歴史人物語り#74 豊臣秀吉の側近は天下無双、猛将・吉川元春や島津家久とも対等に渡り合った宮部継潤はもっと評価されてもいいのでは

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今回は天下人・豊臣秀吉「天下無双」と言わしめた
軍略に長けたお坊さん武将の宮部継潤(みやべけいじゅん)です。
麒麟がくる」での登場はちょっと厳しいかな?

www6.nhk.or.jp

では今回のお品書きはこちらです。

また過去に紹介した「麒麟がくる」にちなんだ武将たち
以下の一覧記事にまとめてあります。

tsukumogatari.hatenablog.com

tsukumogatari.hatenablog.com

その他今までに紹介済みの戦国武将たちはこちから確認できます。

tsukumogatari.hatenablog.com

まだ読んでいない武将の記事がありましたら是非チェックしてみてくださいね。

1.宮部継潤(みやべけいじゅん)とは

通称善祥坊(ぜんしょうぼう)
1528年生まれ。父は土井真舜
近江の浅井郡宮部村の小豪族出身
9歳の時に比叡山に上り西堂の行栄坊で修行して継潤と称します
また20歳になって宮部村に戻り、
宮部善祥坊清潤の養子となって跡を継いだと言われています。
しかしその後、宮部神社を城塞化して自立し浅井氏の家臣に加わるんです。
お坊さんのままでいるよりも、戦乱の身に捧げようと思ったのは
どういった理由だったんでしょうね。
元々出世欲があったのかもしれないし
自分の才がどこまで通用するか見極めたかったのか。

1.1.浅井家から織田家へ転身し、羽柴秀吉の家臣に

浅井家臣となった宮部継潤は武勇に優れた武将として
織田信長との戦いでも活躍していました。
しかし、次第に浅井家が形勢不利となると
1572年に羽柴秀吉の調略に応じてそのまま与力となります。
寝返る際には浅井家に人質となっていた妻に暗号を送って脱出させるのを
成功させたとも言われていますね。
また宮部継潤が寝返った際の安全保障のために
秀吉は甥の治兵衛、後に関白となる羽柴秀次を宮部継潤の養子として送っています。
要するに事実上の人質ですね。
小谷城が落城して浅井氏が滅亡した後には秀吉に返されたようなので
それほど長い期間ではありませんが、この頃秀次は宮部吉継と名乗っていたようです。

さらに宮部継潤は寝返る証として国友城を攻撃しているのですが
銃撃を受けて負傷しています。
この時の国友城の守将の一人が以前紹介した
鉄砲衆の頭、野村直隆(のむらなおたかだったりします。

tsukumogatari.hatenablog.com

宮部継潤の寝返りの時期については
『浅井三代記』と『信長公記』で多少のずれがありそうですが
いずれいしても姉川の戦いでの敗戦をきっかけに浅井家を見限って
織田家へ寝返ることを考えていたのではないでしょうか。
元々浅井家に恩があって仕えているわけではありませんし、
そこは情勢を見極めて有力な方につくという考え方だったのでしょう。

また、宮部継潤の居城、宮部城は浅井氏の居城・小谷城を攻めるにあたって
重要な拠点の一つとなります。
織田信長にとってもこの宮部継潤の寝返りは非常に大きかったでしょう。
というのも、信長は1572年に小谷城の目の前500m程の距離にある虎御前山に
小谷城攻略のための砦を築いているんですが
この虎御前山城と羽柴秀吉が守る横山城姉川の戦いの後に手に入れた城)の
中間に存在するのが宮部城だったのです。
信長は宮部城と虎御前山城間の悪路だった道を軍道として整備させて
道路縁には高さ3mほどの築地を5kmにわたって築かせます。
さらにこの築地と浅井方との間には川をせき止めて水を流しいれることによって
味方の軍勢がより行軍しやすくしているのです。
※ちなみにこの築地、浅井井規(あざいいのり)率いる部隊によって破壊されそうになりますが
秀吉がすぐに応戦部隊を出して撃退しています。
つまり、宮部継潤の寝返りによって
小谷城包囲網が一段と進められることになり
1573年には小谷城は遂に落城、浅井家は滅亡してしまうのです。

1.2.秀吉の与力として中国攻めで大活躍

宮部継潤は秀吉の家臣の中では2番目の知行を得ていたといいますから
秀吉からの信頼は相当厚かったと思われます。
※ちなみに1番は蜂須賀正勝(はちすかまさかつ)
1577年からの中国攻めにも従軍しており、
その頃は秀吉の弟・羽柴秀長(はしばひでなが)従って
但馬方面の攻略で軍功
を上げています。
羽柴秀長が山陽方面に赴いた場合は、
代わりに山陰方面全体の指揮を執っていたそうですから
副指揮官的な役割として重用されていたのではないでしょうか。
1580年に山名氏を討伐した後に、但馬の豊岡城主として2万石を得ています。
また一度降伏した鳥取城が中国の覇者・毛利氏によって降伏し
毛利氏の吉川経家(きっかわつねいえ)が城主となりますが、
再度鳥取城を攻める際にも宮部継潤は最前線で戦っています。
鳥取城の援軍として駆けつけてきた吉川元春(きっかわもとはる)とは
何度も交戦し一進一退の攻防を繰り広げています。
吉川元春といえば、天下の謀将・毛利元就(もうりもとなり)の次男で
毛利家中でも勇猛果敢な武勇に優れた武将として有名な人。
そんな武将とやりあっても負けず劣らずの戦いを見せる宮部継潤ですから
武勇、軍略ともに優れていたのでしょう。
秀吉家臣だと、どうしても両兵衛の竹中半兵衛黒田官兵衛だったり
秀吉股肱之臣として有名な蜂須賀正勝にスポットが当たり勝ちですけどね。

