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歴史人物語り#61 朝倉家に忠義を尽くして散っていった兄・前波景当と朝倉家に引導を渡して守護代の座を手に入れるも民に殺された弟・前波吉継

今回は朝倉家の一乗谷四奉行衆の一人・前波景定(まえばかげさだ)の息子、
前波景当(まえばかげまさ
前波吉継(まえばよしつぐ)です。
兄弟二人とも「麒麟がくる」には登場するかな?

www6.nhk.or.jp

では今回のお品書きはこちらです。

また過去に紹介した「麒麟がくる」にちなんだ武将たち
以下の一覧記事にまとめてあります。

tsukumogatari.hatenablog.com

tsukumogatari.hatenablog.com

その他今までに紹介済みの戦国武将たちはこちから確認できます。

tsukumogatari.hatenablog.com

まだ読んでいない武将の記事がありましたら是非チェックしてみてくださいね。

1.前波景当(まえばかげまさ)とは

通称左衛門五郎
生年は不明。父は一乗谷四奉行衆の一人前波景定で嫡男です。
父・景定の記事でも書きましたが
前波氏は朝倉氏直臣の中でも筆頭の家柄

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 父が奉行衆を務めたのと同様に1565年頃から奉行人として活躍
1568年足利義昭が当主・朝倉義景の館を来訪した際には
年寄衆の筆頭として挨拶しています。
年寄衆とは家老のことであり、家臣の中でも重鎮に当たります。
ちなみに以前紹介した山崎吉家も同様に年寄衆として挨拶していますが
景当の方が家柄的にも位は上だったのでしょう。

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朝倉家に来訪した足利義昭は、
朝倉義景が上洛してくれそうもないことを悟って見限ると
明智光秀の執り成しで織田家へと向かうのですが、
その際の近江までの警護を
景当は朝倉景恒と共に
兵2千を引き連れて務めています。

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そして姉川の戦いから3か月後の1570年9月
志賀の陣では朝倉義景西近江へ出陣すると景当も従軍し、
義景が発給した賀茂別雷神社宛て禁制に副状を副えた記録が残っています。
11月25日に猪飼昇貞(うかいのぶさだ)を始めとして堅田衆が信長に寝返る
信長は坂井政尚(さかいまさひさ)安藤右衛門佐(あんどううえもんのすけ)
千の兵を堅田の砦に侵入させます。
朝倉軍が陣取る西近江の物流を差し押さえようと考えたのです。
※猪飼昇貞は織田家に寝返って明智光秀配下となった堅田衆棟梁です。

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※安藤安藤右衛門佐は安藤守就の次男です。

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しかし、朝倉軍も坂井政尚堅田入りを察知してしました。
翌日26日に前波景当と朝倉景鏡が一向宗門徒らと比叡山から下って堅田へ攻撃
これによって坂井政尚は討死し堅田衆も堅田から撤退するなど
織田軍の西近江物流の差し押さえは失敗に終わるのですが
前波景当もこの戦いによって討死してしまいました。

子の勝秀は朝倉家滅亡後に織田家に仕えた後
しばらく動静が不明な時期もあったようですが
後に豊臣秀吉の御伽衆(おとぎしゅう)に加えられています。

ちなみに秀吉は御伽衆を800人ほど揃えていて
この中には室町幕府将軍であった足利義昭いたりしります。
秀吉は読み書きが得意ではなかったので
耳で学問や知識を取り入れることに力を入れていて
多くの学識ある者を御伽衆に加えたのですが
かつては自分より身分が上だった血統や家柄のいい人達も加えることによって
現時点での自分の権勢を誇示しようとしていたそうです。

勝秀は秀吉が亡くなった後は徳川家に仕えており、
その子・勝政徳川家康に従って大坂の陣に出陣しています。
後には江戸幕府2代将軍徳川秀忠に仕えて小姓組番士として知行を得ています。

2.前波吉継(まえばよしつぐ)とは

通称九郎兵衛
生年は不明。前波景定の次男です。
父や兄と同様に奉行人として活躍
1570年に兄の景当が堅田の戦いで討死したために家督を継承
前波氏は前述したように朝倉氏直臣の中でも筆頭の家柄。
当主・朝倉義景からの信も厚かったのではないかと思うのですが・・・。

