歴史人物語り#75 室町幕府将軍が京を追われた時に頼りにしたのは朽木晴綱、そして息子の朽木元網は織田信長の命運をも握っていた

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今回は若狭と京を結ぶ若狭街道の朽木谷で
代々将軍家を守ってきた朽木氏(くつきし)
朽木晴綱(くつきはるつな)

その子、朽木元網(くつきもとつな)です。
麒麟がくる」に登場するとしたら息子の方かな?

www6.nhk.or.jp

では今回のお品書きはこちらです。


ちなみに紹介済みの「麒麟がくる」にちなんだ武将たち
以下の一覧記事にまとめてあります。

tsukumogatari.hatenablog.com

tsukumogatari.hatenablog.com

その他今までに紹介済みの戦国武将たちはこちから確認できます。

tsukumogatari.hatenablog.com

まだ読んでいない武将の記事がありましたら是非チェックしてみてくださいね。

1.朽木晴綱(くつきはるつな)とは

通称弥五郎
生年は不明。父は朽木稙綱(くつきたねつな)
朽木谷城の城主です。
朽木氏は若狭街道の要衝の地であり京都にも近い朽木谷(くつきだに)を領した国人。
鎌倉時代よりこの地を居としていた朽木氏は
室町時代においては、代々足利将軍家の側近として仕えていました。
朽木晴綱も室町幕府奉公衆という将軍直属の軍事力となる
武官官僚を務めていました。
奉公衆についての詳細はこちらを。

奉公衆(ほうこうしゅう)は、室町幕府に整備された幕府官職の1つである。将軍直属の軍事力で、5ヶ番に編成された事から番衆、番方などと呼ばれた。番衆(小番衆)とも。

鎌倉時代の御所内番衆の制度を継承するもので、一般御家人や地頭とは区別された将軍に近侍(御供衆)する御家人である。奉行衆が室町幕府の文官官僚であるとすれば、奉公衆は武官官僚とも呼ぶべき存在であった。後年、豊臣秀吉も奉公衆の制度を設けている。
引用元:Wikipedia

 ちなみに既に紹介済みで「麒麟がくる」でも谷原章介さんが演じることが決まっている
三渕藤英(みつぶちふじひで)も奉公衆を務めていました

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将軍家との繋がりが深いこともあって
父の稙綱も晴綱やその弟の藤綱、輝孝は将軍より偏諱を受けています。
※父は第10代将軍・足利義稙、晴綱は第12代将軍・足利義晴から、
藤綱と輝孝は第13代将軍・足利義輝(義藤)から

また、妻は飛鳥井雅綱(あすかいまさつな)の娘です。
飛鳥井家といえば蹴鞠の宗家
織田信長の父・信秀も蹴鞠を伝授してもらうために飛鳥井雅綱尾張へ呼んだほど。
そして飛鳥井雅綱の官位は従一位権大納言という高位。
そんな位の高い人物の娘を妻として迎え入れられるという辺りに
朽木氏の中央政府との繋がりの深さを感じます。

特に朽木氏は将軍家が京都から追われた際には朽木谷で保護していて
第11代将軍足利義澄第12代将軍足利義晴も、朽木晴綱に保護されて匿われています。
朽木谷が京都から近かったこともあるんでしょうけど
朽木氏が代々武官官僚として室町幕府に忠節を尽くしてきたことから
将軍家からの信頼が大きかったのではないでしょうか。
朽木晴綱は当時の将軍・足利義晴に従って、敵対勢力との戦いにも参戦していましたが
1550年に朽木氏の本家・高島氏の高島越中守と高島郡河上荘俵山で戦った際に戦死。
享年33歳、まだまだ働き盛りの若さでした。
ちなみに家督はまだ2歳の朽木元網が継承しています。

2.朽木元網(くつきもとつな)とは

通称は父と同じく弥五郎
生年は1549年。父は朽木晴綱
代々将軍家の側近として仕えてきた朽木家当主の嫡男として誕生します。

しかし、父の晴綱は前述のとおり元網が2歳の時に戦死してしまいます。
そしてまだ2歳にも関わらず家督を継いでいるのです。
家督を継ぐといっても2歳じゃ正直形式上でしかないんでしょうが
晴綱の弟である成綱、藤綱、輝孝らが後見するような形で
元網が成人するまでは朽木家を仕切っていたのでしょう。
特に家督相続に関しての争い等があったような話もないので
一族、仕える家臣たちは結束力が高い集団だったのかもしれません。
1553年に三好長慶に京都を追われた第13代将軍・足利義輝を匿ったという話もありますが
この時、元網はまだ5歳なので元網の意思に関係なく
朽木氏としては将軍が京を追われたら全力で保護するという
意識があったんでしょうね。

