歴史人物語り#46 府中三人衆として有名だけど西美濃三人衆に加えて四人衆とも言われるわりにはちょっとマイナーな不破光治

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今回は柴田勝家の与力で府中三人衆の一人、不破光治(ふわみつはる)
西美濃三人衆に不破光治も加えて西美濃四人衆といわれることもあります。
麒麟がくる」に登場するかどうかは微妙なところ。

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では今回のお品書きはこちらです。

また過去に紹介した「麒麟がくる」にちなんだ武将たち
以下の一覧記事にまとめてあります。

tsukumogatari.hatenablog.com

tsukumogatari.hatenablog.com

その他今までに紹介済みの戦国武将たちはこちから確認できます。

tsukumogatari.hatenablog.com

まだ読んでいない武将の記事がありましたら是非チェックしてみてくださいね。

1.不破光治(ふわみつはる)とは

生年はわかっておりません。
通称太郎左衛門尉。父は美濃西保城主の不破道広(ふわみちひろ
父の道広は土岐頼芸に属して斎藤道三とも戦ったそうですが
子の光治は時期は不明ですが早くから斎藤道三に仕えたといわれています。
ただし、『美濃明細記』では道三が土岐頼芸を追放したことを不服として
織田信秀に支援を受けて道三を攻め立てようという軍議を開いた
という記述もあったりするので道三に対してはあまり良い印象はなかったのかも。
また美濃斎藤家に仕えていた時代に具体的にどんな事績があるのかは
よくわかららないんですが、西美濃三人衆の氏家卜全安藤守就稲葉一鉄
不破光治も加えて西美濃四人衆と呼ばれたりしたことを考えると
西美濃で有力な勢力の一つとして一目置かれていたのだと思われます。
西美濃三人衆は斎藤龍興の代で見切りをつけて織田信長に寝返りますが
不破光治は斎藤家滅亡まで斎藤家に属して織田家と戦ったと言われています

ちなみに西美濃三人衆は既に記事にしていますので
まだ読んでない方はこちらからどうぞ。

tsukumogatari.hatenablog.com

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1.1.斎藤家滅亡後は織田家

1567年稲葉山城の戦いによって斎藤家が事実上滅亡後、
不破光治は織田家に属しました。
一説では、浅井長政織田信長の妹・お市との婚約をまとめあげて
お市の方の輿入れの際には内藤勝介と共に供奉したとも言われています。
この話の信憑性はあまり高くないようですが、
西美濃三人衆に匹敵する勢力を持っていたとすれば
織田信長からも目をかけられていたことは疑いようがないでしょう。
西美濃三人衆も結果的に残るのは稲葉一鉄だけになるとはいえ、
数々の主要戦線に引っ張られていますからね。

1568年8月に当時越前の朝倉義景に庇護されていた
足利義昭の呼びかけに応じて織田信長が上洛を決めた際には、
和田惟政(わだこれまさ)
村井貞勝(むらいさだかつ)
島田秀満(しまだひでみつ)と共に
義昭を越前まで迎えに行ったそうです。
信長の上洛戦によって江北が平定されたときも立政寺(りゅうしょうじ)
待機していた義昭を迎えに派遣されています。
信長にとって当時足利義昭は大事な保護対象ですから
その迎えに不破光治が度々選ばれるということは
それだけ信頼があったということでしょうね。
決して使い勝手のいい使いっぱしりとかじゃないはず(笑)
その後は、下記に示すような織田家の主要戦線に参陣し活躍しています。

1.2.柴田勝家の与力、府中三人衆

1575年8月越前一向一揆が鎮圧されると
越前8郡は柴田勝家に任されることになります。
織田信長はこれ以降、北陸方面を柴田勝家を中心とした軍団による分割統治とします。
不破光治は越前府中の2郡を任されつつ柴田勝家の与力・目付も務めることになり、
同様の役目を与えられた佐々成政前田利家らと共に、
府中三人衆と呼ばれるようになります。
1577年柴田勝家を総大将とした加賀平定戦には
佐々成政前田利家ら府中三人衆勢ぞろいで参陣していますし、
1581年2月京都御馬揃えでも、勝家率いる「越前衆」の一人として参加しています。
ただし、越前を主拠点とした北陸方面への活動に縛られているわけでもなく
1577年2月から始まった紀州攻め(雑賀衆との戦い)
1578年11月の反旗を翻した荒木村重討伐のための有岡城の戦い
そして1581年9月第二次天正伊賀の乱でも動員されています。
1581年3月は北陸の越中・加賀へも出陣していますから、
北から南へ南から結構な距離を移動しながら戦場を目まぐるしく駆け回っています。
それだけ信長からも勝家からも重要な戦力としての信任が厚かったためでしょう。
決してパシリ的扱いを受けていたわけではないはず(笑)

不破光治の没年には諸説ありますが(1580年、1581年、1583年など
いずれにしても治めていた越前で亡くなったようです。
家督は嫡男の不破直光(ふわなおみつ)が継ぎました。

1.3.不破光治の子孫たち

前述のとおり、光治の家督は息子の不破直光が継ぎました。
柴田勝家に属して、父同様に府中三人衆の一人として立派に政務を務めあげていたようです。
1582年6月本能寺の変が起きてからは、北陸方面軍団長の柴田勝家に従い
賤ケ岳の戦いでは佐久間盛政(さくまもりまさ)隊に属して戦ったそうです。
しかし賤ケ岳の戦いで柴田勝家が敗れた後は前田利家に仕えて
1584年10月末森城の戦いでは先鋒を務めました。
※末森城の戦いは、織田信雄徳川家康連合軍に味方をした佐々成政との戦い
しかし直光は1598年8月15日に金沢で亡くなってしまったそうです。
生年が不明のため享年がわかりませんが
『医学天正記』の一文から察するに40歳ぐらいと思われます。
家督は直光の側室が生んだ光昌が跡を継いで、
子孫はその後も加賀藩士として続いたそうです。

2.「麒麟がくる」と信長の野望シリーズでの不破光治は?

麒麟がくる」で登場するかはなかなか微妙なところです。
足利義昭出迎えあたりでの絡みをつくってくれたりすれば
登場することもあるかも
ですが
光治は勝家と共に北陸方面での活躍が主となるので
明智光秀との接点がどうしても薄いんですよね。
序盤の美濃編でも機会はなさそうな気がしています。
利家とまつでは利家との絡みもあったのでわりと登場していたんですけどね。

信長の野望シリーズでは信長の野望・創造より以前ではあまり登場していませんでした
以前登場した際の能力値が低くて子孫からクレームがきて
登場させられなくなったとかいう噂があるみたいですけど(笑)
創造、戦国立志伝、大志では連続して登場しているので
今後も常連になりそうな気がします。
信長の野望・創造 戦国立志伝での評価値はこちらです。

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知略も70近いし軍事能力は申し分ありません。
特に戦法「怒号」は混乱した兵を一瞬で沈めてくれるため
城代や城主を任せてもいいけど自分の武将の副将としても使いたいです。
ちなみに息子の光直は出てきません。

3.まとめ

今回は府中三人衆であり西美濃四人衆とも言われた不破光治です。
斎藤家でも織田家でもそれなりに勢力があって活躍もしたっぽいのに
案外マイナー武将に分類されてしまいますね。
個人的には信長の野望シリーズに出てきた武将は
全員マイナーではないんですけど(笑)

では今回はこの辺で。
ここまで読んでいただきありがとうございました!