1572年に近江浅井氏の居城、小谷城織田信長によって包囲されます。
浅井氏から援軍を頼まれた朝倉義景は、援軍を率いて織田軍と対峙します。
しかしこの時、前波吉継は織田信長の陣へ駈け込んで降伏してしまうのです。
しかも、翌年の一乗谷城の戦いにおいては越前への道案内役まで務めており
元主家であった朝倉家へ引導を渡す手助けまでしています。
信長からは、越前侵攻の功績で守護代任じらたばかりでなく
信長の名前の一字「長」を貰い受けるなどの好待遇。
この時から、前波吉継は桂田長俊(かつらだながとし)と名を改めています。
※今回は便宜上、前波吉継で呼び名を統一します。
吉継は、駿馬「一段ノ早道」を献上するなどご機嫌伺いも抜け目ありません。
ただし、改名したのが良くなかったのかどうかわかりませんが
改名した後に失明したばかりか、吉継ばかり信長に贔屓されていることに
腹を立てて対立していた富田長繁(吉継と同時期に織田家へ寝返っている)
吉継の圧政に不満を持つ人々を扇動して1574年に土一揆を蜂起
この土一揆3万3千人にまで膨れ上がり、1月19日には一乗谷へ侵攻してきます。
大軍勢となった一揆衆に前波吉継も太刀打ちできず殺害されてしまいました。
吉継の母も妻も、そして嫡男も逃走を試みますが捕縛されて殺されています。

この前波吉継の落命にまで至った経緯を『朝倉記』では「神明ノ御罰也」と評したり
信長公記では
「大国の守護代として栄耀栄華に誇り、恣に働き、後輩に対しても無礼であった報い」
と評されるなど散々な言われようです。
実際に、守護代として民衆の信を得られるような政治をできていなかったのでしょう。
数日で3万人にも一揆勢が膨れ上がったこと自体がそれを示していますね。

3.前波兄弟は「麒麟がくる」には出る?信長の野望シリーズには登場している?

明智光秀が朝倉氏に仕官していた時代においても
前波氏は朝倉氏家中でも家柄良く奉行衆としても活躍していましたから
麒麟がくる」でも登場する可能性はあると思います。
足利義昭の越前来訪時もチャンスはりますし、
足利義昭が越前を離れて織田信長に会いに美濃へ向かう道中などは
明智光秀と同行するような形で兄・景当が光秀と共演するやもしれませんね!
弟の吉継の方は光秀と絡むシーンが実はあまりないかもしれません。
というのも、光秀は朝倉家を離れてからは
近江や京都で政務をおこなっていることが多く
1573年の越前攻めにも従軍していたのかどうか。
前波吉継が一揆勢に討ち取られた後の信長による越前再侵攻の際には
従軍していたようですけどね。
ただし当時守護代を務めていた前波吉靴が一揆勢に討ち取られた事は
織田家中でも大きな事件だったでしょうし、
最低でもナレ死に近い感じでの登場はありそうな気がしています。
あと、どっちにしても光秀の朝倉家臣時代の動向は謎なので
前波一族と仲良くしてるようなシーンとかがあっても別にいいのかな、なんて(笑)

そして信長の野望シリーズでは、弟の前波吉継は登場します。
吉継は信長の野望でも贔屓されている?(笑)
戦国群雄伝武将風雲録には登場していないようですが
覇王伝からは常連武将となっております。
能力値については、シリーズ重ねるごとに落ちている感じでしたが
最近は多少持ち直し気味なイメージ。
とはいえ軍事系はからっきしで政治能力も突出しているわけでもないのは
シリーズ通して同様です。
信長の野望・創造 戦国立志伝での評価値はこちら。

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知略だけち60超えなのは、朝倉家寝返って引導渡したからなのかな?
信長に駿馬献上したこととかも評価の内なのかもしれませんね。

4.まとめ

今回は代々奉行衆を務めてきた前波景当・吉継兄弟でした。
お兄さんの景当が堅田の戦いで討死していなかったら
織田家には寝返っていたのかどうか。
ただ前波氏が裏切らなかったとしても
既に朝倉家中は崩壊しかけていたので
いずれにしても朝倉家滅亡への道は途切れることなく
進んでいってしまったのでしょうけれども。

今回はこの辺で。
ここまで読んでいただきありがとうございました!