歴史人物語り#92 三好三人衆の一人で真田十勇士のモデルといえば三好政康だけど、本当の名前は三好政勝!三好政康なんて存在しなかった

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今回は三好宗渭(みよしそうい)
信長の野望シリーズやってる方だと
宗渭は三好政康(みよしまさやす)の名で覚えているかもしれません。
ただ次回の信長の野望シリーズは名前が変わるかも。
麒麟がくる」にも登場するのではないでしょうか。

www6.nhk.or.jp

ちなみに紹介済みの「麒麟がくる」にちなんだ武将たち
以下の一覧記事にまとめてあります。

tsukumogatari.hatenablog.com

tsukumogatari.hatenablog.com

その他今までに紹介済みの戦国武将たちはこちから確認できます。

tsukumogatari.hatenablog.com

まだ読んでいない武将の記事がありましたら是非チェックしてみてくださいね。

1.まず最初に宗渭の名前について

信長の野望シリーズをやっている方だと
三好政康(みよしまさやす)は三好三人衆の一人
その弟は三好政勝(みよしまさかつ)ということをご存知だと思います。
しかし実は近年この二人の名前について覆す話が出てきたんです。

歴史学者天野忠幸(あまたのただゆき)さんは
三好氏の研究をされている方でいくつか本も出版されています。

この天野忠幸さんの研究によると
三好政康の本来の名は「政勝」が正しいということなのです。
そして弟の名は「三好為三(みよしいさん)」
「政康」の名は『細川両家記』の誤謬が伝播したものであり
一次資料に「三好政康」は登場しないそうです。
さらに『三好別記』に登場する「三好政康」も
『十河物語』に登場する「三好政泰」も
十河存保(そごうながやす)のことだと言います。
十河存保とは、
三好長慶の弟・三好義賢(みよしよしかた、実休の名が有名)の次男
讃岐一円を支配していた十河氏を継いだ人です。
十河存保は一次資料だと名前が「存康(まさやす)」なんです。

つまり
三好政康」という名の人物は存在しません!!!
ていうことになります。

でも信長の野望シリーズに関わらず
ソシャゲとかでもたいがい「三好政康」になってますよね。
三好政康の名の方が浸透しちゃってます。
2017年11月末に発売された信長の野望シリーズ最新版の「大志」も
まだ「三好政康」と「三好政勝」を兄弟として登場させています。
果たして次回作はどうなるのか。
ちなみにWikipediaの方は2017年5月ぐらいから
「政康」は「政勝」であるという記述に変更されています。
この歴史人物語りでは
「政康」を使うのはやめて
後に号した「宗渭」の方で統一しようと思います。
今までいくつかの記事で三好三人衆の一人の名として
三好政康」の名で書いているんですが
三好宗渭」に修正することに。
三好政康」で覚えちゃてるからそっちのがしっくりくるんですけどね(笑)

ちなみに「真田幸村」の「幸村」も
史実上使われていないことは有名ですね。
でも個人的には「真田信繁」の名の方を使いたいと思いつつも
「幸村」の名も使いたいし、悩みどころです(笑)

2.三好宗渭(みよしそうい)とは

生年不明。父は三好政長(みよしまさなが)
前述のとおり三好政康の名で一般的には知られている武将であり
三好三人衆の一人です。
※他の三好三人衆は、三好長逸(みよしながやす)と岩成友通(いわなりともみち)。
そして真田十勇士の一人、三好清海入道のモデルとも言われていますね。
諱は「政康」じゃなくて「政勝(まさかつ)」が正しいそうです。
ただ後には「政生(まさなり)」と名を変えて
さらに出家した後には「釣竿斎宗渭(ちょうかんさいそうい)」
と号しています。
ここでは便宜上、宗渭で通すことにします。

