歴史人物語り#55 朝倉一門の中でも筆頭格、敦賀郡司職を継承した朝倉景紀とその子・景垙と景恒、彼らが辿った悲しい末路から学ぶべきものは?

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今回は第10代朝倉氏当主・朝倉孝景の弟であり、
朝倉宗滴の養子であった朝倉景紀(あさくらかげとし)
その子の朝倉景垙(あさくらかげみつ)
朝倉景恒(あさくらかげつね)です。
宗滴より敦賀郡司職を引き継いで朝倉氏一門の中でも
敦賀郡司家と呼ばれる名門の家柄ですが、
後の朝倉家滅亡への引き金を引いた家系でもあります。
麒麟がくる」で登場するとしたら朝倉一門の一悶着が見れるかも!?

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では今回のお品書きはこちらです。

また過去に紹介した「麒麟がくる」にちなんだ武将たち
以下の一覧記事にまとめてあります。

tsukumogatari.hatenablog.com

tsukumogatari.hatenablog.com

その他今までに紹介済みの戦国武将たちはこちから確認できます。

tsukumogatari.hatenablog.com

まだ読んでいない武将の記事がありましたら是非チェックしてみてくださいね。

1.朝倉景紀とは

通称九郎左衛門
1505年第9代朝倉氏当主・朝倉貞景の4男として生まれます。
つまり第10代朝倉氏当主の朝倉孝景の弟です。
景紀は朝倉家の軍奉行であり敦賀郡司職であった朝倉宗滴の養子となって
宗滴に付き従う形で各地を転戦し、宗滴に負けず劣らず武勇を発揮していました。
一方で、和歌や連歌なども嗜む文武両道の人であったとも伝わっています。

tsukumogatari.hatenablog.com

1527年には京都から追い出されていた第12代室町幕府将軍・足利義晴
管領細川高国の要請によって宗滴と共に1万の兵を引き連れて上洛。
川勝寺口の戦いにおいて三好元長率いる堺公方軍を撃退して京都奪還を成功させます。
ただし、1528年に宗滴と細川高国の不和が原因で朝倉軍が帰国したことによって
主力を失い、和睦交渉にも失敗した足利義晴細川高国は再び京都から近江へ逃げています。
1531年の享禄の錯乱(きょうろくのさくらんにおいても宗滴と共に加賀へ出陣しています。
そしてこの頃に、宗滴から敦賀郡司職を受け継いだようです。
敦賀郡司職は、その後1558年頃に嫡男の・景垙へ譲りますが
その後も敦賀郡司家の代表として軍事行動をおこなっていました。
特に若狭国での叛乱の介入を頻繁にしており、
1561年には若狭守護の武田義統(たけだよしむね)の要請で
叛乱を起こした逸見昌経(へんみまさつね)の討伐軍の総大将として出陣し、
これを鎮圧しています。
また、1563年から1568年にかけて若狭国三方郡粟屋勝久(あわやかつひさ)と戦い、
刈田狼藉(かりたろうぜき)も数度行っています。
※この辺の話は、後々逸見昌経や粟屋勝久の記事の時にもう少し詳細に書く予定です。

しかし若狭国への介入の裏で事件が起こっていました。
1564年9月朝倉義景が加賀侵攻のために軍を結成するのですが、
この時に嫡男の景垙が大野郡司の朝倉景鏡(あさくらかげあきら)
総大将争いで敗れて
自害してしまいました。
敦賀郡司は弟の景恒が継承
これに憤慨した景紀は景垙の子を連れて自領へ隠居してしまいます。
そしてそれ以降、景紀と景鏡の仲は険悪になり、
足利義昭一乗谷入りした際にはその席次を巡って争ったりするほどだったとか。
この敦賀郡司朝倉氏と大野郡司朝倉氏の対立によって朝倉家中の絆が崩れ始め
後々の朝倉家滅亡の遠因となったと言われています。

さらに景紀には追い討ちをかけるような事態がまたしても身内に起こります。
1570年4月に織田信長が越前に侵攻してきます。
この時、金ヶ崎城を守っていたのが景紀の次男・景恒だったのですが
織田軍の猛攻に耐え切れず降伏勧告を受け入れて開城してしまいます。
この降伏したことを他の一門衆から責められまくった景恒は
1570年10月20日に亡くなってしまうのです。
敦賀郡司職も廃止されてしまい、
1572年6月11日に景紀は無念を残したまま亡くなってしまったそうです。

ちなみに景紀の娘は織田信忠の直臣、福富秀勝(ふくずみひでかつ)の正妻なんですが
本能寺の変で信忠と共に二条城で討死しています。

親子も義理の息子も、いい死に方をしていないのがちょっと可哀そう。。。

2.朝倉景垙とは

通称孫九郎。生年は不明ですが、朝倉景紀の嫡男として誕生します。
1558年頃に父・景紀から敦賀郡司職を譲られています。
景紀が出陣した1561年の逸見昌経の叛乱鎮圧や、1563年の粟屋勝久攻めにも
父と共に出陣し、功を挙げたそうです。

景垙の父・景紀は第10代朝倉氏当主の朝倉孝景の弟ですから
第11代当主となった朝倉義景とは従弟の関係です。
そのため一門の中でも筆頭格扱いの家柄に生まれているのです。
おまけに敦賀郡司職を任されていたこともあり、
朝倉家の中でも名門としての自負があったことでしょう。
しかし、そういうプライドもあってのことか
大きな事件を起こしてしまいます。

