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歴史人物語り#95 梟雄・松永久秀の弟、松永長頼は兄より先に三好家中で出世を果たしたにも関わらず、早めに戦死したせいか兄の陰に隠れがち

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今回は戦国時代の梟雄として名高い松永久秀の弟
松永長頼(まつながながより)です。
松永久秀の方が後世は有名になっちゃったけど
実は久秀が三好家中でのしあがれたのって
この弟・長頼のおかげだとも言われてたりします。
麒麟がくる」では残念ながら出てこないでしょう。

www6.nhk.or.jp

ちなみに紹介済みの「麒麟がくる」にちなんだ武将たち
以下の一覧記事にまとめてあります。

tsukumogatari.hatenablog.com

tsukumogatari.hatenablog.com

その他今までに紹介済みの戦国武将たちはこちから確認できます。

tsukumogatari.hatenablog.com

まだ読んでいない武将の記事がありましたら是非チェックしてみてくださいね。

1.松永長頼(まつながながより)とは

通称甚介
生年不明、父もわかりません。
兄は茶器と一緒に爆死デマで有名な松永久秀
松永久秀自体が出自不明なので、
長頼の出自が不明なのも仕方ないところ。

出自にも説はいろいろあって
阿波、山城、摂津などなど。
山城説の場合だと、美濃の蝮こと、斎藤道三と同郷なのでは
なんていう説もありますね。
いずれにしても出自に関する決定打はないのです。

名前に関しては、後に丹波守護代内藤国貞の妻を娶り
内藤宗勝(ないとうそうしょう)と名乗っています。
この記事では松永長頼で統一します。

1.1.兄・久秀よりも先に出世をしていた松永長頼

松永長頼は有名な兄・松永久秀の陰に隠れちゃってるようで
実際はそんなことはないのです。
三好長慶に先に見いだされたのは
何を隠そう、弟の松永長頼の方なのです。

松永長頼は謹厳実直な人物で、
特に武勇に優れた武将でした。
性格は悪名高い松永久秀とは正反対。
※といっても久秀の悪名はデマで作られた可能性もありますが。
そして戦国の世ではやはり戦に強い武将は重宝されやすい。
兄の松永久秀
いわゆる権謀術数に長けた武将であり
三好長慶の右筆として
徐々に家中での地位を築きあがていきましたが
松永長頼の方は、
戦働きっていう目に見えて評価しやすいところで
確実に成果をあげて三好長家に見初められ、
しかも前述のとおり誠実な性格であったこともあり
早くから信頼をされていたようです。

松永久秀の出世は弟の松永長頼の七光り
とも言われているくらいですからね。
※もしかするとこれも松永久秀の計算なのかもしれない、
ていうのは買いかぶりすぎ?(笑)

1550年の中尾城の戦いでは
室町幕府軍(足利義輝細川晴元)の支援をしていた
近江の六角定頼の軍を牽制したり
翌年1551年には三好長慶暗殺未遂事件に乗じて
京都相国寺丹波衆を率いて陣取った
細川晴元家臣の三好政勝(後の宗渭)香西元成
兄の松永久秀と共に攻撃して見事敗走させています。相国寺の戦い)

tsukumogatari.hatenablog.com

1.2.三好長慶丹波の地を任される

松永長頼は丹波方面の攻略を三好長慶から任されており、
妻も丹波守護代・内藤国貞の娘を迎え入れています。

丹波は古来より京都の北西に位置した重要地です。
時の権力者も、播磨や大和と並び押さえておきたいと考える土地。
織田信長丹波を任せたのは
当時織田家中随一の功を挙げていた明智光秀です。
つまり松永長頼が丹波方面を任されるというのは
長慶からの信頼が相当厚かったことを示しているわけです。

1553年9月には兄・久秀と共に丹波へ遠征して
細川晴元方の波多野晴通(はたのはるみち)の八上城を包囲します。

しかし三好政勝と香西元成丹波に現れて
三好長慶方の丹波守護代・内藤氏の居城、
八木城を攻めて内藤国貞を討ち取ります。
八上城を包囲していた松永軍は急遽引き返して
奪われた八木城へ向かい、
奪還することに成功しています。

