歴史人物語り#73 元は浅井家臣、武勇に優れ人倫を弁えた二人の兄弟・新庄直頼、新庄直忠は天下人のお気に入り!?

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今回は元は浅井家臣、後に信長、秀吉に仕え
関ヶ原の戦いでは西軍について改易されるも
再び大名として復活した新庄直頼(しんじょうなおより)
その弟の新庄直忠(しんじょうなおただ)です。
麒麟がくる」での登場はあるのかどうか!?

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では今回のお品書きはこちらです。

また過去に紹介した「麒麟がくる」にちなんだ武将たち
以下の一覧記事にまとめてあります。

tsukumogatari.hatenablog.com

tsukumogatari.hatenablog.com

その他今までに紹介済みの戦国武将たちはこちから確認できます。

tsukumogatari.hatenablog.com

まだ読んでいない武将の記事がありましたら是非チェックしてみてくださいね。

1.新庄直頼(しんじょうなおより)とは

通称新三郎
1538年生まれ。父は新庄直昌(しんじょうなおまさ)

父の直昌は1549年第34代室町幕府管領細川晴元(ほそかわはるもと)
晴元を裏切って敵対する細川氏綱側についた三好長慶(みよしながよし)が争った
江口の戦い細川晴元の援軍として参戦するのですが
享年37歳という若さで討死してしまいます。
そのため、11歳という若年ながら直頼が家督を継ぐことになります。
また本城としていた近江の朝妻城を直頼が、
旧本城であった新庄城を弟の直忠が継いでいます。

1.1 まだ若き当主であった頃に仕えていた浅井氏家臣時代

新庄氏は元々将軍被官(要は将軍の官僚)の近江坂田郡を治める国人でしたが
幕府の権威は失墜しており、近江は北近江で力を付けてきた浅井氏と
南近江を長く支配していた六角氏が対立する中、
いずれにつくかで揺れていた時期があったそうです。
直頼が若年の間の新庄氏の動向がよくわかってはいませんが、
最終的には浅井氏についたようです。
1560年の野良田の戦いにおいて浅井長政が六角軍を撃破してからは
多くの国人が浅井氏に味方するようになったと言いますから
新庄氏もそれに従った可能性はありそうですね。
そして1570年の姉川の戦いでは、
新庄直頼は浅井軍として第4陣に部隊を構えています。
この時の第1陣は浅井家で常に先陣を切っていた浅井四翼の磯野員昌(いそのかずまさ)

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第2陣が、浅井長政宿老の一人浅井政澄(あさいまさずみ)

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第3陣が、浅井家重臣で要衝の守備を任されていた阿閉貞征(あつじさだゆき)

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その後に陣を構えており、その後方は本陣の浅井長政の本陣でしたから
この頃には既に浅井家中でも新庄直頼が有力な武将として位置づけられていたのでしょう。

しかし姉川の戦いの後に重要拠点であった横山城が織田方に奪われてしまい
孤立状態となってしまった佐和山城の磯野員昌が1571年に織田方に降伏すると
新庄直頼も攻めてきた織田軍の丹羽長秀(にわながひで)に降伏して、
朝妻城を開城します。
織田家に降ってからは、新庄氏は羽柴秀吉の与力となりますが
次第に秀吉の家臣として従うようになっていったようです。

