歴史人物語り#68 北近江の浅井家に海赤雨三将あり、その名は海北綱親、赤尾清綱、雨森清貞。ちなみに海北綱親の子は画家として大成した海北友松

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今回は浅井氏の重臣といえばこの3人、
海赤雨三将(かいせきうさんしょう)
海北綱親(かいほうつなちか)
赤尾清綱(あかおきよつな)
森清貞(あめのもりきよさだ)です。
加えて海北綱親の息子・海北友松(かいほうゆうしょう)も。
別立てにしようかと思いましたが、一緒にしちゃいました。
麒麟がくる」では三将3人揃って出て来たりするのかどうか?

www6.nhk.or.jp

では今回のお品書きはこちらです。

また過去に紹介した「麒麟がくる」にちなんだ武将たち
以下の一覧記事にまとめてあります。

tsukumogatari.hatenablog.com

tsukumogatari.hatenablog.com

その他今までに紹介済みの戦国武将たちはこちから確認できます。

tsukumogatari.hatenablog.com

まだ読んでいない武将の記事がありましたら是非チェックしてみてくださいね。

1.海北綱親(かいほうつなちか)・海北友松(かいほうゆうしょう)とは

1.1.浅井家中でも軍師的な存在であった海北綱親

通称善右衛門
生年、父ともに不明。
小谷城の南東に位置する瓜生を本貫地としていたようです。
浅井亮政・久政・長政の3代にわたって軍奉行(いくさぶぎょう)を務めていた重臣
海赤雨三将の一人
小谷城攻略では大いにその軍略で悩まされた羽柴秀吉には
『我が兵法の師』と言わしめるほどの知勇兼備に優れた武将。

なのですが、
実はあまり具体的な事績や逸話が残っているわけではないのが残念。

1573年に浅井氏の居城である小谷城の落城時に討死したとも言われているんですが
実は、この時討死したのは綱親と同じ通称を名乗っていた綱親の嫡男で
綱親は1535年頃に既に討死していたとも言われいます。
1535年1月に出された浅井氏の敵方の感状に
浅井亮政が京極家臣の多賀貞隆邸を夜襲した際に
綱親が討死をしたとあるそうなんです。
ただし、資料で海北善右衛門を略した「海善」とあるのみで
これが海北綱親のことを指しているのかどうかは実証されていないようです。

でも1535年頃に亡くなっていたとしたら、
羽柴秀吉の言う兵法の師匠・海北綱親って
誰なんだろうってなっちゃいますよね。
仮に羽柴秀吉が褒め称えたのが息子の方だったとしても、
海北氏が軍才に優れていた氏族だったということは
揺るがないのでしょうけれども。

1.2.やむなく武を捨てたが画才で一躍脚光を浴びた海北友松

海北氏といえば優れていたのは軍才のみあらず。
海北綱親の五男・海北友松は画家であり
海北派の始祖です。

海北友松は1533年に海北綱親の五男(三男説もあり)として生まれますが
幼くして仏門に入って、京の東福寺で禅の修行に励んだそうです。
この東福寺での修業時代に、日本絵画でも最大の画派である
狩野派で絵を学びます
師匠は狩野元信(かのうもとのぶ)とも狩野永徳(かのうえいとく)とも。

海北友松は浅井氏が滅亡し、兄弟も全員討死してしまうと
還俗して海北家の再興を目指したこともありました。
しかし再興は達成することができず、
むしろ豊臣秀吉にその画才を認められて武家としての再興は諦めて
画業に専念することにしたそうです。

海北友松の絵は中国の宋元画
特に南宋時代の宮廷画家・梁楷(りょうかい)の影響を受けつつ
独自の画境を開いたそうです。
有名な代表作は建仁寺の本坊大方丈障壁画
海北友松と親しかった安国寺恵瓊(あんこくじえけい)の依頼
描いた作品です。
絵のことはそんなに詳しくないですけど
私が見たことある海北友松の絵の中では
水墨画が印象に強く残っています
特に、龍を描いたものは迫りくるような迫力と存在感でした。
海北友松の絵は建仁寺のサイトにあるギャラリーのページでも見れるので
是非ご覧ください。

