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歴史人物語り#77 政治手腕の高さで秀吉・秀長に抜擢された小堀正次、その子・小堀政一は父のスキルを受け継ぎ公儀作事で多くの功績を挙げつつ茶道も極めた一級の文化人

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今回は父子共々作事が得意、息子は茶人としても大成した
小堀正次(こぼりまさつぐ)
小堀政一(こぼりまさかず)父子です。
元は浅井家に仕えていましたが「麒麟がくる」には出てくるチャンスは
無いかもしれません。いや無いでしょう(笑)

www6.nhk.or.jp


では今回のお品書きはこちらです。

ちなみに紹介済みの「麒麟がくる」にちなんだ武将たち
以下の一覧記事にまとめてあります。

tsukumogatari.hatenablog.com

tsukumogatari.hatenablog.com

その他今までに紹介済みの戦国武将たちはこちから確認できます。

tsukumogatari.hatenablog.com

まだ読んでいない武将の記事がありましたら是非チェックしてみてくださいね。

1.小堀正次(こぼりまさつぐ)とは

通称新助
1540年生まれ。父は小堀正房(こぼりまさふさ)
小堀氏の本貫地は近江坂田郡小堀村。
小堀正次はこの小堀村で生まれた後に出家していたのですが
還俗して磯野員昌の娘を娶り、磯野員昌に仕えます。

tsukumogatari.hatenablog.com

父の正房も磯野員昌の父・磯野員宗に仕えていたので
代々磯野氏の家臣として仕えていたのでしょう。
正次やその子・政一は作事奉行や検地代官などを務めるなど
政治手腕に長けた人物だったようなので、
磯野氏の元でも内政面での活躍が多かったのではないかと思います。
その磯野員昌は後に浅井氏から織田信長に寝返ると
小堀正次は磯野員昌についてはいかず、再び出家してしまいます。
しかし正次が有能であることを聞き知っていたんでしょうか
羽柴秀吉やその弟・羽柴秀長に目をかけられ
再度還俗して秀長の家臣となるのです。
当初は千石の知行だったそうですが、
紀伊や大和の検地代官を務めるなど
持ち前の政治手腕を発揮して内政面で功績をあげると
石高も徐々に増加されて5千石の知行を得るまでに出世し、
秀長の家老に抜擢されます。
特に紀伊や大和は寺社勢力が多く抵抗も大きかったことから
検地を容易にはおこなえる土地ではなかったので
そこを任されたこと自体が、秀吉や秀長からの期待の大きさを意味しています。

羽柴秀長は1591年に亡くなった後は
秀吉の配下として大和、和泉、紀伊郡代を任されています。

その後秀吉が亡くなって1600年に起きた天下分け目の戦いである
関ヶ原の戦いになると、西軍ではなく東軍に属して会津征伐に参戦しています。
そして戦後の論功行賞では備中松山に1万4千石の知行を与えられて大名となり
備中における天領の管理も任されたそうです。
天領とはいわゆる徳川幕府の直轄領のことです。
そこの管理を任されるということは、
徳川家からも正次の政治手腕は高く評価されていたということなのでしょう。
以後は、備中や近江における江戸幕府の検地においても功績を挙げており
1601年には伏見城の作事奉行も務めています。
そして1604年の江戸への参勤途上中に藤沢で急死してしまったそうです。
享年65歳

2.小堀政一(こぼりまさかず)とは

通称作助
生年は1579年。父は小堀正次
後に官途が遠江守だったことから小堀遠州の名で有名になります。
また、妻は藤堂高虎の養女です。
小堀政一は父・正次が羽柴秀長に仕えていたことから
秀長が郡山城へ移封となると、正次も家族と共に郡山へ移住します。
この郡山や、京都、堺そして奈良と並んで茶の湯の盛んな土地でした。
羽柴秀長が豪商で茶人としても有名な山上宗二(やまのうえそうじ)を招いたり
千利休(せんのりきゅう)に師事したりしていたことも
その要因の一つだったようです。
政一は秀長の小姓だったことから、秀吉への給仕を務めていましたが
その間に千利休黒田官兵衛・長政父子らとも出会い、
その親交を深めていった
そうです。
また、父の薦めもあって臨済宗の僧である大徳寺の春屋宗園(しゅんおくそうえん)の元で
禅の修行をしています。

羽柴秀長が1591年に亡くなって秀長の養子の羽柴秀保(はしばひでやす)が嗣いだものの
秀保も1595年に急死してしまいます。
そのため政一は秀吉の直参となって伏見に移ります。
ここで政一は利休七哲の一人、古田織部(ふるたおりべ)に茶を学んで
第一の弟子と称されるほどに。

 古田織部といえば「へうげもの」で有名になっちゃいまいたね!