1.2.秀吉家臣となってからは出世街道を走る

1582年織田信長明智光秀に本能寺で倒された際の新庄直頼の動向は不明。
しかし羽柴秀吉明智光秀を倒してから秀吉が一躍天下人候補として躍り出ると
従っていた新庄直頼も同時に表舞台へと立たされていくことになります。
1583年の賤ケ岳の戦いにおいては、近江坂本城の守備を任されており、
その功によって翌年に大津城1万2千石の知行を得ています。
この時には息子の直定にも知行1万2千石を分地されていたようなので
合わせると2万4千石。
直頼は秀吉に馬廻衆として取り立てられていますが
息子の直定は金切裂指物使番(きんのきっさきさしものつかいばん)という
金地の切れ端をたなびかせた指物を授けられた馬廻衆として取り立てられており
親子共々、秀吉から目をかけられていたことが伺えます。
その後、伏見城の普請を分担し1592年の文禄の役には息子・直定が朝鮮へ渡海しています。
1594年肥前名護屋城明の使節である沈惟敬(しんいけい)
秀吉に謁見した際には直頼は御酌通之衆として次室の末席に控えていたそうです。
そして同年10月に大和宇陀城へ移封した後、1595年には摂津高槻城へ移封となり
3万石に加増となります。この頃には秀吉の御伽衆(おとぎしゅう)にも列せられていたようです。

ちなみに豊臣秀吉の御伽衆についてはこんな感じです。

豊臣秀吉読み書きが不得手であり、それを補うべく耳学問の師として御伽衆を多く揃えた。『甫庵太閤記』によれば800人もいたという[4]。

秀吉の御伽衆で主な者は、富田左近、大村由己、佐久間不干(正勝)、金森法印(長近)、織田有楽斎、小寺休夢(高友)、寺西正勝、稲葉重通、猪子内匠、青木重直、新庄直頼、木下祐慶[5]、山岡道阿弥[6]、滝川雄利、生駒忠清、樋口石見守[7]、岩井弥三郎、万代屋宗安(もずやそうあん)[8]、住吉屋宗無[9]、今井宗薫、武野宗瓦、織田常真(信雄)、織田信重、宮部法印(継潤)、有馬中務法印(則頼)、桑山法印、西笑承兌古田織部、柘植大炊助、奥平信昌、中川宗半、前波半入[10]、板部岡江雪斎、山名禅高(豊国)、佐々木四郎、曽呂利新左衛門(伴内)、武田永翁[11]、足利義昭織田信包六角義賢六角義治佐々成政、山名堯熙、斯波義銀、赤松則房、細川昭元、などが挙げられる。

引用元:Wikipedia

1598年に秀吉が亡くなった際には遺物金10枚を受領しています。
また息子の直定は遺物景長の刀を受領しています。
秀吉には親子共々恩顧を受けており秀吉にとっても
豊臣を支える重要な家臣の一人として大事にしていたのでしょうね。
しかし、秀吉が亡くなってから新庄直頼は徳川家康へ接近するようになるのです。
この辺は世の流れをうまく見極める目を持っていたということなのでしょうか。

1.3.豊臣家への恩義か次の実力者徳川家康

秀吉には相当な恩を受けている新庄直頼です。
出世街道を走り3万石の大名となることができたのも
秀吉が目をかけてくれていたからこそ。
しかし、新庄直頼は秀吉が亡くなってからは徳川家康と昵懇の仲となります。
1599年に家康が上洛した際には加藤清正浅野幸長らと共に
家康の伏見屋敷の警護をしています。
このことも、二人の間柄に信頼関係を深く結ぶきっかけだったかもですね。

そして1600年天下分け目の関ヶ原の戦い
ここで新庄直頼は徳川家康の東軍に与しようとしていました。
しかし、新庄氏が治める周辺の諸大名は石田三成を始めとして全て西軍勢です。
直頼が東軍にここでついたところで、周囲から袋叩きにされるのは明らか。

新庄直頼、ここで思案を巡らせ策を考えます。
西軍にはつく立場をとるけど、東軍にはあまり影響がないように動こうと。
しかし、何もしないでいては周辺の西軍の諸将から疑われるだけかもしれません。
そこで、ちょうど会津征伐で留守にしている東軍・筒井定次(つついさだつぐ)の居城、
伊賀上野城を息子・直定と共に占拠してそのまま籠城します。
占拠後、石田三成からは西軍本隊と合流するように催促されるものの
伊賀上野が今後重要な戦略拠点になるから』と言い張って合流しようとしません。
一方で、城を占拠された報を聞いた筒井定次は伊賀に引き返して
兵を募り大軍を率いて奪取された伊賀上野城を取り戻しに帰ってきます
そもそも戦う気もあまりなかったかもしれませんが(笑)、
新庄直頼・直定父子は勝機なしと見切ると和睦をさっさと結んで城を退去するのです。
筒井定次は城を取り返した足で関ケ原へと向かっています。
戦略拠点になるならもっと抵抗してもいいはずですよね(笑)

