今回は明智光秀の家臣ではありませんが、
明智光秀との縁が深く、深いが故に哀しい結末を辿ることになる
津田信澄(つだのぶずみ)をご紹介します。
「麒麟がくる」では出番はひょっとすると少ないかもしれませんが、
登場はするんじゃないかと思います。
では今回のお品書きはこちらになります。
ちなみに紹介済みの「麒麟がくる」にちなんだ武将たちは
以下の一覧記事にまとめてあります。
その他今までに紹介済みの戦国武将たちはこちから確認できます。
まだ読んでいない武将の記事がありましたら是非チェックしてみてくださいね。
1.津田信澄(つだのぶずみ)とは
通称七兵衛。生年は1555年と1558年の2説あります。
津田信澄は、織田信長の甥にあたります。
津田信澄は、織田信長の弟・織田信勝の嫡男なのです。
ちなみに、津田氏とは織田氏の直系から見て庶流にあたる一門が
直径と区別するために名乗る姓です。
津田信澄は織田姓も津田姓もどちらも名乗っていたようなのですが、
ここでは統一して津田信澄とさせて頂きます。
さて、織田信長の弟・織田信勝といえばご存知の方はご存知でしょう、
兄の織田信長に2回反抗したがために最終的には殺されてしまった武将です。
それが1557年のことです。
織田信勝自身は、謀反の企てをおこしたことによって殺されてしまいましたが、
子供立ちは信長の命によって生かされ、柴田勝家の元で養われました。
その後1571年、縁戚である織田家を裏切った浅井家の家臣であった
磯野員昌(いそのかずまさ)の養嗣子となります。
磯野員昌は1570年の姉川の戦いで
「員昌の姉川十一段崩し」といわれる逸話が残っているほどの
勇猛果敢な武将で浅井四翼の一人でした。
しかし姉川の戦いの後、守っていた佐和山城が孤立状態になり、
織田方に降伏して織田家の家臣となっていたのです。
ちなみに話は少しそれますが、サザエさんで有名な磯野家は
この磯野員昌の子孫ではないかという説があったりします(笑)
津田信澄の話に戻しましょう。
津田信澄は1575年に養父・磯野員昌と共に越前一向一揆征伐に従軍していますが、
これが初陣と言われています。
1576年の丹波の波多野秀治が離反した際には
苦戦していた明智光秀の援軍として向かったりもしています。
しかし1578年、養父の磯野員昌が信長に叱責されたことを契機に出奔してしまいます。
そこで磯野員昌の所領であった高島郡はそのまま津田信澄に与えられ、
この時に明智光秀の縄張りによって大溝城を建ててその城主となりました。
以後の津田信澄は織田信長の側近として扱われる存在となっていくのです。
ちなみに恒例(?)の信長の野望・創造 戦国立志伝における津田信澄の評価値はこちらです。
評価自体はそれほど高くはないですが、悪くもないです。
武勇と統率がそこそこあるので末端の家臣プレイからやれば
好い感じに育ちそう。
ちなみに織田信長の息子たちの評価値と比べると
織田信忠以外の子供たちよりも高い評価値になっているので
そういう意味では史実通りの評価がされているようです。
2.一門衆としても破格の待遇を受ける津田信澄の事績
磯野員昌の所領をもらい受けた以後の津田信澄の事績を以下に並べてみました。
- 【1578年4月】織田信忠に付き従い石山本願寺攻めに参戦
- 【1578年8月】安土城における相撲興業での奉行の一人(他は堀秀政、蒲生氏郷、青地与右衛門)
- 【1578年8月~1579年11月】荒木村重討伐戦へ従軍し、開城した摂津伊丹城(別名有岡城)の本丸へ入場、捕虜の京都護送役を務める
- 【1580年8月~】石山本願寺から一向宗が退場以後、大阪に常駐
- 【1581年2月】 京都御馬揃えにて一門衆の5番目として参加(織田信長の三男である織田信孝と同格の扱い)
- 【1581年9月】織田信長の次男・織田信雄(おだのぶかつ)指揮下で伊賀攻めに従軍
- 【1581年10月】伊賀鎮圧後、織田信長・織田信忠の伊賀国検分に同行
- 【1582年3月】甲州攻めにおいて織田信長に従って従軍
- 【1582年5月】織田信孝を総大将とする四国遠征軍の副将に任命される。他の副将は丹羽長秀(にわながひで)、蜂屋頼隆(はちやよりたか)
このように織田信長が直接かかわるもの含めて、
重要な役目を任されているのが伺えます。
また、織田信長は明智光秀の4女と津田信澄を結婚させたりもしています。
明智光秀は織田家中No.1ともいえる実力者としてのし上がっており、
信長からも信頼は絶大だったはずです。(いろいろ揉めてはいるけれどもw)
そんな有能な武将の娘との婚姻を勧めるのですから、
織田信長の津田信澄に対する期待値は相当なものだったのではないでしょうか。
父が織田信長の弟とはいえ謀叛人ですから
