歴史人物語り#30 斎藤家・織田家の優秀な秘書官にして時には信長を諫めることもあった武井夕庵

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今回は斎藤家・織田家において優秀な事務官僚だった
武井夕庵(たけいせきあん)です。
斎藤家においても斎藤道三、義龍、龍興の3代に仕えていますし、
麒麟がくる」でもひょっとしたら登場するかもしれません。

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では今回のお品書きはこちらです。

ちなみに紹介済みの「麒麟がくる」にちなんだ武将たち
以下の一覧記事にまとめてあります。

tsukumogatari.hatenablog.com

tsukumogatari.hatenablog.com

その他今までに紹介済みの戦国武将たちはこちから確認できます。

tsukumogatari.hatenablog.com

まだ読んでいない武将の記事がありましたら是非チェックしてみてくださいね。

 

1.武井夕庵(たけいせきあん)とは

夕庵(せきあん)は号で諱は助直(すけなお)です。
生没年や出自共に不明な人物なんですが
初めは美濃国守護土岐氏に仕え、
斎藤道三が美濃を乗っ取ってからは
道三、義龍、龍興の3代にわたって右筆として仕えています。
右筆とは、こんなかんじの職業。

右筆(ゆうひつ)は、中世・近世に置かれた武家の秘書役を行う文官のこと。文章の代筆が本来の職務であったが、時代が進むにつれて公文書や記録の作成などを行い、事務官僚としての役目を担うようになった。執筆(しゅひつ)とも呼ばれ、近世以後には祐筆という表記も用いられた。

・・・中略

戦国時代に入ると、戦時に必要な文書を発給するための右筆が戦にも同行するようになった。戦国大名から統一政権を打ち立てた織田・豊臣の両政権では右筆衆(ゆうひつしゅう)の制が定められ、右筆衆が行政文書を作成するだけではなく、奉行・蔵入地代官などを兼務してその政策決定の過程から関与する場合もあった。豊臣政権の五奉行であった石田三成長束正家増田長盛は元々豊臣秀吉の右筆衆出身であった。他に右筆衆として著名なものに織田政権の明院良政・武井夕庵・楠長諳・松井友閑・太田牛一、豊臣政権の和久宗是・山中長俊・木下吉隆・安威了佐などがいる。

なお、後述のように豊臣政権の没落後、右筆衆の中には徳川政権によって右筆に登用されたものもおり、右筆衆という言葉は江戸幕府でも採用されている。

引用元:Wikipedia

つまり、秘書官のようなお仕事なんですが
戦国時代、特に織田・豊臣政権下での右筆は
時には戦争にも同行し、奉行や代官なんかも兼務した
政務・外交には欠かせない存在だったと言えます。
斎藤家が織田信長によって滅亡してからは
織田信長に仕えて、同じく右筆として重用されます。
龍興は美濃から伊勢長島へ逃亡し織田信長打倒勢力として
一向一揆にに参加していますが、そこまでついていく気はなかったようです。
茶人としても有名で元々文化人的要素の方が強い方。
戦に明け暮れるよりも、勢いある勢力に従う道を選んだのでしょう。
文官として優秀なスキルを持ってるだけに織田家じゃなくても
転職先は引く手あまたなタイプだったはず!

信長に仕えてからは前述のとおり秘書官的な役割の方が
重きをなしていたかもしれません。
どんな役目を与えられてきたかと言うと

  • 岐阜城を訪問してきた山科言継(やましなときつぐ)の案内役
    ※山科言継は権大納言にまで昇進した公卿。多くの戦国武将との交友が記されている言継卿記で有名。
  • 京都周辺の政治に奉行として関与
  • 毛利氏との外交において羽柴秀吉と共に小早川隆景吉川元春らと交渉にあたる
  • 蘭奢待を切り取った際の9人の奉行のうちの一人に任命される
  • 石山本願寺への勅命講和の勅使佐久間信盛と共に奉行として同行
  • 信長の折檻状によって佐久間信盛が追放される際、
    使者3人の内の1人に任命される
  • 和泉国槇尾寺の破却の検視役5人の内の1人に任命される