さて戦後、西軍側として動いた新庄直頼・直定父子は改易となり
蒲生秀行(がもうひでゆき、蒲生氏郷嫡男)の預かりとなります。
ただこの時、蒲生氏には家康より
『新庄氏は止む無く西軍に与することになった。
蒲生氏も元は近江の者、同郷のよしみで敵としてではなく客人として扱うように』
みたいな通達をされたとそうです。
この時点ですでに新庄直頼と徳和家康の友好関係が
きっちり結ばれていることがわかります。
そして関ケ原の戦いから4年後の1604年に家康に召されて駿府に入り赦免を受けた後
江戸の徳川秀忠に拝謁して、常陸および下野2か国8郡、3万300石の知行を与えられ、
後に常陸麻生藩(あそうはん)を立藩します。
西軍側に与したにもかかわらず改易前とほぼ同じ石高で返り咲けたのは
家康との繋がりの深さが大きく影響していると思います。
また、直頼は文武に優れ人倫も弁えた人格者として名高い人物でした。
そもそも家康がそういう直頼の人柄に好感を持っていたということもあるでしょうね。

直頼は1613年2月8日、享年75歳で亡くなってしまいます
嫡男の直定が家督を継いで2代藩主を務めて
その後も脈々と新庄氏の血筋は明治時代まで続いていくことになるのです。

周り全てが敵になるかもしれない状況という逆境に立たされ
悩んだ結果、西軍についた新庄直頼。
しかしそれはやむを得ずという悲観的な理由のみではなく、
先の未来も見据えた上で、敢えて負けると想定する側につくことを選択したのかも
その選択でもしも東軍として動くことを選んでいたら
石田三成の西軍勢に囲まれて討死することになったかもしれません。
西軍本隊へ合流して関ケ原の戦い本戦にも西軍として戦っていたら
改易からの復活劇もなかったかもしれません。
一時的には本領を失うというリスクをとったのも
家康との繋がりに自信ががあったからなのでしょうか。
私なら果たして同じ状況で同じ選択をする勇気があるかどうか
ちょっと疑わしいです(笑)

1.4.直頼の父・直昌を討ち取った武将

ところで、冒頭で記したように父・直昌は江口の戦いで戦死しているんですが
その直昌を討ち取ったのが、三好方の武将で後に「早器居士(そうきこじ)」と名乗って
下総の円福寺に寄寓していた人物だという説があります。

iinumakannon.com

この早器居士のお墓が円福時の境内にあるんですが
昭和初期まではこのお墓は織田四天王にも数えられる
滝川一益(たきがわかずます)のお墓だと思われいてたらしいです。
滝川一益1586年に亡くなっているのに対して
早器居士は慶長年間(1596年~1615年)に存命していたということで
同一人物説はありえないんですが、
滝川一益は1525年生まれで1555年頃には織田家に仕えていたようですが
信長に仕えるまでの半生が不明なんですよね。
実は織田家に仕える前には三好家で槍働きをしている時代もあって
江口の戦いにも参戦、1586年には亡くなったと見せかけて
実は下総で生き長らえているっていう設定を何かしらの
創作物で使えないかなって思ったりしたって言う小噺でした(笑)

2.新庄直忠(しんじょうなおただ)とは

1542年生まれ。通称刑部左衛門
新庄直昌の次男で、新庄直頼の弟です。
父・直昌の死によって近江新庄城の城主となります。
当時まだ7歳です。
今の時代ならまだ小学生になりたての時期に
一城の城主にならないといけないこともあるのが戦国時代。
とはいえ自ら政務を執れるようになるまでは
家臣が後見役としてついていたのでしょうけれども
家臣や領民を背負う責任の重さをこれぐらいの年代で感じ始めるというのは
どんな気分なんだろうってちょっと思っちゃいますね。

