子と言われているんです。
tsukumogatari.hatenablog.com
斎藤道三さまの子といえば「麒麟がくる」では、帰蝶さま、高政(義龍)、孫四郎、喜平次の4人が登場。
そのうち孫四郎と喜平次は高政によって謀殺されてしまいました。
この道三さまの子たちのうち、高政以外が正室・小見の方(十兵衛の叔母にあたる)の子であり、孫四郎と喜平次は高政に謀殺されてしまうんですが、斎藤新五は長良川の戦いの後に信長さまが助けたと言われています。
斎藤新五も小見の方の子と言われていますが、だとすれば、なぜ孫四郎らと共に殺されなかったのかは疑問が残ります。
その辺のことはよくわかりませんが、信長さまは義理の弟にあたる新伍を重用します。
斎藤新五もその期待に応えて、美濃攻めや上洛戦、石山本願寺との戦いなど数々の戦で働きを見せ、上杉謙信に敗北した手取川の戦いにも従軍していたようです。
そして織田信忠が信長さまから家督を譲られてからは、織田信忠の側近として活躍しています。
織田信忠の側近ということは、本能寺の変の際には織田信忠に従って京にいたんですよね。
「麒麟がくる」序盤の頃は、道三さまの末子の斎藤新五と道三さまに大きな国造りを託された十兵衛が戦うことで一つエピソード作れそうだなぁなんて思ってたりしてたのもあって、斎藤新五が活躍した越中の陣は触れないわけにはいかず今回取り上げました。
でも斎藤新五は登場しないのかな、今の調子だとw
一応ぎりぎりまで登場を期待したいと思います。
1.2.荒木村重謀反からの学び
荒木村重の謀反
有岡城城主の荒木村重が起こした謀反は十兵衛にとっても厄介な話。
なぜなら十兵衛の長女・岸が荒木村重の嫡男・村次の下に嫁いでいたからです。
要するに十兵衛と荒木村重は親戚関係。
これまで表立って登場してなかったけど(笑)、身内として腹蔵なく話し合ってきた仲と十兵衛は言ってましたから両家の関係は良好だったのでしょう。
「麒麟がくる」では十兵衛と羽柴秀吉が荒木村重の説得に赴いていましたが、「信長公記」では二人に加えて松井友閑も共に説得に当たっています。
さらにいえば荒木村重に謀反の疑いがあるという噂が発生した時点で、信長さまは噂の真偽を確かめるために十兵衛と松井友閑、そして万見重元の3人を荒木村重の下に派遣しています。
その時は、荒木村重は野心の無いということだったので、信長さまは荒木村重の母を人質として預けることと、出仕することを荒木村重に命じます。
ところが、荒木村重は信長さまの命令を無視して出仕せず結局謀反を起こした、という流れになっています。
十兵衛が常に派遣メンバーに加わっているのは、やはり親戚同士だからということなんでしょうかね。
ちなみに万見重元は12月8日の有岡城一斉攻撃の際に討死しています。
信長さまの小姓であり、家臣や大名との取次や奉行として政務をこなすなど信長さまの側近として活躍した人なんですが、信長の野望シリーズには多分一度も登場していませんねw
荒木村重の謀反に関してはまだ話が途中なので、一旦これ以上のことは書かずにおきますが、個人的には荒木村重が十兵衛に謀叛を唆す一人になったりするのかな?なんていう妄想をしていた時期がありました(笑)
ついでに言うと荒木村重は羽柴秀吉の参謀的役割を果たしていた黒田官兵衛とも仲良しなので、荒木村重経由で黒田官兵衛は十兵衛の謀反を知っていたが故に、事前準備をした上で羽柴秀吉の中国大返しをプロデュースしたんじゃないか、とか(笑)
そして最終話には黒田官兵衛が登場するらしいです。
「軍師官兵衛」では官兵衛の重臣・栗山善助役だった濱田岳さんが黒田官兵衛の役を演じるそうで。
どうしても善助のイメージが強いからやっぱり官兵衛は岡田准一さんに演じてほしかったなぁ、いろいろ諸事情あるんでしょうけど。
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鞆の浦で十兵衛を迎えた渡辺民部
突然鞆の浦にいる公方さまに会いに行くと細川藤孝に言いだした十兵衛ですが、あんなこと勝手にしていいんですかね(笑)
それはともかく、現在鞆で公方さまのお傍近くでお世話をしているというのが渡辺民部という人らしい。
左馬助情報なんだけど、左馬助はなぜかその渡辺民部と文のやり取りをしているのだとか。
何かしら十兵衛の役に立つであろうことを見越して左馬助は動いているんだろうけど、優秀すぎやしないか?
ひょっとしたら十兵衛以上に出来る武将な気がしてきました(笑)
さて、その渡辺民部という人は一体何者なのか?
