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歴史人物語り#42 明智光秀、斎藤利三、長曾我部元親とも繋がりが深く本能寺の変での関わりも気になる将軍家の側近、石谷光政・石谷頼辰

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今回は本能寺の変四国征伐回避説を再燃させた『石谷家文書』で
有名な石谷光政(いしがいみつまさ)
石谷頼辰(いしがいよりとき)です。
麒麟がくる」でこの『石谷家文書』を参考にした脚本にするかどうかも
気になるところです。

www6.nhk.or.jp

では今回のお品書きはこちらです。

また過去に紹介した「麒麟がくる」にちなんだ武将たち
以下の一覧記事にまとめてあります。

tsukumogatari.hatenablog.com

tsukumogatari.hatenablog.com

その他今までに紹介済みの戦国武将たちはこちから確認できます。

tsukumogatari.hatenablog.com

まだ読んでいない武将の記事がありましたら是非チェックしてみてくださいね。

1.石谷光政とは

生没年はわかっていません。
通称は兵部大輔。出家して空然(くうねん)と号しています。
石谷氏は美濃国方県郡石谷を本貫地とする土岐氏の支流と言われています。
また石谷氏はもともと室町将軍家に代々仕えた奉行衆の一つで
光政は室町幕府第13代将軍足利義輝の側近として仕えていました。
※義輝の庶子ではなかとも言われているようですが、年代的に無理がありそうです。

光政は男子には恵まれず、同族の土岐氏支流明智氏
縁者・斎藤利賢(さいとうとしかた)の長男・頼辰(よりたつ)
養嗣子として迎えて長女と婚姻を結ばせています。
斎藤利賢といえば、明智光秀の宿老として有名な斎藤利三の父上です。

tsukumogatari.hatenablog.com

 さらにいうと、斎藤利賢の最初の正室は、蜷川親順の娘とされていますが
斎藤利賢はこの蜷川親順の娘とは離縁していいて、
後に石谷光政の正室となっています。
つまり養子となった頼辰は妹と結婚したってことでしょうか!?
なんかややこしい(笑)
それから、光政の次女は後に四国の覇者となる
長曾我部元親(ちょうそかべもとちか)正室です。
この辺の関係が、本能寺の変四国征伐回避説にも影響してきます。

光政が仕えていた義輝は松永久秀三好三人衆三好宗渭三好長逸岩成友通)に
1565年永禄の変で殺されてしまいます。
そのため、光政は娘の嫁ぎ先である長曾我部元親を頼って土佐へ渡り、
それ以後は長曾我部元親に仕えたそうです。
そのころ明智光秀の家臣となっていた石谷頼辰を介して織田信長との取次役も務めたとか。
亡くなった時期はまったくわかっていないようですが、
1584年付の書状に(石谷家文書にあり)空燃・頼辰の連名で宛名が書かれているので
この頃までは生存していたようです。

2.石谷頼辰とは

生年はわかっておりません。
通称孫九郎
石谷光正のところで少し触れたように
頼辰は美濃の斎藤利賢の長男で、弟が明智五宿老の斎藤利三妹が長曾我部元親の正室です。
つまり長曾我部元親は義理の兄弟になるわけですね。
また頼辰の娘は、長曾我部元親の嫡男・信親(のぶちか)の正室となっていますから
斎藤・石谷・長曾我部の三家はかなり濃い血縁関係だったと言えます。
それぞれの活動拠点は美濃・京都・土佐、と全然離れていますけどね。

頼辰は養父同様に将軍家に仕えます。
第13代将軍足利義輝が暗殺されても、土佐へ逃げた養父・光政とは共にせず
そのまま第14代将軍足利義栄(あしかがよしひで)
第15代将軍足利義昭(あしかがよしあき)に仕えた模様。
義昭が織田信長に敗れて京都を追放されてからは、
弟・斎藤利三のつてを使って明智光秀の配下となります。
中央政務に従事していた頼辰ですから明智光秀も重宝したことでしょう。
織田信長と長曾我部元親の関係が悪くなった時には
光秀の使者として長曾我部元親の下に出向いたそうです。
本能寺の変の際に従軍していたかはわかりませんが、
変後に山崎の戦い明智光秀が敗死すると
養父も身を寄せていた長曾我部元親を頼ったようです。
元親は頼辰の中央での経験を買って重用し、信親と頼辰の娘の婚姻も
近い親戚というだけでなく、頼辰への信頼もあってのことでしょう。
残念ながら、頼辰は、娘婿の長曾我部信親と共に
豊臣秀吉九州征伐中の戸次川の戦いで討死してしまいます。

3.石谷家文書によって注目をあびた本能寺の変四国征伐回避説

石谷家文書』(いしがいけぶんしょ)とは、
石谷光政または石谷頼辰、さらには斎藤家宛(斎藤利三)に宛に送られた
複数の手紙のこと指します。
これは岡山県岡山市にある林原美術館に保管されていたのですが
近年の研究によって歴史的意義の深い手紙が多数含まれていることがわかり
その中でも長曾我部元親が斎藤利三に宛てた手紙に注目が集まりました。

