「麒麟で学ぶ」第44回目です。
いよいよ最終回です。
今回は最終回に新たに登場した人物たちや、それまでに登場した人物たち(オリキャラ除く)のその後について簡単に紹介します。
そして「麒麟がくる」に麒麟はきたのか、誰が麒麟がくる者だったのかといった考察を最後に、この「麒麟で学ぶ」シリーズを締めくくりたいと思います。
さて本シリーズの前提事項的なものを毎回0章に記載していますので、初めて本シリーズの記事を読む方はさらっと一読していただけると助かります。
既に読んだことのある方は読み飛ばして頂いてかまいません。
また前提の一番最初に記載していますが本シリーズは「麒麟がくる」のネタバレを含みます。
当日の放送や再放送も見逃してまだ視聴されていない方はU-NEXTまたはAmazonプライムビデオでNHKオンデマンドをチャンネル登録すると見逃し分を視聴できます。
こちらで視聴した上で本記事を読まれるといいかもしれません。
※2020年3月からNHKオンデマンドに元々あった最新作の「見逃し放題パック」と過去作の「特選見放題パック」が
統合されて「まるとご見放題パック」となったため最新作から過去作までいつでも見れるようになりました。
最新情報については各サイトにてご確認ください。
しかしネタバレ含んでいるけど、本記事を読んでから視聴すると少し前提知識が入った上での視聴になるのでそれはそれでいいのかもしれませんけどね。
そして「麒麟で学ぶ」の過去分についてはこちらからどうぞ。
では今回のお品書きはこちらになります。- 0.本記事を読むにあたっての前提など
- 1.「麒麟がくる」第44話「本能寺の変」からの学び
- 1.1.最終回初登場の人物たちからの学び
- 1.2.登場人物たちの本能寺の変とその後からの学び
- 1.3.「麒麟がくる」からの学び
- 1.4.没した登場人物たち
- 1.5.参考資料
- 2.あとがき
ちなみに2019年12月15日から更新中の
「麒麟がくる」公式サイトと公式Twitterもブックマーク、フォローしておくと
より一層「麒麟がくる」を楽しめると思いますので
まだの方は是非とも。
→2021年3月31日をもって公式サイト・Twitter・Instagramは天に召されました。
1年以上に渡って「麒麟がくる」を盛り上げて下さり、ありがとうございました!
0.本記事を読むにあたっての前提など
1.「麒麟がくる」第44話「本能寺の変」からの学び
第44話の感想はnoteの方に先出しで書いているのでそちらをご参照ください。
note.com
ここで全ての想いを語れているわけではない自分が残念(笑)
というわけで、さっさと本題の方へ。
ちなみに第44話の公式サイトのトリセツはこちらです。
最後のトリセツはもちろん、本能寺の変当日の情勢。
しれっと阿波に名前のある三好は注目ポイントw
→2021年3月31日をもって公式サイト・Twitter・Instagramは天に召されました。
1年以上に渡って「麒麟がくる」を盛り上げて下さり、ありがとうございました!
登場人物の年齢のおさらい
まずは主な登場人物たちの年齢確認を。今回は天正10年(1582年)5月開始。
というわけで全員の年齢を3加算。
追加した人物は赤字にしています。
また前回の話の中で亡くなったと判明した人物に関しては、こちらの一覧からは削除して後述の亡くなった人を弔う章に引き続き掲載する形にしています。
ちなみに生年不明な人や年齢設定不明な人以外の生年については、Wikipediaをベースにしています。
あと基本的に全員数え年の年齢です。
1.1.最終回初登場の人物たちからの学び
細川氏の筆頭家老・松井康之
細川クラスタは湧きに沸いたであろう松井康之の登場。まさかこのタイミングで登場することがあるとは思っていなかったのでTwitterの松井康之殿も驚きと共に歓声をあげたに違いありません(笑)
松井康之は、細川家の筆頭家老。
松井家は江戸時代を通して代々その筆頭家老を受け継いでいます。
元は幕臣として足利家に仕えていた松井康之ですが、永禄の変で当時の将軍・足利義輝が殺害されると、その後は細川藤孝と共に行動し、後々細川氏の家臣となります。
天正9年(1581年)の秀吉の鳥取城攻めでは援軍として丹後水軍を率いて従軍し、伯耆の泊城を攻撃。
敵兵を散々に打ち破り、敵の船も65艘破壊したそうです。
その時の働きぶりに信長さまは「比類なき働き」と称しています。
また本能寺の変が発生した後は松井康之の主君、細川藤孝・忠興父子(家督は忠興が継いでいた)は明智光秀には従いませんでした。
そのため、秀吉から本領の丹後を安堵されるんですがその際に、松井康之には加増分の3分の1の領地を与えるように、と秀吉からの指示があります。
秀吉は当然鳥取城攻めでの松井康之の働きを知っていたわけで、その才覚を十分に認めていたということでしょう。
以降、秀吉のおこなった戦では水軍を率いて活躍。
秀吉はその働きぶりを賞賛し、石見半国の大名に取り立てようとしたほど。
しかし、松井康之はそれを断って細川家の家臣の身に留まることを選んだのです。
と戦面での活躍が多いように見えますが、戦以外で松井康之は二度、細川家の窮地を救う大活躍をしています。
まず一つ目が、秀吉の甥で関白となっていた豊臣秀次に謀反の嫌疑がかかった際のこと。
豊臣秀次は切腹して果ててしまいますが、秀次に借金があった主君・細川忠興にも謀反連座の疑義が振りかかってきます。
この際、松井康之はこの借金の返納や秀次の縁者に嫁いでいた・細川忠興の娘・御長の差し出し要求に奔走し、細川家のピンチを救いました。
ちなみに借金の返済には徳川家康も一枚噛んでたりします。
そして二つ目が、関ケ原の戦いの頃の話。
細川忠興は関ヶ原の戦いに至る際に、家康に謀反の疑義をかけられます。
この際、当時久美浜城主だった松井康之は主君・細川忠興に久美浜特産の鮗(コノシロ)の麹漬け、いわゆる鮗寿司を端午の節句の贈り物として家康に献上することを進言。
これによって謀反の疑いは晴れて、細川家は事なきを得たと伝えられています。
この鮗寿司を献上に対する家康からのお礼の書状の写しが久美浜の松倉城近くにある如意寺に保存されているそうです。
鮗は関東ではコハダと呼ばれる魚で、久美浜の鮗寿司は現在では町内1~2店でのみ製造・販売している郷土料理。
鮗は冬の冷え込みが強くなる11月から旬を迎えることもあり、鮗寿司は11月から3月頃のみの販売だそうです。
冬に久美浜へ訪れる機会があったら、晩年病に伏しても細川家のために尽くした松井康之と鮗寿司を思い出してください!
