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歴史人物語り#69 サザエさん一家のご先祖様!?浅井四翼とも謳われた浅井家中で最も勇猛果敢な武将・磯野員昌

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今回は近江浅井氏の中でも浅井四翼(あざいよんよく)と呼ばれた
武将の一人、磯野員昌(いそのかずまさ)です。
麒麟がくる」でも織田家と浅井家の戦いの中で
重要な人物の一人として登場するのではないでしょうか。

www6.nhk.or.jp

では今回のお品書きはこちらです。

また過去に紹介した「麒麟がくる」にちなんだ武将たち
以下の一覧記事にまとめてあります。

tsukumogatari.hatenablog.com

tsukumogatari.hatenablog.com

その他今までに紹介済みの戦国武将たちはこちから確認できます。

tsukumogatari.hatenablog.com

まだ読んでいない武将の記事がありましたら是非チェックしてみてくださいね。

1.磯野員昌(いそのかずまさ)とは

生年1523年。父は磯野員宗(いそのかずむね)
磯野氏は代々京極氏の家臣でしたが
浅井亮政が台頭してくると浅井氏の配下に加わります。
磯野氏の主家筋は磯野山城を本拠としていましたが、
員昌の父・員宗は磯野氏一族で佐和山城を居城とする
磯野員吉(いそのかずよし)に養子として迎えられました。
父・員宗が亡くなると員宗の弟の員清(かずきよ)家督を継ぎますが
その後を員昌が家督を継ぐことになります。
佐和山城といえば、後に石田三成が居城として
三成に過ぎたるものの一つとして云われた名城ですね。

その佐和山城の城主として磯野員昌は六角氏との戦いでは
多くの武功を重ねるてその武名を轟かせて、
合戦においては浅井軍先鋒として織田家や徳川家を悩ませるのです。
また、磯野員昌同様に浅井家中でも武勇に優れていた
大野木国重野村定元三田村秀俊らと共に
浅井四翼(あざいよんよく)
と呼ばれるようになるのです。
※江戸時代の膳所藩士が著した寒川辰清『近江輿地志略』(おうみよちしりゃく)に記載あり。

1.1.員昌の姉川十一段崩し

磯野員昌の逸話の中でも特に有名なのは『浅井三代記』にみられる
1570年姉川の戦いにおける十一段崩し
十一段崩しとはなんのこっちゃと思われる方もいるかもしれませんね。
姉川を挟んで浅井・朝倉連合軍と織田・徳川連合軍は対峙。
この時の織田軍の陣容は先鋒・坂井政尚(さかいまさひさ)の兵3千。
続いて池田恒興(いけだつねおき)木下秀吉(きのしたひでよし)柴田勝家(しばたかついえ)
森可成(もりよしなり)佐久間信盛(さくまのぶもり)の率いる兵が各々3千。
これら全6部隊がそれぞれ前衛と後衛に分かれて全部で12段
その12段の最後尾には、織田軍本隊である織田信長の兵5千が構えており計13段。
員昌の姉川十一段崩しとはすなわち、
この織田軍の錚々たるメンバーによって構成された13段の壁のうち
11段を突き破って
織田信長本陣まであと少しというところまで来た
ということなんです。

磯野員昌が率いる兵は1500ほど。
いつものことながら磯野員昌は浅井軍の先鋒です。
浅井家の先陣きって織田軍に突き進み、
1段目の坂井政尚の部隊を突き崩した勢いで
続く池田恒興や木下秀吉の部隊も突き破る猛攻を見せ、
あっという前に森可成の部隊を突き抜けて
織田本陣手前の佐久間信盛隊へと襲い掛かります。
しかし織田軍も黙ってはいません。
西美濃三人衆が勢ぞろいして磯野員昌の部隊の猛進を止めにかかります。
最初に横槍を入れたのが稲葉一鉄(いなばいってつ)