内藤国貞には子の千勝丸(後の内藤貞勝)がいましたが
松永長頼が奪還するまでの間、
内藤氏の家臣・湯浅宗貞(ゆあさむねさだ)
園部城で匿い、細川勢の攻撃を持ちこたえていました。
そして松永長頼が八木城を奪還すると千勝丸が家督を継ぎ、
同時に松永長頼がその後見役となっています。

1556年頃には「内藤蓬雲軒宗勝」と名乗っており
この頃には内藤氏を掌握していたのではないかと言われています。
後々、長頼が亡くなったあとに
長頼の息子・如安(じょあん)派と千勝丸派の間で
家督争いが起きているので、その見方も正しそうです。

1557年には三好長慶自身も丹波に出陣して
波多野晴通を降伏させており、
氷上郡を除く丹波を平定しています。
ちなみに氷上郡丹波の赤鬼・赤井直正のいる
赤井氏が治めていた地だったため、
支配下に入れるのは困難だったのでしょう。

tsukumogatari.hatenablog.com

1559年までには単独で裁決を下すようになっており
丹波は半独立国のような形で松永長頼が治めていたようです。
隣国の若狭国にも出兵して、
若狭守護・武田義統(たけだよしむね)に反抗した
逸見昌経(へんみまさつね)の支援もしています。

以後も三好政権における軍団長的立場として
1558年の北白川の戦い(足利義輝細川晴元率いる室町幕府軍との戦い)
1559年と1560年の河内遠征
1562年の教興寺の戦い紀伊・河内守護・畠山高政との戦い)
など数々の戦線に丹波国人衆を引き連れて参戦しています。

1.3.順風満帆でもなかった丹波統治

松永長頼は守護代・内藤氏の名跡も借りて丹波を統治するものの
国人衆の反発を抑えきれているわけではありませんでした。
そのため、1561年に若狭へ出兵した際に
越前の朝倉義景の援軍を得た武田義統軍に敗北したことで
波多野氏や赤井氏ら国人衆が蜂起。
そして1565年の8月2日、
丹波の赤鬼・赤井直正の居城・黒井城を

攻撃中に戦死してしまうのです。

ちなみに赤井直正兄・家清
1557年の松永長頼との戦いの傷が元で亡くなった
と言われているので
赤井直正からすると兄の仇を倒して
してやったりといったところでしょうか。

松永長頼の戦死の影響は大きく、
波多野秀治赤井直正らの台頭を許してしまう結果となり
松永長頼が戦死する前年には三好長慶も亡くなっていたため
三好氏は丹波からは撤退していくことになります。

松永長頼が戦死していなかったら
明智光秀と戦うことになっていたかもしれません。
兄の松永久秀が織田方に就いていることを考えると味方になったのかもしれませんけどね。

1.4.子供二人はキリシタン

松永長頼には嫡男の如安(忠俊)娘のジュリアがいました。
名前を見てのとおり、二人ともキリシタンです。

内藤如安キリシタンとしても茶人としても有名ですが
その生涯はなかなか波乱万丈。

長頼死後に発生した家督継承に関する内紛の結果、
内藤家の家督は貞勝がつき、如安は執政に
ただし三好氏の畿内の勢力が衰退した結果、
丹波に力を入れるほどの余裕がなく
内藤氏は三好氏の支援を受けれないまま
国人衆である波多野氏や赤井氏の攻撃に耐えられず
次第に領土は縮小していきます。

また、足利義昭織田信長と対立するようになると
足利義昭を支援
1573年の槙島城の戦いでは
内藤如安が2千の兵を率いて入場しています。
しかし、この戦いで織田信長に敗れた結果
内藤如安は執政の座を失い
京から追放された足利義昭
1576年に備後国鞆に幕府を移すと
これに従っています。

