歴史人物語り#93 三好家の長老的存在であり、『日本の副王』三好長慶の副官として信任の厚かった三好長逸

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今回は三好三人衆の一人であり
三好長慶の副官とも言われる
三好長逸(みよしながやす)
三好長慶が亡くなった後も
三好一族の長老として三好氏を引っ張った存在なのですが
あんまりその辺りが表立っていない印象です。
麒麟がくる」では足利義輝を葬った三好三人衆の一人として
登場すると思うんですが・・・。

www6.nhk.or.jp

ちなみに紹介済みの「麒麟がくる」にちなんだ武将たち
以下の一覧記事にまとめてあります。

tsukumogatari.hatenablog.com

tsukumogatari.hatenablog.com

その他今までに紹介済みの戦国武将たちはこちから確認できます。

tsukumogatari.hatenablog.com

まだ読んでいない武将の記事がありましたら是非チェックしてみてくださいね。

1.三好長逸(みよしながやす)とは

通称孫四郎
生没年は共に不詳です。
父は、三好長則(みよしながのり)の説と
芥川長光(あくたがわながみつ)の説があります。
ただいずれにしても三好長則と芥川長光は兄弟で
その父は三好長慶の曾祖父にあたる三好之長(みよしゆきなが)。
阿波を代表する国人であった三好氏の一族であることには変わりません。

また初名は長縁(ながより)と言われていて
1569年からは北斎宗功」の号名を名乗っていたようです。

信長の野望シリーズをやっている方だと
名前の読み方に違和感があるかもしれません。
信長の野望シリーズではシリーズ最新作「大志」でも
「みよしながゆき」になっていますからね。
『日本人名大辞典』とかだと「ながゆき」読みですし
以前はこの読み方が一般的でした。
ただ最近は『言継卿記(ときつぐきょうき)』にある振り仮名から
「ながやす」が正しいのではとされています。

三好長逸「日本の副王」と称された
三好長慶(みよしながよし)の従叔父にあたり、
副官的存在として三好長慶を支えた人です。

また三好一族の中でも長老的存在として
最後まで三好氏を裏切ることなく
中心的存在として一族、家臣を統率していたと思われます。

そのため、
没年が正確にはわかっていないものの
動向不明となった辺りの年頃と共に
三好氏は結束力を失って瓦解し始めるのは、
当時首長的役割を果たしていた三好長逸が亡くなったからではないか
とも言われています。

戦国時代の三好家においては
三好長慶に匹敵するぐらい代表的な人物であるにも関わらず
大河ドラマとかだと
三好三人衆」一括りの扱いで済まされちゃうのが
ちょっと悲しいところ。
信長の野望シリーズでもあまり高い評価はされていません。
※基本的に三好家臣団が能力低めなんですけどね。

1.1.三好長慶政権時代の副官・三好長逸

三好長逸は前述のとおり三好長慶の従叔父にあたります。
また生涯通じて三好一族として忠節を尽くし
一度も裏切ったことがありません。

三好長慶も一族の中でも頼れる年長者として信頼していたようです。

例えば三好長慶が発給する書状には
この三好長逸松永久秀の副状が添えられていましたが
三好長逸の副状は
対象が幕臣や大名といった高位の宛先に対してでした。
一方の松永久秀は都市に対してのものが主だったそうです。

また、三好長逸が発給した所領安堵や年貢督促の書状は
三好家が当時勢力を有していた地域全域です。

この辺りからも三好長慶から
如何に三好長逸が信頼されていたのかが伺えます。

内政・外交のみならず軍事面でも
三好氏の中核として活躍しています。

1549年の江口の戦いでは、
細川晴元の部将・香西元成(こうざいもとなり)を撃退。
1550年には
京都を追われて近江に逃げていた細川晴元足利義輝
六角定頼の支援を受けて再び京都奪還のために攻め込んでくると
三好長慶の弟である十河一存(そごうかずなが)らと共にそれを阻止。(東山の戦い)
1554年には播磨国人の別所就治(べっしょなりはる)の三木城を攻撃し
7つの付城を落とす功を挙げています。
翌年の1555年には丹波波多野晴通(はたのはるみち)討伐も任されています。
※ただしこれは敗北してしまい、後に松永久秀の弟の松永長頼が後任となっています。
さらに1558年足利義輝と争った北白川の戦いでは
松永久秀と共に両者和睦するまでの間
戦局を優位に進める戦いを見せています。