1564年に当主・朝倉義景が加賀への侵攻を決意します。
その侵攻戦の大将に朝倉景鏡と朝倉景隆を任命して9月1日には加賀へ攻め込みました。

※朝倉景隆については前回紹介済み

tsukumogatari.hatenablog.com

この時、景垙は総大将を希望するものの義景はそれを退けます。
そして9月2日の加賀の陣中において
総大将の一人である朝倉景鏡と口論となり、
要は口喧嘩なんでしょうけど、景垙は負けてしまいます。
負けて終わったばかりでなく、なんと自害をしてしまうのです。

死ぬほど悔しいってよっぽどですよね、そこまでの悔しさを感じたことないなぁ。。
この異常事態を収めるために、義景は自らが総大将となって
加賀侵攻自体は成功します。
しかし、父・景紀の章で記したように
この事件から敦賀郡司朝倉家と大野郡司朝倉家は激しく対立するようになるのです。

ちなみに景垙には息子の七郎がいましたが、
まだ2歳という若年だったため、弟の景恒が敦賀郡司職を継承しています。
七郎は、景紀が隠居と同時に自分の領地へ連れていきましたが
その後敦賀に戻ったらしいのですが朝倉氏滅亡以降の消息はわかっていないようです。

3.朝倉景恒とは

生年は不明ですが朝倉景紀の次男として生まれます。
次男だったこともあり出家して松林院鷹瑳(しょうりんいんようさ)と名乗っていました。
ところが1564年に兄・景垙が加賀の陣中で朝倉景鏡と口論の末、
自害してしまうという事件が起きます。
兄・景垙の息子・七郎がまだ2歳だったということもあって
還俗して景恒と名乗りを改め、敦賀郡司職も継承します。

1566年9月には越前に上洛の助力要請にきた足利義秋(後に義昭)を敦賀で迎えて
翌11月まで歓待したそうです。
この際に、義秋から中務大輔に任ぜられたそうです。
しかし、敦賀から義秋が一乗谷へと移ると
兄の自害事件以来犬猿の仲である朝倉景鏡と席次を巡って父と共に争っています。
足利義昭も、そういう一門同士のいざこざも目の当たりにしてダメだと思ったかもしれない?(笑)
1568年7月には朝倉義景を見限って、義昭は織田信長のいる岐阜へ向かうのですが
この際に景恒は前波景当(まえばかげまさ)と共に2千の兵を率いて近江まで警護をしています。
同年8月には当主・義景の命で若狭へ攻め入り小浜まで侵入した後
武田氏の跡継・武田元明を捕縛して一乗谷へ連行する功を挙げます。

しかし1570年4月織田信長が越前侵攻を開始。
景恒が守る金ヶ崎城へも織田軍が攻めかかります。金ヶ崎の戦い
景恒は籠城して必死に食い止めようとするものの、
そもそも織田軍3万に対して、城兵4500という圧倒的兵力差。
織田軍の苛烈な攻撃に耐え切れず
4月26日に景恒は降伏勧告を受け入れて開城してしまいます。
ただし、この金ヶ崎の戦いでは浅井長政織田信長を裏切って
朝倉軍の援軍として向かっており、金ヶ崎城を落としたものの
織田軍は命からがら撤退するとう事態に陥っています。
朝倉軍とすれば織田軍に大打撃を与えた善戦だったと言える中、
一方で降伏してしまった景恒を
一門衆は不甲斐無い奴だと非難の嵐を浴びせまくった
そうです。
景恒はメンタルが弱かったんでしょうか、
耐え切れなくなって永平寺に遁世し、
9月29日に失意の中、亡くなってしまったのです。

4.「麒麟がくる」と信長の野望シリーズでの敦賀郡司朝倉氏

麒麟がくる」では登場するかもしれないですね、親子3人とも。
毎回言ってますけど、明智光秀の朝倉家臣時代をどれぐらいのボリュームで
描かれるのかとかが関係はしてくるんですけれども、
足利義昭が越前を訪れた時に、景紀と景恒は朝倉景鏡と揉めてるので
その辺が描かれる可能性は高いかもしれません。
特に、義昭が朝倉家を見限って織田家に助成を求めるようになる
経緯の一つみたいな感じで
義昭が直接的に言わずとも
そう思わせる節を見せるシーンがあったりしするかなぁ、
なんて思ったりしています。
また、義昭が訪れた際の揉め事の伏線として景垙自害の話も
ちょっと語られたりするかもしれないですよね。
金ヶ崎の戦いもある意味景恒が主役ですし(笑)、
この親子はわりと登場機会がある方かもしれません。

そして信長の野望シリーズでの景紀親子は
父の景紀のみ登場しています。
朝倉家の家臣そんなに有能な評価されている人いないから
登場させてもいい気はするんですが(笑)
景紀は天翔記が初登場で1つ飛ばされてから烈風伝から常連武将となってます。
評価値はだんだんあがってきている感じです。
といっても。政治系普通、軍事系ちょっと高めっていうぐらいですけどね。
信長の野望・創造 戦国立志伝での評価値はこちら。

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悪くはないけど、そんなに良くもない。
でもまぁ家臣としては使えなくもない。
城代とかにするとわりと成長が早いので
任せられる城があったら任せちゃって
成長してもらうのも手かなと思います。
軍事系が60超えてるのでわりと早く70到達します。

5.まとめ

今回は朝倉一門の中でも名門の敦賀郡司職を継承していた
朝倉景紀とその二人の子、景垙景恒でした。
景垙の自害事件をきっかけに一族全員不幸な死に方をしているし
大野郡司の朝倉景鏡と揉めたことがきっかけで
朝倉家の結束もほどけちゃって滅亡しちゃうし。
景垙があそこで一度我慢することが出来ていたら
朝倉家の命運も変わったいたのかどうか。。。
結局はどっちにしても織田家に滅ぼされていたかもしれませんが(笑)

では今回はこの辺で。
ここまで読んでいただきありがとうございました!