1582年には山陰での戦功から因幡鳥取城代となります。
この鳥取城は前述のとおり毛利氏からの手が届きやすい城であり
最も攻撃される可能性が高い城です。
そこを任されたということは、宮部継潤が秀吉にとって
どれほど信頼に値する人物なのかというのが伺えます。
宮部継潤は、本能寺の変が起きた以降もこの鳥取城を任されることになるんですが
秀吉が中国から京へ引き返して明智光秀討伐に集中できたのも
宮部継潤が鳥取城でどっしり構えて毛利の動向を見張っていたから
といっても過言ではありません(たぶんw)

1.3.九州征伐小田原征伐にも参陣、そして晩年

秀吉が山崎の戦い明智光秀を破って天下取りへの一歩を踏み出すと
宮部継潤も鳥取城代から鳥取城主となり、5万石の大名となります。
1585年の佐々成正攻め、1586年の九州平定にも南条元続(なんじょうもとつぐ)や
亀井茲矩(かめいこれのり)、垣屋光成(かきやみつなり)といった
但馬平定において従わせた武将たちを引き連れて参戦しています。
九州攻めにおいては、根白坂の戦い(ねじろざかのたたかい)において
日向の高城(たかじょう)で島津家久(しまづいえひさ)率いる大軍勢を撃退し、
秀吉は宮部継潤の働きを「天下無双」と賞賛しています。
これらの戦いでも軍功をあげた宮部継潤は、
後に因幡但馬国内で加増されて5万971石の知行を得ます。
1590年には小田原征伐にも参陣しています。
この頃には嫡男の長房(ながふさ)に家督を譲っていたようですが隠居はしておらず
政務を動かしていたのは宮部継潤だったようです。
1592年の文禄の役では肥前名護屋に在陣
嫡男の長房は朝鮮への渡海を許されて八番隊として参加していますが
宮部継潤は渡海を許してもらえなかったとか。
この時既に60を過ぎた年齢でしたし秀吉としては体力や健康を考慮しての
判断だったのかもしれません。秀吉に大事にされていたんじゃないでしょうか。

1593年には豊後の大友義統(おおともよしむね)が改易されたのちに
豊後の検地を山口宗弘(やまぐちむねひろ)と共に担当し、
さらに同年因幡の巨濃郡蒲生郷荒井村に因幡銀山を開いて秀吉から
銀山の経営を任されています
※本来巨濃郡(このぐん)は垣屋光成の領内だったんですが、
秀吉はこの因幡銀山を
宮部継潤の直轄領として与えていたようです。
1594年には伏見城の普請にも参加していて、この頃には知行は8万石を超えていたようです。
そして1596年に高齢を理由に隠居
しかし秀吉からの信頼は厚かったため、その後も御伽衆の一人として
秀吉の相談相手を務めたり、政務に関わっていたそうです。

そして関ケ原の戦いの前年の1599年4月20日に亡くなっています
享年71歳。(享年64歳説も有り)

2.「麒麟がくる」と信長の野望シリーズでの宮部継潤

麒麟がくる」に宮部継潤が出てくる確率はなかなか低いでしょう。
浅井攻めにおていはとても重要な立ち位置にいる人物の一人なんですが
どちらかというと秀吉メインの話でなら登場しやすいという印象で
明智光秀がメインのストーリーでは登場機会を得られなさそう。
ナレーションとか伝令とかで名前が出てくるぐらいはありそうだけど(笑)
織田家臣になってからは中国攻めがメインですしね。

そして信長の野望シリーズにおいては
武将風雲録から常連武将として登場しています。
過去のシリーズでは智謀と政治は高め
軍事系はシリーズによってまちまちだけど
さほど高くは設定されていない印象です。
ただ最新の大志では、統率72だったり知略も80超えだったり
ちょっと評価が高めに見直されている傾向があるかもしれません。
信長の野望・創造 戦国立志伝だとこんな感じです。

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中国の覇者・毛利軍と互角に渡り合い、
九州攻めでは島津家の勇将・島津家久を撃退したほどなのに、
ちょっと物足りない評価値な気がします。
統率と知略はもっと高めでいいと思うんですよね。
と思っていたら大志で少し見直されたので、
今後は大志での評価値ベースであることを願います。

ついでに息子の長房の方も。

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父と比べてだいぶ評価が低いです。
関ヶ原の戦いで西軍につこうとしたときに、
うまく西軍側へ合流できずに
徳川の目付に拘束されて岡崎城に閉じ込められて
戦後所領を没収されちゃってる辺りが評価の低さの原因でしょうか。

3.まとめ

今回は豊臣秀吉の信頼厚く、天下無双とも言わしめた宮部継潤でした。
宮部継潤は関ケ原の戦い前年に亡くなってしまっています。
もしも関ケ原の戦いでも存命中だったら、
西と東どちらにつく選択をしたんでしょうね。
息子の長房は与力の木下重堅や垣屋恒総が既に西軍についていた事情もあったりして
西軍側につくことを決めた感じがありますが
宮部継潤が生きていたなら東軍についていた気もします。
豊臣に恩があるとはいえ、家名を残すための動くんじゃないかと。
西軍についたらついたで、
その軍略を如何なく発揮して
西軍を勝利に導いたかもしれませんが!

それから、宮部継潤って元は比叡山のお坊さんっていうのは最初に言いましたね。
織田信長比叡山の焼き討ちをおこなったのは1571年なんです。
もしも宮部継潤が還俗して武将になっていなかったら
被害に遭っていたのかも、とか思ったりもして
運命の分かれ道みたいなものの存在を
こういうところで感じたりしちゃいます。

では今回はこの辺で。
ここまで読んでいただきありがとうございました!