1566年、元服も終えたであろう朽木元網18歳の時、
六角氏を破ったことで近江での勢力を取り戻した浅井長政
近江高島郡に攻めてきます。
この際には人質を差し出すことによって難を逃れ、
1568年には浅井氏と起請文も交わしているんですが
織田信長によって第15代将軍となった足利義昭に所領の安堵を認められたことから
浅井氏と交わした起請文を破棄しています。
1569年には、足利義昭三好三人衆三好政康三好長逸岩成友通に襲撃されると
出兵して足利義昭を守っています。

2.1.朽木元網は織田信長の命を握っていた、運命の朽木越え

朽木元網が名を上げることになったのは織田信長の朽木越え
1570年織田信長朝倉義景を攻めるために越前へ侵攻。
織田・徳川連合軍の猛攻に耐え切れず金ヶ崎城を守る朝倉景恒(あさくらかげつね)は
降伏勧告を受け入れて開城してしまいます。

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圧倒的優位な状況で朝倉攻めを侵攻していく織田信長でしたが、
浅井長政織田家を裏切って信長軍を背後から襲ってくるという情報を得ます。

元々、浅井氏と朝倉氏は浅井長政の祖父・浅井亮親(あさいすけちか)と
朝倉宗滴(あさくらそうてき)の頃からの盟友

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一方で朝倉氏と織田氏は、美濃守護土岐氏の権力争いをしていた頃にも対立していた、
いわば浅井氏との関係とは真逆に犬猿の仲。

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浅井長政織田信長と同盟するにあたっても、
この朝倉氏と織田氏の関係を危惧して一度は断っているのです。
そこで、朝倉攻めをする際には浅井氏と相談するからという約束をしたことで
浅井氏と織田氏の婚姻同盟が成立します。
ところが今回の朝倉攻め、
織田信長浅井長政に相談することなく始めてしまいました。
これが原因で、浅井氏家中は織田、朝倉どちらにつくかで話し合った結果
織田との同盟を切って、朝倉氏に味方することを決断するのです。

信長は浅井長政を信じ切っていたのか
浅井氏裏切りの報を聞いても最初はデマだと言って信じなかったと言います。
ここで有名な逸話は信長の妹で浅井長政に嫁いだお市の方が、
両端を紐で結んだ小豆袋を信長に送ってきて
それを見て信長が浅井氏裏切りを確信したというやつですね。

背後をとられることを一切心配せずに朝倉攻めをおこなっていた信長ですが
退きながらも防衛体制を整えている朝倉軍と
背後から迫りくる浅井軍とに挟み撃ちされる形となったことで
形勢の不利を悟って撤退することを決めます。
殿は摂津守護の池田勝正明智光秀、木下秀吉たちに任せて京都を目指します。
越前の敦賀から京都へ撤退する道中には、
朽木元網の治める朽木峠がありました。
元網は、最初は織田信長を殺すつもりでいたようです。
しかし松永久秀の必死の説得に応じて信長が朽木谷から京へ向かう支援をします。
信長はこれによって無事に京都まで撤退することができたのですが
京都についた時は信長の供は10数人程度しかいなかったそうですから、
朽木元網が信長を殺すことは容易かったことでしょう。
松永久秀にどんな説得のされ方をしたのか非常に興味がありますが
もしも説得に応じていなかったら、
戦国時代はもっと長く続いていたかもしれませんよね。
朽木元網よりも松永久秀にあっぱれをあげたい(笑)

でもこの時すんなり信長を通さなかったせいなんでしょうか、
実は織田信長にはあまり厚遇されません。
この朽木越え以後は信長に仕えて磯野員昌(いぞのかずまさ)の配下となります。

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しかし磯野員昌が信長に叱責をされたことが原因で出奔してしまったため、
磯野員昌の領地を受け継いだ津田信澄(つだのぶずみ)の配下となり、
高島郡の代官に任じられます。

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ところが1579年にその代官の任を信長に罷免されてしまうのです。
なぜ罷免されてしまったのか、理由はわかっていません。
信長にとって朽木元網は一世一代のピンチにおける命の恩人であるはずで、
そういう人を信長って無下に扱わないと思うんですが
やっぱり信長も松永久秀にあっぱれをあげていたのかも(笑)

2.2.豊臣秀吉に厚遇されつつも関ケ原では

本能寺の変で信長が斃れた後は、羽柴秀吉(木下秀吉、後の豊臣秀吉に仕えます。
秀吉配下となってからは伊勢安濃郡高島郡内の蔵入地の代官に任命されるなど
厚遇されており、小田原征伐にも参加して朽木谷2万石を安堵されています。
1590年には秀吉から豊臣姓も下賜されています。
信長臣下時代とはうってかわっての厚遇に
朽木元網も秀吉に対しては恩義を感じていたはず。

1600年の関ヶ原の戦いでは当然西軍です。
1500の兵を率いる大谷吉継(おおたによしつぐ)に従って、
北国口を抑える為に関ヶ原の南西にある山中村に兵600を率いて布陣しています。
同じく山中村に布陣していたのが、
戸田勝成(とだかつしげ)の兵300、平塚為広(ひらつかためひろ)の兵360、
赤座直保(あかざなおやす)の兵600、小川祐忠(おがわすけただ)の兵2100、
脇坂安治(わきさかやすはる)の兵990。