[Tシャツ魂] 寿司ネタTシャツ #27 鮗 (このしろ) 寿司好き必見 (M)
- メディア: ウェア&シューズ
日海は碁の名人・本因坊算砂?
本能寺の変の前夜、信長さまが碁を打っていた相手。
作中での紹介はありませんでしたが、オープニングのキャストに「日海」の名があったので、多分その人だと思います。
この日海は寂光寺の住職で、おそらく後世に本因坊算砂と称した囲碁の名人だと思われます。
ちょっと年取ってる感じだったのが気になるけど(笑)、日海は1555年生まれなので数えでまだ23歳。
しかし既に信長さまからその数年前に名人と賞賛されるほどの腕前でした。
本能寺の変の前夜に信長さまと日海が碁を打っていましたが、この話と元になった逸話があります。
それは、本能寺の変前夜、日海が信長さまの御前で利玄と対局した時の話。
この時の対局中に、めったに起きないと言われる「三劫(さんこう)」が発生。
その翌日に本能寺の変が起きて信長さまが討たれた事から「三劫は不吉」と言われるようになったそうです。
ただし、この時の対局の棋譜は「三劫」が発生することはないというのがわかっているそうで、逸話自体は創作話だろうと見られています。
日海は秀吉や家康の時代にも囲碁の腕前で俸禄を与えられ、日本初の囲碁出版『本因坊碁経』も刊行しています。
『本因坊碁経』には詰碁や手筋などが収録されています。
博多の三傑と呼ばれた豪商・島井宗室
島井宗室は、神屋宗湛・大賀宗九と並んで「博多の三傑」と呼ばれた博多商人。前田利家と同じ年に生まれた人なので、以前こちらの記事でもちらっと紹介しています。
tsukumogatari.hatenablog.com
島井宗室は豊後の戦国大名・大友宗麟や対馬の宗氏との取引によって豪商へと成り上がります。
そんな島井宗室が本能寺の変前夜に信長さまの下にいたのはなぜか?
それは当時、薩摩の島津氏が大友氏に代わって勢力を強めてきたことが原因。
大友氏から受けていた特権を島津氏に奪われる危険性を感じた島井宗室は、信長さまを頼ったのです。
当時、信長さまは九州の島津氏との対峙を見据えて、他の九州諸大名との同盟を図っていましたから島井宗室とも利害が一致したのでしょう。
島井宗室は、同じく博多の豪商・神屋宗湛と共に安土城で信長さまに謁見し、天下三肩衝の一つである茶器・楢柴肩衝を譲ることでその保護を約束されたと言われています。
その後再び本能寺で信長さまに謁見し、そのまま本能寺に宿泊したところ、十兵衛の襲撃に巻き込まれてしまいます。
島井宗室も神屋宗湛も本能寺から脱出して生き残っていますが、この脱出の際には二人とも空海直筆の『千字文』や信長愛蔵の牧谿(もっけい)作の『遠浦帰帆図』を持ちだしています。
商魂たくましい気質が後に重要文化財となるものの命を救ったということになるのかなw
その後、島井宗室は秀吉の保護を得て海外貿易や諸大名への貸付などで莫大な富を得るんですが、家康には冷遇されたそうです。
関ケ原の戦いの後には、博多を支配することとなった黒田長政に築城の為の金銀、材木などを融通するなど惜しまず協力しています。
ちなみみに宗室は死の直前に養嗣子の島井信吉に遺訓17カ条を送っているんですが、商いを行う行わないに限らず教訓となる言葉が多いんですよね。
その中で「40歳までは他人にあまり奢ることも奢られることもダメ」ていうのがあるんですけど、どっちも沢山やってしまっているから私は豪商になれないかもしれませんw
- 作者:雅志, 火坂
- 発売日: 2017/02/07
- メディア: 文庫
秀吉の両兵衛の一人・黒田官兵衛
秀吉の参謀として仕えて、「両兵衛」または「二兵衛」と後世呼ばれることになる黒田官兵衛。もう一人の「両兵衛」である竹中半兵衛は「麒麟がくる」に登場しなかったのはとっても残念です。
半兵衛の父・重元は斎藤道三さまに味方をして斎藤義龍と戦ったと言われているのでちらっとでも出てきてほしかったんですが、それはまた別の話。
tsukumogatari.hatenablog.com
黒田官兵衛は前回記事でも少し触れてるし、大河ドラマの「軍師官兵衛」が数年前に放映されたばかりなので、いろいろ語らずとも多くの人が知ってるんじゃないかと思います。
「麒麟がくる」だと秀吉が強すぎて(笑)、中国大返しは官兵衛の手柄じゃなくて秀吉の情報網の広さから十兵衛の謀反を事前に察知(細川藤孝からの連絡)した上での計画的なものとして描かれていました。
中国大返しが秀吉の優れた情報収集力に加えて「麒麟がくる」の秀吉の狡猾さも交えた上でのものであったことは、筋が通ってて良かったと思います。
そういえば本能寺の変の報を聞いて秀吉に『天下をとる好機がきた』と囁いたと言われる黒田官兵衛ですが、2度ぐらい返事をした程度しかセリフはありませんでした。
あれはもしかすると黒田官兵衛じゃなくて影武者になっていた栗山善助で、官兵衛は既に中国大返しのために裏で動き始めていたのかもしれません(笑)
1.2.登場人物たちの本能寺の変とその後からの学び