1558年頃までには山城飯岡城主として
山城の南半分の統治を任されていたようです。

1560年三好長慶が摂津の芥川山城から河内の飯盛山へ移り
代わりに芥川山城を与えられた三好義興(みよしよしおき、長慶の嫡男)
幕府出仕のため京都に常駐するようになると、
その不在時の城代を任されています。
従四位下に叙せられたのもこの頃ですが
この叙任は、長慶の弟である三好義賢(みよしよしかた、実休)
嫡男の義興、さらには松永久秀よりも先なんです。
1561年足利義輝の三好邸御成りの際の席次は
細川氏綱三好長慶三好義興松永久秀
三好長逸三好宗渭(みよしそうい)、三好長虎、三好帯刀左衛門尉。

ここで三好長虎とは三好長逸の嫡男です。
松永久秀当時御供衆に取り立てられていたために
席次が上になっていますが、
そうでなければ恐らく長逸よりも下だったでしょう。
この辺りからも三好長逸とその子・三好長虎は
三好一族の中でも
地位が高く影響力も持っていたであろうことがわかります。

1.2.三好長慶死後は三好一族長老として三好家を統率

三好長慶は1564年に病で亡くなってしまいます。
※この病で亡くなるまでの過程には三好家内でいろいろなことが起こっているんですが
それを書くと長くなるのでまた別の機会に。

三好長慶の後を継いだのは甥の三好義継(みよしよしつぐ)
三好長慶の弟・十河一存(そごうかずなが)の子です。
しかし義継はまだ幼少だったことから、
三好長逸を始めとした三好三人衆三好宗渭岩成友通)や松永久秀
後見役として補佐します。

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 三好三人衆のうち、三好宗渭元・細川晴元の家臣として
三好長慶とも争っていた時期がありますし、
岩成友通は摂津・大和に勢力を拡大してから取り立てられた新参者
三好長慶が成り上がる以前から仕えていた三好長逸
古参の重臣であり、
三好一族の中でも長老的立場として
三好家を引っ張っていきます。

1565年室町幕府第13代将軍・足利義輝の暗殺襲撃にも
松永久秀や他の三好三人衆と共に加わっています。(永禄の変)

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ただしこの頃から松永久秀とは
三好家中での主導権を争うようになって次第に対立。
すると1565年の11月には三好宗渭岩成友通、三好康長と共に
松永久秀と親しい三好義継の側近・長松軒淳世らを殺害した上で
義継を髙屋城へ移し、松永久秀討伐を認めさせます。

三好長慶存命中は三好家の両輪として
共に歩んできた二人だったんですけどね。

1566年からは三好三人衆松永久秀は交戦状態に入り、
三好三人衆側は三好家の本国である阿波で勢力を有する
篠原長房(しのはらながふさ)三好康長を味方に引き入れつつ
大和で松永久秀と敵対中の筒井順慶(つついじゅんけい)とも組んで
松永久秀勢力を形成していきます。
一方で松永久秀は河内守護であった畠山高政
畠山氏家臣の安見宗房(やすみむねふさ)を味方につけます。

摂津と堺を狙う松永・畠山軍を上芝の戦いで破った三好長逸らは
松永久秀の本拠地である信貴山多聞山城
筒井順慶とも協力して包囲します。
しかし攻め手に欠き落城させられないまま時間だけが過ぎていくと
1567年2月に三好家当主・三好義継が身の回りの家臣らと共に出奔して
松永久秀の下へ走ります。
この頃に阿波から摂津へ上陸してきた
室町幕府将軍候補の足利義栄(あしかがよしひで)を
三好三人衆が主君として厚遇したことに対する不満
三好長慶の葬儀をおこなった後になっても
指揮権を完全には譲らない三好三人衆に対する不満
この義継の行動に至らせたようです。
三人衆のことを「悪逆非道」と触れ回っていたほどですからね。

