歴史人物語り#91 「麒麟がくる」では明智光秀を苦しめる敵役として登場!?甲賀組を率いた山岡景友は徳川家康に重用されて大名にまで出世します

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今回は山岡景友(やまおかかげとも)
近江の有力豪族山岡氏の出身で
後に号した「道阿弥(どうあみ)」の名が有名かも。
麒麟がくる」に出てくる可能性は高いと思い込んでいます(笑)

www6.nhk.or.jp

ちなみに紹介済みの「麒麟がくる」にちなんだ武将たち
以下の一覧記事にまとめてあります。

tsukumogatari.hatenablog.com

tsukumogatari.hatenablog.com

その他今までに紹介済みの戦国武将たちはこちから確認できます。

tsukumogatari.hatenablog.com

まだ読んでいない武将の記事がありましたら是非チェックしてみてくださいね。

1.山岡景友(やまおかかげとも)とは

生年1540または1541年。父は山岡景之(やまおかかげゆき)
初名は景宗
後年に剃髪して道阿弥(どうあみ)と号しています。
※この記事では景友で通すことにします。

歴史人物語り#90で既に紹介済みの山岡兄弟の四男に当たります。

tsukumogatari.hatenablog.com

景友は山岡氏領内にあった三井寺光浄院の住持となり、
暹慶(せんけい)と号していました。
また室町幕府の奉公衆と親しくしており
政所代の蜷川親長(にながわちかなが)とも親交があったと言われています。

ちなみに蜷川親長は代々政所代の家系に生まれた奉公衆の一人で
足利義輝に仕えていました。
有職故実に通じていて、連歌の達人でもあった人。
足利義輝永禄の乱で殺害されると所領を失い、
その後は土佐へ向かいます。
なぜ土佐かというと
土佐の戦国大名長曾我部元親の正室
親長の祖父・蜷川親順の娘、つまり叔母なんです。
さらに、この蜷川親長は明智光秀の宿老・斎藤利三とも繋がりがあります。

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蜷川親長の妻は斎藤利賢(さいとうとしかた)の娘
つまり、斎藤利三の妹が正室なんです。
この長曾我部氏、蜷川氏、斎藤氏の姻戚関係が密だったこともあって
良好な交流関係が続いていたようで
明智光秀本能寺の変を起こした説の一つである
四国征伐回避説は、
斎藤利三を取り巻くこの縁戚関係が
根拠の一部となっていたりします。
さて「麒麟がくる」では四国征伐回避説を絡めてくるかどうか、
ちょっと気になるところ。

話が少し脱線しましたが、
前述のような繋がりもあってか
景友は山岡氏の他の兄弟とは多少異なる道を辿って
室町幕府第15代将軍となった足利義昭幕臣に取り立てられます
「将軍の寵臣」と称されるほど義昭の信任は厚かったようです。
1571年には、松永久秀と交戦していた大和の筒井順慶(つついじゅんけい)の下へ
細川藤孝の兄・三淵藤英(みつぶちふじひで)と共に救援に向かっています。
三淵藤英は「麒麟がくる」で谷原章介さんが演じることになっていて、
麒麟がくる」で私が注目している武将の一人です!

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翌年の1572年には義昭から上山城の守護、
つまり山城半国の守護に任じられます。

さらに翌年の1573年には織田信長包囲網が敷かれても
景友は兄たちとは一線を画して足利義昭に従っており
石山城で籠城するなど織田軍に抗い続けます。
※兄・景隆たちも簡単には信長に屈しなかったのでこの辺はやはり兄弟の血筋か?と思っちゃうところ。
しかし、最終的には兄・景隆に説得されて降伏し開城することに。

1.1.織田家臣時代、信長が斃れても光秀にも秀吉にも与せず

足利義昭が京から追放されてからは
還俗して「山岡八郎左衛門尉景友」と名乗りを改め信長に仕えます。
信長に仕えてからは佐久間信盛の与力に。
佐久間信盛とは良好な関係を結べていたのでしょうか、
佐久間信盛高野山へ追放された後に
景友は信盛の様子を見に訪れていて
信盛は感涙の涙を流すほど喜んだと言われています。