「麒麟がくる」に登場したものの語られることが少なかった人物たちも含めて、登場人物たちの行く末をかいつまんで紹介します。紹介するのは天正10年時点で生存していそうな人物のみで、おそらく亡くなったと言われている人たちは除外。(ただし十兵衛の母・牧は例外w)
もっと詳しく知りたい方は合わせて参考になる書籍を添えてるので、そちらを覗いてみてください。
今井宗久
信長さまに重用されて特権を得ていた今井宗久でしたが、信長さまの死後は秀吉に仕えて御伽衆を務めています。秀吉が主宰した北野大茶湯でも茶頭として協力していますが、信長さまの時ほど重用はされなかったとも。
文禄2年(1593年)、享年73で亡くなっています。
- 作者:火坂 雅志
- 発売日: 2004/01/01
- メディア: 文庫
- 作者:火坂 雅志
- 発売日: 2004/01/01
- メディア: 文庫
荒木村重
信長さまに背いて以後は毛利氏の下へ亡命。本能寺の変で信長さまが斃れると堺へ戻り、秀吉の時代には茶人として復活。
秀吉への悪口が露見したことで処刑を恐れた荒木村重は出家して荒木道薫と改名。
天正14年(1586年)5月4日堺にて享年52歳で亡くなっています。
- 作者:天野忠幸
- 発売日: 2017/06/15
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
渡辺民部
十兵衛が鞆にいる公方さまに会いに行った際に取次役だったのが毛利氏家臣の渡辺民部。信長さまとの合戦で功を挙げた渡辺民部のことを買っていた公方さまは守護家に認可される特権を渡辺民部に与えるほど厚遇。
亡くなった時期は不明ですが、秀吉の代にも小早川隆景の臣として付き従っていた様子。
斯波義銀
守護家斯波家の嫡男。信長さまがまだ尾張を統一していない頃、守護代の家臣に父を殺され自らも命を狙われ、逃げて助けを求めた先が信長さま。
しかしその後、庇護してくれた信長さまの追放を企てるが信長さまに察知されて逆に尾張を追放されます。
その後、秀吉の時代には御伽衆に列せられるも後に秀吉の勘気を被り失脚。
慶長5年8月16日(1600年9月23日)に死去。享年61歳。
毛利長秀
もはやどこで登場したかうろ覚え(笑)斯波義銀の弟で、毛利姓を名乗っているのは織田家臣・毛利十郎に保護されたため。
本能寺の変の頃は信濃の飯田城主となっており、秀吉の時代にはその家臣として仕えている。
文禄2年閏9月17日(1593年11月9日)享年53歳で死去。
丹羽長秀
惟住長秀、または羽柴越前守。本能寺の変後は秀吉と共に明智光秀を討つ。
信長さまの後継者を決める清須会議でも秀吉の推す三法師を支持。
賤ケ岳の戦いでも秀吉側についた丹羽長秀は、戦後123万石の大大名に。
しかし天正13年(1585年)4月16日、病が原因で死去してしまいます。享年51歳。
- 作者:佐々木 功
- 発売日: 2019/05/23
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
佐々成政
「麒麟がくる」では正徳寺で道三さまと信長さまが会見した際以外に登場してない気がしますw本能寺の変の際には北陸方面軍の一人として上杉軍と対峙し、魚津城の戦いの真最中。
変後は勝家に従って戦うなど、秀吉とは何度か対立しますが最終的には降伏。
その後、九州征伐で功を挙げて肥後一国を与えられます。
しかし国人一揆を鎮められなかった責任を負われて切腹。
天正16年閏5月14日(1588年7月7日)死去。享年53歳と言われるが諸説有りです。
- 作者:遠藤 和子
- 発売日: 2010/04/05
- メディア: 文庫
前田利家
佐々成政同様に、私の記憶では正徳寺の会見時と道三さまの長良川の戦い敗北を帰蝶さまに報せた2回ぐらいしか登場してません。本能寺の変の際には成政同様に、魚津城の戦いに従軍していました。
加賀百万石の祖と言われ、過去には大河ドラマの主人公にも取り上げられた前田利家は、秀吉の親友的立ち位置で秀吉が亡くなる前には嫡男・秀頼のことを託しています。
でも「麒麟がくる」の秀吉とは果たして仲がいいのかどうか(笑)
多くの武将に慕われたという前田利家は慶長4年閏3月3日(1599年4月27日)に大坂の自邸で亡くなります。享年62歳。
柴田勝家
本能寺の変の際には北陸方面司令長官として上杉討伐中だった勝家。そのため、変の報を知ったのが遅くなってしまい、信長さまの弔い合戦にも秀吉に後れを取ることに。
以後、織田家中の主導権争いを秀吉と繰り広げますが清須会議でも賤ケ岳の戦いでも敗れてしまいます。
そして天正11年4月24日(1583年6月14日)、北ノ庄城にて妻・お市の方と共に自害。享年62歳でした。
服部小平太
「麒麟がくる」では桶狭間の戦いに一瞬だけ登場した服部小平太。今川義元に一番槍を入れた人が服部小平太と言われています。