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稲葉一鉄は信長からの薦めもあって
徳川家康が戸川軍へ借り入れていたため朝倉勢と戦っていましたが、
味方の窮地を察知したのか
突如向きを変えて浅井軍右側面へと攻撃を始めます。
さらに、浅井氏の守城の一つである、横山城に睨みを利かせながら
織田信長の本隊を守るように背後で控えていた
安藤守就(あんどうもりなり)と氏家卜全(うじいえぼくぜん)の部隊が
浅井軍の左側面から攻撃をしかけます。

tsukumogatari.hatenablog.com

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両側面から攻撃を受けることになった磯野員昌は
さすがにこれはまずいと思ったのでしょう。
あと少しで信長の許へたどり着くとこまで来ていながら
その猪突猛進の攻勢を止めざるをえませんでした。
浅井軍の攻勢はこの磯野員昌が立ち止まったことで勢いをなくしてしまい
代わって猛攻を受けていた織田軍が転じて反撃にかかります。
元々数で圧倒されていただけに、浅井軍は瞬く間に総崩れとなり潰走し始めます。
特に磯野員昌は十一段も崩していたということは
織田軍の懐深くにいたわけであり、逃げるのも困難な状態です。
しかし磯野員昌はこの圧倒的不利な状況下で味方の兵300と共に脱出して
居城の佐和山城まで逃げ帰ることができたというのです。

ただしこの逸話は『信長公記』には記載がないようですし
後世の創作であろうという説が一般的っぽいです。
でも何かの理由で創られた話であったとしても、
浅井家中でも磯野員昌が猛将として名が知られていたからこそ
引合に出されたんじゃないかなぁと思います。

1.2.信長に降伏、そして出奔

姉川の戦いでは鬼気迫る活躍をしたとも言われている磯野員昌ですが
その後は窮地に立たされることになります。
姉川の戦いで勝利した織田軍がその勢いで横山城を落としたのです。
この横山城は浅井氏の居城である小谷城から6、7kmという近い距離にあるため
織田軍の浅井氏攻略最前線となった上、
佐和山城小谷城との陸路が分断されてしまい、
磯野員昌は孤立状態となってしまいます。
そのため1571年佐和山城を攻撃された磯野員昌は織田信長に降伏します。
降伏した磯野員昌は佐和山城と引き換えに近江高島郡を与えられるのですが
この待遇は当時の織田家宿将である木下秀吉、丹羽長秀柴田勝家明智光秀らと
同等の待遇であり、磯野員昌の能力を織田信長がどれほど買っていたかがわかります。
こういう事実からも前述の十一段崩しが創作だったとしても
創作されるほどの所以がやはりあるんだろうなって思いますね。
また、織田信長信長の弟・信勝のの嫡男、津田信澄(つだのぶずみ)を
磯野員昌の養嗣子とすることを命じています。
津田信澄といえば、織田信長の側近として活躍し
明智光秀の娘を妻に娶った武将

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信長が津田信澄を養嗣子とさせたのは、磯野氏をいずれ乗っ取るためだったのか
あるいは磯野員昌の優れた武勇を認めてのことなのか

その後も磯野員昌は織田信長を狙撃したことで有名な
杉谷善住坊(すぎたにぜんじゅぼう)を捕縛したり、
1575年の越前一向一揆鎮圧に従軍するなど、
織田家中においてもその活躍は衰えませんでした。

しかし1578年に織田信長の意志に背いたことで叱責された磯野員昌は
織田家を出奔
してしまいます。
治めていた高島郡は養嗣子・津田信澄に与えられたようです。
織田信長がどんな叱責をしたのかは不明なんですが
津田信澄家督を譲るように信長が迫ったことを拒否したからとも言われています。
出奔後の動向はよくわかっていないのですが、
本能寺の変織田信長津田信澄が亡くなると
高島郡に戻って帰農し、1590年10月8日に亡くなったと言われています。
享年68歳でした。

