歴史人物語り#82 主君に誅殺された「六角氏の両藤」の一人、後藤賢豊と父の仇を居城から追い出した後藤高治

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今回は六角氏重臣後藤賢豊(ごとうかたとよ)
その子・後藤高治(ごとうたかはる)
六角家中でも「六角氏の両藤」と称された後藤氏です。
麒麟がくる」には光秀に味方した後藤高治の方は出てきたりするかも!?

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では今回のお品書きはこちらです。

ちなみに紹介済みの「麒麟がくる」にちなんだ武将たちは
以下の一覧記事にまとめてあります。

tsukumogatari.hatenablog.com

tsukumogatari.hatenablog.com


その他今までに紹介済みの戦国武将たちはこちから確認できます。

tsukumogatari.hatenablog.com

まだ読んでいない武将の記事がありましたら是非チェックしてみてくださいね。

1.後藤賢豊(ごとうかたとよ)とは

別名重左衛門尉
生年は不明。父は後藤但馬守
後藤賢豊は六角家中でも重臣の一人であり、
「賢」の字は主君・六角義賢(ろっかくよしかた)からの偏諱
進藤氏と並んで「六角氏の両藤」と呼ばれるほどの宿老です。
後藤賢豊は六角氏家臣団の中でも宿老であり
智勇に優れていたこともさながら、
家中における人望も厚かった人です。
六角義賢に従って浅井氏との戦いでも活躍しています。
また奉行人としては六角氏の当主代理として政務を執行できる権限も持っていました。

1559年には蒲生氏と共に恩賞奉行を務めたり
1562年六角義賢上洛の折には随行して大徳寺警護を務めるなど
義賢からの信任は相当厚かったことでしょう。
ちなみに、賢豊の妹は蒲生賢秀(がもうかたひで)の正室だったりします。

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そんな六角家中でも功臣として名高かった後藤賢豊は
1563年10月17日
息子の後藤壱岐守(いきのかみ、官名以外伝わってません)と共に
六角義賢の後を継いで当主となっていた六角義治によって
観音寺城内で誅殺されてしまいます。(観音寺騒動)

1.1.観音寺騒動とは

観音寺騒動とは、
1563年に六角氏の当主・六角義治
家臣の中でも筆頭格の重臣後藤賢豊とその子・壱岐守を
観音寺城内で家臣の種村三河守と建部日向守に命じて殺害させた事件です。
表向きには、後藤賢豊たちを無礼討ちの名目で
討ち取ったということになっていましたが
六角義治の祖父・六角定頼の代より六角家中において多くの功を重ね
六角氏に忠義を貫いてきた後藤賢豊が突如殺されてしまったことで
六角家臣団の間には大変な衝撃が走ります。
とりわけ、後藤賢豊は人望も厚かった人なので
無礼討ちというのも納得がいかなかったのでしょう。

そもそも六角義治が何故後藤賢豊を討ち取らなければならなかったのか。
それは、近年六角氏の勢力が衰退してきていたことが原因となっています。
六角氏は、六角定頼の代では
先進的な内政施策をおこなって城下を発展させたり
外交的にも他勢力の揉め事の仲介や援軍を出したり
内にも外にも影響力を持っていましたが、
定頼の子・六角義賢の代からは
中央で頭角を現し始めた三好長慶(みよしながよし)との抗争に敗れたり
北近江の浅井長政との戦いに野良田の戦いで敗れてしまうなど
勢力は徐々に衰退、
味方についていた国人衆たちも
次第に六角氏から離れていくようになっていました。
そんな時に後を継いだ六角義治は、
六角家中でも影響力が最も強く、
政務代行権限も先代の六角義賢から任されていた
後藤賢豊に対して恐れを抱いていたのかもしれません。
この後藤賢豊の持つ権力を奪い取るために
六角義治は暗殺したのではないかと言われています。

「六角氏の両藤」の片翼であった進藤貞治は既に病死していたため
もしもこの時に進藤貞治も生きていたら
観音寺騒動は避けられたかもしれません。

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観音寺騒動によって六角家臣団は主君に対する不信感・不満を募らせて
観音寺城から六角義賢六角義治を追い出してしまいます。
主君が追い出されること事態が
六角氏の力の衰退を決定づけていると思うんですが
さらに家臣団と六角氏が和睦後に制定した
「六角氏式目」によって六角氏の当主としての権限は
より制限されたものになってしまうのです。
この「六角氏式目」は家臣が起草したものを六角氏が承認する形をとっており
六角氏は一切主導権を得られていないものです。
この頃の六角氏が如何に国人たちを
統制できていなかったのかを伺わせるものでもあります。