本能寺の変の際の服部小平太自身の動向は不明ですが、弟の服部小藤太が織田信忠付きだったために二条御所で戦死しています。
服部小平太はその後秀吉の黄母衣衆となり小田原征伐の戦功によって松阪城主に出世。
しかし関白豊臣秀次に失脚に連座して所領を没収の上、切腹を命じられてしまいます。
文禄4年(1595年)7月に死去。享年は不明。
- 作者:中村 彰彦
- 発売日: 2006/06/09
- メディア: 文庫
毛利新介
服部小平太同様に桶狭間の戦いの際に登場し、大活躍をしたのが毛利新介。竜騎士ばりの大跳躍からの今川義元への一撃は、麒麟がくるクラスターを大いに沸かせましたw
その毛利新介は、本能寺の変の際には織田信忠に従っていたため二条御所で明智軍と戦い討死しています。
天正10年6月2日(1582年6月21日)死去。享年は不明。
本能寺の変でも、あの大ジャンプ、見せてほしかった(笑)
- 作者:中村 彰彦
- 発売日: 2006/06/09
- メディア: 文庫
村井貞勝
京都所司代として活躍した村井貞勝、「麒麟がくる」では十兵衛と絡みもあるかと思いきやそうでもなく終わりました(笑)本能寺の変の際には、本能寺の向いにあった自邸にいました。
そのため明智軍に囲まれた本能寺を見ると織田信忠の宿所・妙覚寺へ駆け込み、二条新御所で明智軍を迎え撃つことを進言。
結果、織田信忠や村井貞勝の子らと共に二条新御所で討死していいます。
天正10年6月2日(1582年6月21日)死去。享年不明。
- 作者:谷口 克広
- 発売日: 2009/11/26
- メディア: 新書
土田御前
信長さまが一番褒めてほしかった人はきっとこの人。信長さまのサイコパス度は土田御前が高めてしまったといっても過言ではないような気がしています。
そんな土田御前、可愛がっていた信勝の死後は信長さまお市の方の子らの面倒を見ていたそうです。
そして母・土田御前は信長さまより長生きだったりします。
信長さまの死後は、孫の信雄(信長さまの次男)に庇護されて文禄3年1月7日(1594年2月26日)まで生きています。享年は不明です。
織田信忠
二条新御所での織田信忠の奮戦までは描かれませんでした。本能寺での変の報を聞いた織田信忠は妙覚寺から本能寺へ合流しようとしましたが、村井貞勝に止められて二条新御所で迎え撃つことを決意。
この際、二条新御所を居としていた春宮、誠仁親王を内裏へ逃がしています。
そして天正10年6月2日(1582年6月21日)、二条新御所にて討死。享年26歳でした。
織田家棟梁として将来を有望視されていた信忠が生きていたら、織田氏の勢力が二分することはなかったかもしれません。
日根野備中守
日根野備中守を覚えているでしょうか。斎藤道三さまの息子・孫四郎と喜平次を斬り殺した人です。
日根野備中守は信長さまに敵対していた時代が長いんですが、天正2年(1574年)の長島一向一揆の戦い以降に、信長さまに仕えたようです。
本能寺の変の際には京にいたそうですが、本能寺へ加勢することなく静観して様子を見守っています。
それ以後、秀吉の味方となり伊勢・尾張・三河に1万6千石の所領を持つほどに。
しかしその後の関ケ原の戦いの際、東軍西軍どちらに与するか明確にしなかったことで減封処分を受けています。
一説には西軍内通の証拠を隠滅するために壮絶な自害をしたとも言われています。
慶長7年5月28日(1602年7月17日)に死去。
稲葉一鉄
後半はまったく登場しなくなってしまった稲葉一鉄。十兵衛の下へ逃げてしまった元家臣の斎藤利三は娘婿。
本能寺の変が起きて信長さまが斃れると、斎藤道三さまの4男・斎藤利堯を擁立して明智光秀に対抗します。
その一方で信長さまに追放された西美濃三人衆の一人・安藤守就がこの機に乗じて蜂起したため撃退しています(安藤守就は自害)。
以後は、秀吉に仕えて小牧・長久手の戦い等で武功を挙げています。
天正16年(1588年)11月19日に死去。享年74歳。
土岐頼芸
美濃守護家の土岐頼芸は一度美濃から追放されて諸国を放浪した後、甲斐の武田氏に庇護されます。しかしその武田氏は信長さまの甲州征伐によって滅亡。
その際に旧臣である稲葉一鉄が土岐頼芸を発見し美濃へ戻れるように手配をしてくれます。
しかし美濃へ戻って半年ほどたった天正10年12月4日(1582年12月28日)に死去。享年81歳でした。
細川藤賢
「麒麟がくる」では公方さま側の武将として地味ながら度々登場していた細川藤賢。三淵藤英の隣にいたことが多かったような?(笑)
細川藤賢の本能寺の変当日の動向はわかりませんが京を離れた公方さまには従うことなく信長さまに仕えていたことは確かのようです。
天正18年(1590年)京都にて亡くなったそうです。享年74歳。
ちなみにAmazonで「細川藤賢」を検索すると「もしかして: 細川藤孝」って出てきちゃうのがちょっと不憫w
近衛前久
「麒麟がくる」では、信長さまとは少し距離を感じる近衛前久でした。信長さまよりも十兵衛を頼りにしていた印象があるのは、やはり十兵衛が主人公だから?