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 そして1598年に秀吉が亡くなり、1600年の関ヶ原の戦いにおいては
政一は父・正次と共に東軍に与して功を挙げており
小堀氏は備中松山1万4千石の大名となります。
父・正次が1604年に亡くなった後は家督とその遺領を継いでいます。

家督を継いでからは駿府城の普請奉行を始めとして多くの公儀作事に関わります。
1617年には河内国奉行を兼任することになり、
大坂天満南木幡町に役宅を与えられています。
1619年には備中松山藩から近江小室藩へ移封となり
1622年には近江国の奉行を任されます。
さらに1624年には伏見奉行に任ぜられます。

伏見奉行は江戸幕府の役職である遠国奉行(おんごくぶぎょう)の一つであり
遠国奉行とは江戸以外の幕府直轄領のうち重要拠点に置かれた奉行です。
遠国奉行のうち大名から選ばれるのは伏見奉行のみ
その他の奉行(長崎奉行京都町奉行など)は旗本から選ばれます。
伏見は京都の玄関口とも言われ特別に重要視をされていた地でもありますから
ここの奉行を任されるということは、
大名にとっても重要なステータスの一つだったはずです。

ちなみに時代はもっと後、幕末時代になりますが
伏見奉行所鳥羽伏見の戦い幕府軍が本陣を置いた場所であり
新選組近藤勇局長や副長の土方歳三らも警護に当たりますが
官軍の砲撃によって奉行所は焼け崩れてしまいます。

しかし晩年には公金1万両を流用したという嫌疑がかかります。
誰かに妬まれて流されたデマだったのかどうか、
結局真偽のほどはわからずであり、
酒井忠勝井伊直孝細川忠興の口添えによって不問とされています。
流用したとしたら一体何に使ったのか・・・茶器かな?(笑)

その後は伏見奉行を務めながら茶の湯に没頭し(生涯400ほど茶会を開いたそうです)
1647年3月12日に伏見奉行屋敷において亡くなったそうです。
享年69歳

ちなみに子孫は松平定信によって改易されてしまい、
大名家としての小堀家は断絶してしまいますが
1828年に300俵を与えられて御家人として再興を許されました。

2.1.父同様に作事奉行として大活躍

小堀政一は作事奉行として種々の城郭や御殿などの普請に携わって
多くの功績を挙げています。
元々戦よりも政務にスキルがあった家系であり人物であったと思うので
戦をすることがなくなった江戸時代は
政一にとっても自分の得意分野で活躍できる場が多くなったのでしょう。
以下に小堀政一が携わった普請の数々を挙げてみます。

  • 1606年 後陽成院の御所の造営奉行
  • 1608年 徳川家康の居城である駿府城作事奉行
  • 1612年 名古屋城天守作事奉行
  • 1612年 大徳寺竜光院内に狐蓬庵を造営奉行
  • 1613年 禁中作事奉行後水尾天皇御即位による)
  • 1614年 備中松山城修理奉行
  • 1614年 備中御根小屋書院の作事奉行
  • 1617年 伏見城本丸書院の作事奉行
  • 1618年 東福門院御殿の作事奉行
  • 1620年 大阪城御門惣廻り及び櫓の作事奉行
  • 1623年 大阪城本丸仮御殿及び行幸御殿の作事奉行
  • 1624年 二条城及び行幸御殿の作事奉行
  • 1626年 大阪城天守本丸の作事奉行
  • 1627年 仙洞国母様御所の作事奉行
  • 1628年 二条城二の丸の作事奉行
  • 1628年 京都南禅寺塔頭金地院の数寄屋の造営奉行
  • 1633年 二条城本丸数寄屋の作事奉行
  • 1636年 品川林中御茶屋御殿の作事奉行
  • 1640年 禁裡及び新院御所の造営奉行

毎年のように公儀の作事に関わっていて
関わったものの多くが、後々国宝だったり重要指定文化財に指定されています。
特に1608年の徳川家康の居城・駿府城の普請では
家康がその見事な天守閣の出来栄えを大層気に入って
1609年に従五位下遠江守に叙任させたほとでした。
この頃から小堀政一小堀遠州と呼ばれるようになるのです。

