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歴史人物語り#62 気にくわないライバルを蹴落とすために一揆を扇動して越前を乗っ取るが、最後は味方に裏切られて背後から撃ち殺された富田長繁とその家臣・毛屋猪介

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今回は朝倉氏家臣で前波吉継に続いて織田家に寝返った二人
富田長繁(とだながしげ)
毛屋猪介(けやいのすけ)です。
富田長繁は越前の狂犬って言われたりもしますね。
そして二人とも前波吉継とは袂を分かつ選択をします。
麒麟がくる」でも登場してくるかもしれませんね。

www6.nhk.or.jp

では今回のお品書きはこちらです。

また過去に紹介した「麒麟がくる」にちなんだ武将たち
以下の一覧記事にまとめてあります。

tsukumogatari.hatenablog.com

tsukumogatari.hatenablog.com

その他今までに紹介済みの戦国武将たちはこちから確認できます。

tsukumogatari.hatenablog.com

まだ読んでいない武将の記事がありましたら是非チェックしてみてくださいね。

1.富田長繁(とだながしげ)とは

通称弥六郎
生年は1551年、父は田吉順(とだよしじゅん)
戸田長繁は元々朝倉家臣だったわけではなく、
出雲出身だそうです。どういう経緯で越前にきたのか、
朝倉家に仕える前は何をしていたのかは不明です。
長繁は武勇に優れた武将で、
中国の前漢の猛将・樊噲(はんかい)に喩えられるほどだったとか。

富田長繁の出陣記録は、
1570年4月織田信長が越前へ侵攻してきた際に
千の兵を率いて出陣したのが初出。
ただしその2年後の1572年8月には、前波吉継(後の桂田長俊)
織田家に寝返ったのを皮切りに
毛屋猪助らと共に織田軍の陣に走りこんで寝返っています。
※前波吉継についてはこちらの記事をどうぞ。 tsukumogatari.hatenablog.com

朝倉軍はこの時、織田軍に攻め込まれた浅井家の求めに応じて
小谷城へ援軍を出しており織田軍とまさに対峙していた時の事。
当主朝倉義景戦の最中に何人もの家臣が寝返るという事態には
面食らったことでしょうね。

1.1.織田家臣としてその武勇を存分に振うがが処遇に不満を持つ

寝返った富田長繁は毛屋猪介と共に早速功を挙げています。
11月3日に浅井氏家臣の浅井井規(あざいいのり)
虎御前山から宮部に到る道に築かれた築地を破壊しようと攻め寄せた際に
守将であった木下秀吉の援軍として駆けつけ
浅井井規勢を見事撃退したのです。
そして1573年一乗谷城の戦いで朝倉家が滅亡すると
長繁は越前府中の領主に任命されました。
以後は同年の9月からの第二次長島侵攻に従軍して功をあげるなど存在感を見せます。
しかし、同じく朝倉家から同じ時期に織田家に寝返った
桂田長俊(前波吉継の改名後の名乗り)との待遇差に不満を持っており、
桂田長俊自体も富田長繁の得た待遇が過ぎたるものと不満を訴えるなど
両者の関係がどんどん悪化していきます。
そして富田長繁桂田長俊の殺害を計画するのです。

これちょっと現代社会に当てはめて考えてみると

同じ時期に同じ会社へ転職した同期のあいつ
自分より上司に気に入られやがって
自分より待遇もいい
スキルはこっちのが上なのに
なんでだ
納得いかない

あいつ気にくわないな
だったら殺してしまえ

なるほど!

とはなりませんよね(笑)
戦国時代っていう殺伐した時代だからこそなんでしょうけど
今の時代に生まれた私たちは幸せです(笑)

1.2.一揆を扇動して越前を乗っ取る

さて、桂田長俊の殺害をしようと決意した富田長繁
宝円寺に兵士の陣取りを禁じるなど軍事行動を起こす兆しを見せます。
さらに越前国内で一揆を扇動するために、
桂田長俊の不満を持つ人々と密かに会談を持ちます。
ここは富田長繁の殺意だけでなく、
桂田長俊自身の政治にやり方に隙を突かれる点があったのは大きかったでしょう。

そして1574年1月18日、長繁は守護代桂田長俊の圧政に苦しむ民を扇動して
土一揆を引き起こしました。
この土一揆は翌日には3万3千人まで膨れ上がりました。
長繁はこの土一揆の大将として一乗谷へ侵入し
念願であった桂田長俊を殺害します。
翌日には桂田長俊の親族も捕縛して殺害しています。

