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歴史人物語り#81 「六角氏の両藤」「六角六宿老」と称された進藤貞治と進藤賢盛は信長の野望シリーズだと二人の能力差が激しすぎ

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今回は六角氏家臣で「六角氏の両藤」とも呼ばれた
進藤貞治(しんどうさだはる)
その子とも言われる進藤賢盛(しんどうかたもり)です。
麒麟がくる」に登場する可能性は低いですが
二人とも六角氏を支えた重臣なのです。

www6.nhk.or.jp

では今回のお品書きはこちらです。

ちなみに紹介済みの「麒麟がくる」にちなんだ武将たち
以下の一覧記事にまとめてあります。

tsukumogatari.hatenablog.com

tsukumogatari.hatenablog.com

その他今までに紹介済みの戦国武将たちはこちから確認できます。

tsukumogatari.hatenablog.com

まだ読んでいない武将の記事がありましたら是非チェックしてみてくださいね。

1.進藤貞治(しんどうさだはる)とは

1497年生まれ。父は進藤長久
進藤貞治は、六角高頼とその子、六角定頼に仕えた
六角氏の中でも重臣の一人。
後藤氏と並び「六角氏の両藤」と呼ばれたり
六角氏の中でもとりわけ重きをなした6人のうちの一人として
「六角六宿老」(六角六家老とも)と称さるほど。

ちなみに「六角六宿老」の他5名は
後藤賢豊(ごとうかたとよ)蒲生賢秀(がもうかたひで)
平井定武(ひらいさだたけ)三雲成持(みくもしげもち)目賀田綱清(めがたつなきよ)
蒲生賢秀についてはこちらの記事もどうぞ。

tsukumogatari.hatenablog.com

また、平井定武は北近江の浅井長政の烏帽子親をつとめた人であり、
娘を長政の正室に送り出しています。
浅井長政正室と言えばお市の方が有名ですが
その前の正室が、この平井定武の娘だったんです。
この婚姻は浅井久政外交政策の一環
六角氏と戦うよりも臣従することを選んだ結果なんですが
これが後に浅井長政自身の反発を生むことになりますが
それはまた別の話。

進藤貞治はとりわけ外交に手腕を発揮した人です。
第12代室町幕府将軍の足利義晴細川晴元の和睦の仲介を任されたり
豊後の大友義鑑(おおともよしあき、大友宗麟の父)との書簡のやり取り
その使者である臼杵鑑続(うすきあきつぐ)とは直に外交役として折衝するなど
多くの功績を立てたと言われています。

また、外交のみならず軍事においても1537年の法華一揆では
延暦寺に味方をした主君・六角定頼に従って上洛し
法華宗を打ち破る活躍も見せています。

そして1551年、享年55歳で亡くなっています。
信長の野望シリーズだとちょっと活躍時期が信長より前なので
信長誕生シナリオとかじゃないとあまり活躍できないのが残念な武将です。

ついでに進藤貞治が武功を上げた法華一揆についても
ここで少し触れておきましょう。

1.1.進藤貞治もその殲滅に加わった法華一揆とは?

法華一揆とは天文年間(1532年から1555年)に
日蓮宗と他の宗派の間で起きた宗教紛争です。
この一揆の呼称については、
日蓮宗側からだと「天文法難(てんぶんほうなん、てんもんほうなん)」
その他の宗派側からは「天文法華の乱(てんぶんほっけのらん、てんもんほっけのらん)」
などと呼ばれるそうです。

当時、京都では日蓮宗の寺院が勢力を張っており
日蓮宗の信仰が町衆にも広く浸透していました。
そんな折1532年、山科本願寺一向一揆勢が入京する噂が入ってきます。
山科本願寺勢は、京で実権を握っていた細川晴元と、
晴元と対立する三好元長とで争った飯盛城の戦いにおいて、
細川晴元軍から援軍として要請されて武装蜂起
戦にも見事勝利するのですが
その勝利の余勢を駆って大和へ侵入し
興福寺春日神社も襲撃していたのです。
その上さらに京都へも侵攻して法華衆を攻撃するのではないか
という噂が立ち始めたのです。
元々は山科本願寺の蜂起を依頼したのは細川晴元なんですが
この事態には晴元自身も手を焼いていました。
すると晴元方の摂津国人、茨城長隆による檄文もあって
日蓮宗徒の町衆(法華衆)が武装して法華一揆として蜂起します。
さらに細川晴元は蜂起した法華一揆勢と手を結び、
1532年8月下旬には法華一揆衆が山科本願寺へ布陣し包囲を開始、
山科本願寺の戦いが起こります。
この戦いによって寺町周辺を放火された山科本願寺
社坊一つ残らず灰となって落城
山科本願寺はここで消滅してしまいます。
この結果、法華衆は京市中の警衛といった自治権を得て
地子銭の納入を拒否するなど、約5年間にわたり京都で勢力を拡大
この法華衆の勢力拡大を他の宗派の立場からは「法華一揆」と呼ぶのです。

