歴史人物語り#38 百発百中の弓のスペシャリストは90過ぎても戦場で大活躍、大島光義

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今回は弓のスペシャリストにして93歳という高齢でも
現役として戦場に赴いたという大島光義(おおしまみつよし)です。
麒麟がくる」には出てこないと思いますが、
マイナー武将に留まっておいてほしくない武将の一人です。

www6.nhk.or.jp

では今回のお品書きはこちらです。

ちなみに紹介済みの「麒麟がくる」にちなんだ武将たち
以下の一覧記事にまとめてあります。

tsukumogatari.hatenablog.com

tsukumogatari.hatenablog.com

その他今までに紹介済みの戦国武将たちはこちから確認できます。

tsukumogatari.hatenablog.com

まだ読んでいない武将の記事がありましたら是非チェックしてみてくださいね。

1.大島光義(おおしまみつよし)とは

通称甚六、鴉八などいろいろありますが
一番有名なのは信長に名づけられたという雲八(うんぱち)でしょう。
1508年2月7日生まれと言われているので
織田信長明智光秀よりも前の世代の武将ですが、
三英傑の世代でも長く現役生活を続けていた
今でいうなら武将の中でもレジェンド的な存在

大島光義は1512年に父・光宗が山県合戦で多くの家臣と共に戦死してしまい、
戦災孤児となったそうです。
その後は縁者の大杉弾正に育てられたといわれています。
13歳の時には美濃国人との争いの最中弓で敵を討ち取ったといわれており、
幼少のころから弓に関しては一級品の腕前だったようです。

そして光義は最初は長井道利の家臣として仕えていました。

tsukumogatari.hatenablog.com

織田信長の美濃攻略戦である関・加治田合戦にも従軍していて
百発百中と言われた弓の腕前を如何なく戦場で発揮しています。

1.1 60近い年齢で信長からスカウトされる

織田信長との戦いによって勢力を次第に落としていった長井氏が没落すると
1564年に光義はその弓の腕前を買われて
織田信長に召し出されて弓大将として取り立てられます。
ちなみにこの時、大島光義は57歳です。
ちょっと前の時代なら退職もすぐそばに見えてくるような年頃ですよね。
スポーツ選手ならとっくに現役生活終えちゃってるのが普通です。
相談役みたいなポジションでならまだわかりますけど、
弓大将ってことは、
足軽の部隊長として戦場を駆け回らないといけません。
信長の期待もさながら、光義のその強靭な体力に驚きです。
元メジャーリーガーのイチローさんとかサッカー選手のカズさんみたいに
レーニングも毎日欠かさずおこなっていたに違いありません!

さて、織田家の家臣となってからの光義は
信長の期待通り、
姉川の戦い、坂本の戦い、長篠の戦いなどで戦功をあげます。
坂本の戦いの時のその戦いぶりは特に信長を感心させたようで、
「白雲をうがつような働き」と絶賛し、
さらに「雲八」の名を与えるのです。
安土城矢窓切事の奉行(城内から矢を放つための窓を切る奉行)も任されたそうですから
弓に関しては腕も知識も認められていたのでしょう。

1.2 本能寺の変以後も現役生活は続く

1582年6月2日本能寺の変が起きた際、
光義は安土城にいましたがここに留まることに危機を感じたのでしょう、
妻子を連れて故郷の美濃への帰還を試みます。
国境を閉鎖した一揆勢と戦いながら無事帰還を果たしたといいます。
ちなみにこの時75歳ですよ。
弓の技術は既にスペシャリストの域でしょうが
近江から美濃までの道のりを戦いつつ周囲を警戒しながら進むには
ちょっときつい年齢じゃないでしょうか、普通に考えたら。
精神的にも体力的にもレジェンド級だったんでしょうね!

そして美濃に戻った大島光義、もう70代。
奥さんと一緒にゆったり余生を過ごしてもいい時期です。
しかし、戦国時代の定めか
光義の気力がまだまだ衰えていなかったのか
斎藤利堯(さいとうとしたか)に与して森長可と戦い、
加治田・兼山合戦では勝利を収めます。
※斎藤利堯は、斎藤道三の子どもで以前紹介した斎藤利治の兄にあたる人物です。
斎藤利治の要請によって美濃加治田城の城代を務めていました。

1582年7月16日に行われた清須会議
斎藤利堯が織田信孝(信長の三男)の与力となると、
光義は丹羽長秀に属します。
そして1583年の賤ケ岳の戦い(羽柴秀吉vs柴田勝家)に参戦
ここでも戦功を挙げて8千石または6千石に加増されたそうです。
賤ケ岳の戦いといえば、賤ケ岳の七本槍が有名ですが、
その加増量は七本槍よりも多いといわれていますから、
大活躍だったことは間違いありません、70代なのに(笑)
以後は豊臣家の家臣として、豊臣秀吉豊臣秀次に仕えます。

