歴史人物語り#65 最後まで寝返ることなく当主の傍で尽力した朝倉義景側近の鳥居景近・高橋景業、そして武士としての生きざまを選択して信長の前で自刃した印牧能信

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今回は滅亡寸前の越前朝倉家を見捨てることなく
散っていった3人の武将
鳥居景近(とりいかげちか)
高橋景業(たかはしかげあきら)
印牧能信(かねまきよしのぶ)です。
麒麟がくる」での登場はなかなか厳しいか!?

www6.nhk.or.jp

では今回のお品書きはこちらです。

また過去に紹介した「麒麟がくる」にちなんだ武将たち
以下の一覧記事にまとめてあります。

tsukumogatari.hatenablog.com

tsukumogatari.hatenablog.com

その他今までに紹介済みの戦国武将たちはこちから確認できます。

tsukumogatari.hatenablog.com

まだ読んでいない武将の記事がありましたら是非チェックしてみてくださいね。

1.鳥居景近(とりいかげちか)、高橋景業(たかはしかげあきら)とは

鳥居景近、通称兵庫助
高橋景業、通称甚三郎
二人とに生年、父ともに不明です。

景近と景業の2人は朝倉義景の側近であり、
取次役を務めていました。
取次役とはつまり外交官のことであり
当主・義景が発給する外交文書に添える副状を発給する役目
この取次役は家臣二人組で務めるのが常だったようです。
義景が発給する外交文書には
基本的にこの二人の副状が添えられる形になるので
朝倉義景が対外的にどのような立場をとろうとしていたかを
熟知していたと思われます。

1573年朝倉義景近江の朽木元網(くちきもとつな)宛に出した書状では
織田信長と敵対することを決めた将軍・足利義昭に対して
義景も与すること、そして浅井長政とも相談しながら
行動することを記した上で
その詳細については側近である鳥居景近と高橋景業から
申し述べることを伝えています
このように、対外的重要事項については
取次役の鳥居景近と高橋景業が主体となって
各方面への執り成しをおこなっていたのでしょう。
義景からの信頼も厚かったでしょうし
頭も良くないと務まりそうもありません。

また外交的役割のみに従事していたわけでもなく
織田信長との戦いにも義景に従って何度も参戦しているようです。
ただしこれは先代朝倉孝景の時とは異なり
当主が総大将として出張らないと家中が纏まらなかった状況だったことも
影響しているかもしれません。
朝倉宗滴が存命中は基本的に宗滴が朝倉軍を総大将としてまとめていて
当主の孝景はほとんど戦争にいっていませんからね。
朝倉宗滴についてはこちらの記事をどうぞ。

tsukumogatari.hatenablog.com

そして1573年刀根坂の戦いにおいて織田軍より大打撃を与えられた
朝倉義景は、一乗谷へ辛くも逃げ帰るものの、
付き従っていた者は討死もしくは織田軍へ寝返ってしまい
残る家臣は多くありませんでしたが
側近の鳥居景近は高橋景業は朝倉義景と共にありました。
もはや滅亡への扉が開きかけていましたが
朝倉氏一族の中でも筆頭の朝倉景鏡
一度一乗谷を離れて大野郡で再起を図ることを進言します。
義景はその進言を受け入れて大野郡へ逃れ、
景鏡が一時的に用意した仮の宿泊所である賢松寺に入りますが、
鳥居景近と高橋景業も同じく随行しています。
※朝倉景鏡についてはこちらの記事をどうぞ。

tsukumogatari.hatenablog.com

しかし、景鏡は既に織田家に寝返ることを決めており
義景一行のいる賢松寺を軍勢で包囲し、攻め立てます。
鳥居景近と高橋景業は当主・義景を守るために奮戦するものの
元々戦える者が少ない状況の中、次々に味方は討ち取られてしまい
義景も自害することを決めます。
そして義景の介錯を務めたのが、
側近のこの二人、鳥居景近と高橋景業でした。
介錯を務め終えると、二人は義景の後を追うように殉死をしたのです。
1573年9月16日のことです。

朝倉家臣の中でも状況不利と見るや織田家に寝返る者もいれば
最悪な状況下に置かれても
鳥居景近や高橋景業のように最期まで当主に付き従う者もいました。
どちらが正しいのではなく、
どちらもそれぞれの置かれた立場で出した
正しい決断なんだと思います。
ただ、主君に最期まで忠義を尽くして殉じた人の方に
ちょっと肩入れをしてしまいがちですね。
日本人は得に判官びいきを代表として
そういう傾向にあるのかもしれません。

2.印牧能信(かねまきよしのぶ)

通称弥六左衛門
生年、父ともに不明です。
越前鉢伏城(はちぶせじょう)の城主であり
印牧氏は代々朝倉家に仕える重臣だったそうです。
剣術家である富田勢源(とだせいげん)が興した
中条流剣術を伝える家柄だったそうなので、
剣の技量も優れていたのではないかと想像します。

一説には、鐘捲流剣術の開祖である鐘捲自斎(かねまきじさい)
印牧能信と同族ではないかとも言われています。
鐘捲自斎といえば、巌流島で宮本武蔵と決闘をして敗れた
佐々木小次郎の師匠としても知られていますね。

印牧能信については詳しい事績はわかりませんが
1573年の刀根坂の戦いにおいて信長との逸話が残っています。

印牧能信は刀根坂の戦いで織田信長自ら率いる本隊に対して奮戦し
多少なりとも織田軍に対して被害を与えます。
しかし勢いは織田軍にあり、印牧能信も遂には力尽きて
織田軍の捕虜となってしまいます。
印牧能信の戦いぶりを目の当たりにした信長は
その武勇と名を惜しんで命を助けようとします。
しかし、印牧能信がそれを良しとせず武士らしく死ぬことを選択して
織田信長の前で自刃したそうです。
印牧能信についてはこの話しか知られていませんけど
この話のみで、どういう武士だったかはなんとなく想像できますよね。
忠義に厚かったかどうかっていうのはまた別の話かなとも思うのですが
少なくとも武士としての誇りや生き様を
大事にしていた人物だったのではないでしょうか。

3.「麒麟がくる」と信長の野望シリーズで3人の登場は?

麒麟がくる」で3人が登場する可能性はどうなんでしょうね。
鳥居景近と高橋景業は朝倉義景の側近なので
登場機会があってもおかしくはないですが。
なかなか難しいような気がします。
二人にとっての見せ場は当主・義景と最期を共にする時でしょうけれども
そのシーンは「麒麟がくる」ではナレーションのみで終わる可能性も。
印牧能信に関しては登場するとしたら
脚本家さんの趣味でしかないような気がします(笑)
登場したらびっくりですね(笑)

そして信長の野望シリーズに3人は登場したことがありません。
鳥居景近と高橋景業の2人は側近の外交官なので
出してあげてもいいんじゃないかと思ったり。
今後もおそらく信長の野望シリーズでは登場しない3人だと思うので
どうしてもっていう人は自分で登録しましょう(笑)

4.まとめ

今回は最期まで朝倉家臣として殉じた
鳥居景近高橋景業印牧能信の3人でした。
朝倉家から織田家に寝返る重臣もいる中で
当主・朝倉義景を最後まで守ろうとした側近の2人と
武士らしさを重んじて死を選択した1人。
印牧能信はそのまま許されて織田家の家臣として
生き長らえることも可能だったかもしれないのに
その道は選びませんでした。
生き様としてはカッコイイですよね、
でも私なら生き残る方選びそうです(笑)

では今回はこの辺で。
ここまで読んでいただきありがとうございました!