渡辺民部、諱は元(もと)。
毛利氏に従う国衆で、毛利元就の三男・小早川隆景の指揮下にあったらしい。
天正4年(1576年)の織田家水軍をボコボコにした第一次木津川口の戦いにも従軍していて武功を挙げたそうです。
公方さまが鞆の浦にきた際には、その護衛役を任されたそうですが、木津川口の戦いで戦功を挙げた渡辺民部を公方さまは大層気に入って側近のように扱うほど。
さらに天正10年(1582年)には渡辺民部、父の房、子の景に室町幕府から守護家に認可される特権、毛氈鞍覆・白傘袋の使用を許す御内書を公方さまは下しています。
公方さまのお気に入りぶりがうかがえますが、逆に言えばそれだけ信長さまを嫌ってたということなのかどうか(笑)
明智日向守殿?
鞆の浦で渡辺民部に「明智日向守」と呼ばれていた十兵衛ですが、なんかちょっと違和感がありましたw
十兵衛が日向守に任官されたのは天正3年(1575年)7月のことなんですが、この時に惟任の姓も賜っているんですよね。
なので本来は「明智日向守殿」じゃなくて「惟任日向守殿」が正しいと思うんだけど、惟任姓を封印している「麒麟がくる」では仕方ないかもしれません。
その一方で石山本願寺との戦いで戦死した原田直政は原田姓を名乗っていたので(元は塙直政)、それなら十兵衛も惟任日向守光秀に切り替えちゃった方が史実っぽくていいんじゃないかと思ったりします。
ちなみに原田、惟任、そして丹羽長秀が与えられた惟住といった姓は、すべて九州で鎮西九党と呼ばれた有力武士団の姓です。
十兵衛が惟任日向守となった時に秀吉が筑前守、村井貞勝が長門守に任官されてたりするので、これらの任官は信長さまがゆくゆくは西国を取り込むことを睨んでのことなのかもしれません。
そして身内以外は遠くへ飛ばそうとしてたのかもしれない(笑)
1.3.離れゆく心からの学び
嫡男と妻を殺せと信長さまに命じられた家康
嫡男・信康と正室・築山殿に武田家への内通を信長さまに疑われた徳川家康。
この話は「女城主 直虎」にでも当然描かれたし、2023年の大河ドラマ「どうする家康」でも間違いなく扱われるお話。
有名な話なので大河ドラマ好きな人なら知らない人はいないんじゃないでしょうか。
「麒麟がくる」だとまったく出てくる気配のない酒井忠次がこの件の談判役として信長さまの下へ使わされるものの、酒井忠次が概ね認めてしまったことから信康の切腹が決まってしまった、というのが通説。
信康切腹の命が下り、困った家康は織田家中でも信長さまに唯一諫言のできる十兵衛を頼る、というのはあくまでも「麒麟がくる」という物語の中での話。
ただ「麒麟がくる」では十兵衛と家康の関係性を考えると、こういう展開になる可能性もあるなぁとは思っていました。
もっとも近年では信康の切腹は信長さまの命ではなく、家康自身が決めたこととか、徳川家中における浜松衆と岡崎衆の確執が生んだ事件とも言われています。
ところで三河は信用できないという話を信長さまがしている中で、三河に鷹狩りへいった話がでてきました。
それは、もしかしたら「信長公記」に書かれている天正5年(1577年)12月15日の三河吉良での鷹狩りのことかもしれません。
でもこの鷹狩りに関しては雁や鶴をたくさん獲った、という内容しかありませんw
そして鷹狩りでは鶴も捕獲することに驚きを覚えました(笑)
毛利水軍を九鬼水軍が打ち破った戦い
信長さまが十兵衛に自慢げに話していた毛利水軍に勝利した戦いは、第二次木津川口の戦いの事でしょう。
第二次木津川口の戦いは天正6年(1578年)11月6日に織田水軍と毛利水軍の間でおこなわれた戦。
木津川は現在の大阪市南西部を流れる大阪湾に繋がる川で、石山本願寺勢にとっては海上輸送口として重要だったのがこの木津川口です。
第一次木津川口の戦いでは毛利水軍に炮烙火矢を打ち込まれたり船体に穴を開けられて沈めさせられたり、散々な目に遭った織田水軍。
織田水軍をコテンパンにやっつけた毛利水軍は石山本願寺に海路で無事補給物資を届けることができたのです。
しかしこの敗戦が返って信長さまに火をつけたのかもしれません。
志摩の水軍を率いる九鬼嘉隆に鉄製の大型船の建造を命じます。
いわゆる鉄甲船というやつで、大砲も装備していたそうです。
鉄製なのは、毛利水軍の炮烙火矢による炎上を避けるためですね。
この鉄甲船の建造に成功した九鬼嘉隆は全部で6艘の鉄甲船を毛利水軍の輸送ルートとなる木津川口付近に配備して海上補給を遮断。
対して毛利水軍は600艘。数の上では断然毛利水軍が有利に見えます。
しかし鉄甲船は言うなれば超巨大な戦艦で、大砲も左右に3門ずつ搭載していたので1艘に6門、6艘合計だと36門の大砲が搭載されていたことになります。
そんな巨大戦艦が待ち構える木津川口へ攻め寄せてきた毛利水軍ですが、その大将の船に九鬼水軍の兄弟戦艦が大砲を撃ちまくり大破させてしまいます。
一瞬で味方の船が大破したことに恐れを覚えた毛利水軍は、それ以後九鬼水軍に近寄ることができません。
近寄れず恐れ戦く敵船を九鬼水軍は木津川の河口へ追いやって数百隻を撃破。
第二次木津川口の戦いは、織田水軍の大勝利となったのです。
この敗戦によって毛利水軍は木津川口へ近づくことはできなくなり、石山本願寺勢への海上補給を諦めざるを得なくなるのです。
1.4.没した登場人物たち
こちらは「麒麟がくる」で亡くなった人たちを
弔うための章です。
亡くなった日については
Wikipediaの情報と「麒麟がくる」での情報を
照らし合わせてのものですが
人物によって諸説ありますので
あくまでも参考情報ということでお願いします。
1.5.参考資料
今回記事を書くにあたって主に参考とした書籍や
サイトをこちらでまとめて紹介しておきます。
興味持たれた方はご購入または閲覧してみてくださいね。
御館の乱 - Wikipedia
荒木村重 - Wikipedia
松井友閑 - Wikipedia
万見重元 - Wikipedia
渡辺元 - Wikipedia
第二次木津川口の戦い - Wikipedia
2.あとがき
「麒麟で学ぶ」第42回目はいかがでしたか?