この勢いにのっかって北ノ庄で当時代官を務めていた
木下祐久(きのしたすけひさ)
津田元嘉(つだもとよし)
三沢秀次(ひさわひでつぐ)
らの詰める
旧朝倉土佐守館も襲撃します。
ただし、これは安居景健朝倉景胤らの説得によって攻撃を取りやめ、
3人を殺さず追放処分にしました。
※安居景建についてはこちらをどうぞ。

tsukumogatari.hatenablog.com

奪い取った旧朝倉土佐守館は毛屋猪介に守備を任せます

また、同様に朝倉家臣で朝倉氏滅亡寸前に降伏した
魚住景固(うおずみかげかた)を警戒します。
1月24日景固とその次男彦四郎を朝食に招いて騙し討ちで殺してしまい
翌日には魚住氏の居城である鳥羽野城を攻め込んで魚住一族を滅ぼしています
ただし、これが富田長繁のその後の展開に大きな影響を与えます。
魚住景固は仁者として領民にととても慕われていました。
その魚住景固を明確な根拠もなく殺してしまったことに対して民衆が反発します。
さらには、旧朝倉家臣の武将たちも富田長繁を信用しなくなり
面会にすら訪れなくなります。
こうして富田長繁は孤立していくのです。

1.3.一揆勢との戦い、圧倒的不利な状況下で奇跡を起こしまくる

織田家の3人の代官を追放したことによって
富田長繁は越前を一時的に支配下に収めました。
1月29日には領内に3箇条の禁制を掲げるなど支配権の確立を試みます。
さらには、民の支持を得るための政策の実施にも力を入れるんですが
魚住景固暗殺によって下降した支持率は取り戻せなかったのでしょう。
そのうちに長繁にとってさらに不利となる噂話が立つようになります。

長繁が信長の前で償って越前守護を認めてもらう朱印を発行してもらっていて
その変わりに岐阜に弟を人質に出そうとしている、というものです。

これによって一揆勢は大将・富田長繁を見限って
新たな大将として加賀一向宗
七里頼周(しちりよりちか)を担ぎ上げます

ここから元は富田長繁が先導した土一揆勢は一向一揆へと進展してしまうのです。

一向一揆勢は富田長繁を討たんと至る所で決起し
2月13日には旧朝倉土佐守館の毛屋猪介、片山館の増井甚内助らが殺害されます。
翌日には府中にいた長繁も一揆勢に包囲されます。
長繁を包囲する一揆勢は
南から2万、西から3万5千、北から5万、東からは3万3千が
集まって包囲したといいますから、総勢13万8千という大軍です。
これはゲームの信長の野望でも城を最高に改修しても耐えられなさそう(笑)

ただし富田長繁前漢の猛将・樊噲に喩えられるほどの武に長けた武将です。
2月16日早朝に700人余りの軍勢
最も府中に近い位置に布陣していた帆山河原の一揆勢2万を強襲します。
死ぬ気覚悟の富田軍兵士は士気高揚、
帆山河原の一揆勢を打ち破る奇跡を起こします。
さらに潰走する一揆勢を2,3里に渡って追撃し
2千~3千を討ち取って府中へ戻ったそうです。
数が多いとはいえ、相手は民衆が主。
戦い慣れしている精鋭との差がはっきりと出てしまったのでしょう。

この戦いで勢いをつけた富田長繁
即日中に永代3千石の恩賞を約束して
府中の町衆や本願寺と対立する真宗三門徒派合わせて6500以上を
懐柔して味方に加えました。
この勢いのまま2月17日には北ノ庄城の奪還を目指して府中を出陣、
北上して一気に浅水まで進出
これに対して一向一揆勢の大将・七里頼周も門徒を南下させて
浅水付近で両軍が激突することになります。
ここでも兵力で圧倒的に負けていた富田軍ですが
戦経験の豊富さでは圧倒していたために一揆勢の先鋒を崩壊させます。
これによって一揆勢は逃走し始め、混乱のうちに四散してしまうのです。

1.4.最後は味方の裏切りによって

浅水でも奇跡的勝利を収めた富田長繁は一旦南へ引き返します。
そして2月17日夕刻にこれまで味方につきながらも
合戦を傍観して兵を進軍しなかった安居景健、朝倉景胤のいる長泉寺山の砦を襲撃します。
おそらく2月16日早朝から戦いっぱなしの富田軍です。
鬼神のような戦いを見せてはきましたがさすがに疲れていたようで
砦の守将・荒木兄弟は討ち取りましたが
攻め切ることはできず夜に一度兵を撤退させます。
翌日18日早朝に再度突撃命令を下しますが、
流石に強引に攻めまくる長繁に不満を持つ兵士が続出します。
そして合戦の際中に
味方の小林吉隆(こばやしよしたか)に裏切られて
背後から鉄砲で撃たれて殺されてしまいました。
享年24歳です。
その首は一向一揆勢の司令官の一人、
杉浦玄任(すぎうらげんにん)の陣に届けられて
首実検がおこなわれたそうです。