法華衆次に天台宗の総本山である延暦寺に対して宗教問答をしかけます。
延暦寺側もこれに応じるのですが
上総茂原妙光寺の信徒・松本久吉が延暦寺西塔の僧侶・華王房を論破してしまいます。
この論破された噂が一般宗徒に広まってしまったことから
面目を潰された延暦寺日蓮宗が「法華宗」を名乗るのをやめるように
室町幕府に裁定を求めます。
しかし、室町幕府側は1334年に下された後醍醐天皇の勅許を証拠として
日蓮宗の勝訴とし延暦寺はこの裁判においても敗れてしまうのです。

ここでもはや堪忍袋の緒が切れたのか
延暦寺京都法華衆の撃滅を決議
延暦寺の僧兵集団が大集結。
京都洛中洛外の日蓮宗寺院二十一本山に対して
延暦寺の末寺(まつじ、要は支配下に入れということ)となること、
上納金を払うことを要求します。
もちろ日蓮宗側はこの要求を拒否。
すると延暦寺側は法華衆討伐の許可を朝廷や室町幕府を求める一方で
当時中央での影響力を持っていた越前の朝倉孝景
敵対関係にあった他宗派に対してまで広く協力を求めるのです。
いずれも延暦寺への援軍は断るものの中立を保つことは約束しました。
そんな中で、延暦寺側に援軍を出してくれたのが近江の六角定頼だったのです。
進藤貞治はこういった経緯で法華一揆の殲滅に加わったのです。
ちなみに、延暦寺と六角氏総勢で6万人ほどの兵を動員しており
対する法華衆は2万といいますから、兵力差は圧倒的です。
延暦寺側の攻撃に備えていた法華衆勢も緒戦は有利に戦いを進めるものの
徐々に劣勢極まり、延暦寺・六角氏連合軍に敗戦
日蓮宗二十一本山はことごとく焼き払われ、
天文法難と呼ばれるほどの多くの法華衆人が殺害されたそうです。
特に、戦禍の舞台となった京都は
下京の全域および上京の3分の1が消失してしまい
兵火による被害規模は応仁の乱をも上回ったと言います。
この頃に住んでいた京都の人たちは災難としか言いようがありません。。。

この戦いによって京都の法華衆は壊滅、洛外へ追放となります。
また以後6年間京における日蓮宗の布教は禁止されるのです。

ちなみに1542年に六角定頼の斡旋で朝廷から京都帰還を許す勅許が再び降りて
1547年には六角定頼の仲介で延暦寺日蓮宗との間に和議も成立しています。
焼き払われた日蓮宗二十一本山のうち15の寺も再建されています。

それにしてもこの頃の仏教勢力が物騒すぎてびっくりしますが
当時は武装した僧兵を多く抱えた集団で、
日蓮宗は特に他宗派に因縁をつけては論破して騒ぎ起こしたりしていたとか。
現代のお坊さんからはちょっと想像できないですよね(笑)

2.進藤賢盛(しんどうかたもり)とは

生年不明。父は進藤貞治とも言われていますが進藤盛高の説も有ります。
いずれにしても進藤氏は、
近江の野洲郡から栗太郡、志賀郡にかけて勢力を張った国人衆であり
進藤貞治を始めとして、六角家中でも重きをなした氏族でした。
進藤賢盛も、後藤賢豊と共に「六角氏の両藤」と呼ばれて重用された人です。
六角義賢から「賢」の字の偏諱を受けているところからも
主君六角氏からの信頼の厚さや期待の大きさが伺えます。