といった感じで重要な政務、
外交には常に奉行としての使命を任されていたことが伺えます。
安土城にあった夕庵の屋敷は今でも跡地に石碑が建っていますが
その場所は森蘭丸津田信澄、信長の嫡男・信忠に次ぐ場所に建てられているので
信長からの信頼は相当厚かったのかもしれません。

tsukumogatari.hatenablog.com

後述するように、信長には相当諫言をしていることで有名なんですけどね。
しかし本能寺の変の際には夕庵がどこに居て何をしていたのかはわかっていません。
本能寺の変後の1582年10月に吉田兼見を訪問していることと
1585年に山科言経(山科言継の子)を歓待したという記録は残っていますが
その後の消息やいつどこで亡くなったかわかっていません。
1581年の京都御馬揃えに参加した際の年齢が70余歳だったといいますから
高齢ですし表舞台からは後を引いてひっそりとした人生を送っていたのかも

ちなみに子供の十左衛門
紀伊和歌山藩初代藩主浅野幸長(あさのゆきなが)に仕えて
紀伊国日高郡・有田郡の代官を務めたそうです。
ご子孫は現代にも続いているんでしょうか?

1.1.武井夕庵は織田信長を何度も諫めたけど追放されなかった

武井夕庵は以下のように、信長を諫めたという逸話が多い人です。

  • 1571年、比叡山延暦寺を焼き討ちしようとした信長を佐久間信盛と共に諫める
    (『甫庵信長記』)
  • 1576年頃、越前・加賀の一向一揆において門徒衆を撫で斬りにした信長を諫める
    (『甫庵信長記』)
  • 1578年1月、宮中の節会や礼学の保護を信長に勧める
    (『甫庵信長記』)
  • 1578年10月、茶道に力を入れ過ぎると武道が疎かになることを信長に諫言
    (『当代記』)
  • 戦いに明け暮れて家中で礼儀が疎かになったことを信長に諫言
    (年代不明『武家事紀』)

全部が全部信じられる話というわけでもないみたいなんですが、
これだけ逸話があるっていうことは、
信長に対して諫言している場面が
他人から見てもすごく目立ったってことなんだと思います。
なのであながち嘘ばっかじゃない気がしますし、
逸話以外にもあったのかもしれませんね。

そういえば一緒に諫言した佐久間信盛は後に追放されてしまいましたが、
前述のとおり、夕庵は追放の使者という逆の立場でした。
苛烈で直情型のイメージの強い織田信長ですから、
これだけいろいろ小言を言われていたら逆鱗に触れそうだけど。。。
とはいえ、最終的に本能寺の変を起こして織田信長を倒した
明智光秀も信長には結構反抗したりもしつつ、
その実力から重用されていたことを考えると
結果を出す人、特に自分の思い描く通りに動いてくれる人に対しては
信長も寛大だったのかもしれません。

まぁ、信長が本能寺の変でやられてなければ
その後夕庵の追放処分もあったかもしれませんけどね(笑)

2.「麒麟がくる」で武井夕庵が出てくる可能性は?

主要キャストにはどうしたってなれないと思いますが
とりあげられ方によっては、数カットだけでも登場はあるかも?
過去にドラマでも武井夕庵って出てきたことがあったかどうか
ちょっと記憶にないですが、どうなんでしょう。
全ての時代劇とか見てるわけじゃないし(笑)、
見たものも全部はっきり覚えているわけでもないから
このドラマのこんなシーンで出てたよって
覚えている人いましたら教えてください。
過去にあったとしても、なかなか誰も覚えてなさそうですが(笑)
まぁいいんです、
麒麟がくる」でたとえ出なかったとしても
こういう秘書官的役割をしてる人が裏では動いていたことを
大河ドラマを見ながら気にかけてくれれば、
それで私の役目は達成したようなものです!

3.まとめ

今回は斎藤家・織田家において右筆として重用され
時には織田信長を諫めることも恐れなかった武井夕庵でした。
ちなみに信長の野望シリーズでは、基本登場していないんですが
天下創世でダウンロードデータとしては登場してたみたいです。
武井夕庵だけじゃないんですけど、
信長の野望に限らなければ登場しているゲームはあったりするんですけどね。
信長の野望は全体のゲームバランスの問題なのか
わりと有名な人でも登場しないことは結構あります。
ゲームバランスっていうよりは
織田家が基本強くないといけない感じなのかな、
「信長」の野望ですし。
ただ最新作の「大志」だと北条一門の能力値が
何故か評価上がっていて(これ本当に何でなんだろうw)
里見家が今まで以上に早く滅亡してしまうという
哀しい事態に陥っていますけども(笑)

では今回はこの辺で。
ここまで読んでいただきありがとうございました!