三好宗渭
元は第34代室町幕府管領細川晴元(ほそかわはるもと)に仕えた武将。
1544年に父・政長から家督を譲られています。
※ただし形式上のもので実権は政長が握っていた。
1547年舎利寺の戦い(しゃりじのたたかい)では
父・政長、弟・為三(いさん)と共に出陣しています。
舎利寺の戦いは応仁の乱以後、鉄砲が伝来するまでの間では
畿内最大規模の戦と言われていて
畿内一の勢力を有していた細川晴元陣営と
それと対立する細川氏綱陣営の戦いです。
ちなみに歴史人物語りでは
ここ最近は六角氏の家臣を中心に紹介していましたが
六角氏全盛時代を築いだ六角定頼(ろっかくさだより)
細川晴元陣営として戦っています。

この戦い、序盤は細川氏綱陣営が押していましたが
細川晴元陣営の三好長慶(みよしちょうけい)の活躍によって
巻き返し細川晴元陣営が勝利します。
三好長慶の名が畿内全域に知れ渡るようになった戦いでもあるのです。

三好長慶は、三好氏の本家筋であり三好元長の子
細川晴元の側近として活躍して名を上げて
後に「日本の副王」と呼ばれるまでの勢力を持つことになります。

2.1.父の仇・三好長慶との戦い

細川晴元の側近として力をつけた三好長慶ですが
細川晴元と次第に対立するようになります。
そして1548年には
細川晴元と宗渭の父・政長に対して叛乱を起こすのです。
宗渭も当然、三好長慶の敵対対象としてロックオンされており
籠城していた居城・摂津榎並城(えなみじょう)を包囲されてしまいます。
1549年6月ごろまで持ちこたえるものの
救援に向かっていた父・政長が江口の戦いで三好長慶に敗れて討死
このため宗渭は榎並城から脱出して逃亡します。
また細川晴元と当時の室町幕府将軍であった足利義輝
京を離れて近江へと逃亡します。
宗渭自身は、
讃岐の香西元成(こうざいもとなり)
丹波波多野晴通(はたのはるみち)と通じて
三好長慶との戦いを繰り広げるようになります。

1551年3月足利義輝が企てた三好長慶暗殺未遂事件の混乱に乗じて
香西元成と共に京へ侵入したり、
7月にも再度京へ侵入して相国寺に立て籠もります。
しかし、相国寺の戦いで
三好長慶の部将である松永久秀とその弟・松永長頼によって
相国寺は焼き討ちされたため、三好宗渭はあえなく逃亡。

1553年には足利義輝細川晴元が協力して三好長慶に挑みますが
この際も宗渭は香西元成と共に再度入京。

8月に足利義輝らが霊山城を三好長慶勢に落とされて再び近江へ逃れると
宗渭は9月に丹波で香西元成と共に八木城を落城させ、
城主であり丹波守護代であった
内藤国貞(ないとうくにさだ)を討ち取っています
しかしこの後、三好長慶方の松永長頼に八木城を奪回されてしまい
再度逃亡しています。

このゲリラ戦っぽい戦いってどの程度有効だったんでしょうね。
一時的にダメージを与えて戦力を削ぐことは出来ても
最終的に城を奪い返されたりしちゃってるので
ただの消耗戦にしかなってないような気もします。
あと香西元成とは仲良しなのがよくわかります(笑)

2.2.三好長慶に従って活躍、三好三人衆の一人に

父の仇でもある三好長慶とは
このように徹底抗戦していたものの
1558年には三好長慶の家臣となっています。
三好長慶畿内最大の権力と軍事力を誇っていましたから
従わざるをえなかったのかもしれませんね。
以後は、三好長慶の下で活躍し
1562年畠山高政(はたけやまたかまさ)を攻めた
久米田の戦い(くめだのたたかい)
教興寺の戦い(きょうこうじのたたかい)
において武功を挙げています。