www.hayashibara-museumofart.jp

本能寺の変の要因の一つとして四国征伐回避説は古くから唱えられてはいました。
その説の所以となる織田信長と長曾我部元親を取り巻く状況について説明します。

3.1 織田信長と長曾我部元親を取り巻く情勢

織田信長は元々長曾我部元親に対して四国は切り取り次第として
四国の領有を自由にすることを認める朱印状を出していました。
これは当時、信長が阿波・讃岐・河内で勢力を保っていた三好家や
伊予の河野家と結んでいた毛利家と対峙していたために
三好・毛利両家の背後を脅かす存在として期待してのことです。
しかし次第に情勢はかわり、1580年頃になると信長と対抗していた
三好勢力も配下となっており、逆に元親の阿波侵攻によって
信長の陪臣が攻め立てられる状態になっておりました。
1575年頃から既に織田家に降っていた三好康長(笑岩)
本領である阿波の領地を元親によって奪われ、その旧領回復を訴えるとともに
元親に出した朱印状の方針撤回を羽柴秀吉を介して求めるのです。
こういった経緯があって、信長は阿波の領地半分を返還することを求めましたが
元親はこれを拒否します。
さらに信長は明智光秀を介して
土佐1国と南阿波2郡以外は全部返せという朱印状を出します。
明智光秀は家臣である斎藤利三石谷頼辰と長曾我部元親が縁戚関係であることから
長曾我部家との交渉を任されたのでしょう。
これが1582年の正月頃
この長曾我部家への説得は斎藤利三も、石谷光政を通じておこなっていたようですが
元親は縦に首を振りませんでした。
そのため、信長は四国征伐を実行に移すことを決めて、
三男の信孝を中心とした四国征伐郡の編成をおこなうのです。
ちなみに織田信孝率いる四国征伐軍が四国へ渡る予定だった日が6月2日
本能寺の変当日です。

3.2 『石谷家文書』から読み取れることは何か

四国征伐回避説はこの辺の事情から種々の説が唱えられています。
例えば、元親との交渉中に四国征伐に踏み切られたことで
光秀の面目がつぶれたために起こした怨恨説や、
元親との交渉でうまくいかず、政策面で羽柴秀吉に負けたことで将来が不安になって
本能寺の変を起こした説、などです。
長曾我部元親や斎藤利三が黒幕として積極的に四国征伐回避のために
明智光秀を動かしたなんていう説もありますね。
本能寺の変四国征伐軍渡海日が同日というのも、
この説を唱える上での大きな要因の一つでしょう。

石谷家文書』には決定的に本能寺の変の要因を
明確に裏付けるような資料はないそうです。
しかし長曾我部元親から斎藤利三に宛てられた手紙が四国征伐回避説を
裏付ける手紙になるのではないかと話が盛り上がりました。

その手紙の内容は、信長に対して一切従う気配を見せていなかった元親が
言われたとおり土佐1国および南阿波2郡のみの領有と上洛に応じるといったものです。
この文書の日付が1582年5月21日付本能寺の変は6月2日なので10日ほど前ですね。
元親が信長の言うとおりに従うと伝えているにも関わらず
四国征伐がこのまま行われてしまった場合、長曾我部交渉に失敗した光秀は
四国攻めのきっかけを作った羽柴秀吉、三好康長に政略的に負けたことになり
織田家での立場が弱くなるかもしれない、
その上、長曾我部元親に対する面目も光秀が失うことになるため、
本能寺の変に踏み切るしかなかった。
これを裏付けるのがこの長曾我部元親の手紙と言えるのではないか、
っていうことなんですが、どうなんでしょうね。
考えられなくもないなぁとは思うんですが、
感覚的には四国征伐回避だけでは要因としては弱い気がします。
本能寺の変はその後に一番得をしている人物、もしくはその人物に近しい人間が
計画したような気がしちゃうんですよね。
今回の記事の主役は石谷光政と頼辰なのでこれ以上の話はやめておきます(笑)
本能寺の変なんて説だけでとんでもない種類があるので(Wikipediaだと57説w
書けば書くほど話が終わらなくなりそうです(笑)

4.「麒麟がくる」と信長の野望シリーズでの石谷光正・頼辰

麒麟がくる」では現在配役の発表はありません。
登場するのかどうかもわかりませんが、『石谷家文書』で盛り上がった
四国征伐説を組み入れたりするのであれば後半のメインキャストになるかもです。
でも石谷光政・頼辰が登場するかということよりも、
本能寺の変に至るまでの経緯がどのように描かれるかというのが
やっぱり一番気になるところで、楽しみなところでもあります。
その上で石谷光政や頼辰がもしも劇中に登場してきたときは、
今回の四国征伐回避説の話を思い出してもらったりすると
2人がどう関係してくるかを楽しみながら観れそうです。
予想ではいろんな説を織り交ぜた脚本にするような気がするんですが。。。

それから信長の野望シリーズには、石谷光政も石谷頼辰も登場したことはありません
ちょっと今後も登場しない可能性は高い気がします。
足利家って現状でもそれなりに家臣がいるので
ゲームバランス的にあんまり増やさないんじゃないかと。
登場するとしたら2人とも内政重視のタイプになるのかなぁ。

5.まとめ

今回は明智光秀のみならず長曾我部元親とも関係の深い
石谷光政石谷頼辰でした。
石谷家文書』は長曾我部元親以外にも三好長慶小早川隆景といった武将に加えて
公家の近衛前久などからも送られた手紙が含まれており、全47通あるそうです。
石谷氏が幕臣であったことから、こういった高名な人物ともやり取りが多く
おこなわれていたということでしょうか。
石谷光政・頼辰もひょっとしたら本能寺の変に関わっていたのかも!?
ちなみに下記の書籍を読むと、『石谷家文書』も含めて本能寺の変
明智光秀の人物像をよりイメージしやすくなるので興味持たれた方にはお勧めです! 

石谷家文書 将軍側近のみた戦国乱世

石谷家文書 将軍側近のみた戦国乱世

 
明智光秀: 史料で読む戦国史

明智光秀: 史料で読む戦国史

 

 では今回はこの辺で。
ここまで読んでいただきありがとうございました!、