そして1567年の10月10日には、
東大寺大仏殿の戦いが発生します。
三好三人衆の軍勢が陣取っていた大和東大寺
松永久秀が襲撃した際に東大寺を焼き討ちした
なんて伝わっている戦いです。

戦禍の最中に不慮の事故で火がついて燃えてしまっ
というのが今は有力らしいですが、
松永久秀のおこなった悪事の一つとして有名になっちゃってますね。

しかしこの10日後の山城普賢寺谷の戦いでは
三好長逸の子・長虎が松永久秀軍を撃退するなど、
基本的には三好三人衆が優勢でした。

そして1568年三好三人衆足利義栄を将軍に就任させたことは
さらに戦局を優位にしました。

足利義栄が将軍に就任すると
三好長逸は御供衆に名を連ねており
これは三好義継と同格の立場に立ったことになります。
三好長慶以降、三好宗家の当主は
御供衆として将軍家に仕えることが許されていたのです。

すなわち、三好義継が出奔した今となっては
実質的に三好宗家の当主たる立場に立ったも同然なのです。

1.3.織田信長の台頭が戦局を大きく変える

三好義継・松永久秀との戦いも優位に進めつつ、
中央政権での存在感を示していた三好長逸
実は外国人宣教師からも評判が良かったんです。

当時畿内が戦乱で荒れている中、
外国人の保護をしたり、
京都からキリスト教布教を禁じられて追放された
ガスパル・ヴィレラやルイス・フロイス
堺まで護衛の家臣を動向させたり

通行税免除の許可状を出したりしています。

ルイス・フロイスはこういうったことから
三好長逸のことを
「生来善良な人」「教会の友人」
「天下の4人の執政のうちの1人」
といったように絶賛しているのです。

実際、三好長逸は朝廷との関りも深く、
幕府の御供衆にも名を連ねていたので
織田信長が上洛するまでは
中央政界での存在感は大きかったのでしょう。

しかしその織田信長が美濃の斎藤龍興を破った勢いで
足利義昭を擁して京都を目指します。

三好長逸最初から織田信長と対立しようとしていたわけではありません。
以前から親交のあった稲葉一鉄を介して
織田信長への取次を依頼していたんです。

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ところが織田信長がこれを黙殺してしまったようで
取次は実現しなかったんです。

そのため三好長逸が目を付けたのは
近江の六角義賢(ろっかくよしかた、承禎)
さらには紀伊の国人衆や高野山とも手を結んで
6万ともいわれる大軍を率いて上洛を目指している
織田信長に対抗しようとします。

逆に三好三人衆と対立していた三好義継と松永久秀
織田信がに接近して信長に恭順を示します。

しかし頼みの綱の六角義賢軍は
観音寺城の戦いで織田軍に敗れ
さらにこの間には三好三人衆が将軍に就任させた
足利義栄が病死してしまうという運の悪さ。

これによって、三好三人衆に与していた国人衆や
幕府の奉公衆から織田賀へ寝返る者が続出してしまいます。

形勢が一気に不利となった三好長逸らは
次々に居城を落とされ
阿波へ退去することとなるのです。

1.4.畿内から退去後、そして動向不明に

1569年の本圀寺の変三好長逸
織田方の池田勝正細川藤孝、三好義継らの軍勢を
桂川で迎撃するものの敗北。

これによって三好三人衆畿内から徹底して
本国の阿波まで後退することになります。

しかし1570年三好長逸は阿波における最大軍事力を有する
篠原長房らと共に三好郡を再編成。
摂津池田城で謀叛を起こして城主の池田勝正を追放した
荒木村重ら池田二十一人衆に呼応して軍を摂津に進軍させます。
ここでいわゆる野田城・福島城の戦いが起こります。
序盤は織田軍が有利に戦局を進めていたんです。

