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歴史人物語り#56 兄と仲違いで謀叛を企てた父・朝倉景高、従兄弟との口論がきっかけで最終的に宗家を滅ぼした長男・景鏡、そして父とも兄とも違う道を選んだ三男・在重

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今回は朝倉一門であり、大野郡司を務めた朝倉景高(あさくらかげたか)
そして景高の息子二人、
朝倉景鏡(あさくらかげあきら)
朝倉在重(あさくらありしげ)です。
前回はあることをきっかけに景鏡と犬猿の仲となった
敦賀郡司の朝倉景紀(あさくらかげとし)親子を紹介しましたが
今回の記事で両者の朝倉家での立場の違いなどが少し鮮明になると思います。

tsukumogatari.hatenablog.com

 いつもよりちょっと長くなるので
せめて親と子で2回に分けようかとも思いましたが
続けて読んでもらった方が繋がりを感じてもらえると考えて
結局親子3人一纏めにしました。
麒麟がくる」では景鏡は登場するんじゃないでしょうか。

www6.nhk.or.jp

では今回のお品書きはこちらです。

また過去に紹介した「麒麟がくる」にちなんだ武将たち
以下の一覧記事にまとめてあります。

tsukumogatari.hatenablog.com

tsukumogatari.hatenablog.com


その他今までに紹介済みの戦国武将たちはこちから確認できます。

tsukumogatari.hatenablog.com

まだ読んでいない武将の記事がありましたら是非チェックしてみてくださいね。

1.朝倉景高とは

通称次郎左衛門
1495年第9代朝倉氏当主・朝倉貞景の次男として売れます。
第10代当主・朝倉孝景の弟です。
息子の景鏡を生んだのは側室なんですが
公家で権中納言・烏丸冬光の娘ということで
名家の娘を奥さん、しかも側室にしているというなんと贅沢な!(笑)
また、1527年頃から大野郡司を務めていたそうです。
朝倉景高は武勇に優れた人物だったようで
1519年7月から介入した美濃土岐氏守護職争いにおいては
庇護していた土岐頼武(ときよりたけ)を保護しながら美濃へ入国し、
9月14日のの正木合戦、10月10日の池戸合戦で連戦連勝
土岐頼武の守護職就任に貢献します。
ちなみに土岐氏守護職争いについては以前紹介した土岐頼芸の記事を
読むとさらに理解が深まると思います。

tsukumogatari.hatenablog.com

1536年の土岐頼武の跡を継いだ頼純(よりずみ)と頼芸の対立によって生じた
美濃国内の混乱にも関与しており、この際に大野郡穴間城を攻略しています。

しかし、この頃から景高は兄・孝景と仲が悪くなっていきます。
一説では父の遺領を巡って争っていたとも言われていますが
孝景に大野郡司を罷免されたことをきっかけとして
景高は越前を出奔します。

この兄弟の関係悪化は、隣国若狭の守護武田氏との領土争いも絡んできて、
後に楊弓会事件(ようきゅうかい)と呼ばれる事件が起きるのです。

1.1.景高、幕府高官と小弓で遊びながら謀叛を計画、でも失敗に終わる

お互いの領土を巡って牽制しあっていた越前朝倉氏と若狭武田氏の両者は
相手家中の造反を狙う工作をおこなっていました。
1538年には若狭守護・武田信豊に対して従兄弟の武田信孝が反乱を起こすと
武田家中を内紛で勢力を削ぎ落したい朝倉孝景は武田信孝を支援します。
一方で、武田信豊本願寺と同盟を結んで西の若狭と東の加賀から
越前の朝倉氏を挟み撃ちにしようとします。
この2年後の1540年に景高は越前を出奔します。
越前を出奔した景高は、政所執事の伊勢貞孝(いせさだたか)の京屋敷で
開かれていた楊弓会(遊戯用の小さな小弓である楊弓を楽しむ会)に
内談衆の本郷光泰と共に出席していました。
この楊弓会の出来事を当時の室町幕府将軍・足利義晴の耳に届くのです。
※ちなみに伊勢貞孝は以前紹介した明智光秀の家臣・伊勢貞興の祖父です。