www.kenninji.jp

絵師として有名な海北綱親の息子・友松ですが
明智光秀の家臣とも繋がりが深かったことも
わりと知られているかも?
その家臣とは斎藤利三(さいとうとしみつ)です。

tsukumogatari.hatenablog.com

本能寺の変後の山崎の戦いでの敗戦を経て
捕縛され磔の刑に処された斎藤利三の遺体を
海北友松は槍を振いながら侵入して取り戻した
っていう話があったりもします。
後に、海北友松の息子・友雪は斎藤利三の娘・春日局(かすがのつぼね)より
褒賞を受けていたりしますから、
斎藤家にとっては縁も恩も深い人物だったのかもしれませんね。

2.赤尾清綱(あかおきよつな)

通称孫二郎
生年1514年。父は不明。
赤尾氏は近江の国人で、元々は近江守護の京極氏傘下。
海北綱親同様に浅井亮政の代から浅井氏に仕えた
海赤雨三将の一人です。
代々の当主からの信任は厚く、
それは浅井氏の居城である小谷城内に館を持つことが許されたほどです。
赤尾清綱の館は赤尾曲輪と呼ばれる防衛の要所だったそうです。

浅井久政が当主の時代には、1560年の六角氏との戦いにおいて
目覚ましい戦いぶりを見せた嫡男・浅井長政に惚れ込みます。
そして同様に長政への期待を強く持っていた遠藤直経と共に
久政の嫡男・長政への家督譲渡及び久政の強制退場(つまり隠居)を計画

tsukumogatari.hatenablog.com

浅井久政小谷城を出た隙に城を占拠して
浅井長政への家督譲渡を認めさせたのです。
浅井長政の代には老齢だったこともあって
軍目付(いくさめつけ)として陣中に赴いてたそう。
※軍目付は、戦場で兵士が勝手な行動をしないように見張ったり
戦後の論功行賞での一番槍や首実検などの確認をする役職。

また、浅井亮政の代に六角氏との攻防で一時越前に退避し
朝倉氏と同盟を結ぶことによって再起を図ったこともあって
赤尾清綱は浅井家中でも朝倉贔屓
朝倉氏に対しては大恩を感じていたことでしょう。
浅井氏の援軍には必ずといっていいほど朝倉軍がやってきますしね。

そのために、朝倉家とは信長の父・織田信秀の代から敵対的だった
織田家との同盟を結ぶことはあまり好意的ではなかったでしょう。
長政も朝倉と織田の関係から、一度は同盟を断ろうとするものの、
信長は朝倉へ攻撃をする際には浅井に相談するから、といって
長政を説得して婚姻同盟が結ばれました。
にも関わらず、
信長は相談することなく朝倉攻めを決行します。
そういった信義に反した行動も赦せなかったのでしょう、
織田につくか朝倉につくかで家中がもめた時は
当然の如く、古くからの盟友である朝倉につくことを主張します。
結局、浅井長政朝倉義景に味方をして信長とは手を切る決断をするのですが、
その結果浅井家は1573年の小谷城の戦いによって滅亡
赤尾清綱もこの時捕虜となって織田信長の前で切腹したとも
赤尾屋敷にて浅井長政、長政の弟・政元と共に自害したとも言われています。
享年60歳

ちなみに赤尾清綱の息子は、清綱のそれまでの働きと忠義に免じて
織田信長に命を許されています。
嫡男の赤尾清冬(あかおきよふゆ)は後に宮部継潤・長房父子に仕えていますし、
三男の赤尾伊豆守(あかおいずのかみ)京極高次(きょうごくたかつぐ)に仕えて
関ヶ原の戦いの前哨戦の一つ、大津城の戦いでは城をよく守り、
戦後の新しい封地では小浜城の築城で縄張りをして石垣の基礎を築いたりしています

3.雨森清貞(あめのもりきよさだ)

通称弥兵衛
信長の野望シリーズをやったことのある人だと
通称の雨森弥兵衛の方がしっくりくるかもしれません。
生没年、父も不明。
近江の伊香郡雨森城の城主です。
海赤雨三将のうちの「雨」にあたる人物という説があります。
なぜ説なのかは後程。

