歴史人物語り#63 主家につくべきか領民を守るべきか悩んだ末の結論と思いたい、仁者と領民に慕われた朝倉家臣・魚住景固

スポンサーリンク

今回は曾祖父の代から越前に移り住んで
代々朝倉氏の年寄衆として活躍してきた魚住氏の一族、
魚住景固(うおずみかげかた)
主家を裏切った武将ではありますが、その後も変わらず領民に慕われていました。
麒麟がくる」でも登場はありそう?

www6.nhk.or.jp

では今回のお品書きはこちらです。

また過去に紹介した「麒麟がくる」にちなんだ武将たち
以下の一覧記事にまとめてあります。

tsukumogatari.hatenablog.com

tsukumogatari.hatenablog.com

その他今までに紹介済みの戦国武将たちはこちから確認できます。

tsukumogatari.hatenablog.com

まだ読んでいない武将の記事がありましたら是非チェックしてみてくださいね。

1.魚住景固(うおずみかげかた)とは

通称彦四郎
1528年生まれ。父は魚住景栄(うおずみかげひで)

魚住氏は元は播磨赤松氏の庶流で、赤松氏に仕えていたのですが
景固の曽祖父・魚住景貞(うおずみかげさだ)の代に
赤松氏が1441年の嘉吉の乱(かきつのらん)で没落したことをきっかけに
流浪の末、越前に辿り着き
第7代朝倉氏当主・朝倉孝景に仕官したそうです。
曾祖父・景貞は特に外交面での活躍が目立ち
1467年から始まる応仁の乱においては
旧主である東軍の赤松氏の浦上則宗(うらがみ のりむね)
その家臣である中村三郎と交渉を重ねて
朝倉氏の西軍から東軍への寝返りを実現しました。
この朝倉氏の寝返りによって東軍が有利となり応仁の乱は終息していくのですが
これが朝倉氏の越前領国支配へと繋がり、
斯波氏に代わって越前守護となれたのも
曾祖父・景貞の外交努力あってのものと言えるでしょう。

また、祖父の景宗(かげむね)は当時の一乗谷四奉行衆として
朝倉氏の中でも名を馳せており、一向一揆との戦いでも戦功を挙げたそうです。

残念ながら父・景栄の事績についてはよくわかっていませんが
祖父同様に一乗谷の奉行人として重きをなしていたのではないかと思います。

景固は第11代朝倉氏当主の朝倉義景に仕えて奉行人として活躍しています。
1568年足利義昭が当主義景の館に訪れた際には
年寄衆として名を連ねています。
一説では眼病を患わっていたそうですが、
堀江景忠・景実父子の叛乱鎮圧や織田信長との戦いにも参陣しています。

しかし1570年の姉川の戦いでは、
朝倉景健に従って参陣するものの
軍令に従わず静観して兵を動かしませんでした。
この頃から主家に対する不満が見えます。
そして1573年一乗谷城の戦いで朝倉氏が滅亡寸前のところで
織田信長に降伏します。
降伏の際には嫡男の彦三郎を人質に差し出し、
さらには織田軍を越前領内へ案内する道案内役も務めて
織田信長からは所領を安堵されました。

朝倉氏はそのまま滅亡して越前は織田家支配下となるのですが
1574年1月18日、越前守護代に任じられた
旧朝倉家臣・桂田長俊(旧名・前波吉継)に不満を持つ富田長繁
桂田長俊の圧政に苦しむ民衆も利用して土一揆を蜂起します。
土一揆は1日で3万3千もの大軍勢に膨れ上がり
桂田長俊は成す術もなく殺されてしまいます。
代わって越前を支配したのは土一揆の大将である富田長繁
富田長繁は中国の前漢勇将・樊噲(はんかい)になぞらえられるほどの
武勇に優れた武将でした。

富田長繁についてはこちらをどうぞ。

tsukumogatari.hatenablog.com

その富田長繁は、魚住景固を警戒します。
魚住景固は富田長繁と敵対していたわけではないのですが
主君・朝倉義景を滅亡寸前で裏切っていますから
いつ裏切ってもおかしくないと思っていたのかもしれません。

そして富田長繁は動きます。
魚住景固は次男・彦四郎と共に朝食を共にしようと
富田長繁に龍門寺城へ招かれました。
それが1574年1月24日のこと。
魚住景固は自分が富田長繁に警戒されているなど
おそらく考えてもいなかったでしょう。
景固は富田長繁に食事を馳走になり酒を進めらます。
そして
「秘蔵の太刀を見せる」
と誘われたところを斬り殺されてしまうのです。
翌日には魚住氏の居城である鳥羽野城に攻め込んで
景固の嫡男・彦三郎を討ち取って魚住一族を滅ぼしてしまいました。

富田長繁に敵対する様子を見せていたわけでもなく
領民にも人気のあった魚住景固を殺したことによって
富田長繁はこの後窮地に陥ることになりますが、それはまた別の話。

景固は元々穏やかな性質の持ち主だったそうです。
姉川の戦いにおいて兵を動かさなかったり
朝倉家を見限って織田家に寝返ったりしたのも
戦続きで疲れている領民のことを考えての結論だったのでは。
主家を選ぶべきか、自分の家来や領民を守るべきかは
どちらを選ぶも正しくて、それぞれに正義があるのだと思います。
苦渋の決断だったからこそ、
ギリギリまで朝倉家を裏切れなかったんじゃないかと思ったりもします。
もっと狡猾で自分が生きることだけを考えるような人だったら
富田長繁の許へ出向くことはなかったのではないでしょうか。

2.「麒麟がくる」と信長の野望シリーズでの魚住景固

朝倉家の年寄衆であり一乗谷の奉行人も務めていた魚住景固ですから
麒麟がくる」で登場する可能性は十分あるのではないでしょうか。
明智光秀が朝倉家仕官時代においても
光秀と絡みのあるシーンが描かれるかもしれません。
光秀と絡んでしまったらそれはきっと後日のシーンに対する伏線みたいなもの。
姉川の戦いで静観している景固だったり
主家を選ぶか領民を選ぶかで悩む景固、
みたいなシーンが描かれるかもしれませんね。

そして信長の野望シリーズにおいては
嵐世記から常連武将となっています。
基本的にシリーズ通して政治の人といった能力評価です。
信長の野望・創造 戦国立志伝での評価値はこちらです。

f:id:tsukumoshigemura:20191002161614p:plain

政治60超えですが、他は30いくかいかないかぐらいなので
内政やお城の改修で活躍してもらうタイプの武将です。
戦争はしなくてもいいです、
得意な人たちに任せましょう(笑)

3.まとめ

今回は仁の人として領民に慕われていた朝倉家臣・魚住景固でした。
朝倉家を裏切った武将は何人もいましたが
その仁徳を慕われ続けたのは魚住景固ぐらいだったのかもしれません。
当主・朝倉義景に引導を渡した朝倉景鏡なんかは
後年記された書物で陰湿な人間として描写されてます。

tsukumogatari.hatenablog.com

富田長繁に殺される桂田長俊(前波吉継)も、
栄華に溺れた報いだとか神罰が下ったとか酷い言われようです。

tsukumogatari.hatenablog.com

富田長繁からすると主家を裏切っているにも関わらず
民衆には慕われ続けているところが
強かと感じたのかもしれないし、
不気味で怖さを感じたのかもしれませんね。

では今回はこの辺で。
ここまで読んでいただきありがとうございました!