tsukumogatari.hatenablog.com

この出席者の伊勢貞孝と本郷光泰は二人とも幕臣ですが
若狭武田氏とは密接につながっていました。
伊勢貞孝は若狭武田氏の申次(もうしつぎ)という外交官的役割であり、
本郷光泰の務めていた内談衆とは訴訟や裁判の審議官
当時の裁判といえば所領や年貢に関わるものです。
つまり二人は幕府内では若狭武田氏の有利となるような働きかけをしつつ、
さらには兄・朝倉孝景に謀反を起こそうとしていた朝倉景高を支援していたのです。

一方で朝倉孝景を支援していたのが朝倉氏の申次であり内談衆でもあった
大舘晴光(おおだちはるみつ)です。
大舘晴光は姉妹が将軍・足利義晴の側室だったため、覚えもめでたく
偏諱の授与を受けるなど義晴の側近として重用されていました。
孝景の方も、弟・景高を排除するためにこの大舘晴光を通じて工作をしていたのです。
そもそも朝倉孝景は幕命によって丹後の叛乱を鎮めるための軍を派遣したり、
京都から近江へ追い出されていた将軍・足利義晴のために京都奪還に動いたり
幕府からすれば若狭武田氏よりも重要な顧客だったはず。
若狭武田氏も応仁の乱の頃には東軍の副将を務めるほどの勢力を持っていましたが
この頃になると内乱によって国内が安定していなかったんですよね。

さてこの結果どうなったか。
楊弓会のことを聞き知った将軍・足利義晴
朝倉孝景に極めて有利な裁定を下しました
伊勢貞孝と朝倉景高は京都から追放、本郷光泰には切腹を宣言するのです。
※本郷光泰はこの裁定を聞いて出奔したそうです。また翌年には伊勢貞孝と本郷光泰は赦されています。
ちなみに朝倉孝景はこの将軍の裁定に対するお礼として
元々足利義晴に命じられていた禁裏修理料100貫文に50貫文上乗せして献上し
大舘晴光にも10貫文を贈呈しています。
京都を追放された景高は、その後若狭武田氏の許に身を寄せて
尾張の斯波氏や本願寺と連携して越前侵攻の機会を狙っていましたが
良い機会に恵まれなかったのか諦めて
1543年4月に若狭を退去し西国に亡命したそうです。
以後、どのような末路を辿ったのかはわかっておりません。

2.朝倉景鏡とは

]通称孫八郎
1525年朝倉景高の長男として生まれています。
朝倉景高は第10代当主・朝倉孝景の弟のため、
孝景の息子で第11代当主の義景と景鏡は従兄弟の関係です。

さて、前述のとおり父・朝倉景高は越前を出奔したあげく
兄・朝倉孝景に謀反を企てるも失敗して
西国のいずこかへと消えてしまいました。
ところが景鏡は一緒に出奔をせず越前に留まったようです。
父・朝倉景高は大野郡司を罷免されましたが、
どういう経緯か子である景鏡はその大野郡司を継承しています。
父が謀叛人であったため、一時的には没落した家系となったはずですが
勇将だった父・景高に劣らず有能な人材として認められていたのかもしれません。
第15代室町幕府将軍・足利義昭もその才覚を気にって式部大輔に任じたとか。
再び大野郡司朝倉氏としての地位を確固たるもにした景鏡は一門の中でも筆頭格に

1564年加賀一向一揆征伐では朝倉景隆と共に総大将に任命されます。

tsukumogatari.hatenablog.com

 しかし加賀へ侵入後に陣中で敦賀郡司・朝倉景垙(あさくらかげみつ)と
総大将を巡って口論となります。
景鏡が口論に勝つのですが、敗れた景垙が自害してしまうのです。
戦の陣中において一門であり重職の武将が自害するという異様な事態は
その後、敦賀郡司朝倉氏と大野郡司朝倉氏の対立構造を生み出すことになりました。
その仲の悪さは、足利義昭が来訪した際に
敦賀郡司家の朝倉景紀・景恒親子と席次でもめるほど。
この一族同士の対立は一門同士の権力争いであり、
この過程で当主・朝倉義景とも関係に陰りが見えてきます