定説では信長さまとは共通の趣味である鷹狩りを通じて親交が深かったと言われる近衛前久ですが、信長さま横死の報せを聞いてショックのあまり出家してしまいます。
ところが「信長公記」にも記述があるんですが、明智軍が攻撃する際に近衛前久邸から鉄砲を撃ち込んでいたという話があって謀反に加担したのではと秀吉から責められる始末。
家康の斡旋によって秀吉の誤解は解けますが、それまでは家康を頼って浜松に下向していたそうです。
天正15年(1587年)頃からは隠棲していた近衛前久、慶長17年(1612年)5月8日に享年77歳で亡くなっています。
- 作者:龍太郎, 安部
- 発売日: 2002/10/25
- メディア: 文庫
誠仁親王
いわゆる東宮さまですが本能寺の変の際には二条新御所にいました。「麒麟がくる」では十兵衛と細川藤孝が誠仁親王に御所から二条新御所に移り住むようにお願いしていましたしね。
「信長公記」では織田信忠が「ここは戦場になるから」と内裏へ逃がしています。
こうして本能寺の変に巻き込まれることなく難を逃れた東宮さまなんですが、その4年後の天正14年(1586年)7月に35歳という若さで薨去されました。
正親町天皇
十兵衛に織田信長を監視するように命じたわりには、十兵衛と信長さまが戦うことになったら静観を決め込むのはちょっとズルい気も(笑)そんな正親町天皇は秀吉の政権下においても天正14年11月7日(1586年12月17日)に孫の和仁親王に譲位するまで天皇であり続けました。
崩御されたのは文禄2年1月5日(1593年2月6日)。宝算77歳でした。
羽柴秀吉
言わずと知れた三英傑の一人。信長さま亡き後にその後を引き継ぎ天下人となる。
正親町天皇の口ぶりからして麒麟は呼ぶことはできなかったのだろう。
慶長3年8月18日(1598年9月18日)伏見城で亡くなる。享年62歳。
徳川家康
三英傑の一人であり、長きに渡り平らかな世を築いた江戸幕府開幕の祖。「麒麟がくる」では十兵衛に耐え忍ぶことを学び、国造りの礎も十兵衛から学ぶ。
2023年の大河ドラマ「どうする家康」は「麒麟がくる」のスピンオフ作品である。←
元和2年4月17日(1616年6月1日)駿府城にて亡くなる。享年75歳。
筒井順慶
本能寺の変が起きた後、十兵衛の味方になってくれなかった筒井順慶。定説では明智光秀とは親密な関係にあり、大和は与力も含めると40万石を超えます。
細川藤孝が味方にならずとも筒井順慶が明智方につけば、山崎の戦いの勝敗は逆転していたかもしれません。
その筒井順慶は本能寺の変から2年後の天正12年8月11日(1584年9月15日)に病死しています。享年36歳。
一色藤長
公方さまこと足利義昭に付き従っていた幕臣の一色藤長。「麒麟がくる」では公方さまが将軍になって以降登場しなくなりましたが、三淵藤英や細川藤孝らと違って公方さまが京を追放された以降も公方さまの下を離れませんでした。
しかし、公方さまの命に背いたことがきっかけで家臣の地位を失ってしまいます。
そんなわけで本能寺の変の頃は、おそらく細川藤孝の下にいたのではないかと思われます。
慶長元年4月9日(1596年5月6日に亡くなったと伝わる一方で、関ヶ原の戦いで西軍として参戦して討ち死にした説もあるようです。
足利義昭
本能寺の変当時は毛利氏の支配下であった備後の鞆にいた公方さま。信長さまが亡くなると、公方さまは毛利輝元に上洛の支援を求める一方で、秀吉や柴田勝家にも同様に支援を求めるなど、幕府再興に精力的でした。
秀吉が関白となって以降もしばらくは室町幕府将軍であり続けた公方さまでしたが、天正16年(1588年)1月13日に将軍職を辞しています。
その後は秀吉から山城1万石を宛がわれて大名に。秀吉の御伽衆にも加えられています。
慶長2年旧8月28日(1597年10月9日)に大坂で薨去。享年61歳でした。
- 作者:久野雅司
- 発売日: 2017/10/25
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
細川忠興
十兵衛の次女・たまを嫁にもらった細川藤孝の嫡男・忠興。本能寺の変の後には十兵衛からの誘いを断って父・細川藤孝が出家したために、細川家の家督を継いでいます。
以後は、豊臣秀吉、徳川家康とその時々の天下人にうまく乗りかえて幕末まで続く肥後細川家をの礎を築いた人です。
しかしそれもこれも前述の松井康之の活躍あってこそであることは忘れないでください(笑)
- 作者:春名 徹
- 発売日: 2010/10/30
- メディア: 単行本
細川藤孝
「麒麟がくる」ではいつの間にか秀吉と繋がっていた細川藤孝。十兵衛との会話から本能寺の変の可能性を事前に察知した藤孝は秀吉に連絡していました。
そして前述のとおり信長さまの死後は十兵衛の誘いを断って出家して幽斎玄旨と名乗り、嫡男・忠興に家督を譲ります。
以後は秀吉に重用され紀州征伐や九州平定にも従軍。
秀吉死後の関ケ原の戦いでは西軍方に取り囲まれながらも田辺城を守り切る奮戦ぶりを見せます。
何気にうまく時流に乗りながら戦国時代を生き抜いた藤孝は、慶長15年8月20日(1610年10月6日)、泰平の世の入り口で亡くなります。享年77歳でした。
考えてみれば、足利義輝公に見切りをつけると次の将軍を守るために大和の足利義昭の護衛に回ったり、兄・三淵藤英とは違って幕臣でありながら信長さまに乗り換えたり、意外とその選択と行動は抜け目ない。
十兵衛よりも生きるのがうまいタイプの友人として描かれていたのかもしれません。
- 作者:春名 徹