ところが、ここで織田信長を驚かせる事態が起きます。
石山本願寺が突如武装蜂起して
織田軍に対して攻撃を仕掛けるのです。(石山合戦

三好三人衆の軍勢には、
これに加えて紀州の国人衆や一向一揆勢が参戦
さらには浅井・朝倉も連合軍となって
織田信長軍を挟み込むように攻勢を仕掛けたことによって
一時的には摂津・河内から織田軍を撤退させ
再び三好家の勢力下に治めます。
ただ三好三人衆の軍勢も織田軍を追撃するほどの余力はなかったため
一旦織田軍とは和議を結びます。

しかし翌年には和議を破って石山本願寺勢と共に
織田信長包囲網を形成。
1573年には織田信長と対立した足利義昭も決起
さらに袂を分かつ状態であった三好義継と松永久秀
反織田勢力に呼応します。
これで甲斐の武田信玄の上洛が成れば
完全に織田信長畿内から一掃させることができたかもしれません。

しかし1573年武田信玄は急死してしまいます。

これをきっかけに織田信長包囲網の勢力は瓦解の一途を辿り
足利義昭畿内から追放され、
三好三人衆の一人・岩成友通も淀城で討死
浅井長政朝倉義景織田信長に討伐されてしまうのです。
※ちなみに岩成友通は一度織田方に寝返ったんですけど、さらに寝返って反織田勢力に与していました。

ところで三好長逸はどうしたのかというと
1570年頃から動向が不明なんです。
摂津中嶋城の戦いで織田方に敗れて城から逃げたのは確かなようですが
この戦いで討死したという話もあります。(ただし確証できる資料はありません)

動向が不明なのは、
もしかすると
三好長逸が亡くなったことを
秘匿していたからなのかもしれません。

当時の三好家にとって三好長逸は中核的存在であり
幕府や朝廷にも顔の効く、
三好家を代表する人物でした。

三好長慶が亡くなった際にもその影響を考えて
すぐに葬儀は開かず隠していましたから
同様に、三好長逸が亡くなってもすぐには公表しなかったのかも。

ただし三好家当主である三好義継は信長に討伐されてしまいますし
もう一人の長慶の弟・義賢の子・長治も阿波の内乱で敗死してしまいます。
その他の三好氏は織田信長に臣従する者、討伐される者に分かれて
事実上三好家の勢力は消滅してしまいましたから
結局、三好長逸が亡くなったことを
公表できぬままだったのかもしれません。

2.「麒麟がくる」と信長の野望シリーズでの三好長逸

麒麟がくる」では足利義輝を暗殺する首謀者の一人として
登場すると考えるのが普通なんですが
何かと「三好三人衆」で一括りにされてしまうことが多いんですよね。
実際は三好三人衆の中でも一番格上の存在で
三好長慶亡き後の三好家は三好長逸が主導権を握っていたと思うんですが。
名前すらちゃんと出してもらえない可能性もあるかもと心配してます(笑)
三好長慶大河ドラマをやったりすれば
さすがに中心的人物として登場してくると思うんですけどね。
麒麟がくる」ではどういう扱いで登場するか注目しています。

それから信長の野望シリーズでは
三好長逸常連武将としてシリーズ当初から登場しています。
息子の長虎は一度も登場していないんですけどね。
能力値は正直あまり高くないです。
悪くもないけど、
三好長逸の当時置かれていた立場や実績を考えたら
低すぎる評価だと思います。
信長の野望・創造 戦国立志伝での三好長逸の評価値はこちら。

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政治以外は60超えなんで全く評価されてないわけではなさそうですが
80ぐらいあってもいいんじゃないのかなって思ったりします。
あと、この人は肖像画が伝わっていないんですが
絵師さんはこの顔を何を参考にしながら描いたのかが気になります(笑)

3.まとめ

今回は三好一族の長老的存在、三好長逸でした。
三好長慶の寵臣といえば
松永久秀があげられがちですけど
優秀な従叔父である三好長逸の方が
より重用していたんじゃないかと思います。
一説には、教養はあるんだけど
あまり文化的なことにはあまり肩入れしない
仕事熱心なタイプだったとも。
三好家を一度も裏切っていないことから見ても
実直な性格の人物だったのかなって想像しています。
あと信長の野望の顔グラはそろそろ変えてほしいな・・(笑)

では今回は今辺で。
ここまで読んでいただきありがとうございました!