ちなみに、息子の磯野行信(いそのゆきのぶ)
行信の息子の磯野行尚(いそのゆきなお)
石田三成に仕えて、三成が没すると藤堂高虎(とうどうたかとら)に仕えています。
藤堂家中においては大阪夏の陣で行信は旗奉行をつとめ、
行尚は増田盛次(ましたもりつぐ)と戦って討ち取る功を挙げています。
行信も行尚も員昌に負けず劣らず武に長けた武将だったのでしょうね。
また、藤堂高虎は以前に磯野員昌に仕えていた時代があったので
その縁で藤堂家に仕えることになったのではないでしょうか。

それから磯野員昌の娘は小堀正次(こぼりまさつぐ)に嫁いでいて
茶人であり幕府や宮中の作事奉行として有名な
小堀政一(こぼりまさかず、遠州の名で有名)を産んでいます。
建築家としても名高い孫がいるってことは
事績が伝わってはいないものの、
磯野員昌も軍事能力のみならず内政能力も長けていたのかも!?
信長の野望シリーズではさっぱり評価されていませんが(笑)

2.「麒麟がくる」と信長の野望シリーズでの磯野員昌

浅井四翼として有名な磯野員昌ですから、
浅井家の猛将の一人として「麒麟がくる」の中でも登場する可能性はあるでしょう。
姉川の戦い明智光秀が参加したっていう話は聞いたことがないのですが
織田・徳川家と浅井・朝倉家の一大決戦であるため
尺を取らずとも描写はそれなりにされるんじゃないかと思うので
浅井軍先鋒を務めた磯野員昌が鼻を切って戦いに臨む姿が描かれるかもです。
そして磯野員昌といえば、津田信澄を養嗣子としてもらっています。
これはおそらく信長が無理やりになんでしょうけど(笑)
その津田信澄正室明智光秀の四女と言われていますから
磯野員昌もその繋がりで、明智光秀と絡むシーンが描かれるかもです。

そして信長の野望シリーズでの磯野員昌はというと
皆勤賞で登場しています。
流石に浅井家の中では欠かせない武将扱いということでしょう。
浅井四翼として登場しているのはこの磯野員昌のみです。
一番最初の戦国群雄伝では
何故か軍事も内政もダメな武将になってるようなんですけど(笑)、
それ以降は軍事能力にたけた武将として評価され続けているかんじです。
そして信長の野望・創造 戦国立志伝での評価値はこちら。

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政治からっきし知略もあんまりですが
武勇・統率は70、80声で軍事能力は申し分ありません。
知略低いのでたまに夜襲を受けてしまうリスクはありますけど
部隊の大将を任せるには十分な能力です。
ただし、織田家へ降伏したことが理由だと思うんですが
忠誠心が低く、前回の海北綱親同様に裏切りやすい武将です。
その辺安直に評価されているような気がしなくもないけど
ゲームシステム上仕方ないのかもしれません。
もうちょっと深い要素を武将のパラメータに加えるようにすると
印象がだいぶ違うと思うんですよね。
ゲームのみで知ってる人にとってはただの裏切者にしか見えなさそうなのが悲しい。

3.まとめ

今回は浅井四翼と謳われ
姉川の戦いでは十一段崩しの逸話が残る
磯野員昌でした。
そういえば以前津田信澄の記事でも書いたとおもいますが
磯野員昌はサザエさん」の磯野一家の先祖ではなんて云われています。
そのため磯野員昌は「戦国時代のカツオ」とか揶揄されて
ネタにされたりしていますね(笑)
公式設定じゃなくてあくまでも戦国ファンの妄想からくる説なんですが
磯野員昌の本家筋は浅井亮政に敗れた後、九州・博多へ下っており
磯野家の先祖の磯野藻屑源素太皆(いそのもくずみなもとのすたみな)は
明治維新の頃の福岡藩なので、たまたまなのかよく知りませんが
意外と本当に繋がりがあったり?(笑)

では今回はこの辺で。
ここまで読んでいただきありがとうございました!