その後、1585年頃には
豊臣秀吉の家臣となっていた小西行長に仕えたそうです。
小西行長は如安を重用したようで
小西姓を名乗ることも許しています。
朝鮮出兵文禄の役では
小西行長と共に明との和議交渉の使者となって北京へ赴いています。

しかし小西行長といえば
関ヶ原の戦いで西軍についた将。
関ヶ原で敗れた小西行長は斬首されてしまい、
如安は肥前の大名・有馬晴信の手引きで平戸へ逃れて
その後、加藤清正の客将となります。

1603年には前田家に客将として4千石で迎えられています。
前田家には
同じくキリシタン高山右近(たかやまうこん)もいたので
二人で熱心に布教活動をおこなったり
教会建設に励んだそうです。

ところが、1613年に徳川家康キリシタン追放令を発布します。
これによって高山右近内藤如安、そして妹のジュリアも
マニラへ追放されてしまうのです。

ただしマニラでは手厚い歓迎を受けたそうで
日本人キリシタン町サンミゲルを築いたりしています。
そしてこの地で1626年に亡くなったそうです。

また内藤如安の縁で
八木城のあった船井郡旧・八木町とマニラは姉妹都市となったそうです。
その後、八木町が合併した南丹市姉妹都市提携をしているみたい。
戦国武将が繋いだ異国の地との友好関係っていうのも
なかなか面白い話です。

妹のジュリアは、丹波の国人の下に嫁いだそうでえすが
夫は1587年に死去したようです。(誰なのかは不明)
その後一度仏門に入りますが、
1595年にキリスト教に改宗しています。

ジュリアは大名夫人たちへの布教活動を積極的におこなった人で
前田利家の四女・豪姫(宇喜多秀家正室を改宗させています。

1606年には日本初の女子修道会ベアスタ会を京都に設立
しかし前述のとおり
キリシタン追放令によって
兄・如安と共にマニラへ追放されてしまいます。
配流後も日本人女性13名と聖ミカエル会を結成して
一生を神に捧げたのだそうです。
そして1627年、同地で亡くなっています。享年62歳

2.「麒麟がくる」と信長の野望シリーズでの松永長頼

麒麟がくる」では
残念ながら松永長頼は出てこないんじゃないかと思います。
明智光秀丹波攻略をまかされた頃まで存命であれば
登場機会もあったと思うんですけどね。

先に出世したのは弟の長頼の方なのに
後世に脚光を浴びるのは
その七光りで出世を遂げた兄・久秀。

なかなか三好氏が中心となるドラマも作られないので
松永長頼がスポットライトを浴びるようになるには
もう少し時間がかかるのか?
機会は少なそうですが、
息子の如安の方がもしかしたら登場するかもです。

そして信長の野望シリーズでは
松永長頼、全然登場していないイメージでしたけど
やっぱり登場していませんでした。

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創造、創造 戦国立志伝、大志と
最近は連続で登場していますから
今後は常連になるのかもです。
信長の野望・創造 戦国立志伝での松永長頼の能力値はこちら。

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軍事面での活躍が目立ったことから
武勇・統率は70超えと優秀です。
きっと戦死してなかったら
もっと高い評価値になっていたのかも。

ついでに息子の内藤如安の能力値も。

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如安の方は父とは逆に内政面での評価がされたようです。
キリシタン特有のスキルとか作ってくれたら
もっと使い勝手が拡がるかもしれないけど
そういうの無いんですよね(笑)

3.まとめ

今回は松永久秀の弟・松永長頼でした。
兄のインパクトが強すぎて
全然脚光を浴びれないのがちょっと可哀そうです(笑)
長頼は兄に負けず劣らずところか
ひょっとしたら兄よりも優秀だったかもしれません。
大河ドラマ三好長慶が主人公になるか
松永久秀が主人公にならないと
なかなか一般には知れ渡らないのかもしれません。
2022年の大河ドラマ
三好長慶でもいいんじゃないかな!?(笑)

では今回はこの辺で。
ここまで読んでいただきありがとうございました!