2.1.金ヶ崎の戦いや志賀の陣で功を挙げるが不満も募る

1570年織田信長軍が越前へ侵攻した際には金ヶ崎城が落とされるものの
その追撃戦で景鏡は総大将を務めています。
さらに続く志賀の陣においても総大将として指揮を執り、
坂本の戦いにおていは織田家重臣森可成織田信治、青地茂綱らを
討ち取る功を挙げています。
1572年には北近江の浅井氏が織田信長
居城・小谷城周辺に砦を築かれるなどの侵攻をうけると、
援軍として2回派遣されています。
しかしこの出陣中に
前波吉継(まえばよしつぐ、後の桂田長俊)
富田長繁(とだながしげ)
毛屋猪介(けやいのすけ)
織田家に寝返ってしまいます。
この家中の者の寝返りを見て
まだかろうじて繋がって糸が切れてしまったのかもしれません。
1573年に再度小谷城への援軍として当主・義景が出陣を命じますが
景鏡は軍事行動の連続による疲弊を理由に拒否しているのです。
朝倉義景は自ら出陣して小谷城へ救援に向かいますが、
先手をうたれた織田信長刀根坂の戦いで散々に敗れた上、
山崎吉家ら重臣たちを失います。 

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 朝倉義景一乗谷城へ帰還するものの、
越前にさらに侵攻してくる織田信長軍に
対抗できるほどの兵力は残っていません。
景鏡は、
一乗谷を離れ、自分の領地である大野郡で再起をはかることを義景に進言します。
義景はこの進言を採用して景鏡が提供してくれた仮宿舎に入ります。
しかしこれは罠でした。
景鏡は義景一向の宿舎を軍勢200名で包囲したのです。
近習らが奮戦するものの次々に討死していく中、追い込まれた義景は自害。
義景の母、妻子、および生き残った近習たちは捕縛されます。
景鏡は義景の首と捕縛した義景の近親者たちを信長に差し出すことで
降伏を許されました。

2.2.織田家の家臣時代は短命に終わる

景鏡はその後上洛した際に本領を安堵され、
信長から一字を貰って土橋信鏡(つちはしのぶあきら)と改名します。

しかしこの主家裏切りはすぐに代償を払わされることとなります。
1574年、信長から守護代に任じられていた桂田長俊(かつらだながとし)
妬んだ富田長繁土一揆越前一向一揆にまで進展してしまうのですが
景鏡はその一揆軍の標的にされてしまうのです。
平泉寺(へいせんじ)に籠りますが、
もはやこれまでと悟ったのか
わずか3騎で敵中へ突入して1575年5月4日に討死したと伝わっています。
当時12歳と6歳の息子も捕らえられて処刑されてしまったとか。

当主である義景を謀って自害に追い込み、
朝倉家を滅亡に追いやった景鏡は
父・景高以上に印象が悪いようで
1577年ごろに朝倉氏の旧臣によって成立したと言われている軍紀物『朝倉始末記』では
ひどく陰湿な人物として描かれているそうです。
金ヶ崎の戦いでは
敦賀郡司・朝倉景恒が守っていた金ヶ崎城の後詰として出陣していながら
日和見を決めこんで動かなかった
みたいに、あからさまに援軍を遅らせたような逸話が残っているのも確かで
朝倉義景を裏切った際の狡猾さが
ひょっとすると話に色を付けてる可能性もあるんじゃないかなぁ
なんって思ったりもします。
朝倉氏滅亡の原因の代名詞っぽく言われちゃうのはちょっと可哀そうな気も。
生きるか死ぬかっていう選択を迫れた時に
生きる方を選ぶことが果たしてそんなに悪いことなのか