1564年三好長慶が亡くなった後は
三好長慶の後を継いだ、
三好長慶の甥・三好義継(みよしよしつぐ)後見役の一人となり、
この頃から三好長逸(みよしながやす)
岩成友通(いわなりともみち)と共に三好三人衆と呼ばれて
松永久秀と共に三好家中を取り仕切るようになるのです。
釣竿斎宗渭と名乗ったのは1565年3月に出家してからです。
そして、同年の5月19日に永禄の変と呼ばれる事件を起こします。
三好三人衆松永久秀の嫡男・松永久通(まつながひさみち)
第13代室町幕府将軍・足利義輝を御所で襲撃して暗殺するのです。

tsukumogatari.hatenablog.com

他家の戦争の調停を積極的におこなったり、
政所執事に義従兄弟の摂津晴門(せっつはるかど)を起用して
政所の掌握も図るなど、
将軍親政を目指していた足利義輝
幕府の権威を取り戻そうと頑張る足利義輝
中央権力の実権を維持し続けたい三好家にとっては邪魔な存在。
当時、三好家での実権を握っていた三好三人衆松永久秀
実力行使に及ぶことを選んだんですね。
しかしこれが後に足利義昭を放浪させた上、
織田信長と引き合わせることになるわけです。

2.3.松永久秀との対立

将軍・義輝の暗殺では松永久秀とも協力した三好宗渭三好三人衆ですが
次第に両者は主導権争いおこなうようになります。
1565年11月16日河内飯盛山城を襲撃して、
三好家当主の三好義継を河内高屋城へ移すと
三好義継に松永久秀と断交することを約束させます
さらには、
足利義輝の従弟である足利義栄(あしかがよしひで)を第14代将軍に擁立。
三好氏の本拠地阿波での実質的権力者であった
篠原長房(しのはらながふさ)の協力を得ることにも成功します。

以後は足利義栄に御教書を発行させて
松永久秀の本拠地である大和に軍を進駐させたり
同じく大和の筒井順慶(つついじゅんけい)らを味方につけて
松永久秀勢力の形成につとめます。

1566年2月には畠山高政らを味方につけた松永久秀
河内で戦い大勝を収めるなど、戦局は有利に進めています。
※ただし松永久秀自身を討ち取ることはできていないので両陣営の攻防はまだまだ続きます。
また5月には阿波の篠原長房が足利義栄を擁し大軍を率いて兵庫に上陸してきます。
当時、篠原長房は三好三人衆以上に勢力を有していたと言われているので
味方につけていたことは大きかったでしょうね。
三好宗渭三好三人衆
これまで黙っていた三好長慶の喪を
この篠原長房の上陸を機にようやく発表して葬儀をおこないます。
これによって三好宗渭三好三人衆
畿内における反対勢力をほぼ一掃するに至りました。

2.4.主君・三好義継との対立

当時、三好宗家を継いでいたのは三好義継。
三好義継は三好長慶の弟・十河一存(そごうかずなが)の子であり
三好長慶の養子。
家督を継いだ当時はまだ若年だったために、
三好宗渭三好三人衆がその後見役となっていました。
後見役という名の下、
三好三人衆が実質的に権力を牛耳っていたってことなんですが。

しかしその三好義継とも三好宗渭らは対立するようになります。

何故なのか。

三好宗渭三好三人衆
阿波から畿内へ上陸した第14代将軍足利義栄
1566年8月23日に摂津越水城に迎えた際、主君として厚遇します。
※第14代将軍足利義栄は元々阿波の生まれ、阿波育ちの人。
実はこの人、将軍になっても一度も京には入ることができませんでした。
これが三好義継の反発を買うことになるのです。

怒った三好義継は1567年2月に出奔してしまい、
三好三人衆と対立していた松永久秀を頼るのです。

つまり三好義継は三好三人衆と戦うという選択をとったということです。

さらに、三好一族の一人で三好長慶の叔父にあたる
三好康長(みよしやすなが)も三好三人衆から離反してしまいます。

これによって三好家中は分裂状態に。
東大寺の大仏が炎上した東大寺大仏殿の戦いを始めとして
両陣営の争いは激しいものになります。
しかし戦局自体は三好三人衆が有利に進めており
松永久秀信貴山城を落とした上、
多聞山城も包囲していました。