感想、ご意見等あればコメントをお気軽に。
十兵衛は主人公だから仕方ないけど、帝に公方さまに徳川家康に、みんながみんな十兵衛に期待をして十兵衛を頼りにしている。
他に誰かいないんか~いとちょっと言いたくなる(笑)
今や天下の行く末は信長さまではなく、明智十兵衛光秀が握っているような状況ですよね。
そして結局十兵衛は公方さまの
「十兵衛となら麒麟がくる世にできるかもしれない」
という口説き文句になびいてしまうのか?
十兵衛自身が天下取りを目指すようなタイプの人間ではないと考えている私的には、それはそれでしっくりきます。
信長さまに扇子で額から血が出るほど殴られまくっていた十兵衛の顔には、もはや信長さまを慕う顔ではなく怒りに満ち満ちていました。
もはや、ちょっとしたきっかけが一つありさえすれば、本能寺の変のような事態が起こってもおかしくないでしょう!
扇子で殴られている時、十兵衛もしかしたら
『今なら信長さまを討てる』
と思っていたりしたのかも・・・。
ところで徳川家康が言っていた鷹狩りの際に家臣の者が
『今なら信長を討てる』
と言っていたという話、なんかどこかで聞いたことがある気がするけど思い出せません。
気のせいかもしれないけど、関連する逸話を知っている方がいたら教えてください!
さて冒頭でも述べましたが
U-NEXTまたはAmazonプライムビデオであれば
NHKオンデマンドをチャンネル登録すると
当日の放送や再放送も見逃してしまったとしても、いつでも視聴可能です。
※2020年3月からNHKオンデマンドに元々あった最新作の「見逃し放題パック」と過去作の「特選見放題パック」が
統合されて「まるとご見放題パック」となったため最新作から過去作までいつでも見れるようになりました。
そして「麒麟がくる」をもっと楽しむために
こちらの書籍もおススメですので
ご興味のある方は是非とも。
NHK出版 2019年11月30日
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では今回はこの辺で。
ここまで読んでいただきありがとうございました!
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過去に投稿済みの記事へも
アクセスしやすいです。
こちらから過去記事も読んで頂けると
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*1:第38話より良通から一鉄に。
*2:第39話より奇妙丸から信忠に。
*4:「麒麟がくる」では今の所亡くなったことは語られていない。
*5:「麒麟がくる」の場合は長良川の戦いから数日後な気がするけどWikipediaベースで載せてます。
*7:「麒麟がくる」では亡くなっているかどうかの言及はなく、東庵先生も生死どちらとも取れる感じで話している。
*8:信長の野望ベースなら享年42歳。桶狭間の戦いの前哨戦、丸根砦の戦いで討死しているが「麒麟がくる」では語られていない。
*9:実際に亡くなったのは21話と22話の間の期間だが、19話で既にナレ死してます。。。
*10:信長の野望ベースなら享年30歳。桶狭間の戦いの後、今川家からの自立を目指した松平氏との戦いにて戦死。
*11:「麒麟がくる」では桶狭間の戦いから4年間がカットされてしまったこともあって、その死を語られることもなかった。
*12:没した月日は9月13日、9月30日、10月1日、10月8日、10月20日、10月22日など諸説ある。
*13:1540年生年説もあるのでその場合だと享年29歳。
*15:「麒麟がくる」第37話時点で亡くなった説明はないが、蘭奢待切り取りの前年に亡くなっているはず。
*16:「麒麟がくる」では、その死は語られていない。また永正12年(1515年)生年説の場合は享年60歳。
*17:「麒麟がくる」では触れられていないが越前で起こった一向一揆との戦いで亡くなっているはず。
*20:享年も46歳、42歳、36歳など諸説ある。