そして織田信長1582年に発生した本能寺の変明智光秀に斃されると
明智光秀からは味方するように誘われますが
兄たちと同様にこの勧誘を断ります。
さらに瀬田の唐橋を落とすなど明智軍の進撃を妨害
明智勢力として抗い続るのです。

山岡景友らの進軍妨害は光秀にとっても痛手となり
畿内勢力の取り込みにも失敗した光秀は
羽柴秀吉山崎の戦いで敗死。

そして光秀に加担しなかった山岡景友ですが
かといってその後秀吉に味方する道は選びませんでした。
兄・景隆と共に柴田勝家に助力し秀吉に対抗。
しかし賤ケ岳の戦いでは柴田勝家が敗れてしまっために
兄・景隆同様に一度所領を失うことに。

その後の1584年の小牧・長久手の戦いにおいても秀吉には味方せず、
織田信長の次男・織田信雄(おだのぶかつ)に助勢し、
秀吉方の伊勢峰城攻めに参加しています。
秀吉につかない選択というよりも
織田方につく選択を一貫してとっているように見えますね。
ただし秀吉が天下人となると所領は安堵された上、
御伽衆(おとぎしゅう)に加えられています。
この時に再び剃髪して道阿弥(どうあみ)と号しています。
御伽衆についての詳細はこちらをどうぞ。

ja.wikipedia.org

簡単に言うと秀吉の家庭教師みたいな存在。
読み書きの苦手な秀吉がそれを補うための方法として活用したのが
耳学問であり、
その師匠として御伽衆に多くの著名人を揃えています。
総勢800人もいたとか。
ちなみに山岡景友が仕えた足利義昭も御伽衆に加えられています
その後1598年に秀吉が亡くなると遺物金5枚を拝領しています。

1.2.徳川家康の使者として大活躍

豊臣秀吉の死後は
黒田長政(くろだながまさ)を介して徳川家康に接近。
家康の使者として活動をするようになります。
1599年には病床にあった前田利家の下へ家康の使いとして訪問。
この頃既に家康とは太い信頼関係を構築できていたのでしょう。
1600年には会津征伐に向かう家康に同行していますしね。
そして畿内にいた弟の景光に対して、
石田三成挙兵時には伏見城の籠城に加わるよう指示しています。

天下分け目の戦いの幕が開けると
景友は伊勢に下向して
福島高晴(ふくしまたかはる、福島正則の弟)の部隊に加わり
伊勢長島城の守備につきます。

景友がこの守備についている間に
関ケ原の戦い本戦は、東軍の勝利に。

その報せを聞いた景友は関ケ原へ向かうことにするんですが
道中で西軍の長束正家(なつかまさいえ)の部隊と遭遇
関ヶ原の戦い本戦に参加していた長束正家
関ヶ原から離脱して居城・水口城へ向かおうとしていたところでした。
山岡景友はこの長束正家の部隊を敗走させ、
長束正家は命からがら水口城へなんとか入場。

しかしさらに追撃してきた東軍の池田長吉(いけだながよし)
亀井 茲矩(かめいこれのり)の加勢もあって水口城は落城。
この勢いで西軍方の伊勢桑名城神戸城を接収する働きを見せます。

ちなみに水口城では長束正家の弟・玄春を捕らえるんですが、
この玄春は西軍が伏見城を攻略した際に
甲賀の者の妻子を磔にした張本人
甲賀出身の山岡景友としては我慢ならないものがあったのでしょう、
大津で拝謁した家康にわざわざ許可を得て玄春を斬り殺したそうです。

これらの景友の功績から、
家康は近江国内での9千石の領地と
伏見城落城時に討死した甲賀の者たちの子孫からなる
甲賀を景友に与えています。

さらに1600年の10月には福知山城で籠城する
西軍方の小野木重勝(おのぎしげかつ)攻めに使者として派遣されます。

この小野木重勝を攻めていたのは細川忠興(ほそかわただおき)
細川藤孝の嫡男であり、
明智光秀の娘・珠(ガラシャ)の夫

細川忠興関ケ原の戦い前に
西軍が館を包囲したことが原因で妻のガラシャを失っていますし
父・細川藤孝も田辺城を西軍方に包囲されて
善戦はするものの最終的には開城させられています。