進藤賢盛は軍事面だと
1560年の肥田城攻めや野良田の戦いなど浅井氏との合戦にも従軍していますし
外交面でも室町幕府との交渉を担当する役目を担っていたそうです。

ところが1563年に、「六角氏の両藤」の一翼である後藤賢豊が
主君・六角義治によって誅殺されてしまいます。(観音寺騒動)
※表向きは無礼討ちと義治は言っていたそうですけどね。
後藤賢豊は、家中でも人望が厚く長年六角氏に忠節を尽くしてきた功臣でした。
そんな忠臣が突如殺されてしまったことによって
家臣団の中で六角氏に対する不信感が増大します。
そして進藤賢盛は同じく不信感を持った他の家臣団と共に
六角義賢・義治父子を観音寺城から追い出してしまいます。
主君と対立関係となった進藤賢盛ら家臣団は
最終的には六角義賢・義治父子を匿っていた
蒲生定秀蒲生賢秀父子の仲介によって刀を収めて
六角義賢・義治父子は観音寺城に帰還します。

tsukumogatari.hatenablog.com

その後家臣の起草によりまとめられた六角氏の権限を縮小する「六角氏式目」には
進藤賢盛も連署しています。

観音寺騒動によってさらに衰退した六角氏は
足利義昭を奉じて上洛を目指していた織田信長に敗れてしまいます。
進藤賢盛は信長に臣従して、1569年の伊勢の大河内城の戦い
佐久間信盛の与力となって1573年の槙島城攻め、同年の一乗谷の戦い
その後の石山合戦等、多くの主要な戦線に参戦しています。
佐久間信盛は後に信長に難癖付けられて(笑)追放されてしまいますが、
進藤賢盛はその後も第二次天正伊賀の乱に従軍しています。

1582年に本能寺の変が起きて信長が討たれた後は羽柴秀吉に仕えており、
1584年の小牧・長久手の戦いにおいては
秀吉軍の別動隊に所属して蒲生氏郷と共に伊勢の伊勢峰城攻めに加わっています。
しかしその後どのような経緯を経て
いつ没したかといったことはわかっておりません。


3.「麒麟がくる」と信長の野望シリーズでの進藤貞治・賢盛

麒麟がくる」では「六角氏の両藤」も
登場機会はちょっとないかもしれません。
進藤貞治はちょっと年代が前になってしまいますし
進藤賢盛の方は六角氏が中心となるようなストーリーが
劇中にあるとは思えないので、難しい気がします。
観音寺騒動がちょこっと事件的に扱われて出て来たりすると
一瞬登場みたいなこともあるかもしれませんが。

信長の野望シリーズにおていは二人とも登場しています。
進藤賢盛の方は武将が登場するようになったシリーズの8作目、
蒼天録で初登場の後は登場していませんでしたが
創造で復活して最新作の大志でも登場しています。
進藤貞治は皆勤賞ではないんですが進藤賢盛よりも登場歴は多いです。

シリーズ通して能力的には進藤貞治の方が有能に設定されています。
進藤賢盛は能力は並み以下といった感じであまり評価されていませんね。
信長の野望・創造 戦国立志伝での二人の評価値はこちら。

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進藤貞治は外交力を評価されてか
政治高め、知略も若干高めとなっています。
六角氏の家臣は政治力高い武将が少ないので
数少ない有能な文官として重宝します。
ただし時代が・・・(笑)
進藤賢盛がなぜこんなに評価が低めな設定なのかは
よくわかりませんが(笑)、
観音寺騒動で主君にたてついたのがまずかったんでしょうか(笑)

4.まとめ

今回は「六角氏の両藤」「六角六宿老」と称された
進藤貞治進藤賢盛でした。
信長の野望シリーズだと
六角氏の家臣はあまり能力が高くないので苦労します。
進藤貞治が少し前の世代なこともあるんですけど
同じ近江の浅井氏と比べると全然質が違うんですよね(笑)
あとあんまり六角義賢と義治の顔グラが好きじゃないので、
六角氏で家臣プレイをしても
忠義を尽くせず裏切ってしまいます(笑)
見た目ってやっぱり大事だなって(笑)

では今回はこの辺で。
ここまで読んでいただきありがとうございました!