- 発売日: 2010/10/30
- メディア: 単行本
牧
十兵衛の母、お牧さんが「麒麟がくる」ではまだ生きていたのかどうか、よくわかりませんでした。途中から美濃へ戻って十兵衛と別れてしまい、その後の詳細が不明でしたからね。
そもそも史実上でもどのような生涯を送ったのかはわかっていません。
「麒麟がくる」では採用されなかった丹波攻略時に人質として送られた後に磔となった話は後世の創作話と言われています。
また、岐阜県恵那市にはお牧さんのお墓がありますが、このお墓は江戸時代中頃の1743年に里の人々がお牧の方を偲んで建てたものと伝わっています。
本能寺の変から数えると60年近く経った後にお墓が建てられたのは、そこに住む人々と明智家の縁があってこそなのかもしれません。
斎藤利三
稲葉一鉄と折り合い悪く十兵衛の家臣となった斎藤利三。実は土佐の長宗我部元親は斎藤利三の異父妹が正室。
そのため長宗我部氏との外交交渉は十兵衛や利三が任されていたわけですが、信長さまが乗り出そうとした四国征伐を回避するために本能寺を起こしたという説も有ります。
そして本能寺の変で信長さまらを討った後は、山崎の戦いで先鋒を務めた斎藤利三。
しかし戦は敗れて逃走。近江の堅田で潜伏していたところを捕縛されて市中引き回しの上、六条河原で処刑。享年49歳。
ただし、「麒麟がくる」の世界では十兵衛と共に生き残った可能性も(笑)
藤田伝吾
「麒麟がくる」では十兵衛にいじられたり、伝吾が十兵衛をいじったり。幼い頃からの気心知れた主従関係である以上に絆の強さを感じる二人でした。
その藤田伝吾は本能寺の変の後に筒井順慶を明智方に味方するため大和の郡山にまで出向いています。
しかし、筒井順慶を説き伏せるどころか門前払いされてしまい交渉は失敗に。
山崎の戦いでは体中に傷を負いながら奮闘し淀まで退却。
翌日に勝竜寺城が陥落した報を聞いて自害したと言われています。
ただし、「麒麟がくる」の世界では(以下略w
明智左馬助
「麒麟がくる」ではずっと左馬助で秀満とは名乗りませんでした。十兵衛同様に出生の謎の多い人で、元々は三宅氏で明智氏ではなかったという説も有ります。
十兵衛の懐刀的存在で大活躍していた左馬助は本能寺の変の際には斎藤利三と共に先鋒を任されます。
その後は安土城を押さえてその守備に就いていました。
つまり山崎の戦いには従軍していません。
しかし山崎の戦いで明智方の敗戦を知り、坂本城へ向かいます。
この際に大津で秀吉方の堀秀政と遭遇するも琵琶湖を馬で渡り切って坂本城へ逃げたという伝説が残っています。
坂本城に入城した左馬助は堀秀政の軍に包囲され、しばらくは防戦しますが諦めて坂本城に火を放ち自害したと言われています。
しかし「麒麟がくる」の(以下略w
たま
細川忠興の下へ嫁いだ十兵衛の次女・たま。後にキリシタンとなり洗礼名のガラシャを授かることは皆さんご存知でしょう。
本能寺の変で父・明智光秀が謀反を起こすと、夫・忠興に2年ほど幽閉されたと言われています。
幽閉自体が無かったという説もあるようですが、いずれにしても謀反人の娘であるのに追い出されなかったのは、忠興のたまに対する愛情故なのかも?
その後のたまの哀しい最期については有名すぎるので割愛しておきます。
亡くなったのは慶長5年7月17日(1600年8月25日)。
夫の忠興はたまの死後45年間、正室をとらなかったそうです。
お岸
荒木村重の嫡男・荒木村次に嫁いだお岸は、荒木氏謀反の折に離縁されて明智家に戻ります。その後は、左馬助の妻になったという話がありますが、「麒麟がくる」ではどうなったのかよくわかりませんでした。
左馬助は坂本城で妻を刺し殺した後に自害したという話があるので、坂本城落城時に亡くなったのかもしれませんが「麒麟がくる」世界線では(以下略w
明智十五郎
十兵衛の嫡男・明智十五郎は元服していたら光慶と名乗っていたかもしれません。煕子が亡くなった回以降は登場していないので、その辺は不明です。
十五郎は父・光秀の本能寺での所業を嘆いて悶死したという説と、山崎の戦いの後に坂本城で左馬助らと最期を共にしたという説があります。
また、その後も生きていたという説もあって、妙心寺の住職・玄琳説、本徳寺を開山した南国梵桂説、関東へ逃げて上総で没した説など。
「麒麟がくる」では十兵衛と共に生存?w
明智十兵衛光秀
本能寺の変では信長さまを討つものの、山崎の戦いで秀吉に敗れてしまった十兵衛。「麒麟がくる」では、その後も生存していそうな雰囲気でしたが、元々明智光秀には山崎の戦い以後も生存していた説が2つあります。
一つは徳川家康の側近・南光坊天海となった説。
もう一つは荒深小五郎と名乗って美濃の中洞で隠棲していた説。
後者の説では、山崎の戦いの後に討たれたのは影武者の荒木行信で彼の忠誠に深く感謝し、この事を子孫に伝えるために「荒深」という名字にしたと言われています。
ただしこの荒深小五郎となった光秀は、関ケ原の戦いの折、徳川方に従軍しようと中洞を出たものの途中の大河で洪水に遭って溺れ死んでしまったのだとか。
「麒麟がくる」ではこの2つの説どちらでもない十兵衛が生存していそうです。
十兵衛を演じた長谷川博己さんも切望している十兵衛その後の物語、放送されることを、いつまでも待ってますw
1.3.「麒麟がくる」からの学び
最終回を迎えたことですし、最後に総括的な考察をして終わりたいと思います。他の視聴者の方々がどう考えたかも聞いてみたいところだったりします。
本能寺の変の黒幕
