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歴史人物語り#37 おそらく一族が代々継承しているスキルは『家名存続』と『世渡り上手』、三英傑に仕えた隠れた名臣?市橋長利・市橋長勝父子

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今回は斎藤家に仕えた後は三英傑に仕えた後、大名にまで成長した
市橋長利(いちはしながとし)
その子・市橋長勝(いちはしながかつ)です。
麒麟がくる」では登場するのかどうか。

www6.nhk.or.jp

では今回のお品書きはこちらです。

ちなみに紹介済みの「麒麟がくる」にちなんだ武将たち
以下の一覧記事にまとめてあります。

tsukumogatari.hatenablog.com

tsukumogatari.hatenablog.com

その他今までに紹介済みの戦国武将たちはこちから確認できます。

tsukumogatari.hatenablog.com

まだ読んでいない武将の記事がありましたら是非チェックしてみてくださいね。

1.市橋長利(いちはしながとし)とは

通称九郎左衛門
美濃福束城(ふくづかじょう)城主。
後に剃髪して壱斎と号します。
1513年市橋利尚の子として生まれ、
最初は美濃守護土岐氏に仕えていましたが
斎藤道三が台頭してくると斎藤家に仕え、
道三、義龍、龍興の3代に渡って仕えました。
織田信長の美濃攻略戦においても
斎藤方として織田方と争っていましたが、
織田方が美濃で優勢な立場になってくると織田方に寝返ります。
織田方に寝返ってからは、美濃の他の豪族たちの調略に務めたといいますから
細かい事績は残されていないものの、
織田信長の美濃攻略戦において重要な働きをした一人なのではないかと思います。
その働きを認められたからなのかはわかりませんが、
美濃攻略後には織田信長直属の側近となり、
近江の浅井家との同盟交渉では取次役を務めたり、
伊勢攻略戦姉川の戦いなどでも戦功を挙げたそうです。

信長が信忠に家督を譲ってからは、信忠直属に編入されますが
以後も変わらず織田家に忠義を尽くします。

本能寺の変では、明智光秀には味方せず、
羽柴秀吉に属して明智勢と戦います。
命日は1585年3月3日享年73歳

その時々で時勢を見極めて
上手に戦国時代を生き抜いたうちの一人と言えるでしょう。
信長の安土城の茶会では参列を許されて
茶を信長から振舞われていたりするので
信長からの信任も厚かったと思われます。
その時の参列者は明智光秀だったり
以前紹介した武井夕庵(たけいせきあん)細川藤孝(ほそかわふじたか)
後に信長を裏切る荒木村重(あらきむらしげ)だったり
当時の信長股肱之臣が列していますからね!
ちなみに、武井夕庵と細川藤孝についても以前記事にしているので
まだ読んだことがない方は是非!

tsukumogatari.hatenablog.com

tsukumogatari.hatenablog.com

2.市橋長勝(いちはしながかつ)とは

通称は父と同じく九郎左衛門。後に下総守
1557年市橋長利の嫡男として生まれます。
父と共に織田信長に仕え、本能寺の変で信長が討たれて以後は
羽柴秀吉、後の豊臣秀吉に仕えます。
九州征伐小田原征伐、朝鮮に出兵した文禄・慶長の役など
数々の重要な戦役に従軍して豊臣家の忠臣として活躍していました。
しかし、やはり市橋長利の子です、
時勢を読むスキルを持ち合わせていたようです。
1600年関ヶ原の戦いでは徳川家康に与して東軍勢として戦い、
当時福束城の城主であった丸家兼利(まるもかねとし)を城から追い払います。
その戦功によって関ヶ原の合戦の論功行賞で今尾城1万石を加増、
初代今尾藩藩主となるのです。

そして1609年伯耆米子藩の藩主・中村一忠(なかむらかずただ)が亡くなり、
一忠に嗣子がなく改易となると、
1610年に長勝は伯耆矢橋へ移封となり2万3千石を領します。

1614年から始まった大坂の陣でも活躍して
1616年には後三条5万石へ加増移封されています。
逸話では大阪の陣の始まる前に堀の深さを測って
それを家康に報告したら家康がめちゃくちゃ褒めたらしいです。
こういう細かいけど重要な情報収集をしてちゃんと上司に報告するあたり
出世する術を心得ていますよね!仕事ができる人だ(笑)

そういうこともあってか、特に家康には信頼が厚かったようで、
家康の亡くなる直前には枕元に呼ばれて後事を託されたうちの一人です。
※他に枕元に呼ばれたと言われているのが、
家康から100万石の禄を与えるという御墨付を所有していた堀直寄
後にキリシタン弾圧を徹底的に行ったことで有名な松倉重政

その後1620年4月19日江戸で病死したと伝わっています。享年64歳

長勝には嗣子がなかったのですが生前からそれを心配していたようで
晩年は頻繁に老中に対して何度も嘆願書を送っていたようです。
それに加えて徳川家康からの信頼も厚かったことから
長勝が亡くなっても改易とはならず
甥で養子の市橋長政が跡を継いで
近江の仁正寺藩(にしょうじはん)の初代藩主となります。
その子孫は明治維新まで絶えることなく脈々と続きました。
市橋氏は世渡り上手な一族かもしれないから、
今日でもその一族の方たちはうまいこと世の中を渡り歩いているのかもしれません!

3.「麒麟がくる」と信長の野望シリーズでの市橋長利・長勝父子

麒麟がくる」で登場するとしたら、父の市橋長利
でも目立った活躍の記録がないので
ちょっと登場は難しいかなといったところ。
織田と浅井が同盟を結ぶ際にちょっと出てくるか
もしくは1578年の安土城における茶会のシーンがあったりすると
出てきちゃうかもですね。
この茶会には明智光秀羽柴秀吉も参列してますから
ワンチャンあるかもしれない!
息子の長勝はちょっと活躍した年代が異なるので厳しいでしょう。

逆に信長の野望シリーズでは父の長利は一度も登場してませんが
長勝はわりと登場しています。
戦国立志伝でも登場していて、その評価値はこちら。

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あまり評価はされていない模様(笑)
でも顔グラは結構勇ましく描かれていて、嫌いじゃありません。
知略はもうちょっと60超えぐらいにしてあげてもいいんじゃないのかなぁ。
関ヶ原の戦いの前哨戦で福束城を落とした功績は結構大きいと思うだけどなぁ。
目立った戦功あげて逸話残ってたりしていないと
評価されないのは仕方ないといえば仕方ないんですけどね。

4.まとめ

今回はきっと一族全員が世渡り上手スキルを持っている
市橋長利・市橋長勝父子でした。
天下人とか大大名みたいなクラスにはなれなくても
うまいこと大きな勢力に従って家を後々まで残すスキルは
子孫繁栄に繋がるとても重要なスキル!
家系が続いていったら、
後々には総理大臣とかなる人が出てくるかもしれませんしね!
みなさんも子孫繁栄に励むべし!(笑)

では今回はこの辺で。
ここまで読んでいただきありがとうございました!