本来なら疎まれてもおかしくはないのですが、
しっかりと重責を与えているあたり、
有能な人物であれば過去に関係なく
積極的に重用・抜擢していた信長らしさが垣間見えます。
特に一門の血は大事にしていたのかもしれません。
当時の織田家内の序列で5番目という扱いも
庶子とはいえ織田信長の三男・織田信孝より序列が高いのです。
織田家を支える鼎の一人として織田信長は考えていたのやもしれません。
3.織田家に忠義を尽くしてきた津田信澄の哀しい末路
このように一門としても破格の待遇を受け、
その期待にもしっかり応える実績を残してきた津田信澄でしたが
1582年6月の明智光秀による本能寺の変によって人生は一変します。
本能寺の変の頃、
津田信澄は四国遠征軍として従軍し渡海準備をしていましたが
織田信長・織田信忠父子が討たれたことによって遠征は中止となります。
(この際集められた多くの兵士は混乱して散り散りになったとか)
この時に、津田信澄が明智光秀の娘婿であったばかりに、
謀反の共犯であるという事実無根のデマが流れてしまいます。
これを信じてしまった織田信孝と丹羽長秀は
津田信澄を襲撃し、
丹羽家家臣である上田重安が津田信澄を討ち取ります。
そしてさらに織田信孝は津田信澄の首を堺の町はずれに晒したそうです。
まったくの事実無根なのに謀叛人として扱われ弁明する機会も与えられることなく
晒首という屈辱まで与えられることになるとは思いもしなかったでしょう。。。
享年25歳または28歳と言われています。
奈良興福寺の多聞院英俊は「一段の逸物」
と評してその死を惜しんだと言いますから
津田信澄が優れた武将であったことは有名だったでしょう。
となると、織田信孝は敢えてデマを信じ込んで
津田信澄を討ったのかもしれません。
織田信長も嫡男で既に当主であった織田信忠も亡くなったとなれば、
家督は次男の織田信雄と織田信孝が争うことになるでしょうが、
前述したように津田信澄は一門の中でも5番目の序列におり、
織田信孝よりも上の序列だったのです。
津田信澄の才覚を買って後継にまつりあげる者たちがいてもおかしくありませんよね。
そうなるのを恐れてやってしまった可能性は大いにあるのではないでしょうか。
戦国時代とはそういう時代ですしね・・・今の時代に生まれてよかった(笑)
父・織田信勝は実際に謀反を起こして殺されてしまいましたが、
息子の津田信澄は謀叛にまったく加担もしていないのに
謀叛人として殺されてしまいました。
実際に本能寺の変において明智光秀に加勢するような動きも
一切していないのにもかかわらず。
忠義を尽くして一門衆の誇りをもって働いてきたにも関わらず
この仕打ちに。
これも血の宿命と諦めて死んでいったのか、
それとも悔しさや無念さに苛まれながら死んでいったのか、
もはやそれを知るのは津田信澄本人のみです。
4.「麒麟がくる」で津田信澄は登場する?
明智光秀の4女がお嫁さんなので、おそらくは登場すると思います。
とはいえ津田信澄は織田家一門衆であり、明智光秀の家臣ではありません。
前述の丹波攻めの際において加勢する時などは
ちらっと登場したりするかもしれませんが、
それほど多くのシーンで出てくることはないだろうと思います。
本能寺の変後に討ち取られてしまうシーンはひょっとしたら数秒あるかもしれません。
本能寺の変が6月2日で、津田信澄が亡くなるのは6月5日、
明智光秀が山崎の戦いで敗れたのちに自害したのが6月13日ですので、
明智光秀が生きている間に亡くなっているのでワンチャンありそうですね(笑)
しかし、ナレ死の確率が非常に高い気はしちゃいますね。
5.まとめ
今回は織田信長の甥であり明智光秀の娘婿でもある津田信澄でした。
信長の側近的扱いを受け、一門衆の中でも厚遇を受けていたと思われますが
その持つ才覚が故に、命を狙われた可能性が高い気がしています。
当時日本にきていたイエズス会の宣教師は津田信澄のことを
「大坂の司令官」と称していた反面、残酷な暴君と評していたりもします。
織田信長の子供たちよりも、
もしかすると織田信長に近い性質を持っていたのかもしれません。
そう考えると織田信長が津田信澄を一門衆の中でも一際買っていた理由が
そこにもあったのかなぁと思ったりも。
最期が可哀そうな結末で本当に居た堪れないのですが、
嫡男の昌澄は生き残っていて後に大坂の陣で豊臣方につくんですが
後に徳川家康に許され、2代将軍・徳川秀忠の旗本として召し抱えられます。
以後は旗本として津田信澄の系統は幕末まで続いています。
血脈が途絶えることなく続いたという点はせめてもの救いなのかもしれませんね。
では今回はこの辺で。
ここまで読んで頂きありがとうございました!