本能寺の変っていうと黒幕が誰かっていうのが話題になりますよね。ただし「麒麟がくる」では直接的な黒幕っていうのは存在しなくて、本能寺への襲撃は十兵衛自身の決意によるもの。
そして間接的な黒幕と呼べる存在としては、十兵衛に関わった人全てかもしれません(笑)
が、私個人が考える本能寺の変の黒幕は、たった一人です。
それは松永久秀。
松永久秀が亡くなった回のnoteの記事にも書いたことなんですが
note.com
松永久秀が信長さまが欲しがる平蜘蛛を十兵衛に託したのは、信長さまと十兵衛の関係にヒビを入れることが目的だったんじゃないかと思うんです。
当時noteで書いてた記事を抜粋すると
松永久秀はそんな二人の関係に気づいている。
十兵衛と信長さまが同じ方向を向いてはいても、その手段・手法は一致していないであろうことに気づいている。
特に近頃の信長さまの横暴なやり方には十兵衛も納得はしてないだろう。
それでも信長さまの忠実なる臣としての役割を全うし続けようとする十兵衛。
松永久秀はそこに喝を入れてやりたかったのではないか。
十兵衛の志の高さや武士としての心意気も知っているだけに、少し盲目的に信長さまを推す十兵衛の目を覚ましてやろうと。
そして可能ならば十兵衛、わしが倒れたらお前が信長を倒せ、と。
そんな思いを平蜘蛛の中に込めて託したのではないか。
つまり名器・平蜘蛛を十兵衛と信長さまの関係をぶち壊す爆弾に仕立て上げたのだ。
十兵衛が信長さまに対する不信感を持ち始めていたのは確かですが、それでもそこへ一歩踏み込もうとはせずにいた十兵衛。
そんな十兵衛の潜在意識を揺り動かしたのは、亡き松永久秀から平蜘蛛を受け取ってからじゃないかと思うんですよね。
つまり、あの平蜘蛛は本能寺の変への導火線に火をつけたのではないか・・・と思っていたら、脚本家の池端俊作さんがやはりそれっぽいことを1月10日に公開されたインタビュー記事で答えていました。
https://www.nhk.or.jp/kirin/make/013.htmlwww.nhk.or.jp
この記事自体を読んだのは最終回を見た後だったんですが、読んでみてああやっぱりそうだったかと。
「麒麟がくる」によって本能寺の変の黒幕説に松永久秀という新たな説が加わった瞬間でした(笑)
結局、麒麟はきた?麒麟を呼ぶ者は誰だった?
麒麟はきてませんよね、明らかに。山崎の戦いから数年経過し秀吉が関白となった時代に時は移っていましたが、正親町天皇は「平らかな世がくるのはいつのことか」と望月東庵先生にボヤいてましたし。
当時、秀吉はまだ九州平定前でしたし、小田原征伐に奥州仕置、そして朝鮮出兵もまだ先に控えています。
秀吉の時代にも戦はなくならなかったわけです。
やはり平らかな世と呼べるのは徳川家康によって開かれた江戸幕府の時代のことで、更に言えば大坂の陣よりも後の未来のことを指しているのかなと思っています。
「麒麟がくる」というタイトルなのに麒麟がこない結末でいいの?って感じではありますけど、そもそも誰もが「麒麟はこない」と思っていたはず(笑)
十兵衛じゃ麒麟は呼べない未来を知っていた私たちは、徳川家康こそ麒麟を呼ぶ者だと思っていた人、多いんじゃないでしょうか。
でも、最終回の終わり方でわかりました。
「麒麟を呼ぶ者」は三英傑の誰でもないし、公方さまでもない。
それは主人公の明智十兵衛光秀だったんです。
正親町天皇が十兵衛のことを「青い鳥」と呼んでいたのは衣服の色からかと思ってましたけど(笑)、青い鳥といえば海外では幸せの象徴。
異国事情を帝が知っていたかどうかは別として、帝に十兵衛を「青い鳥」と呼ばせたのは、幸福を運び平和をもたらす象徴が十兵衛であることを示唆していたのではないかと思うのです。
そして十兵衛自身は、最終的に気づいたんじゃないでしょうか。
自分自身が麒麟を呼ぶ者であること、そうであるべきことに。
何も天下を治める人自身が麒麟を呼べる存在である必要はありません。
天下を治める人に仕える人間の中に麒麟が呼ぶ者がいたって別にいい。
そして十兵衛自身はサポート役が自分の役回りであって、最上位に立つ人間は別に必要って考えていた気がしています。
だからこそ十兵衛は本能寺の変で信長さまを倒した後の世界で、徳川家康という人を次のパートナーに選んだのではないでしょか。
要するに何が言いたいかというと、十兵衛が麒麟を呼ぶ者である限り「麒麟がくる」で十兵衛は簡単には死ねないんです(笑)
山崎の戦いで敗れようとも、十兵衛は生き残るんです。
十兵衛自身が麒麟を呼ぶその時まで。
つまり「麒麟がくる」という物語は、十兵衛が麒麟を呼び寄せるまでの物語であって「麒麟がくる」は(番組制作の都合上w)最終回を迎えはしたけど物語はまだまだ終わっていない、
というのが私の最終結論です。
異論はたっぷり認めますw
1.4.没した登場人物たち
こちらは「麒麟がくる」で亡くなった人たちを
弔うための章です。
亡くなった日については
Wikipediaの情報と「麒麟がくる」での情報を
照らし合わせてのものですが
人物によって諸説ありますので
あくまでも参考情報ということでお願いします。
1.5.参考資料
今回記事を書くにあたって主に参考とした書籍や
サイトをこちらでまとめて紹介しておきます。
興味持たれた方はご購入または閲覧してみてくださいね。
このしろ寿し - Wikipedia
家康が礼状、わずか2軒が伝える「このしろ寿し」特異な製法|観光|地域のニュース|京都新聞
本因坊算砂 - Wikipedia
島井宗室 - Wikipedia
於牧の方の墓所|観光スポット|ぎふの旅ガイド
2.あとがき
「麒麟で学ぶ」第44回目はいかがでしたか?
