ツクモガタリ

本サイトはプロモーションをふくみます!

歴史人物語り#31 斎藤道三の息子にして織田信長・信忠親子にも重用された武勇名高き忠臣・斎藤利治

今回は斎藤利治(さいとうとしはる)
斎藤道三の末子で明智光秀の親戚でもあります。
織田信長に重用されたばかりではなく、立てた武功も数多い武将です。
麒麟がくる」でも出番はあるかな?

www6.nhk.or.jpでは今回のお品書きはこちらです。

ちなみに紹介済みの「麒麟がくる」にちなんだ武将たち
以下の一覧記事にまとめてあります。

tsukumogatari.hatenablog.com

tsukumogatari.hatenablog.com

その他今までに紹介済みの戦国武将たちはこちから確認できます。

tsukumogatari.hatenablog.com

まだ読んでいない武将の記事がありましたら是非チェックしてみてくださいね。

1.斎藤利治(さいとうとしはる)とは

通称新五郎または新五
諱については長龍、長竜、利興といろいろありますが
ここでは利治で統一させて頂きます。
1541年ごろに斎藤道三の6男、末子として生まれたと言われています。
母親は小見の方
小見の方といえば明智光秀の父・明智光綱の妹と言われていますので
斎藤利治明智光秀とも親戚ってことになりますね。

tsukumogatari.hatenablog.com

長良川の戦いで父・道三が兄・義龍に敗れて亡くなった頃は
利治はまだ元服していませんでしたが、
信長は利治を保護し、斎藤家を継がせようとしていたようです。
信長は利治には特別目をかけていたようにも感じます。
斎藤道三を信長が慕っていたことと、
利治が信長の正室帰蝶濃姫)と血のつながった兄弟であったこと
最初の理由だったのかもしれません。
利治自身も、その期待に応える働きも数多くしているので
斎藤道三の血を色濃く受け継いだ有能な武将だったと言えるでしょう。

例えば以前、岸信周の記事でも書いた美濃攻略戦に参戦し
岸信周の守る堂洞城長井道利の守る関城を落としています。

ちなみに岸信周関連の記事はこちら。

tsukumogatari.hatenablog.com

tsukumogatari.hatenablog.com

さらに加治田城佐藤忠能(さとうただよし)
子・忠康が堂洞合戦で討死すると
信長は利治を佐藤忠能の養子とし
佐藤忠能隠居するとそのまま加治田城となります。

以後、利治は以下に示すような信長の主要な戦線に参戦し
多くの武功を挙げて信長からも褒めちぎられたりしているのです。

どうですか、この立派な業務経歴書は!(笑)
特に上杉軍に大勝した1578年の月岡野の戦いによって
越中は完全に上杉家から織田家へと勢力図が塗り替えられることになり
信長からも信忠からも賞賛の嵐だったそうです。
そりゃそうです、
手取川の戦いでは
上杉謙信が存命だったとはいえ、
織田軍は敗退
してしまい
 上杉に逢うては織田も手取川
       はねる謙信逃げるとぶ長

という落首が残されたぐらい、
やっぱり上杉軍には勝てない説が広まってましたからね。
ちなみに1576年の時点で
当時信長から家督を譲り受けていた信忠の側近となっています。

10年ほどの間にこれだけ多くの主要な合戦に
参戦し続けた利治の身を案じたのか、信長と信忠から
ちょっとゆっくり休んでいいよ的なことを言われてたりしてます。
そのため、信忠の甲州征伐には参加した様子がないようです。
なんかとっても大事にされてますよね、
それだけ信任が厚く失いたくない家臣の一人だったのでしょう!

1.1.そして運命の本能寺の変が起きる

前述したように、利治は織田信忠の側近ですから
基本的には織田信忠に従って行動していることが多いわけです。
つまり、本能寺の変でも織田信忠と共に行動していました。
当時は、羽柴秀吉の中国攻めの援軍として信長自ら出陣
信長は京都本能寺で、信忠と利治は京都二条妙覚寺で宿をとっていました。
これが6月1日のこと。
そして6月2日の明け方
明智光秀の謀叛により
信長は本能寺を明智軍に取り囲まれます。
信忠は父・信長のいる本能寺へ救援へ向かおうとしますが
利治をはじめとした側近は、
もはや間に合わぬということで(本能寺までは1kmぐらい距離もあった)
逃亡するように諭したようです。
しかし、信忠は明智軍の検問があることも考えて
村井貞勝(むらいさだかつ)の推す
防御に優れた二条御新造(二条城)での籠城を決めます。

tsukumogatari.hatenablog.com

信忠勢は利治をはじめとしてよく奮戦し、
何度か明智軍を撃退するなど防いではいたものの
最期は、利治の義兄にあたる明智五宿老の一人、
斎藤利三(さいとうとしみつ)に攻められて
討死したとも忠死したとも言われています。

斎藤利治もそうですが、
本能寺の変では織田家の中枢を担っていた人物を数多く失っており
明智光秀のこの謀叛はその点でも大成功だったと言えます。
斎藤利治や以前紹介した津田信澄あたりが存命だったら
その後の歴史はもう少し変わっていたかもしれませんね。

2.「麒麟がくる」での斎藤利治

斎藤利治明智光秀の叔母・小見の方の子と言われてますから
親族繋がりで登場しやすい環境ではあるかなと思っています。
明智光秀織田信長の家臣となる前後ぐらいからの
登場にはなってしまうかもしれませんけどね。
ただ、その辺で出てこなかったりすると
後々の本能寺の変でも出番なく終わってしまう可能性があります。
なので是非とも序盤、中盤からの登場を期待しています!
仮に出てこなかったとしても
この記事を読んだ人には斎藤利治が見えるはず(笑)

4.まとめ

今回は斎藤道三の末子
織田信長・信忠からの信頼も絶大だった斎藤利治でした。
信長に保護されて以後、織田家のために忠義を尽くし、
織田家の天下統一事業に一生涯を捧げる形となった利治は、
忠義の武将として軍紀物にも記されています。
そのわりには、信長の野望シリーズに登場機会が少ないのは何故なのか(笑)
昔の覇王伝までは斎藤長龍の名で登場してるみたいですが
それ以降は多分一度も出ていません。
戦国立志伝みたいな大名ではなく家臣が主人公のゲームシステムだったら
もっと多くの武将を登録してほしかったなぁというのが本音です。
太閤立志伝の新作でないかな(笑)

では今回はこの辺で。
ここまで読んでいただきありがとうございました!