3.朝倉在重とは

通称彌六郎または六兵衛
実は在重の次男(または孫?)も同名を名乗っているんですが
次男の方は石見守で知られています。

在重は1545年に朝倉景高の三男として生まれたことになっています。
謀反を起こそうとして失敗した父・景高が
京を追放されて西国へ亡命したのが1543年。
その2年後が1545年です。
ということは、西国へ逃れた際にできた子ということになりますが
景高が西国へ逃亡してからどうなったかが全く記録に残っていないので
いまいち本当の話なのかどうかよくわかりませんが。
しかも、在重は父とは別れて駿河に向かい今川氏を頼ったと言われています。
今川氏と言えば今川義元桶狭間の戦い織田信長軍に討ち取られるのが1560年
1545年生年ということは、この頃が15歳で元服はしていそう。
仕えたとしたら今川義元の代に若干かぶったか、もしくは今川氏真の代でしょう。
しかし、今川家は後に滅んでしまって羽柴秀吉の家臣・中村一氏に仕えた後に
徳川家康の家臣となったそうです。
この朝倉在重自体はあまり事績が伝わっておらずよくわからないんですが、
この嫡男である朝倉宣正(あさくらのぶまさ)は徳川忠長の御附家老なんです。

徳川忠長って言われてピンとこない人もいるかもしれませんが
第3代江戸幕府将軍の徳川家光の弟で、幼名は国千代
その粗暴な振る舞いや独断専行な行動によって家光の不興を買ってしまい
最後には所領であった甲府を改易されたばかりか幕命によって自刃した人物です。
その御附家老であった宣正も連座して改易処分となります。
祖父・景高や叔父にあたる景鏡とは違って
自らが謀叛を起こしたわけではありませんが
兄弟のいざこざに巻き込まれてしまう辺り、
そういう血統なんでしょうか。

でも正直朝倉在重が朝倉景高の子どもっていうのは
あんまり信用できないなぁ(笑)

4.「麒麟がくる」と信長の野望シリーズでの大野郡司朝倉親子

父の朝倉景高はさすがに年代的に登場しないのは間違いありません。
景高の三男という噂の在重も活動場所が東海地方なので
明智光秀との被りもなく無理でしょう。
長男の景鏡は
金ヶ崎の戦いの後の織田軍追撃戦や
姉川の戦いで総大将を務めていますし、
朝倉家滅亡の遠因も作り

止めもさすという朝倉家中でも際立った存在ですから
登場すことは間違いないでしょう、さすがに。
敦賀郡司家と対立する話あたりは脚本次第なんでしょうけどね。
なんかでも景鏡は悪く描かれちゃうんだろうなぁ

そして信長の野望シリーズでは親子3人のうち登場するのは景鏡のみ
戦国群雄伝から皆勤賞です。
能力的にはだいたいシリーズ通して統率と知略が高めで政治が平均割り気味
たぶん統率が高いのは朝倉軍の総大将を務めていたからで
知略が高いのはやっぱ当主・義景をハメたからなんでしょうね。
さて信長の野望・創造 戦国立志伝での評価値はこちら。

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朝倉家の家臣の中では有能な方です。(宗滴除くw)
そして裏切りやすい武将でもあります。
これもしかして、義景を裏切らないで一緒に心中するなり
生き延びて山中鹿之助みたいにお家再興のために頑張ってたりしたら
人気も出て評価全然高かったりするのかもしれませんね。

5.まとめ

今回は前回紹介した敦賀郡司朝倉氏に対抗する形で
大野郡司朝倉氏の親子、朝倉景高・景鏡・在重を紹介しました。
景鏡が朝倉家滅亡の代名詞的存在になっているのは
個人的には不憫でなりません。

「日のもとに
 かくれぬその名あらためて
 果は大野の土橋となる」

なんていう皮肉に満ちた歌を詠まれたりもしていますが
謀叛人の息子という汚名がありながらも
没落した家を建て直して一門筆頭格にまで返り咲き
朝倉軍の総大将として織田軍とも善戦したことは
きちんと評価されるべきではないかと思います。
そもそも景鏡より先に朝倉家を裏切ってる家臣だっていますしね。
先が悪くて後のがマシっていうわけでもないけど、
仲良くない人と一緒に居たくないのは誰だって同じでしょう?(笑)

というわけで今回はこの辺で。
ここまで読んでいただきありがとうございました!