感想、ご意見等あればコメントをお気軽に。
最終回を迎えて「麒麟がくる」ロスになってしまった視聴者も多いと思います。
私もそうなるかと思ってたんですが、実はロスってません。
それは「麒麟を呼ぶまで十兵衛は死なないし物語は終わらない」という最終結論に至ったことが原因かもしれません。
もしも十兵衛が亡くなったとわかる描写があったりしたら、ショックが大きかったはず。
十兵衛は生きてるかもで終わったのを最初に見た時は、文句タラタラでしたが(笑)
スピンオフ作品がつくられることを期待はしていますが、あってもなくても私の中では「麒麟がくる」は『永遠に続く』の状態なのです。
そして「麒麟で学ぶ」シリーズも今回で最後。
スピンオフ作品があればまた書くかもしれませんが、総集編は書く予定無しです。
noteで総集編の感想ぐらいは書く可能性はありますが、それも総集編の内容次第になると思います。
正直たいしてアクセ数は奮わずだったし過去記事の方がアクセ数は段違いに多かったんですが(笑)、毎回書く内容についてどこからどこまで書くべきかで悩んだりして、そういう意味では辛かったというのが本音です。
それでも全44回分やりきれたことは自分にとって大きな財産だし、いろんな意味で自分自身学びの多いシリーズとなりました。
大河ドラマ次回作の「青天を衝け」で同じようなシリーズをやるかどうか決めてませんが、何かしら思いつけばやるかもしれません。
ですが、noteの方に感想は毎週書こうと思っています。
というわけで、最初の回からお付き合いして頂いた方もそうでない方も、ありがとうございました。
ちなみに冒頭でも述べましたが
U-NEXTまたはAmazonプライムビデオであれば
NHKオンデマンドをチャンネル登録すると
当日の放送や再放送を見逃してしまったとしても、いつでも視聴可能です。
※2020年3月からNHKオンデマンドに元々あった最新作の「見逃し放題パック」と過去作の「特選見放題パック」が
統合されて「まるとご見放題パック」となったため最新作から過去作までいつでも見れるようになりました。
そして「麒麟がくる」をもっと楽しむために
こちらの書籍もおススメですので
ご興味のある方は是非とも。
NHK出版 2019年11月30日
|
では今回はこの辺で。
ここまで読んでいただきありがとうございました!
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
ここからは当サイトの宣伝です。
ツクモガタリは
以下のランキングサイトに参加しています。
バナーをポチって頂けると
今後の励みになります!
にほんブログ村
人気ブログランキング
また、ツクモガタリは
歴史人物の記事を主戦場としつつ
ブログ運営関連の記事なども投稿している
雑記ブログです。
こちらのINDEXページは
各記事のカテゴリの説明と共に
ピックアップ記事や
カテゴリの記事一覧へのリンクも
掲載しています。
このINDEXページを基点として頂くと
過去に投稿済みの記事へも
アクセスしやすいです。
こちらから過去記事も読んで頂けると
嬉しいです。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
*1:第38話より良通から一鉄に。
*2:第39話より奇妙丸から信忠に。
*4:「麒麟がくる」では今の所亡くなったことは語られていない。
*5:「麒麟がくる」の場合は長良川の戦いから数日後な気がするけどWikipediaベースで載せてます。
*7:「麒麟がくる」では亡くなっているかどうかの言及はなく、東庵先生も生死どちらとも取れる感じで話している。
*8:信長の野望ベースなら享年42歳。桶狭間の戦いの前哨戦、丸根砦の戦いで討死しているが「麒麟がくる」では語られていない。
*9:実際に亡くなったのは21話と22話の間の期間だが、19話で既にナレ死してます。。。
*10:信長の野望ベースなら享年30歳。桶狭間の戦いの後、今川家からの自立を目指した松平氏との戦いにて戦死。
*11:「麒麟がくる」では桶狭間の戦いから4年間がカットされてしまったこともあって、その死を語られることもなかった。
*12:没した月日は9月13日、9月30日、10月1日、10月8日、10月20日、10月22日など諸説ある。
*13:1540年生年説もあるのでその場合だと享年29歳。
*15:「麒麟がくる」第37話時点で亡くなった説明はないが、蘭奢待切り取りの前年に亡くなっているはず。
*16:「麒麟がくる」では、その死は語られていない。また永正12年(1515年)生年説の場合は享年60歳。
*17:「麒麟がくる」では触れられていないが越前で起こった一向一揆との戦いで亡くなっているはず。
*20:享年も46歳、42歳、36歳など諸説ある。