浅井久政浅井長政の2代にわたって仕えており
奏者を担当していたらしいです。
奏者っていうのは簡単にいうと大名への拝謁や
家臣や領民からの訴えを取り次ぐ役目なので
当主により近い位置にいた人物ということですね。

しかし海赤雨三将の中でも一番経歴が謎な人物で
この清貞っていう名前自体も本当に名乗っていたかどうかわからないそうです。

実はもう一人、
一字違いで森清定(あめのもりきよさだ)という人がいます。
この雨森清定の方が海赤雨三将の一人ではとも言われているのです。
同じく近江伊香郡雨森出身
生年は不明ですが、父は雨森良里と言われています。
詳しい事績がまったくわからないんですが、
没年が1587年7月2日ということなので
小谷城の戦いでは一族の多くが亡くなっている中でも
討死することなく、助命されたかもしくは逃げ延ることができたか。
従兄弟の森清良は1570年の姉川の戦いで討死しているとか
その弟の清次は家督を継いで後に阿閉貞征(あつじさだゆき)に仕えたとか
森清定本人以外の情報はそこそこあるという不思議(笑)
阿閉貞征といえば浅井氏から織田氏に寝返って浅井氏を窮地に陥れることとなった人物であり
本能寺の変後には明智光秀に味方をした一人です。詳しくはこちらをどうぞ。

tsukumogatari.hatenablog.com

4.「麒麟がくる」と信長の野望シリーズでの海赤雨三将

海赤雨の3人が揃って「麒麟がくる」出てくるかどうか。
過去の大河ドラマとかに3人とも登場したっていうことはあるんでしょうか。
赤尾清綱はわりと出てくるイメージあるんですが、
他二人ってどうなんでしょう。
赤尾清綱は特に朝倉派的な感じで家中が割れる時にも
登場しやすい気がするんですよね。
でも正直、この3人よりも「麒麟がくる」で登場しやすいのは
海北綱親の息子の海北友松じゃないのか?とか思ってます。
海北友松は明智光秀重臣である斎藤利三と親しい間柄
斎藤利三が磔にされた時はその遺体を奪い返しにいくほどです。
中心が明智光秀のストーリーですが、
斎藤利三明智家臣の中でも後半の主要登場人物の一人となるはずですから
その絡みで海北友松が登場して来たりするんじゃないかなって妄想を。

そして信長の野望シリーズでは海赤雨三将はいずれも登場経験がありますが
海北綱親と赤尾清綱は皆勤賞なのに雨森清貞(弥兵衛)は
将星録から革新までは登場していませんでした。(DCLでの追加はあったみたい)
そして天道からは復活して連続登場しています。
能力的には3人とも最近のシリーズは評価が高めで
海北綱親が軍事の人、赤尾清綱と雨森清貞はオールマイティな感じだけど
ちょっと政治もできる人って感じになってます。
古いシリーズだと3人とも武勇のみって感じでしたが。
それと、海北友松については武将としての登録経験はありません。
今後も難しいのかなぁ。
そして信長の野望・創造 戦国立志伝での三将の評価値はこちらです。」

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3人とも浅井家重臣として十分活躍できる能力値です。
ただし!
海北綱親、この人は最初から鎌刃城(かまはじょう)の城主なんですが
裏切りやすいです(笑)
浅井家以外でやる場合は、手っ取り早く城ごと味方にできちゃいます
つまり味方の場合は忠誠ほったらかしておくと
敵に寝返ってしまうっていう厄介な人です。
なんでこういう寝返りやすいパラメータ設定にしているのかは謎です。
裏切ったり寝返ったりっていう話は多分ないと思うんですけどね。

5.まとめ

今回は浅井家中でも海赤雨三将と称された
海北綱親赤尾清綱森清
海北綱親の息子で絵師として名を馳せた海北友松でした。
海赤雨三将と称されたわりには
3人ともあまり詳しい事績が資料に残っていないのは寂しいです。
主家が滅亡してしまったが故にっていうところなんでしょうかね。
海北友松は信長の野望シリーズに武将で出てきつつ、
たまに勝手に絵を書き出して売れたりしたら面白いのに(笑)

では今回はこの辺で。
ここまで読んでいただきありがとうございました!