2.5.極めつけの織田信長との対立

松永久秀との戦いは有利に進めていましたが
織田信長の参戦によって戦局は大きく傾いていきます。
尾張と美濃を支配下に収めた織田信長
足利義昭を将軍としてい擁立するために
1568年に上洛作戦を開始
近江の六角氏を蹴散らし、畿内への侵攻も進めてきます。

三好三人衆に押されていた三好義継と松永久秀
この織田信長に急接近。

三好宗渭三好三人衆織田信長とは対立する道を選びます。

この結果、織田信長軍と三好三人衆畿内で激突。

しかし1568年9月29日勝竜寺城と淀城が織田方に敗れことで
三好三人衆方は総崩れとなり、
三好宗渭も木津城から撤退するはめに。

これ以後も、
石山本願寺と協力したり
後に織田信長と不仲となった足利義昭も巻き込んで
織田信長との抗争を続けていくんですが・・・

三好宗渭は元亀兵乱で織田信長勢に敗北した後
動向がわからなくなっています。

死去したのか
消息不明だがどこかで生きていたのか。

1569年の5月頃に亡くなって家督を弟の為三が継いだとも。
生存説をとって真田十勇士三好清海入道のモデル、
三好清海三好宗渭の後進なのではとかも言われていますよね。
三好清海豊臣秀頼に仕えた人で齢88歳で大坂の陣でも秀頼と共に最後まで戦ったと言われている人。

3.「麒麟がくる」と信長の野望シリーズでの三好宗渭

麒麟がくる」では織田信長勢をゲリラ戦で苦しめた
三好三人衆の一人として登場するのはもちろんでしょうが
三好宗渭足利義輝の暗殺を実行した1人です。
今回向井理さんが演じる足利義輝の敵役として登場するんじゃないでしょうか。

ただし今までの傾向からすると、
義輝暗殺の場面で目立って三好宗渭が登場することってなかったような。
※覚えてないだけかもしれませんw
基本的に永禄の変は足利義輝がメインのお話で脚本されますからね。
となると、誰か著名な俳優さんが演じるとかはないかも?
名前だけの登場っていうのも無きにしも非ず。

三好宗渭とは対立することになる松永久秀の方がちゃんと配役されそうな気も。

あと、登場する場合は名前がどうなるのか気になるところでもあります。
よく知れ渡ってしまっている「三好政康」なのか「三好政勝」の方なのか
もしくは三好三人衆で一括りにされてしまうのか(笑)
気になります(笑)

そして信長の野望シリーズでの三好宗渭
最初から登場している常連武将であり
前述のとおりシリーズ通して名前は「三好政康」です。
没年に関しては三好清海説を踏襲して1615年に設定されてたりしますね。
シリーズ通して軍事系能力はそこそこあるなっていう感じ。
信長の野望・創造 戦国立志伝での評価値はこちらです。

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知略が高くないのであんまり大将にはしたくないですが(笑)、
まぁでも城主は任せてもいいレベルかなといったところです。
ちなみに三好宗渭がモデルとも言われている
三好清海入道の評価値はこんな感じだったりします。

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軍事系能力がかなり強めですが
知略と政治は三好宗渭と一緒
たぶん三好宗渭の後身であることを暗に示していて
戦闘力が高いのは真田十勇士バフがかかっているためでしょう(笑)

4.まとめ

今回は真田十勇士のモデルとも言われている三好宗渭でした。
三好政康の名で知っている方は
名前にしっくりこないかもしれません。
三好政勝って呼んでもなおさらしっくりこないかもしれません。
私もしばらく
これどっちで呼んだらいいんだろう
って悩んでいました(笑)
麒麟がくる」ではどの名前で出てくるのか、
そして今後の信長の野望シリーズではどの名前になるのか、
三好長逸の呼び名はいつまで「みよしながゆき」なのか(笑)

では今回はこの辺で。
ここまで読んでいただきありがとうございました!