1.3 京都でレジェンドアーチャー誕生

ちなみに豊臣秀次に仕えていた時のエピソードとしてこんな話があります。
ある時豊臣秀次が大島光義の腕試しに
京都法観寺八坂の塔の天上の小窓に弓を射ってみろと命じます。

ja.wikipedia.org

八坂の塔は京都に旅行へいったことがある方なら目にしたことがあると思います。
京都法観寺にある五重塔の別称です。
夜のライトアップした姿が綺麗ですごく目立ちます。
秀次がなんでこんなことを命じたのかというと、
一応それも理由があるんです。
当時八坂の塔は京都におけるランドマークで、
大名たちがこぞってこの塔に旗を立てて自らの支配力を誇示したりしていたのです。
つまり、秀次も自身の権力を誇示するために光義に命じたのでしょう。
あんな高い所に弓矢を射かけられるぐらい俺はすごいんだぞ、
他のやつにできるのか?やれるもんならやってみろ、
みたいな感じで自慢したかったのかな?
でもやるのは大島光義なんだけど(笑)
さてこの八坂の塔って
高さどれぐらいあると思いますか?
なんと46mです。
50m近い距離のある場所へ、
しかも重力に逆らって矢を射るっていう
ちょっと無理難題、
権力者の我儘にも困ったもんです。
ところが大島光義、
10本射って10本とも小窓に命中させます。
秀次も手を叩いて喜んだことでしょうね。
しかし、この時既に80代の光義。
レジェンドを通り越して弓の仙人とか神様なのでは(笑)

1.4 弓のスペシャリスト、遂に大名になる

豊臣家の家臣としてその後も1590年の小田原征伐(北条攻め)に参加しています。
1592年からの朝鮮出兵でも弓手200人を率いて肥前名護屋城に在陣しています。
そして1598年には加増されて
美濃、尾張、摂津の領地合わせて1万2千石の大名となります。
遅咲きも遅咲き。
この時、光義は91歳です。
まさかこんな年で大名クラスの知行を得るようになるとか
考えてなかったんじゃないでしょうか。
いつ病気などで亡くなってもおかしくない年齢ですし、
出世欲とかも若い頃はあったにしても
この頃は無かったんじゃないでしょうか。

そして秀吉は亡くなり1600年
光義は、嫡男の光成とともに
徳川家康の号令で決まった会津征伐(上杉討伐)に従軍します。
光義93歳の時です。
この会津征伐での行軍中に石田三成が挙兵し
関ヶ原の戦いへと繋がるのですが、
光義は嫡男と共に徳川方につき東軍勢として戦います。
ここでも戦功を挙げたことから、
褒賞として家康から真壺(ルソン壺)と大鷲をあえたられて
さらに美濃で領地を加増されて1万8千石の知行を得たことによって
関藩が立藩
するのです。

1.5 97歳での大往生

戦いにその生涯を捧げ続けた光義は
1604年8月23日に亡くなったそうです。
享年97歳
この時代に100歳近くまで生きていられるっていうのは
本当にすごいですよね。
特に戦の傷が元で病気になって亡くなってしまう人も多い中、
生き残り続けられたのは、
光義の弓の技量の素晴らしさに加えて
生きる運も持ち合わせていたのでしょう。
弓の技量のみならず、その一生すべてがレジェンド
生涯53度の合戦に臨んで41通の感状を得たそうです。

ちなみに、光義が亡くなった後は家督は嫡男の光成が継いだのですが
光義の遺言によって所領を子供4人に分知したため
それぞれ1万石以下の旗本となり、
大島氏関藩は初代光義の代のみで廃藩となりました。
大名として残さなかったのは、
光義なりに分をわきまえていたからなのかなと思ったりもします。

2.「麒麟がくる」と信長の野望シリーズでの大島光義

麒麟がくる」で登場してくるかどうかっていうと
普通に考えたら登場しないんでしょうけど(笑)
長井道利の中でも弓を使わせたら一番の家臣みたいな感じで
出てきたりしたらいいですね。
明智光秀との関りが薄いとはいえ、
重要な合戦には織田家臣となってからも参陣していますから、
明智光秀と共に戦う場面を勝手に創ってももいいんじゃないですかね!(笑)

そして信長の野望シリーズでは、
こんなに長く戦国時代を生きた武将なのに一度も出てきていません。
宮本武蔵とか佐々木小次郎とか別に出さなくてもいいんで(笑)、
そういう剣豪メインみたいな人を出すぐらいなら
その前に大島光義を出してください、と言いたいです(笑)
ちなみに宮本武蔵とかをディスってるわけじゃありませんw

3.まとめ

今回は100年近い生涯を戦場に捧げた弓のスペシャリスト
大島光義でした。
超高齢社会でいつまで働き続けるかみたいなことが
話題になっている今の時代に希望を与えてくれる人物、
それが大島光義かもしれません(笑)
でも弓術っていう一つの特技を極め続けて、
大名にまでのしあがったその生き様は素直にカッコいいです。
ちなみに、弓だけが得意だったわけじゃないみたいですよ。
槍術も覚えて、覚えた上で弓の利点を実感、
さらに弓術のスキルをあげることができたとも言われています。
あと、ここではちゃんと紹介しませんでしたが、
放った弓矢が木を貫いて敵の首に当たったとかいう逸話もあるし、
ほかにもいくつか弓にまつわる逸話があります。
そんな大島光義の興味をもった方はこちらの小説もお勧めです。 

九十三歳の関ヶ原: 弓大将大島光義 (新潮文庫)

九十三歳の関ヶ原: 弓大将大島光義 (新潮文庫)

 

 これを読んだ人は、私の記事を読んだ以上に
大島光義っていう人物に惚れ込みます(笑)
それぐらい面白かったです。

では今回はこの辺で。
ここまで読んでいただきありがとうございました!