小野木重勝はその田辺城を攻撃していたうちの一人

妻を殺された恨みもあいまって
忠興はこの小野木重勝の守る福知山城を攻める許可を
関ヶ原の戦いが終わった後に家康からもらっているのです。

絶対に許さない勢いの細川忠興
福知山城を包囲し攻撃開始。
しかし福知山城は
築城名手でもある明智光秀丹波平定時に改築したお城
簡単には落とせず両者消耗戦の様相を呈してきました。

この事態に家康が仲裁役として送ったのが山岡景友だったのです。

景友は小野木重勝に助命を条件に開城して出家することを求め
細川忠興に対してはこれ以上の無益な戦いはしないことを求めます。

この景友の仲裁によって小野木重勝は降伏して浄土寺に蟄居します。
※ただし小野木重勝は結局許されることは無く自害させられています。
また、小野木重勝の自害を知ってその妻も後を追って自害するのですが
この奥さんは、西軍の名将で石田三成の家臣・島左近の娘です。

また景友は関ケ原の戦い後に高野山に籠っていた
京極高次(きょうごくたかつぐ)の説得にも一役買っています。

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1.3.数々の功績から大名にまで出世するものの・・・

家康の使者を始めとして多くの戦いで功を挙げた景友は
家康から肩衝の茶入りに加えて
伏見城の新宮門と邸宅を与えられます。
1603年に家康が景友の伏見邸に訪れた際には
良光の短刀を授けられていますから
家康お気に入りの武将だったことは確かでしょうね。

同年10月には加増されて常陸古渡1万石の大名に出世。
ところが、
そのわずか2カ月後の12月に享年64歳で亡くなってしまいます。
さらに残念なことに
婿養子の景本は幼少だったために藩は改易となってしまうのです。
山岡兄弟にはたくさんの男の兄弟がいましたけど
その四男だった景友は、女児はいたものの
男児には恵まれなかったみたいなんですよね。
ただし山岡氏の系統が断絶したわけではないし、
景友の跡目は甥の景以(かげもち、兄・景隆の子で景本の実父)が
養子となって継いでいます

2.「麒麟がくる」と信長の野望シリーズでの山岡景友

麒麟がくる」では本能寺の変後に
明智光秀を苦しめる武将の一人として兄・景隆らと共に登場してほしいところ。
それに景友は足利義昭の側近として仕えていましたから
明智光秀との接点がストーリーの中でも作られる可能性があります。
そこで景友と光秀は意気投合して友情関係を結ぶものの
本能寺の変後は明智光秀と袂を分かつことになる、
そんなストーリー展開があってもおかしくありませんね!
配役が発表されてないのはあんまりメジャーじゃないからに決まってます(笑)

そして信長の野望シリーズには山岡景友は登場したことがありません。
お兄さんたちの記事を読んだ人はご存知でしょうけど
兄弟の誰一人として、さらにいえばお父さんも登場していません。
今後登場するかどうかは
麒麟がくる」での活躍次第にかかっていそうです(笑)

3.まとめ

今回は山岡兄弟の中でも
特に徳川家康に重用されて出世した山岡景友でした。
明智光秀と交遊関係があったのかどうかはよくわからないんですけど
兄は明智光秀麾下にはいっていたこともあるし
光秀自身が義昭の臣として仕えていた時期もあるし
何らかの交流があっても良さそうなもの
と考えるのは安直すぎるのかどうか(笑)
でもストーリー的には二人に繋がりがあった方が
面白くできたりしないかなぁなんて思いますね!
いろいろあって放映開始日が先に延びちゃった「麒麟がくる」ですが
万全を期した状態で放映開始を迎えてほしいので
これはこれで良し、期待しましょう!

では今回はこの辺で。
ここまで読んでいただきありがとうございました!