六角義治が起こした観音寺騒動は
自ら権力を失墜させるだけの事件でしかなく、
自分の置かれている立場を冷静に判断せず
エゴを優先した結果なんだと思います。
観音寺騒動など起こさずに
家中を統制することに注力を注ぎ
三好家ともうまく連携を取れていたら
尾張・美濃を統一して上洛を目指していた織田信長にとっても
驚異の壁として立ちふさがったんじゃないかなぁ
なんて素人目には思ったりもします。

2.後藤高治(ごとうたかはる)とは

通称喜三郎
生年は不明。父は六角氏宿老の後藤賢豊
前述の観音寺騒動によって父・後藤賢豊と兄の壱岐守が
主君・六角義治に殺されてしまったために、
後藤氏の家督を継ぎました。
父と兄を討たれた高治は当然黙っておらず
六角氏を仇として敵対します。
そして六角氏の家臣団の多くが後藤高治に味方をしたこともあって
観音寺城から六角義賢六角義治は追放されることになります。
1567年には蒲生氏の仲介もあって六角氏との和睦が成立しますが
六角氏の権力を制限する「六角氏式目」にも当然連署しています。

しかし、観音寺騒動でさらに権威失墜した六角氏は
足利義昭を奉じて上洛を目指していた織田信長によって滅ぼされてしまいます。
後藤高治は以後、織田信長に臣従し近江衆の一人として仕えています。
信長が安土で相撲大会を開いた際には奉行役を務めたこともあるそうです。

しかし、1582年に本能寺の変が起きると
後藤高治は信長を斃した明智光秀の味方についてしまいます。
皆さんご存知のとおり、明智光秀羽柴秀吉に敗北して
明智氏は滅亡してしまいます。
明智方についた後藤高治も所領を失ってしまい、
その後は縁戚関係でもあった蒲生氏郷(がもううじさと)に仕えます
蒲生氏に仕えていた時代には名前を「戸賀十兵衛尉」と改めていて
九州平定戦にも参陣していたようです。
そして1589年、京で亡くなります
蒲生氏より得ていた知行3千石は
息子の千世寿(後の蒲生三郎左衛門)が11歳で受け継いだそうです。

3.「麒麟がくる」と信長の野望シリーズでの後藤親子

麒麟がくる」に果たして後藤親子は登場するのかどうか。
観音寺騒動っていう事件がありました
っていうようなナレーションでこの騒動の紹介があったりすると
ちょっと後藤賢豊の名前が出てきたりなんてことはあるかも
それ以外だとなかなか登場のチャンスは無い気がします。
息子の後藤高治は本能寺の変の後に明智方についたということで
ちょこっとだけ名前が登場するとかいうことはありそう。
父の賢豊よりも可能性は高いかもしれません。
でもどっちにしても二人ともあまり表立って登場する機会はないでしょうね。

そして信長の野望シリーズにおける後藤賢豊と後藤高治はというと、
後藤賢豊は武将シリーズ当初からずっと登場している常連武将ですし
息子の高治の方も烈風伝で初登場して以来常連武将として連続登場しています。
能力に関しては、シリーズ通して後藤賢豊は政治・知略が高め
前回紹介した「六角氏の両藤」の一人、進藤貞治と似た様なステータスです。
一方、息子の高治はこれも進藤貞治の息子の賢盛と同様に
父の能力は受け継がずに凡人と化しています。

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信長の野望・創造 戦国立志伝での二人の評価値がこんな感じです。

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進藤氏と後藤氏の能力は「六角氏の両藤」だから
わざと同じような感じにしたんでしょうか(笑)
たまたまタイプが似てただけなのかもしれないけど(笑)

ちなみにゲーム上でも
六角氏と後藤氏は相性が良くなくて、
後藤親子二人とも忠誠が低め。
特に高治は謀叛しやすいぐらいの低さです。
この設定の原因は全て観音寺騒動のせいでしょう。
あとは六角氏が元々国人衆たちをまとめきれてなかったことも
理由の一つにあるんでしょうね。
六角氏の家臣って全体的に忠誠がよくないので。

4.まとめ

今回は「六角氏の両藤」である
後藤賢豊とその子・後藤高治でした。
観音寺騒動のことを知らなかったら
後藤賢豊は六角氏でも忠誠が低いから野心があって悪いやつ
ていうマイナスなイメージを持ち続けていたかもしれません(笑)
そして私が初めて信長の野望シリーズで後藤賢豊を家臣にした時、
この息子もきっと政務に有能っぽいステータスで出てくるんだろうなぁ
楽しみだなぁって期待してたら
超裏切られたことを何故かよく覚えています(笑)
もう少し遺伝の力を信じてあげてもいいんじゃないかなって(笑)
確かに本能寺の変の後は明智方についちゃったし
他にもあんまり何かしたっていうのは残ってないけど(笑では今回はこの辺で。

ここまで読んでいただきありがとうございました!