さて、新庄直忠も若い頃の事績があまりよくわかっていません。
兄・直頼同様に、浅井家に仕えた後、織田信長豊臣秀吉と仕えていったのでしょう。
秀吉に仕えていた1583年には近江浅井郡に200石の所領を与えられていたようです。
その後1591年に近江蒲生郡250石、1593年に近江坂田郡300石と徐々に加増されたのち
1595年に1万900石増の1万4600石の大名に。
兄の直頼同様に、秀吉から厚遇を受けていたようです。
1592年の文禄の役では直忠自身も朝鮮に渡海しています。

そして秀吉が亡くなったとには病気と称して隠棲してしまったんですが
1600年の関ヶ原の戦いでは兄同様に西軍についたために所領は没収されてしまいます。
しかしこれまた兄同様に徳川家康と昵懇であったために、
後に赦されて近江坂田郡柏原で知行を得ています。
大坂の陣でも徳川方として活躍し、1620年2月28日に亡くなっています。享年79歳。

弟の直忠も、兄・直頼同様に文武に優れて人倫を弁えた武士と賞賛された人物です。
また、1591年には台風で倒れて枯死した
近江唐崎神社(からさきじんじゃ)の唐崎の松を植え替える
といった景勝の保存に尽力した
人でもあります。

hiyoshitaisha.jp

兄弟揃って人格者であり領主としても民衆から支持を得ていたことが伺えます。

3.「麒麟がくる」と信長の野望シリーズでの新庄兄弟

麒麟がくる」で新庄兄弟が登場するとしたら姉川の戦いぐらいでしょうか。
兄弟揃って出世をするのは秀吉の家臣となってからですから
本能寺の変よりも後の話。
本能寺の変を経て山崎の戦いまでが本編となる「麒麟がくる」では
なかなか登場の場を設けられる機会はなさそうです。

信長の野望シリーズではどうかというと
天翔記で新庄兄弟及び直頼の息子・直定、
さらには直定の息子・直好も初登場したようなんですが
そこから3シリーズは登場していませんでした。
蒼天録で新庄兄弟揃って復活するとそれからはずっと常連で登場中です。
直頼の息子・直定も戦国立志伝から復活しています。
兄弟共にシリーズ通して政治と武勇がちょっと高めっていう
微妙な感じの評価なのが少々不満(笑)
信長の野望・創造 戦国立志伝での新庄兄弟と新庄直定の能力値はこちらです。

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どちらかというと弟の方が総合的には若干上って感じですが
揃ってそれほどかわらない評価値です。
兄の新庄直頼はもう少し智謀も高くてもいいんじゃないかと。
直頼の息子・直定に関しては時代がちょっと後なこともあるので
これでもいいかなとは思うんですが、
直頼と直忠については今後少し評価を見直してほしいです!

4.まとめ

今回は浅井家から織田家に転身した後は三英傑に仕えた
新庄直頼新庄直忠でした。
新庄直頼と徳川家康囲碁の対局を愉しむ相手としても仲が良かったそうです。
元々馬が合うもの同士だったんでしょうね。
持つべき友は天下人、もしくは天下人になりそうな人!
天下人が親友ならなんだって赦してもらえる!
なんてことはないでしょうが(笑)
悪いこと促す友達よりも困ったときには助け船を渡してくれるような
良い友達が欲しいのはいつの時代も同じ。
もちろんそういう相手に友達になってもらうためには
自分自身も同様に魅力ある人物になっている必要があるでしょう。
人格者として多くの人からも認められていたからこそ、
直頼も直忠も徳川家康と良好な関係を結べたわけで
日頃の行いや鍛錬の積み重ねが大事なんだろうなっていうのを
改めて考えさせられたりなんかもして。

というわけで今回はこの辺で。
ここまで読んでいただきありがとうございました!