裏切り物は裏切りによって命を落とす。
戦国時代のあるあるですね。

私怨が元ではあるので、その点はあまり褒められたものではありませんが
それでも圧政に苦しむ民衆を味方につけて3万の軍勢を1日で手に入れた辺り
カリスマ性もそれなりにあったんでしょうし、
頭も切れる人だったんじゃないかなぁと思います。
武勇にも長けていた武将だったので
もうちょっと人望が得られる行動を選択できていたら
違う結果が生まれていたかもしれませんよね。
そこがちょっと残念。
個人的には結構好きなタイプの武将です。

2.毛屋猪介(けやいのすけ)とは

生年、父、共に不明。
大野郡毛屋庄が発祥の一族でここに館を構えていたようです。
富田長繁の与力とも。
1572年富田長繁と共に織田家に寝返っており、
浅井井規が築地を破壊しようとした際には富田長繁と共に
木下秀吉の応援に駆けつけて撃退する功を挙げています。
1573年の第二次長島侵攻でも富田長繁と共に参陣して戦功を挙げているようで
富田長繁いるところに猪介も在りといった感じ。
また10月25日大垣城へ帰還途中の織田信長一揆勢に襲われた際にも
四方から迫る一揆勢を撃退し、越前衆の中でも比類なき働きを見せたとか。
富田長繁同様に、武勇に優れた人物だったのでしょう。

富田長繁が桂田長俊討伐のために起こした土一揆でも
猪介は富田長繁と共に一揆勢を率いており、
一乗谷へ侵入した際には、先陣を切って桂田長俊を倒したといいます。
また、北ノ庄で代官を務めていた木下祐久・津田元嘉・三沢秀次のいる
旧朝倉土佐守館を襲撃し、その後は館の守将となります。

しかし、富田長繁一揆勢と対立するようになり、
一揆勢が大将を富田長繁から加賀一向宗の七里頼周に鞍替えして一向一揆へと進展すると
毛屋猪介は旧朝倉土佐守館を一向一揆衆の大軍に攻められて討死してしまいました。

3.前波吉継に続いて寝返ったのはもう一人いた

1572年に朝倉家へ寝返ったのは
前波吉継、富田長繁、毛屋猪介に加えてもう一人、
戸田与次郎がいました。
戸田与次郎も毛屋猪介と同じく富田長繁の家臣だったようです。
織田家に寝返った話以外の事績がよくわからないのですが
富田長繁が信頼していた家臣のようですから
最期まで長繁と共に戦って果てたのかもしれません。

4.「麒麟がくる」と信長の野望シリーズで2人は出てくる?

越前が土一揆勢に乗っ取らる事件は
麒麟がくる」劇中でも取り上げられるんじゃないかと思います。
特に、当時越前で代官を務めていたうちの一人、三沢秀次は
明智光秀の家臣・溝尾庄兵衛と同一人物説があります。
同一人物じゃないにしても、どちらも光秀の家臣なので
当時たぶん近江か京にいた光秀に越前の様子を知らせるような
文が届いたりするシーンがあったりして
そこで富田長繁一揆勢の大将として登場しそう。
毛屋猪介が登場するかどうかは、描かれ方次第かなと。
ちなみに富田長繁を射殺した小林吉隆はその一瞬だけ登場とかありそう(笑)

そして信長の野望シリーズでは、富田長繁のみ登場しています。
覇王伝から蒼天録までは連続で登場していましたが
そこから3作品は登場せず、創造からは再び連続で登場しています。
登場作品すべてにおいて政治・知略は壊滅的ですが(笑)、
武勇だけはちょっと高めな能力値です。
信長の野望・創造 戦国立志伝での評価値はこちらです。

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いろいろ爪が甘いところもあって統率低めになっちゃってるのでしょう。
知略は実はもっと高くてもいいんじゃないかと思ったりします。
魅力みたいなステータスがあったらそっちが高めになるのかもですけど
一揆勢3万を集めるぐらいの根回しをしたんですから頭は悪くないはず。
私なら60超えぐらいにはしちゃいますね。
政治はまぁ低くても仕方ないかな(笑)

5.まとめ

今回は朝倉家を裏切り織田家についたけど一揆を起こして
越前を乗っ取った富田長繁
そしてその家臣として活躍した毛屋猪介でした。
富田長繁はあんまり良い評価得られない人なのかもしれないけど
動機は別として、
守護代を簡単に倒してしまうほどの兵力を集める知略と
大軍相手に一歩も引こうとせず味方を奮い立たせて
勝利に導くその様は嫌いじゃないです。
惜しいのは、もうちょっと他人のことを考えられたらっていうところ(笑)
まぁそういう人なら一揆を扇動して同期を殺そうなんて
考え方には至らないのかもしれませんが(笑)

では今回は今辺で。
ここまで読んでいただきありがとうございました!