2.2.茶人・小堀遠州

小堀政一が最初に茶会に参加した記録は
1594年奈良の松屋久松の茶会に参加したときのことで、
小堀政一が16歳の時だそうです。
また、自ら催した茶会としては1599年の時のもので
この茶会には京都の公家や大名その家臣、町人、神社関係者に加えて
医師や役者など幅広い層からの参加があったようで
この頃既に、小堀政一が手広く人脈を広げていたことが伺えます。

小堀政一は生涯で400回ほどの茶会を開いたと言われているほど
政務をこなす傍らで茶会三昧の日々も送っていたとか。
また、その茶の湯「綺麗さび」と呼ばれており
遠州流として現在も続いています。
小堀政一は和歌や藤原定家の書を学んで王朝文化の美意識を茶の湯
取り入れたそうで、それが小堀遠州流の源となっているようですね。
茶の湯は詳しくないので、なるほど、わからんといった感じですけど(笑)
また、小堀政一のもたらした美意識は華道にも影響して
それがまたひとつの流儀として確立したそうです。

3.「麒麟がくる」と信長の野望シリーズでの小堀親子

麒麟がくる」に登場するとしたら父の小堀正次の方でしょうね。
小堀遠州は江戸時代が主体であって
明智光秀本能寺の変織田信長を斃すよりもずっと後のことですからね。
かといって父の小堀正次も浅井氏の中でも重臣の一人である
磯野員昌に仕えていたとはいえ、
おそらく軍事よりも政務中心の家臣だったと思いますから
登場チャンスはなさそうな気がします。
それに員昌が織田家に寝返ると出家しちゃってる時点で
登場メンバーからは外されちゃってそう(笑)

そして信長の野望シリーズでは登場しているのは子の小堀政一の方のみです。
父の正次が登場しないのは出家何度もしちゃってるせいなのかな(笑)
息子の方は、小堀遠州の名で登場しています。
元服してからもその呼び名で登場するのはおかしいだろうという
ツッコミはしないであげてください(笑)
ただ登場してるとはいっても、天翔記将星録に登場してからはしばらく未登場
創造PKで再登場してからは大志まで連続して登場するようになりました。
元服が1595年とかぐらいだと思うので
秀吉が天下を取るシナリオとか以降じゃないと
なかなか登場しても使う機会がないでしょう。
なので、もしかしたら意外と登場していても気づかれてなかったりして(笑)
最近だと大河ドラマ真田丸」の影響もあって関ケ原以降のシナリオを
やる機会は増えたと言えば増えましたけど、
個人的には年代が後ろ過ぎると登場武将が減るし
おじいちゃん武将たちは死んじゃうしで
いろいろやりづらくてイベント消化以外あまりやらなかったりします(笑)

さて、そして信長の野望・創造 戦国立志伝での評価値はこちら。

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政治の人っていう感じのステータスです。
一応大坂の陣でも参戦していて少し活躍はしていたと思うんですが
戦経験はほとんど無いでしょうから(時代的に)
軍事系があんまり能力高くないもの仕方ないでしょう。
茶人としての特殊ステータスとかもあったら面白いんでしょうけど
大名茶人とか言われるわりには、古田織部のもつ特性「数寄者」を
小堀遠州は初期所持していないし習得もしないんですよね。
あと「土木名人」はあっても「築城名人」もつかないのが納得いきません。
関ケ原大坂の陣のシナリオ以外ではあんまり使う機会がないから
あんまり文句言う人も少なそうですが(笑)

4.まとめ

今回は作事の名人親子である小堀正次小堀政一でした。
小堀政一については以下のページがさらに詳しいです。
お茶の話と作事奉行についてはこちらを参考にさせてもらいました。
(作事奉行については抜けがあるかもですw)

www.koborienshu.org

茶道とかは全然詳しくないのであんまりよくわからないんですが
お茶室でお茶を飲める場所とかいった時に
作法ぐらいちょっと覚えておけばよかったと思ったりしますね(笑)
あと、社会人になってから気づいたんですけど
意外と茶道やってた人(やってる人)がまわりにいることにびっくりです。
そしてやってる人はみんな姿勢がいい。。。
やっぱ礼儀作法に関する習い事は小さい頃にやっておいた方が
良いような気がしています。
習いごとあんまり好きじゃなくて習字すらやってなかったので(笑)
それなりに出来ることは習う必要性とかも感じなくていかなかったけど、
「正しい」作法とかって教えてもらって訓練しないと身に付かないから
損しちゃったかもなぁなんて思ったりすることもあります(笑)

では今回はこの辺で。
ここまで読んでいただきありがとうございました!