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しかし1万5000ほどの兵を率いる小早川秀秋が東軍へ寝返ったことを皮切りに
朽木元網も東軍へと寝返るのです。
この時同じく山中村に布陣していた、
赤座直保小川祐忠脇坂安治も東軍へ寝返っています。
大谷吉継小早川秀秋の寝返りは予測していて謀叛に備えていた上に
戸田勝茂・平塚為広の部隊が前線から引き返してきたこともあって
一時は小早川秀秋軍を押し返すほどでした。
しかし、朽木元網ら裏切った4部隊が大谷吉継隊を横合いから攻撃して壊滅させます
戦後、朽木元網は事前に東軍へ寝返ることを伝えてはいなかったことから
2万石から9600石への減封となり、
伊勢安濃郡近江高島郡の蔵入地代官も罷免はされてしまいますが
家名は存続させます。
事前に伝えていなかったのは、どちらに付くべきかを
決めかねていたのか、戦の中で有利不利を見極めるつもりだったのか。
天下分け目の戦いですから、選択を間違えれば一族滅亡もありえますから
悩んでしまったとしても気持ちはわかりますよね。

その後朽木元網は1616年には剃髪して牧斎と号します。
そして1632年10月12日、朽木谷において亡くなっています。享年84歳
早く亡くなってしまった父の分も長く生きて戦国時代を乗り越えました。

ちなみに元網死後の遺領は3人の息子、
宣綱(のぶつな)、友綱(ともつな)、稙綱(たねつな)に

分割されたため大名から旗本に転落してしまうのですが
稙綱は江戸幕府第3代将軍・徳川家光の信を得て大名となり
常陸土浦藩の初代藩主となっています。

3.「麒麟がくる」と信長の野望シリーズでの朽木親子

麒麟がくる」に登場するとしたら、朽木元網でしょう。
父の晴綱は早くに戦死してしまっていることもあって登場しないでしょうね。
元網の方も登場するとすれば、織田信長の朽木越えあたりだと思いますが
この辺はどこまで描かれるかは微妙なところ。
明智光秀はこの撤退戦において殿として後背を攻め立てる浅井・朝倉軍と
激しい戦いを繰り広げている真っ最中
ここはどうしたって明智光秀の方にスポットライトが当たります、
主人公ですから(笑)
朽木元網支援によって織田信長が京へ落ち延びれたことは
語られるにしてもナレーションのみという可能性も
あとワンチャンあるとすれば、元網が津田信澄配下に属すること。
津田信澄明智光秀の娘婿でもあるので
もしかしたら少し他の武将よりも描かれるシーンがあるかも。
そうするともしかしたら数カットぐらいの元網の登場もあったりするかも?

それから信長の野望シリーズにおいては朽木晴綱も朽木元網も登場しています。
登場歴からいうと覇王伝からずっと登場している息子の朽木元網の方が常連ですが
父・晴綱も嵐世記、蒼天録で登場して2シリーズ未登場の後、
天道から再び登場するようになりました。
さらにいうと、晴綱の父で元網の祖父である稙綱も登場しています。
古くは天翔記、その後は晴綱同様に嵐世記、蒼天録で登場した後に
天道から連続で登場しています。
また、元網の息子の宣綱が戦国立志伝から登場するようになっています。
能力的には朽木稙綱が一番優秀な感じで、
世代を重ねるごとにちょっとずつ落ちていってるイメージが(笑)
一番下の世代の宣綱がひどいことになっているんですけどね。
というわけで、戦国立志伝でも4人登場するので一挙に全員見てみましょう。

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世代を重ねるごとに悪くなっているといいつつ、
朽木晴綱と朽木元網はいうほど大差はありません。
ちょっと得意分野が違うのかなっていうぐらいで。
その下の宣綱がすべて50を切っています。
元服が秀吉の天下の頃の武将なので仕方ないところはありますけどね。

4.まとめ

今回は将軍家が京を追われた際には
代々匿ってきた朽木氏の当主、
朽木晴綱朽木元網でした。
信長の野望シリーズにおいては4世代登場するので
戦国立志伝なんかだと4世代分楽しめると思いきや
実は、史実シナリオで武将として登場するのは
朽木晴綱と朽木宣綱の2人だけ
一番能力が優秀な朽木稙綱と信長の朽木越えで有名な朽木元網は
国人としての登場のため、勢力下に取り込まないと家臣にもなってくれません(笑)
特に、朽木元網はたしか仮想シナリオでも国人スタートで
武将プレイが一切できないんですよね。
晴綱で始めて亡くなったら2歳とかでも確か跡を継いで続けられたと思いますが。
戦国立志伝が太閤立志伝みたいに、
武将以外の身分のプレイができたらいいんですけどね。
ちょっと両者のコンセプトとかも違うので仕方ないところではありますが。

では今回はこの辺で。
ここまで読んでいただきありがとうございました!